随想〜映画『ドリーム』


 60年代初頭、宇宙開発でソ連に後れを取ってた米国で、『マーキュリー計画』を成功に導いた3人の黒人女性数学者たちの物語。かなり実話に基づいているという。
 2時間ばかりの娯楽映画としてはよくできていると思う。アカデミー賞にノミネートされているのもわかる。ただ、当時の科学技術とくに計算科学の実情がもう少し詳しく説明されていれば、感動はもっと深まるだろう。以下では筆者の知る限りにおいて(間違いもあるかもしれないが)、この点を述べてみたい。

 

 まずここから始めよう。その時主人公の一人キャサリンはどうしたか?数式を発見したのではない。そうではなくて、数値的に答えを見出したのだ。それは映画の中では"Ancient method"と揶揄される。実際、古くからある手法なのだが、それが有効だったのだ。ここを理解するのは重要と思う。

 ニュートン力学では、物理現象は「運動方程式」で記述される。それは微分方程式という形のものである。そのままではそれがどのような運動であるかはちょっと理解し辛い。それで「微分方程式を解く」ことが必要となる。解かれれば代数式となり、具体的な運動が明らかになる。先の台詞の「まだ数式すらできていません」というのはこれができていないことを示している。実際、微分方程式は必ず解けるわけではないのである。
 微分方程式が解けない、「数式すらできない」場合でも、その解をある程度の精度で推定する方法はある。それが『数値解』というもので、たしかに昔からある。キャサリンはこれを使ったのだ。

 具体的な例を述べよう。次の微分方程式を考える。
 この方程式の解(代数式)は、
 
であることが知られている。
 しかし、もしこのことを知らなかったらどうするか?「どーしょーもない」わけではない。”分身の術”があるのだ。
・まず、tを細かく分割する。すなわち、
 t=0、Δt、2Δt、・・・とする。ここでΔtは小さな数値である。
・t=0において、x0=1、u0=0を与える。
・t=Δtでの値は、微分方程式を差分で近似したものを用いて求める。すなわち、
 これらより、
  x1=x0+u0Δt
  u1=u0−x0Δt
以下同様に、
  xi+1=xi+uiΔt
  ui+1=ui−xiΔt
 (ただし、i=1,2,・・・)

 この方法で計算した結果を正しい解costと比較してみる。


  ことがわかる。ただし、 。だから人力で計算する限り精度には限界があることになる。電子計算機コンピュータの出現がこの事情を大きく変えた。それがこの『マーキュリー計画』の時代に起きたのである。

 もっとも、これよりはるか以前にも大規模な数値計算事業の例がある。20世紀の初め頃に、英国のリチャードソンという人物が計算による天気予報を企図したのである。その原理は、大気の運動方程式を数値的に解くというもので、それは現在の『数値予報』と同じである。ただ、それが実用になったのはスーパーコンピュータが出現したつい最近のことである。リチャードソンの時は計算技術も未成熟で、彼の計算はノイズが増幅して使いものにならなかった。
 この時、リチャードソンは多くの少年を雇って分業で計算を行わせた。まさに”分身の術”である。
 『ドリーム』には黒人女性たちの計算部隊が登場するが、それはリチャードソンの使った少年たちに匹敵するだろう。計算が達者でなければならないが人件費は安くなければならない。多人数を雇うのだから。実際、映画では「私たちの給料では真珠のアクセサリーも買えない」という台詞もあった。正式な技術者として遇されていなかったのだ。そこにも人種差別、性差別がありありと見られる。しかしメアリーは、白人男子しか行けない学校に入り、正規のエンジニアとして認められるようになる。”使い捨ての計算係”ではなくなったのだ。
 それでも、コンピュータが導入されると彼女たちは解雇される運命にある。なにしろコンピュータの計算能力は人間の比ではない。今までは到底不可能だったような大規模な計算もやってのけるのだ。
 しかしドロシーは、 をいち早く習得した。この時も図書館の 用の書棚にはその教科書がなかったが、それでもどうにか習得し、仲間の雇用を守った。実際、プログラミングにも人材が必要なのである。計算係だった彼女たちには基本的な素養があったろう。

 以上を総括すると、これは”プラグマティズム”ということに集約されるだろう。
 キャサリンは、「微分方程式を解く(数式を見つける)」という正統的手法にこだわらなかった。ancient method でもなんでも、有効と思えばためらわずに使った。
 無論、それが可能だったのはコンピュータの発達が大きい。言ってみれば、”エレガントな解析的(正統的)手法”ともっと泥臭い方法がこの時コンピュータによって逆転したのである。
 そのコンピュータ技術をドロシーがいち早く習得した、その先見の明も、”プラグマティズム”に関連するだろう。それで雇用が守れた。
 Gerald S. Hawkins "STONEHENGE DECODED"(1965,邦訳:竹内均『ストーンヘンジの謎は解かれた』)という本を読むと、ホーキンズ先生は自分でコンピュータを使っていない。専門の技術者に頼っているのだ。そんな時代だったのだからドロシーの先見性は重要だろう。

 そんなプラグマティズムは差別を受け続けていた黒人女性たちの中から生まれたということも大きいだろう。差別によって彼女たちが登用されなかったとしたら、この成功はなかったはずなのである。
 当時は公民権運動のさなかだった。ウーマンリヴはもう少し後か。差別と果敢に戦った人達がいた。一方、『ドリーム』の主人公たちは、それとは無縁ではないにしても、あまり直接的には動いていないように見える。代わりに彼女たちは自分の仕事を着実に成し遂げて周囲に認めさせていった。そのような地道な努力によって、時代は少しずつ変わっていくのだという教訓もあるように思える。


Oct. 2017
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