遣唐使の船


 上田雄「遣唐使全航海」では、遣唐使船が当時としてはかなり大型の優れた船であったこと、そして季節風を利用して東シナ海を渡ったことが述べられている。これは、従来の定説つまり、遣唐使は季節風についての知識がなく、風に逆らうように出航しては難破していたという説を真っ向から覆す快挙である。
 その一方で、季節風をたくみに利用して海を渡りながら、その出発時または到着時に座礁した例が多いことも述べられている。以下ではこれについて考察してみたい。

遣唐使船の大きさ
 遣唐使船の大きさについては、同書pp250〜251に、船舶工学の松木哲、和船の専門家石井謙治らの説が載っている。これらはいずれも、おおよそ次の程度である。
長さ30m
8m
排水量300ton
積荷重量150ton

 上田は、これらの値、特に長さと幅から、収容人員数を割り出している。すなわち、長さ×幅より、矩形としたときの面積は
  30×8=240m2
 しかし実際の船の形は矩形ではないので、居住区面積はこの2/3と大まかに見積もる。
 一方、1坪(3.3m2)あたりの収容人数を3人とする、つまり、一人あたりの居住面積を1.1m2とすると、
 遣唐使船の実際の乗船人数は1隻あたり150人程度だったので、この試算はほぼ満足できるものだろう。

 しかし、「船の長さと幅から計算した矩形の2/3」という見積もりはいささか大まかすぎるのではないか?
 たとえば、船の形を次のような楕円と考えるとどうだろうか。
 このとき、面積は
 これでも、船の形としてそれほど正確ではないから、これの100%を居住面積とするわけにはいかないだろうが、とりあえずそのように考えれば、
 つまり、もう少し多く乗れる。または、150人で乗った場合は一人あたりの面積をもう少し広く取れる。

排水量と喫水
 上のように(甲板)面積が推定できて、排水量も推定されているのだから、これらから喫水を試算できるはずである。
 最も単純なのは、排水量Vを面積Sで割ったものを喫水とすることである。すなわち、
 しかしながらこの「船」は、上から下まで断面積がすべて同じで底が真っ平という「平底ズン胴船」で、水の抵抗が大きくて航行には到底向かないだろう。
 しかし、船底についても楕円という近似が考えられる。すなわち、上記の楕円甲板の船をその長軸(x軸)を含む鉛直断面(xz平面)で切った断面も楕円であり、また短軸(y軸)を含む鉛直断面(yz平面)で切った断面も楕円であるとする。これは数学的には次の方程式で表される楕円体である。
 「船」はこの楕円体の下半分(z≦0)の部分である。そして水面がz=0と一致する時、cが喫水に他ならない。
 この楕円体船の排水量は、
 したがって、
 つまりこの船の喫水は平底ズン胴船の1.5倍である。

 この「船」も、図にしてみるとかなり喫水が浅く、実際の船型からは程遠いので、この値は直ちに信用はできないが、平底ズン胴船に比べて実船の喫水がどのように深くなるかについてアタリをつけることくらいはできるだろう。

次元解析
 上で考えた楕円体船で、船の長さa、幅b、喫水cの比率が同じ、つまり相似形の船を考える。このとき、船のサイズは船長aで代表させることができる。
 たとえばaを半分にすればbもcも半分になる。したがって甲板面積S=πabは1/4になる。また排水量Vは1/8になる。
このことは楕円体船に限らない。船の形が同じ(相似)でさえあれば、面積はa2に比例し、排水量はa3に比例するわけである。積荷重量もa3に比例すると考えて良いだろう。
 さて、事実上最後の遣唐使となった834〜840の遣使では、長江デルタまで到着しながら、2隻がそこで座礁し、廃棄された。このため帰りは新羅の小型船9隻をチャーターしたという。この新羅の小型船は、当然喫水も浅いので、座礁することはなかったのだろう。
 ところで、2隻を廃棄し、代わりの小型船が9隻だったというのはなかなか面白い。
 上に述べたように、船長aを半分にすれば面積は1/4になるから、乗船人数も1/4になるはずである。したがって、遣唐使船2隻を廃棄すれば、サイズが半分の小型船はその4倍の8隻が必要になるが、9隻というのはこれに近い。
 もっとも、帰りの新羅船には当然それを操船する水手が必要である。したがって帰りには新羅人の水手の数だけ乗船人数が増えたはずである。これについては、
 またこの9隻の新羅船には、新羅人で海路に通じている水手六十余人を雇い、各船に六、七人ずつ配当して乗り組ませていた。
とある。行きの2隻の乗員数が合計300人程度だったとして、これが360人ほどに増えたわけであるが、これが9隻にに乗ったとすれば1隻あたりは40人ほどで、まさに、遣唐使船の定員(約150名)の1/4程度である。つまり、新羅船のサイズ(船長a)は遣唐使船の半分程度だったと考えられるだろう。
 ところで、円仁の「入唐求法巡礼行記」には「本国朝貢第一舶の使下の水手、射手六十余人は・・」という記述があるそうだ。このうちの水手の人数ははっきりとはしないが、新羅船の水手は各船に六、七人というのは、随分少ないように思われる。船が小さい上に性能も良かったために、水手の数は遣唐使船ほど必要ではなかったのだろうか。
 積荷重量はどうか?船のサイズが半分になれば積荷重量は1/8になるのである。したがって、8倍の数(2隻に対して16隻)が必要になるのではないか?
 しかしまず、遣唐使船に要求される積荷重量を考えてみよう。
 まず、人員が150人とすれば、一人あたりの体重を60kgとして9トンである。
 他に目方の張るのは乗員の飲料水(生活水)だろうか?一人一日10リットル必要として、150人では一日1.5トン。航海日数は平均で7〜8日だったというから、10日分は積み込むとして15トンである。
 食糧は、主に米だったと考えて、一人一日どれくらいだろう?炭水化物の熱量は、4kcal/g 程度である。水手など肉体労働者は一日3000kcalくらい必要として、炭水化物750g相当。生米の全部がエネルギーに変わるわけはないので、その倍の1.5kgを食べる(そんなに?)としようか。これもやはり1500人日分必要として、2.25トンである。仮に、さらにその倍を積んだとしても、水の1/3、人員の重量の半分でしかない。ここまでを合計しても30トンに満たない。
 他に、薪や船具がある程度重いだろう。しかしあとは、遣唐使としての朝貢物とか、その他を寄せ集めても、重量的にはそれ程たいした量にはなりそうもない。結局60〜70トン程度で充分だったのではないか?しかも水は小便や排水として海に捨てれば良いから、航海の後半ではさらに軽くなったろう。つまり、遣唐使船の可能積荷重量は150トンとすれば、かなり過剰なのである。むしろその半分くらいでもなんとかなりそうである。したがって、サイズが半分で可能積荷重量が1/8の船でも、8倍ではなく4倍程度の数で、なんとか間に合ったのだろう。

船の小型化の利点
 船を小型化すれば喫水が浅くなり座礁することが少なくなることは既に述べた。しかし小型化の利点はそれだけではないかもしれない。
 帆は、やはり船のサイズに比例させるのが合理的だろう。船のサイズが半分になれば、帆の縦横も半分になる。つまり面積は1/4になる。受風面積が1/4になるんだから、受ける風の推力も当然1/4である。
 しかし、このとき排水量(船の重量)は1/8になる。したがって、単位重量あたりの推力はむしろ2倍になるわけである。
 実際にはこんな机上計算どおりにはいかないのだろうが、それでも、船を小型化すれば(小型化するだけで)、性能向上を期待できる推論である。

遣唐使は何故大型船に固執したのか?
 このように、船を小型化すれば利点も多い。何より、遣唐使船が度々起こして来た座礁を防げる。そして、最後の遣唐使の頃とはいえ、新羅では実際にそのような小型船が作られていた。では何故、日本の遣唐使はいつまでも大型船を使い続けたのだろうか?

(1)前例踏襲の官僚主義
 ありそうな気がする。そして一面、無理もないとも思う。何故なら、遣唐使は数十年の間隔を隔てて派遣されたこともしばしばだったからである。当然、前回のことを知る者は少ない。したがって前回の経験を踏まえて改善を提案するという機会もほとんどなかったろう。むしろ記録に残っていることをそのまま踏襲すれば大過はなかろうと考えたとしても無理もない。経験の蓄積が行われなかったのであろう。
 しかし、それだけだろうか?

(2)技術水準が低かった。
 大型でかなり高性能の遣唐使船を建造していたというのに、この主張は滑稽に思えるかもしれない。しかし、技術水準というのは、もっと広い視野で見るべきものと思う。
 たとえば船のサイズを半分にするなら、遣唐使の人員が変わらないなら、既に見たように4倍の数の船が必要となる。船が小さくなるのだから、1隻あたりの工数は減るだろう。しかし一挙に1/4になるだろうか?外海を航行するような船には、複雑な細工を要する部分も少なくないだろう。そういう部分にかかる手間は、あまりサイズによって変わることはないのではなかろうか?
 工数が減らないとすれば、船大工の数を増やさなければならない。しかしこれは可能だったろうか?特に複雑な細工をこなせる高度な技術者をどれだけ確保できたろうか?
 仮に技術者の数は確保できたとして、彼らが作業をするためには工具が行き渡らねばならない。これは充分だったろうか?
 鉄の農具が普及したのは鎌倉時代頃という。それ以前は鉄の鍬などはほとんどなかったらしい。それより数百年も以前の遣唐使の時代に、造船の工具ばかりが潤沢であったとは、ちょっと考えにくいのである。
 つまり、「技術水準が高い」と言うためには、それを支える人がいて、また必要な道具などが揃っていなければならないのである。インフラが大事なのである。遣唐使はまさに、そのような技術インフラを先進国の唐から学ぶことを目的にしていたはずであるが、はたしてこれが十全に機能したのか?
 たとえば暦に関しては、律令時代の初めには暦博士を置いてその下で後進の教育をしたようであるが、後にはこれが賀茂家という公家の一子相伝に変質している(759〜761年の遣唐使は「『宝応五紀暦』を携えて帰国」したが、「『習学する人なし』という状態で採用されなかった」というが、これもこのような事情によるものか)。そのような社会では、技術が広く普及することはないはずである。おそらく、遣唐使船の建造者も、一子相伝のような形で技術を踏襲していたのにすぎないのではなかろうか?

遣唐使の轍を踏んだ実朝
 最後の遣唐使から300年以上の後、平清盛は宋との交易を積極的に進めた。平氏滅亡後、実権を握った鎌倉幕府は交易に無関心だったかというと必ずしもそうではない。鎌倉三代将軍実朝は、宋との交易のための船を建造している。ただ、この船は由比ヶ浜に進水する時に大破してしまった。「吾妻鏡」によれば「砂にめり込んだ」ものという。
 清盛が本拠とした和田津(後の兵庫)は、充分な水深の確保できる天然の良港である。しかし鎌倉はそうではない。和田津や瀬戸内で有効だった船も、水深が浅く、しかも太平洋の荒波や風がもろに入ってくる鎌倉の海岸ではひとたまりもなかったろう。つまり実朝は遣唐使の轍を踏んでしまったと言えそうである。

北前船と遣唐使船
 江戸期になると、北海道や東北日本海側と上方を結ぶ北前船が航行した。北前船の代表的サイズは「千石船」のようである。これは玄米を千石積める船であるが、千石は180m3。単純に玄米の比重を1と考えれば180トンで、遣唐使船の可能積荷重量を150トンとすれば、ほぼ同程度である。
 北前船の時代、兵庫が栄えた。かつての清盛の和田津である。実は、大坂の海は淀川などが運んで来る土砂のために浅く、大型の船が入れなかった。そこで、北前船は天然の良港である兵庫に入り、そこで小型の船に荷を積み替えたものという。日本海など外洋を航行する北前船は喫水も深かったので、水深の充分採れる兵庫に着き、そこから喫水の浅い船に荷を積み替えた。既に述べたように、平底ズン胴のような船は、排水量が同じなら喫水を浅くできる。無論、この種の船は波の荒い外洋ではろくに航行できないだろうが、内海(や大坂から京までの淀川)では、それほどの問題はなかったろう。むしろ浅い海や川へ入って行ける利点が重視されたろう。
 つまり、江戸期に入ると、用途に応じて船を使い分ける術が確立されたのだろう。