五日市憲法と大倉山
 「五日市憲法」とは、明治の自由民権運動期に作られた民間憲法草案の1で、美智子皇后(現皇太后)が言及したことでも知られる。それは1968(昭和43)年に東京都五日市町(現あきるの市)で、色川大吉東京経済大学教授(当時)とそのゼミ生だった新井勝紘氏らによって発見され、「五日市憲法」と命名された。
 東京経済大学というのは、大倉高等商業学校を前身とする。それは大倉財閥(現大成建設等)を築いた大倉喜八郎によって創立され、当初は現在のホテルオークラの場所に立地した。それはJR新橋駅からほど近く、アメリカ大使館にも隣接する高台である。現在の新橋駅は、わが国最初の鉄道の起点の新橋停車場とは違うが、その跡地からそんなに離れていない。そして「汽笛一声新橋を」発する鉄道は、その後神戸まで繋がった。東海道本線である。
 JR神戸駅もかつての神戸停車場ではないが、やはりすぐ近くである。そして神戸駅、停車場から北へ500mほどの小さな丘に「大倉山公園」がある。市営地下鉄には大倉山駅もある。その名は、ここにもかつて大倉喜八郎の別邸があったことに因む。つまり、わが国最大の幹線鉄道の起点と終点にほど近い小高い丘の上にはいずれも大倉喜八郎、大倉財閥関連の施設があったわけである。
 さて、 。こちらは五日市憲法などの民間憲法草案を と切り捨て、欽定明治憲法を起草した人物である。伊藤は、かつては風光明媚だったこの地を愛したものという。そして戦中に金属供出されるまで、ここには 伊藤の銅像 があったという。
 これには続きがある。新井勝紘氏は、五日市憲法起草者千葉卓三郎の縁故者を探し求め、 在住の千葉敏雄氏に逢着した。現在の地図には「上祇園町」「下祇園町」の地名が見える。おそらくそのどちらかと思われるが、大倉山からはほど近い。さらに、 は大倉山のすぐ隣である。明治憲法と五日市憲法がここで出会うのである。

石原幸男(ishihara@y.email.ne.jp)



『神戸市主要部』(1997年 昭文社)より