「くれなゐ」の謎

 千早ぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは

 百人一首、在原業平の有名な歌である。さて、ここに登場する「くれなゐ」について考えてみたい。その語源は何なのか。
 『和名類聚抄』では、これは「くれの藍」としている。呉とは中国南部で、そこから伝わった藍の一種というわけである。ところで、和名抄を編纂した源順みなもとのしたごうは当時まだ二十代であった。つまり大学出たての若僧が広辞苑を出したようなものである。どこまで信じて良いものか。
 ところで、ロシア語で赤は「クラスヌィ」“красный”という。「くれなゐ」と似ていないだろうか。無論、古代の日本にロシア語が伝わったわけはない。
 しかし、小中襄太『続・国語語源辞典』では「くれなゐ」の類似語としてアイヌ語の hure など、いくつかの北東アジア諸語が挙げられている。なんでも、モンゴルの首都ウランバートルの「ウラン」も「赤い」の意味の類語だそうである。
 ちなみに、博多名産「辛子明太子」は戦前に朝鮮から伝わったものらしいのだが、ロシア語でもスケソウダラを「ミンタイ」“минтай”という。おそらく、沿海州あたりの言葉が朝鮮半島に、一方でまたロシアにも伝わったものかと思われる。「くれなゐ、красный」にも同じことが言えるのではなかろうか。
 ここで注目したいのは渤海という国である。これは8〜9世紀にかけて現在の北朝鮮、中国東北部、シベリア沿海州あたりを領有した国で、わが国には度々遣使していた。上田雄『渤海国』(講談社学術文庫1653)によればそれは34回にも及ぶといい、菅原道真は渤海使と漢詩の交換をしている。
 業平は「からくれなゐ」と詠んでいる。「から」とは「唐」ともされるが「韓」の意味もある。「くれなゐ」を「呉の藍」とするなら「唐または韓」と「呉」という2つの国名が並ぶことになるが、これは不自然である。むしろ「から」は韓半島北部を領した渤海を指し、「くれなゐ」はその地の言葉と解すべきではなかろうか。
 渤海からは宣明暦という暦法も伝わっている。これは唐の暦法であるが直接唐からではなく渤海を通じて伝わったものである。わが国では貞観四(862)年から貞享元(1684)年まで823年にわたって用いられた。宣明暦の1年の長さは実際よりごくわずか長かったため、800年使い続けるうちに冬至が2日ほどずれて、改暦を余儀なくされたのだが、唐代の暦としてはかなり優秀なものだった。高麗でもゲンの授時暦が伝わるまでこれが使われていた。
 しかし、926年に渤海は滅亡する。 その前に唐も滅亡していたが、935年には呉越という国が日本と国交を開始する。「呉越同舟」とは春秋時代の呉と越という2つの国のエピソードであるが、こちらは「呉越」という1つの国である。その呉越は、戦乱で散逸した仏教経典を、かつてそれが遣唐使で伝わっていた日本に求めてきた。そこで天暦七(953)年、天台僧日延がかの地に赴いたが、このとき符天暦が伝わっている。この暦は公暦として採用されることはなかったが、平安後期まで宿曜道で用いられていた。この暦も1年の長さは宣明暦とほとんど変わらない ので、仮にこれが宣明暦に代わって公暦となったとしても、江戸時代には同じ問題が起きたはずである。
 さて、和名類聚抄が書かれたのは、まさにこの呉越との国交が始まった頃である。「呉越」が「くれ」と認識され、「呉の藍」という説が生まれたのではなかろうか。僅かの間に、かつての友好国渤海の記憶は失われてしまったのだろうか。

 このように、「『くれなゐ』は渤海の語」という仮説はかなり前から抱いていたのであるが、無論、物証は何もない。しかし今回、蒲池明弘『邪馬台国は「朱の王国」だった』(文春新書)の中にひとつのヒントを得た。
奈良時代の八世紀のことですが、中国東北部から朝鮮半島を領域とした渤海から来た使者が要望したので、水銀百両(推定約四キロ)を黄金、漆などとともに贈ったという記事はその一例です(「続日本紀」宝亀八年五月)
蒲池明弘『邪馬台国は「朱の王国」だった』pp121
 水銀は朱つまり硫化水銀を精錬して得られる。その朱が邪馬台国以来の倭国、日本の主要輸出品だったというのがこの書の主眼なのだが、その朱(水銀)を渤海の使者が要望したというのである。実は筆者は「くれなゐ」は紅花かと考えていたのだが、朱と考えたほうが良いかもしれない。それは金にも匹敵する貴重な産品だったという。
 それで、前述の『渤海国』を読み返してみた。
 日本からの輸出品の中の異色としては、第九回渤海使史都蒙しつもう(宝亀七年来日)がみずから要求して、信物に加えてもらった物として記録されている、黄金、水銀金漆こしあぶら海石榴油つばきあぶら一缶、水精念珠すいせいねんじゅ(真珠)、檳榔樹扇びんろうじゅのおうぎがある。
上田雄『渤海国』pp145
 たしかに、蒲池と一致している。
 さらに、
 このように厚かましくも、いろいろな珍品、奇品を要求した史都蒙なる人物は、その史という姓からして、ソグド人だったのではないか、という説がある(山口博氏)。
 ソグド人というのは本来西域の人種であるが、商才に長けており、その商才を駆使して唐を経て渤海にまで至り、黒貂などの毛皮商人として活躍していたことが知られているので、その中から定着して、渤海国の官人となり、外交官の地位に昇りつめ、使節として日本に来た者があったとしても不思議ではない。
上田雄『渤海国』pp146
 こうなるとロシアへはかなり近付く。Wikipedia によれば、ソグド人の土地「ソグディアナ」は「現在のウズベキスタンのサマルカンド州とブハラ州、タジキスタンのソグド州に相当する」という。
8世紀にはアラブ人によって征服され、イスラム教を受容した。アラビア語では「川の向こう側にある地方」を意味するマー・ワラー・アンナフルの名で呼び、やがてこの地名が定着する。イスラム時代には言語的に近世ペルシア語を用いるようになってソグド語が廃れ、イランとの文化的な繋がりをより緊密にした。
Wikipedia
 史都蒙は の人物ということになる。彼はその言葉(ソグド語かどうかはわからない)で朱を「クレナヰ」のように呼んで日本側に要求した。その語はロシアにも伝わって“красный”となった、という推論も可能ではなかろうか?
 そのことは、渤海との交流がまだ続いていた業平の時代(825〜880)には記憶されていたが、交流が途絶えるとともに忘れ去られ、呉越との交流が始まった『和名類聚抄』の時代には「呉の藍」説が生まれた、のではなかろうか。
 相変わらず、物証は何もないのだが。


Sep. 2018
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