菜の花や月は東に日は西に

 蕪村の有名な句であるが、蕪村にはこれを含めて菜の花句が全部で9句あることは既に述べた(ASAHIネットインターネット句会、「ほへと会」第33回(38)および第34回(31))。ここまでの論旨を簡単にまとめておく。

(1) 蕪村には菜の花の句が9句ある。
(2) 蕪村の時代に西摂地方(現在の阪神地方)では水車による絞り油業が台頭し、それに伴ってナタネの栽培量も飛躍的に増大した。「裏作の50〜70%」という壮大なスケールであったようだ。蕪村の菜の花句はこれを詠んだものと考えられる。
(3) 蕪村がこの西摂地方と関係が深いのは、高弟だった大魯が兵庫に居たためである。

 さて、蕪村の菜の花句の年代を調べてみると、明和年間が1句、安永7〜天明3というのが3句、残りの5句は安永2〜5年に集中している。明和年間といっても、明和9年が安永元年(1772)であるから、その頃なら安永に近い。また安永10年が天明元年(1781)であるから、結局ほぼすべてが安永年間(1770年代)と考えてもよさそうである。

菜の花や遠山どりの尾上まで明和年間(1764〜1772)
菜の花や油乏しき小家がち安永2(1773)
なのはなや魔爺(まや)を下れば日のくるる安永2(1773)
菜の花や月は東に日は西に安永3(1774)
なの花や昼一しきり海の音安永3(1774)
菜の華や法師が宿を訪はで過ぎし安永5(1776)
なのはなや筍見ゆる小風呂敷安永7〜天明3(1778〜1783)
菜の花やみな出はらいし矢走船安永7〜天明3(1778〜1783)
菜の花や鯨もよらず海暮れぬ安永7〜天明3(1778〜1783)

 ところで、1769(明和6)年に、「幕府が尼崎藩領兵庫、西宮を含む灘地方の私領を公収して直領とする」ということが起こっている(世界大百科事典「摂津国」)。これは、「摂津では綿・菜種・米の3作物の組合せによって,全国でも珍しく農業によってブルジョア的発展を実現する〈摂津型〉の農業経営の展開をみた」(同上)というその利の大きさに幕府が目を向けたものという。そして菜種はその重要作物のひとつだったわけである。

 「女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)」という芝居がある。近松門左衛門作。1721(享保6)年初演と言うから蕪村よりは少し古いが、油屋の女房に借金を申し込んで断られたために殺すという筋立てからも、油屋が金を持っていたことが窺われる。儲かっていたんだろう。需要があった。
 既に17世紀に大坂の鴻池では現在の言葉で言えば「複式簿記」を採用していたという。昼間は接客や商品の搬送などで忙しい。帳簿付けは日が暮れてからであろう。灯火の下、大勢の奉公人達がそろばんをはじいている光景が眼に浮かぶ。「サービス残業」の元祖だろうか。幕府の意向なんかとは無関係に資本主義は確実に忍び寄っていた。
 実務面ばかりではない。遊郭は言うに及ばず。当時の俳諧連歌というのは夜を徹して行われたらしい。多くの明かりを一晩中灯し続ける。贅沢な遊びだったんだろう。現在朝日に連載中の辻井喬「終わりからの旅」に、「俳句は(主婦の)金のかからない娯楽」という言葉が出てきた。時代は変わった。実際、筆者(主婦じゃないけど)も金はかけてへんなあ。
 なお、天明年間の江戸の黄表紙には天麩羅の屋台も見えるというから、この頃から既に食用の需要もあったのだろう。

 容易に想像できるのは、この新興の農業ブルジョワジー階層が兵庫に居た大魯のパトロン筋だったろうということ。中には「油成金」のような人も居たかもしれない。その人たちにとって菜の花は単にその景観ばかりでなく、実質的にも富をもたらす特別な存在として意識されていたはずである。蕪村は彼らに「胡麻をすった」と言ったら言い過ぎだろうが、彼らに請われて菜の花を詠むことが度々あったとしても不思議はなかろう。

 ちなみに、ハイドン(1732〜1809)は蕪村とほぼ同年代であるが、エステルハージ侯に宮廷楽士として仕えていた。少し若いベートーヴェン(1770〜1827)にはルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯といった貴族のパトロンの名が見える。国情も違うだろうし、音楽と俳句を同列に比べることもできないだろうが、しかし蕪村(大魯)が新興ブルジョワジー階層を基盤としていたとすれば、文明史的にも特筆に値するんじゃなかろうか?江戸や京大坂といった都市部には成熟した市民層が既にいた。芭蕉の時代にもいたんだろうが、蕪村の頃にはもうゆるぎないものになっていたんだろう。

 しかしその後、兵庫の商人達は「尼崎藩時代はよかった」とささやきあったという(司馬遼太郎「街道をゆく、神戸散歩」)。
 「尼崎藩はその財政の上から、兵庫港の発展はじかに藩を利するものであったために、商人を大切にし、かれらの商業活動を拘束するようなことはしなかった。
 しかし、幕府直轄領になると、事情がかわった。具体的には、大坂に支配されることだった。さらに言えば、大坂奉行所の背後にいる大坂の株仲間に支配されることだった。」
 こうして兵庫、西摂の日本で最初の(と言えるかもしれない)新興ブルジョワジー階層は、大坂の株仲間という旧体制の装置に組み込まれ、屈服していったものらしい。

 さて、蕪村は安永10年(1781)に

  隅々に残る寒さや梅の花

という句に「擂子木で重箱を洗ふがごとくせよとは、政(まつりごと)の厳刻なるを戒めたまふ。畏こき御代の春に逢うて」という前書きをつけている(尾形仂「芭蕉・蕪村」)。あまりに厳格な政治が人を苦しめるようであってはならないという格言である。尾形氏は、当時慢性的な米安・物価高があって、「天明の飢饉によって全国的な騒動の起こる前夜の不安を秘めた年」だったことを指摘されている。「そうして、世に放漫をもって称される田沼時代の政策の焦点の一つは、蕪村ら文人たちの芸術活動を経済的にささえた地方富商・豪農層を、権力の強力な支配統制下に置くことにあったといわれています」とされているが、兵庫、西摂の人達はまさにこれに当てはまる。そして蕪村は大魯を通じてこの人達の側にいたわけである。この天明10年というのは大魯が没して3年を経ているが、或いはこの前書きには大魯そして兵庫の商人たちへの思いも込められているのではなかろうか?

 ところで、「田沼時代」という言葉が出てきた。蕪村の「菜の花句」はまさにこの時代のものである。田沼というとかつては賄賂政治など、ネガティヴなイメージで語られることが多かった。しかし近年はこの時代を肯定的に評価する論調も見られるようである。「商品経済貨幣経済の浸透には逆らわず、逆にこれを吸収できるよう諸制度を改める努力がなされていた。さまざまの株仲間が新たに結成され、銅、鉄、人参などに専売制が実施されたりした。鎖国政策下にもかかわらず、貿易拡大政策がとられ、蝦夷地については開発が目論まれたりした」(奥村正二著「平賀源内を歩く」)。
 要するに、当時には珍しく貨幣経済が幕府にも認知され、発展を遂げた時代と言うことができるだろう。その中で西摂の綿、菜種なども幕府の目に止まったということである。これは日本国内における幕府という超大国の帝国主義的発展の時代、ということもできるのではないか。実際、西摂を取られた尼崎藩は貧窮し、そして、幕府のお膝元の江戸は繁栄した。
 一方で、前後の徳川吉宗や松平定信の時代と比べてかなり自由があったようで、書籍類の発禁もなかったという。蕪村の「擂子木」のような、政道への揶揄ともとれる言葉が今に残っているのも、皮肉な話だが、このお蔭かもしれない。

 その田沼時代の代表的な文人といえば、平賀源内であろう。源内の生没年は1728〜1779(享保13〜安永8)。蕪村(1716〜83、享保1〜天明3)とは完全に重なる。源内も俳諧で名を成している。それも単に多才な源内の余技ということではなくて、俳諧での名声を他の所で利用してもいる(後述する)。蕪村は無論画家としても有名なわけだが、源内は日本で最初に洋画を描いた人でもあり、他にも絵が残っている。源内は元々讃岐高松藩士だったわけだが、蕪村も讃岐丸亀に滞在した時期がある。このように並べてみると、両者には何かつながりがあってもよさそうに思えるが、それが見当たらない。
 ひとつには、源内は主に江戸に居たのに対し、蕪村は若い頃は江戸にも居たが、名を成してからはほぼ京に常住したことによるものだろう。
 しかしそればかりでもないかもしれない。田沼政治を幕府の帝国主義的発展と規定するなら、源内はその先兵として働いた形跡が見られる。大英帝国における「アラビアのロレンス」に例えられるだろうか。そのような源内の業績の中で、先の奥村「平賀源内を歩く」で最も高く評価されている(エレキテル以上に)のが「東都薬品会(とうとやくひんえ)」というものである。特にその最後の第5回は「日本最初の物産展とみなすことができる」という。そのとき源内は全国に案内状を配布して、諸国の様々な物産の出展を呼びかけている。そしてこの案内状を、俳諧のネットワークを介しても配布したという。1762(宝暦12)年のことである。「当時は句会と句会を結ぶ俳諧飛脚の制度さえできていたという」(奥村)。源内はこれを利用した。これには源内自身が俳人として、(少なくとも郷土高松藩では)有名であったことがあった。
 それではその時、蕪村はどうしていただろうか?

  春の海終日のたりのたり哉

 この有名な句は1753(宝暦3)年に詠まれている。第5回東都薬品会の前後には次のような句がある。

  秋かぜのうごかして行案山子哉 (宝暦10)

  我足にかうべぬかるる案山子哉 (宝暦13)

 この頃の句として残っているものは少ないが、確実に俳人として活躍していたであろうことは窺える。ならば蕪村は源内の「案内状」を見ただろうか?見ていてもよさそうだが、今のところこれについてはわからない。
 しかし、面白いことに気がついた。「平賀源内を歩く」にはこの第5回東都薬品会の案内状も収録されている。そこには全国25箇所の「諸国産物取扱所」のリストが載っている。地方から出展したい場合は、これら取扱所に持ち込めば、源内と提携した飛脚屋によって江戸まで(後払いで)運んだものという。ところで、この取扱所リストに、兵庫や灘の地名が見当たらない。大坂を除いて、近くには伊丹と(播磨の)明石があるだけである。この7年後には幕府に接収されたわけで、当時は既に殷賑をきわめていたであろうこれらの地名がないのは不思議なものである。大魯が兵庫へ赴いたのはこれより10年以上後のことであるが、ともかくも蕪村はこの地域と縁が深かった。しかし源内はそうではなかったのか。両者の人脈筋も違っていたのだろうか。

 それでもひつこく両者の繋がりを追い求めてみる。これも「平賀源内を歩く」であるが、pp68とpp69に2枚の絵が載っている。いずれも「甘蔗絞り」の図で、そっくりである。ローラーの軸につながった腕木を牛にひかせて、ローラーを回転させる。もうひとつのローラーが最初のローラーと歯車で噛み合っていて、最初のとは逆方向に回転する。そして二つのローラーの間に甘蔗(砂糖黍)を挿入して絞るというものである。牛を水車に替えて、菜種を絞るのにも応用できそうである。
 これらの図の1枚は平賀源内によるもので、もう1枚は源内が範としたと思われる「天工開物」という書物のものという。同書には「「天工開物」についても記載があって、「中国江南省の人宋応星(生没年不詳)が1637年に刊行した」という。源内の座右の文献3点のうちのひとつということであるが、他にもこれを読んだ日本人がいたとしても不思議はなかろう。そんな一人、西摂あるいは大坂かもしれないが、名も知られていない誰かが水車による菜種絞りに応用したとすれば、丁度この時代にそれが隆盛したということにも合点がいく。そしてその結果出現した壮大な菜の花畑の光景が蕪村の句を生み出したとすれば、まことに細い糸ながら、どうにか繋がるんじゃなかろうか。

Apr. 19, 2004
ご助言、間違いのご指摘、ご感想などお待ちします。