尾木ママと『空白の天気図』

 先日のTVで知ったのだが、尾木ママこと尾木直樹氏の父君は滋賀県と香川県の気象官署に勤務されたそうである。
 ところで、筆者の手元に『気象百年史』(昭和50(1975)年、気象庁編集)があり、これの資料編にはその時代までの各地の歴代気象台長、測候所長の名が載っている。それで尾木ママ父君のお名前を探してみたが見当たらない。だから父君は少なくともこの頃(尾木ママが大学を出たくらいの頃)までには台長、所長の職に就かれることはなかったのだろう。
 そんな、他人様の経歴を詮索するなどという下劣なことをやってしまったのだが、その過程で《北勲》というお名前を目にした。この方は柳田邦男『空白の天気図』での中心人物である。その小説によると、北氏は原爆と直後の枕崎台風に見舞われた広島気象台にいた方だが、その後、各地の気象台、測候所勤務を経て昭和42(1967)年に広島へ戻ったという。その中で、『気象百年史』資料編によると、1954年8月からは多度津測候所長、58年4月からは伊吹山測候所長を歴任している。ちょうど尾木ママ父君とは逆コースである。といって、ご両者に何か交流があったものかどうかは知る由もないのだが。

 ここから、私ごとになる。筆者の父は63年4月から69年3月まで広島地方気象台に勤務していた。だから北勲さんとは2年ほどご一緒だったことになる。ずっと後年になるが、筆者の中学時代の友人の一人が『空白の天気図』を読み、まことに非礼にも北さんに電話差し上げた。友人である筆者の父についてお訊ねしたところ、北さんはご記憶下さっていたそうである。ただ、その頃父は既に他界していたので、父から北さんのことを聞くことはなかった。
 いや、それ以前に、小説あとがきによれば、柳田邦男氏は63年夏までNHK広島に居られたそうだが、その63年に筆者はNHKから500メートルほどの大手町中学校に入学した。帰りには《放送会館前》から吉島行のバスに乗ることもあった。だから柳田さんとはすれ違うこともあったかもしれない。
 「縁」というほどのことでもないが、柳田邦男さんが広島を離れてから北勲さんが戻って来るまでの、『空白の天気図』のまた空白の時期に、筆者と父は広島に居たことになる。


May, 2019
ご意見、ご感想(ishihara@y.email.ne.jp)