そのころフランスの天文研究は、数理天文学や理論に偏重していたために、1874(明治7)年に発生した金星の太陽面経過の観測が十分にできなかったとの反省があった。
 馬場錬成「物理学校」において、物理学校初代校長、東京天文台初代台長寺尾寿のフランス留学について書かれている下りである。ところで、その1874(明治7)年に起きた金星の太陽面経過の際、フランスは日本へ観測隊を派遣して、長崎および神戸で観測を行っている。上記の文章はそれが「十分にできなかった」としているのである。
 この時の観測の詳細については原口孝昭「明治7年の金星日面経過観測」にまとめられている。以下の内容は多くをこれに負う。

 まず、この金星太陽面経過観測の大きな目的は「地球・太陽間の距離を精密に測定する」ことにあった。このアイディア自身は既に1691年にエドムンド・ハレーが提唱しているのであるが(後述)、この時までまだ実現されていなかった。
 そして1874年の時点では
 これまでに天文学者は、観測の結果から地球・太陽間距離を の間にあると決定している。この数値には の差があるが、この差は不確定さを表すものである。
(原口pp7)
 因みに、現在ではこの距離(天文単位)は149,597,870kmとされているから、上記の値はやや不正確ではあるが、ともかくこの値の精度をもう一桁上げることが期待されていた。

 それでは、維新直後の日本へはるばるやって来たフランスの観測隊はどのような結果を出したのであろうか?
 観測結果を伝える新聞報道がある。それは明治8年3月19日付け長崎新聞の雑報である。

雑報
昨年十二月九日、太陽の前を通る金星を見とて、當港へも米國と佛國との学者連ら参られ大層金?入?て、此事も澄み帰国致され、夫れより太陽と地球と乃距離乃算用に取り掛られ?今迄?何乃沙汰もなかりしハ、定て一通りや二通り乃十露盤て???ぬと思ひますに、朝野新聞に、米國や英國に先たち、?佛國ノ連中分算用致しあけ?太陽と地球とノ間?九千二百十万里??と、明白に發言したといふ事を書いてありました。
「長崎新聞」、明治八年三月十九日(金曜日)、第十六号、(四)、(五)、編集 西海人・田中神山、版行人 生田東十郎、新街 新聞局

 この報道は、フランスで観測結果をまとめ、太陽と地球との距離を算出したとしている。この報道がなされた3月19日というのは、各国に派遣されていた観測隊の結果を集約して結論を出すには時間が短すぎる。
 斎藤・篠沢(1973)によれば、パリで金星経過委員会でドラクロアが帰国報告をしたのが4月9日である。
 どのような経緯でこのような情報がもたらされたのか不明であるが、朝野新聞からの報道として伝えられたものであるという。しかし、1天文単位の距離を報じている最初の新聞記事であろう。
(原口pp143。原文の旧漢字の一部を新漢字で代用)

 ここで報じられている9210万里(36000万km)という値は、先の数値(3600万里余)の倍以上というとてつもない値である。原口も指摘しているように、この報道の信憑性にはきわめて疑問が残るが、もしもフランス隊が本当にこのような結論を出したのであるとすれば、当時としても大失敗だったことは明白であろう。

 以下ではかなりの憶測を混えつつ、フランス隊がどのように失敗したかについて考察してみる。
 まず前提として、金星の太陽面経過からどのようにして地球・太陽間の距離が得られるのかを知っておく必要がある。既に述べたように、この方法を考えついたのはエドムンド・ハレー、「ハレー彗星」で有名なあのハレーで、1679年のことという(「天文年鑑2004年版」誠文堂新光社)。
いささか脱線するが、ニュートンは1680-81年に出現した彗星の軌道が放物線で万有引力の法則に従うことを著書「プリンキピア」に公表した(世界大百科事典)。この「プリンキピア」に載った図が山本義隆「磁力と重力の発見」pp841(第3巻)にも載っているが、ハレーはこの方法を用いて当時記録の残っていた24個の大彗星の軌道を計算し、1531年、1607年、82年に出現したものが同一の彗星であることをつきとめた(世界大百科事典)。これが現在「ハレー彗星」と呼ばれているものである。またハレーは「韜晦癖のあるニュートンに『プリンキピア』執筆を焚きつけたばかりか、その出版のために奔走し出資までした」(山本pp868)など、科学史上、貢献は大きい。恒星の固有運動を発見したのもハレーである。たんに彗星の名前ばかりでなく、もっと記憶に留められて良い人物だろう。
 ただし、ハレーの方法では「地球上の南北に地球の半径ほど隔たった2地点を選び、金星と太陽の接触時刻を1秒時の精度で観測」し、「2観測地点で 4つの接触を測定する必要があり、1つでも測定できなかったら役に立たなくなるという欠点がある。それを補充したのがドリスル(Del'Isle)の方法である。この方法では、地球の直径ほど東西に離れた地点を選び、4つの接触のうち、同じ接触を1つ、同じ時刻を使って観測することが不可欠であった。」(原口pp10)。
単純化した理論計算によれば、東西に距離Dだけ離れた2地点で同じ接触が起きた時間差をΔtとするとき、地球・太陽間距離rEは、

の関係がある。ただしθは太陽(および金星)の時角である。そして、D≒500km(神戸〜長崎)、rE≒150,000,000km、θ=0(正午)とすれば、
  Δt≒27秒
程度と予想される。以上を前提としてフランス隊の観測結果を見て行く。

 原口pp14の表は各国観測隊の観測結果をまとめたものである。
 フランス隊について見てみると、同一の接触(たとえば第2接触)は長崎のほうが神戸より20分ほども早い。フランス隊以外についても同様で、神戸は長崎より20分ほど遅く、横浜、東京、函館は長崎より40分ほど遅い。
 実はここに記載されている時刻は、各地点における地方時と解釈すべきなのである。実際、長崎は東経130°程度、神戸は東経135°程度、東京は東経140°程度だから、地方時の時差はちょうどこのくらいになる。
 日本の時刻制度は、江戸時代には日出を「明け六つ」、日没を「暮れ六つ」とする不定時法だったのが、1873(明治6)年の新暦採用時に、現在のような一日を24時間とする定時法に変わっている。この1874年というのはその1年後である。しかし、この時はまだ、「各地域間の連絡網も不十分だったので」(世界大百科事典)、全国一律の時刻制はまだなかった。だから地方時、つまり各々の地点で太陽が南中する時刻を正午とする時刻が用いられていたのである。
 因みに、1879年になって「平均太陽時」の時制が制定され、京都の地方時が採用された(といわれる。「世界大百科事典」)。さらに1885年にワシントンで国際子午線会議が開かれて、グリニッジが本初子午線(経度0度)と決まったことを受けて、東経135度(兵庫県明石市など)が日本標準時の子午線となった。また、1888年から東京天文台が全国への正午の時報の電信報時を開始している。この時になってようやく、全国の時計が統一されたわけである。因みに、1888(明治21)年というのは寺尾寿が初代東京天文台長に就任した年である。
 さて、原口pp14の表であるが、
「水路部沿革史 自明治二年至明治十八年、海上保安庁水路部所蔵、P.105〜P.105」を基礎資料とした。
原口pp12
とある。おそらく観測時刻の地方時標記は、この(当時は)海軍水路部が行ったものであろう。各国観測隊は持参していたクロノメーターによって時刻を記録している。

フランス隊の観測結果の検証
 さてここで、フランス隊の観測結果の検証を行なってみる。このためにはまず、神戸と長崎の地方時の時差を求める必要がある。各地方時の記録をこの時差で補正すれば、どちらか一方の時計によって計った各接触の時間差Δtが得られるわけである。
 しかしながら、このときフランス隊はクロノメーターで時刻を測定し、それを神戸・長崎間で電信を使って伝えている。実に長崎と神戸の電信所から各々の観測点まで仮設線を引き、神戸隊のドラクロアは接触を確認した瞬間に「タップをたたく」つまり信号を送って長崎に報せている。だから接触時刻は瞬時に伝わっているのである。
 このようにして記録された各接触の測定時刻は、原口pp128〜138に掲載されている「観測結果」(仏文)から探るしかなさそうである。

 その観測結果の中の「チスランの観測」には、
Chr. 1 Lecocq = chr. 789 Dumas - 12m42s. 55 a 12h, 0 de 789 Dumas
Chr. 1 Lecocq = chr. 789 Dumas - 12m43s. 10 a 20h, 9 de 789 Dumas
原口pp132
というのがある。これはクロノメーター Lecocq とクロノメーター Dumas の差を示すものである。クロノメーター Lecocq はドラクロアが神戸に携えて行ったもの。クロノメーター Dumas は長崎でジャンサンが使ったものである。したがってそれらで測定された時刻と上の関係から、両地点の接触時刻の差が判明するはずである。

ジャンサンの測定値
第2接触
2h26m11s chron. Dumas ou 22h52m30s t.m. de l'Observatoire
原口pp129
 つまり、クロノメータ Dumas で 2h26m11s。後ろの22h52m30sは原口pp14の10h52m30sとちょうど12時間の差である。地方時を正午を0時として表記したものと考えられる。
第3接触
6h16m6s chron. Dumas ou 2h42m25s t.m. de l'Observatoire
原口pp129
 クロノメータ Dumas で 6h16m6s。(地方時=14h42m25s)

チスランの測定値
第2接触
Premier contact interieur Apparition de la lumiere. 22h52m34s, 5
原口pp131
 地方時 10h52m34.5s。
第3接触
Deuxieme contact interieur, Disparition de la lumiere. 2h42m36s, 5
原口pp131
 地方時 14h42m36.5s

ドラクロアの測定値
第1接触
800 Breguet ....... 6h55m28s
I Lecocq .......... 13h46m 6s
原口pp134
 原口pp14では地方時10h46m06.8s
第2接触
800 Breguet ....... 7h22m28s
I Lecocq .......... 14h13m16s
原口pp135
 原口pp14では地方時11h13m16.0s
第3接触
800 Breguet ....... 11h13m04s
I Lecocq .......... 18h03m04s
原口pp135
 原口pp14では地方時15h08m04.4s
第4接触
800 Breguet ....... 11h40m30s
I Lecocq .......... 18h30m26s
原口pp135
 原口pp14では地方時15h30m28.8s
 この記録にはいくつかの留意点がある。まず、クロノメーター Lecocq の記録と原口pp14の地方時はだいたい3時間の差がある。具体的には、第1接触、第2接触、第4接触ではほぼ3時間ちょうど、第3接触では2時間55分である。しかしながら、第3接触の原口pp14の時刻には疑義がある。同じ第3接触が海軍水路寮神戸分隊の摩那山(これは「摩耶山」の誤り。後述)では15h03m13.5sだからである。フランス隊の諏訪山金星台と摩耶山とは、第1、第2接触ともに時間差が約9秒である。そして第3接触も諏訪山金星台の値を15h03m04.4sに直せばやはり9秒ほどになる。そしてこのとき Lecocq と地方時の差もちょうど3時間になる。つまり原口pp14の15h08m04.4sは書き誤りと考えれば辻褄が合うのである。
 さて、 Lecocq と地方時の差の3時間というのは、 Lecocq がここでも正午を0時としていると考えれば9時間の差となる。これはグリニッジに対する日本標準時に対応する。つまり、 Lecocq がグリニッジに対応していたと考えれば、原口pp14の地方時はまさに(後世の)日本標準時に一致するのである。一方、神戸は東経135°の日本標準子午線からいくらも離れていない(摩耶山の東経が135°12′18.3″)。したがってこれを地方時とすることは妥当であるし、またこれは神戸のおよその東経は知られていたことを窺わせるものである。
 なお、原口pp14では諏訪山金星台に「東経132°53′30.0″」という不思議な値が現われている。このような測定値が本当にあったのだろうか?むしろこれは(メートル法制定時に子午線長を測定した)ダンケルク−バルセロナ子午線を本初子午線(経度0°)としたものと考えれば妥当な値である。グリニッジ本初子午線が世界的に公認された1884年のワシントン会議以前は、各国ばらばらの経度が用いられていたので、フランス隊はクロノメータで求めた長崎との経度差から、彼らの流儀に則って求めた経度を日本側に伝えたのではなかろうか?グリニッジ原初子午線でこの結果を得たわけではなかろうと思われる。

 さて、これらから神戸(ドラクロア)と長崎(ジャンサン)の時間差を求めると次のようになる。

第2接触

第3接触

 時刻は、第2接触が地方時11.2時、第3接触が地方時15.1時なので、cosθは第2接触のほうが大きく、したがって時間差Δt(の絶対値)もこちらが大きくなければならないが、この観測では第3接触のほうが大きくなっている。単純化モデルでは、 つまり第2接触の誤差が大きい。
 チスランの結果はジャンサンより第2接触が4.5秒、第3接触が11.5秒遅いが、それでも第2接触の差はかなり短いし、逆に第3接触は長過ぎる。つまりこの観測はあまり信用できないということができよう(これらの値の−は、接触が東の神戸で先に起こったことを示す)。

 もっとも、神戸〜長崎というわずか500kmばかりの間で天文単位を求めるというのはやや無理があるだろう。実際、このときフランスは日本の他に北京、サイゴン、ニューカレドニア、仏領サンポール島、ニュージーランドの南のキャンベル島へ観測隊を派遣しているので、それらのデータが揃って初めて精巧な論議ができるはずなのである。

 しかしともかく、これらの結果から地球・太陽間距離rEを求めてみる。神戸−長崎の接触の時間差は次のとおりである。

 単純化モデルによれば、

 同じ計算モデルを2012年6月6日に適用してみると、京都〜福岡の時間差から182〜216×106kmという結果が得られる。これは2〜4割の誤差であるが、それに比べても第2接触:神戸−長崎(ジャンサン)および第3接触:神戸−長崎(チスラン)はかなり精度が悪い。「長崎新聞雑報」に報じられた9210万里(360×106km)は、この中の最大値である第2接触:神戸−長崎(ジャンサン)よりもさらに大きい。この値の出所は不明とせざるを得ない。

 しかし、このような実際値(当時でも概値は知られていた)より倍以上も大きな値を出して、あまつさえ朝野新聞にそれを公表して憚らなかったとすれば、ちょっと理解に苦しむ。何もわかってなかったのではないかとさえ思ってしまう。これはどのように考えるべきなのか?
 既に述べたように、神戸のドラクロアのデータは海軍水路寮神戸隊の摩耶山のデータと対応が良い。地方時によるその時刻と時間差は表のとおりである。
摩耶山と諏訪山金星台の時間差
現象諏訪山金星台摩耶山時間差(s)備考
第1接触10h46m06.8s10h46m15.5s-8.7
第2接触11h13m16.0s11h13m25.5s-9.5
第3接触15h03m04.4s15h03m13.5s-9.1原口pp14の諏訪山金星台 15h08m04.4s は明らかに誤り
第4接触15h30m28.8s15h30m29.5s-0.7
 つまり、第1接触から第3接触まではいずれも諏訪山金星台が摩耶山より約9秒早い。第4接触だけは差が0.7秒しかないが、
第4接触の頃もモヤがあったため、その時刻の測定は不確かであること
原口pp136
とあるので、これは除いて考えるべきであろう。
 時間差がほぼ一定ということは、両地点で同じ現象をかなり正確に観測したことの証左であろう。どちらかの測定に誤りがあって、偶然にこれだけ一定の時間差が得られるということはちょっと考え難い。
 しかしながら、その9秒という時間差の値は不正確である。時間差は距離500kmで27秒以下であるから、金星台〜摩耶山のわずか数kmでは、(この程度の測定精度では)ほぼ0秒となるべきである。したがって、この9秒という差は両地点の時計の誤差である。つまり、金星台(フランス隊)の時計は摩耶山(海軍水路寮神戸隊)のそれより9秒遅れていたと解釈される。
 そうすると、フランス隊長崎と神戸の時間差が異常である原因は長崎側の測定精度の悪さに求められることになる。実際ジャンサンは
第2接触と見えた時に写真を撮らせたが、原板上では接触は起こっていなかったこと
原口pp129
と、自らの測定ミスを認めるかのようなことを述べている。そしてこの第2接触:神戸−長崎(ジャンサン)から得られる距離はたしかに異常に大きい。むしろチスランの結果のほうがより正確と思われる。一方、第3接触ではチスランのほうが異常である。
 後世の観測ならこのような場合、短い間隔で連続的に写真を撮って、それらから正確な時刻を決めるところだろうが、当時の技術ではそれも難しかったのか。

 神戸の観測が正確だったということは、観測者ドラクロアがそれだけ優秀な観測者だったことを示すものだろうか?いや、海軍水路寮神戸隊の五藤大尉も彼と同程度の正確さの観測を行っている。維新後間もない日本でそのような特別な訓練を受けた人物がいたとは考え難い。だから彼らの観測が正確なのは、まず当日の神戸の天候が少なくとも第3接触の頃までは非常に良かったことと、そのような好条件の下で細心の注意を払って観測すれば、この程度の観測はそれ程難しいことではなかったものと考えられる。
 そうすると長崎のジャンサン、チスランの観測は相当まずかったことになる。ひとつには天候が悪かったのであろうが、それにしてもちょっと酷くはないか?

 疑義は他にもある。諏訪山金星台の経度の不思議な値については既に述べたが、実は緯度(原口pp14では北緯34°41′00″)もちょっと怪しい。国土地理院の「ウォッちず」で調べてみるとこの地点は北緯34°41′45″程度になる。これは世界測地系であるが、旧測地系でも34°41′30″程度である。つまり、緯度も30〜45秒ほどずれている。これは距離にすれば1kmないしそれ以上である。
 因みに、摩那山の緯度経度をやはり「ウォッちず」と比較してみると次のようである。
海軍水路寮神戸隊「摩那山」北緯34°43′50.7″東経135°12′18.3″
「ウォッちず」麻耶山(ほしのえき)北緯34°44′00″東経135°12′21″
 水路寮の観測地点が何処であったかは明確でない。しかし記録されている緯度経度は、麻耶山ロープウェイ「ほしのえき」と緯度で10秒、経度で3秒ほどしか違っていない。おそらくこの近くであったろうし、水路寮の測定値はかなり正確であったと思われる(ただし、この測定はこの時に行われたものかどうか定かでない。後年の測定値が掲載されている可能性もある)。これに比べてフランス隊の値は経度は勿論、緯度も疑義を抱かせるものである。観測隊長のジャンサンが長崎からわざわざ出向いたにしてはやや粗くないだろうか。

 ここで、この時の観測について少し詳細に見ておこう。
 既に述べたように、この時には「地球・太陽間の距離を精密に測定する」という目的があって、そして維新後間もない日本が観測の適地ということがあり、フランス、アメリカ、メキシコが観測隊を派遣した。また我国の海軍水路寮なども観測を行った。中でフランスは長崎と神戸で観測を行った。因みにアメリカは長崎、メキシコは横浜であった。
 フランス隊は当初長崎に観測所を置いたが、この年の11月、長崎の天候が思わしくなかったため、急遽神戸へ分隊を派遣した。結果として「現象当日、長崎では曇天から雨天へと天候が変化し、期待したような観測ができなかった。しかし、神戸では好天に恵まれ、第1接触から第4接触までの観測と15枚の写真撮影に成功している」(原口)。
 つまり、神戸では第1接触から第4接触まですべてを観測できた。一方、長崎では第2接触だけを満足に観測できた。結局これらがフランス隊の全成果ということになる。
 このように神戸での観測が成功したので、その緯度経度を精密に決定する必要が生じた。太陽面経過から地球・太陽間の距離を求めるというのは、2地点で観測して、その2地点を基線として三角測量を行うということなのである。このため観測隊長のジャンサンが自ら神戸へ赴くことになった。そして、「電信を使って、長崎との経度差を測定している。また、緯度はBrunnerの子午環を使って決めている」(原口)。こうして求められたとされる諏訪山金星台の緯度経度は
フランス隊の「諏訪山金星台」北緯34°41′00″東経132°53′30″
という値である。容易に気付くのは経度が2度以上もずれていることであるが、これについては既に述べたように、ダンケルク−バルセロナ子午線を本初子午線としたものと考えれば妥当な値であろう。
 因みに、原口pp14にはこの時の海軍水路寮神戸隊の、神戸「摩那山」の観測記録も載っている。これはたぶん「麻耶山」の誤りであろう。
 ここで脱線するが、「麻耶山」というのは、釈迦の母親麻耶夫人まやぶにんを本尊とするトウリ天上寺のある山で、古くから信仰を集めている。蕪村に
  なのはなや魔爺まやを下れば日のくるゝ
という句があるが、この山とされる。蕪村も登ったのだろう。そのような山だから、海軍水路寮の観測にも何かと便利であったろうと推測される。機材を運び上げる道なども整備されていただろう。
 ならば、フランス隊も同じ麻耶山で観測すれば前記のような問題は起きなかったのではないかと考えるのだが、実際には諏訪山金星台で観測した。実はここは、JR元町駅からわずか数百メートル、神戸港や当時の外国人居留地からも目と鼻の距離なのである。フランス隊には便利であったかもしれない。
 もうひとつ、こんな事情がある。
 明治初期、外人は居留地に商館を持ち、住居は日本人との雑居が許されたが、それも生田川と宇治川にはさまれた区域と制限されていた。
陳舜臣「神戸ものがたり」
 「六甲の開祖」であるグルームでさえ、この禁を破った違法行為であるという声があるそうだ。生田川というのは新神戸駅の下からまっすぐ海へ向かう川(もっとも明治の初めには現在の三宮駅付近を流れていた)、宇治川うじかわというのは、諏訪山金星台のすぐ西からハーバーランドへ流れる川である。陳の言うような制限があったとすれば、フランス隊には候補地は限られていたはずで、あそこ以外にはなかったかもしれない。少なくとも海軍水路寮と同じ麻耶山に行くことはできなかったろう。

金星の太陽面経過時の動き
 話を単純にするために、地球の公転軌道も金星のそれも同一平面上にあるとする。またいずれも円軌道とする。地球の軌道半径をrE、金星のそれをrVとする。
 地球の公転角速度は
 金星の公転角速度は
 ただし、TE、TVは各々地球、金星の公転周期で、
  TE=1年
  TV=0.6152年
である。
 地球は上記の角速度で太陽の周りを公転しているのだが、常に地球(E)から太陽(S)を見る方向を
  χ=0
とする視方向座標χを考える。つまり公転する地球(E)を静止していると考えるわけである。このとき、金星(V)は太陽(S)の周りを角速度
  ω=ωV−ωE   (3)
で公転するように見える。
  φ=∠ESV
とする。金星(V)の地球(E)からの視方向χは
  χ=∠SEV
である。
 E−Vの距離をLとすれば、正弦定理より
 一方、余弦定理より
 さらに、ケプラーの第3法則により、
 (5)(6)より
 であるが、金星の太陽面経過時にはφは0に近いので、
  cosφ〜1
で近似すると、
 また、χも0に近いので、(4)より
 既に述べたように、 なので、  これを時間で微分すれば
 これが金星の視線速度である。ωは(1)〜(3)より求められるが、角度の分単位で
 したがって、
 太陽の視直径は32′なので、およそ8時間くらいで太陽面を通過することになる。
 原口「明治7年の金星日面経過観測」によれば、同一地点での金星通過時間(第1接触から第3接触または第2接触から第4接触)は4時間ちょっとだったようである。これはこの時に金星が通過したのが太陽の北極に近い所だった(「ダビッド・モルレーの図」)ために、視直径よりかなり短い経路しか通過しなかったためであろう。ともかくこの計算はオーダー的には妥当と言えるだろう。

金星日面経過の地点間の時間差
 地球上にK点およびそこから西へ距離D隔たったN点があるとする。K点で第n接触が起きたとき、N点ではまだ接触は起きていない。Δt時間後にN点で接触が起きたとすれば、この間に金星は
  Δφ=ωΔt
だけ動いたことになる。ところで、
 ただしθはDとLの間の角で、時刻をhとすれば近似的に
 したがって

 これを2012年6月6日の例で検証してみる。2012年版『天文年鑑』(誠文堂新光社)にはこの日の第1〜第4接触の予測時刻が掲載されている。神戸と長崎はないので京都と福岡を用いる。
京都北緯:35 度 0.8 分東経:135 度 43.9 分標高: 41 m
福岡北緯:33 度 34.9 分東経:130 度 22.5 分標高: 3 m
(http://www.jma.go.jp/jma/)
 東西距離Dは、  各接触の時刻
地点第1接触第2接触第3接触第4接触
京都7:10:577:28:3413:30:1413:47:39
福岡7:11:037:28:4113:30:3413:47:58
6s7s20s19s
(『天文年鑑』2012年)
・第1接触

・第2接触

・第3接触

・第4接触

 つまり、この計算では実際の値(150×106km)より2割〜4割も大きい。しかし、長崎新聞雑報の9210万里(360×106km)に比べれば、これでもかなり良いほうである。

2011年12月
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