寺田寅彦の学位論文の誤りについて

誤りの内容
寺田の管長さ補正式
高次の補正式
検証と考察
エア・リードの発音原理と乱流

 寺田寅彦の学位論文 "ACOUSTICAL INVESTIGATION OF THE JAPANESE BAMBOO PIPE, SYAKUHATI" は "Journal of College of Science, Tokyo, XXI, Art. 10, pp.1-34,1907" として発表されたものである。また1985年に岩波書店から刊行された「寺田寅彦全集 科学篇(全6巻)」の第1巻にも収録されている(pp211-232)。筆者は国会図書館でコピーを入手したが、他にも少し大きな図書館なら蔵書されているかも知れない。
 この論文で寺田は和楽器の尺八について、種々の音響学的特性を実験的に解明しようとしている。そしてまた、既往の様々な知見、とりわけ Rayleigh の理論との整合性について考察しているのだが、その過程で明らかに初歩的な誤りを犯している。
 100年以上も昔の論文であるし、「重箱の隅」というそしりもあるかも知れない。しかしあの寺田寅彦である。このような論文にも興味を持つ人は少なくないだろう。1985年という比較的近年になってこれが刊行されているのもその証左と言えるだろうし、また尺八の製作という実用目的でこの論文に触れる人も現にいることを考えると、誤りを指摘しておくことはあながち無意味とも思われないのである。
 また、当時の東京帝国大学理科大学の教授陣(その中には長岡半太郎のような大家もいた)がこのような誤りに気付かなかったとすれば、これもなかなか興味深い。
 もっとも、そのような有名人の学位論文であるから、疾くに訂正が公表されているという可能性も考えられなくはない。もしそうであれば、今さらこれを指摘するのは間抜けな話ではある。が、そのような自らの浅学を嘲笑されることも半ば覚悟の上で、今は書き留めておく。筆者も寺田同様、「楽しみのために」これを書いているので、世間に認められなくても特に意に介するつもりもない。
 なお、寺田のこの誤りは基本的に初歩的なものであるが、その誤り故に寺田は自らの実験結果に潜む重要な意味を見落としてしまっている。本稿の後半では理論的考察によりこの部分を明らかにする。

誤りの内容
 その誤りは "4. Effects of Knots." にある。
 寺田はここで尺八の節の効果を実験的に解明している。実験は、内径4cmのガラス管を用い、これにピストンを付けて、特定の音叉を近付けたときに共鳴が最大になる管の長さを調べるというものである。そして、管内に図のようなダイヤフラム(diaphragm)を入れると、共鳴点が変わる。その管長さ変化を測定したものである。
 寺田はダイヤフラムの中心孔の径を変え、またダイヤフラムの管内での位置を変え、ダイヤフラムの長さを変えて実験を繰り返している。また下の図のように孔の径が円錐状に変わる場合についても実験している。

 そして TABLE V はダイヤフラムの孔の径(r)を変えたときの管長さの変化量Δ を示したものである。
 寺田はこれを Rayleigh による管長さ補正の理論式と比較した。その理論式によれば、Δ は管の断面積の変化量ΔSに比例する。ここでΔSは、管の断面積の平均値S0と、ダイヤフラムの孔の断面積との差である。

 そして寺田はこの関係を
  Δ ∝ΔS or Δ ∝(R−r)2
 
と表現している。明らかにこれは誤りで、正しくは
  Δ ∝R2−r2
である。

「寺田寅彦全集 科学篇(全6巻)」(岩波書店)第1巻より

寺田の管長さ補正式
 寺田が自らの実験結果と比較したのは、次の Rayleigh による管長さ補正式である。

 寺田は、上式で
  ξ−a≦x≦ξ+a
  その他
  において
  において
 ΔS=const.
 ΔS=0
       (1)
として(つまり長さ2aのダイヤフラムに相当)、次の式を得ている。
 ここでひとつ注意しておきたいことがある。§265(8)は符号が逆なのである。これは Raylegh のこれの直上の式から容易にわかることである。
 ここでnは音のピッチ(振動数)、 である。
 断面変化が無い(ΔS=0)場合のピッチは当然
であるから、nが変化しないためには、§265(7)の を
  0+Δ
とした場合、Δ は§265(8)に−をつけたものでなければならない(ここで、Δ0 は微小として2次以上を無視している)。
 実際、寺田の実験ではダイヤフラム部分の断面積は他の部分より小さい(ΔS<0)。そして実験結果では これは(2)に−を付けなければ辻褄が合わない。
 これは一見単なる notation の問題のようであるが、以降の議論では重要な意味を持つのである。

これが実験結果とよく一致していることは寺田も述べている。 でも Δ>0 となるが、これは実験結果には見られない。

高次の補正式
 寺田の管長さ補正式(2)は Rayleigh の§265(7)式から導かれたものであることは既に述べた。ところで後者は、そのまた直上の、管の断面積Sによるピッチの変化式
2=(          §265(6)
において、S=S0+ΔS とし、ΔSの2次以上の項を無視して得られたものである。
 寺田の実験(および尺八の節)においては、この近似は正しくない。寺田自身、

と述べているとおりである。そして実験では、直径4cmのガラス管の中に、内径1〜3cmのダイヤフラムを入れている。たとえば内径1cmの場合、
であり、2次以上の項も無視できない。
 そこで、Rayleigh §265(6) に寺田の条件(1)を適用してみる。
 §265(6)は
という条件の下で導かれたもので、したがってこれもSの急激な変化を想定していない。しかしながら、これの物理的な適用限界は§265(7) のような数学的な線形近似による限界と一致するかどうかはわからないだろう。
とすると、§265(6) は
 Terada の条件は
  S= S0   for 0 ≦ x ≦ ξ−a, ξ+a ≦ x ≦ l
     S0+ΔS for ξ−a ≦ x ≦ ξ+a
 ここで、
 これらより、§265(6) は
ただし、
 ΔS=0 のとき、k=k0とすると、
  n=ck0
 ΔS≠0 でk=k0+Δkとしたとき、nが変わらないためには
 ΔSの高次の項を省略すれば、
 これは Terada pp227 のΔlと(符号を除いて)同じ式である。つまり、Terada はΔSの高次の項を無視した(A)’を使用している。実は Terada は Rayleigh §265(6) でΔSの1次までを採った §265(7) からこれを導いているので、これは当然である。
 しかし、Terada の実験ではΔS/S0は小さくない。だからΔSの高次項は無視できないのである。
 そこで、ここでは(A)に戻って考えてみる。
 (A)において、Δkの1次までを採ると

 これは分母の(1+α)ΔSを除けば(B)と一致する。しかし、 Terada の実験では、この項は無視できない。
 ξ〜0のとき、
  2a=(Length of diaphragm)=1cm
 したがって、

 なお、Terada の条件は
  S=S0+ΔS
  S0: section of cylinder (radius R).
  S: section of channel (radius r).
なので、
  ΔS < 0
 それで(C)’は

としたほうがわかり易いだろう。

 なお、Terada は(B)を用いる際に
  Δl ∝ ΔS or Δl ∝ (R−r)2
としているが、明らかに間違い。正しくは
  Δl ∝ R2−r2, (ΔS=π(R2−r2))
である。

 Terada の誤った表式(R−r)2/S0、(B)から得られるΔS/S0および(C)’’と、Terada の実験結果を比較してみる。
実験結果との比較
R=4cm,2a=1cm
Correction due to the diaphragm when its
end is the open end (i.e ξ=0cm)
Diameter of the
passage
実験結果Δl
for c1
実験結果Δl
for c2


 S0=πR2, R=4cm
 ΔS=π(R2−r2
 はc1
 はc2

 明らかに(C)’’が実験結果によく一致している。Terada は言うに及ばず、(B)も実験結果を全く説明していない。特に Diameter of the passage が小さいところでΔlが急激に増大するという特徴を正確に再現できているのは(C)’’だけである。

 c1(261.63Hz)とc2(523.25Hz)では、波数(k1,k2)が2倍違う。
  k2=2k1
 逆にl は、
 (C)では
  Δl ∝ l
なので、
 しかし、(C)において
 これはkが大きくなると大きくなるので、(C)の分母は小さくなり、結局Δllの比例関係より大きくなると結論される。つまり、
 実験結果はこれにも合致している。

結語
 Terada は、Rayleigh §265(7) から導かれる(B)と自らの実験結果を比較した。これはΔSの高次の項を無視しているが、実験結果ではΔSは小さくないのでこれは適切ではない。さらに Terada はそのΔSの計算を間違っている。これらが相俟って、Terada の結論は

というものになった。
 しかし、ΔSの高次項は無視できないので、正しくは Rayleigh §265(7) ではなく、高次項を無視する前の§265(6) で考えるべきである。これに Terada の実験条件を適用した(C)または(C)’’は、実験結果を極めてよく再現する。Δl のΔS依存性ばかりでなく、Terada では触れられてもいないそのピッチ(波数k)依存性までもが(少なくとも定性的に)再現できるのである。


 それにしても、東京帝国大学理科大学(現東京大学大学院理学研究科)の教授陣がこんなミスを見逃したとは!

エア・リードの発音原理と乱流
 ところで、尺八はフルートやケーナなどとともに“エア・リード air reed”に分類される。他の木管楽器(オーボエ、クラリネットなど)にはリードがあるのに対し、こちらはリードがない。いや、正しくは空気 air 自体がリードの役目を果たしていると言うべきだろう。
 さてそのエア・リードのうちフルートに関して次の記事がある。
フルートの発音原理に関しては、大きく分けて二つの説が存在する[2][14][15]。一つ目の説は、唇から出る空気の束(エアビーム)を楽器の吹き込み口の縁(エッジ)に当てることでカルマン渦が発生し、これがエッジトーン(強風のときに電線が鳴るのと同じ現象)を生じて振動源になるというもの。二つ目の説は、エアビームの吹き込みによって管の内圧が上昇し、これによってエアビームが押し返されると空気が抜けて内圧が低下し、再びエアビームが引き込まれるという反復現象が発生して、これが振動源になるとするものである。

2. 安藤由典 『新版 楽器の音響学』 音楽之友社、1996年、ISBN 4-276-12311-9
14. N.H.Fletcher、T.D.Rossing(著)、岸 憲史 他(訳) 『楽器の物理学』 シュプリンガー・ジャパン、2002年、ISBN 978-4-431-70939-8;2012年に丸善出版より再刊 ISBN 978-4621063149
15. H.F.オルソン(著)、平岡正徳(訳) 『音楽工学』 誠文堂新光社、1969年');
Wikipedia

 これは尺八にもそのまま当てはまるだろう。注目すべきは現在でも2つの説が存在するということである。つまり決定的な説は存在しないということでもある。
 さて、そのうちの1つ目の説は“カルマン渦”を振動源とする。それは である。これは流体の非線形現象、乱流に関係する。ハンガリー人の流体力学者カールマーン・トードル(セオドア・フォン・カルマン)に因みこの名があるが、彼がこの現象を指摘したのは寺田論文より後である(たぶん)。
 ところで、
 日野幹雄著『乱流の科学―構造と制御―』(2020年4月、朝倉書店)に「日本の乱流研究の先達者達」の小見出しがあり、寺田寅彦が挙っている。
 流れの研究で知られる谷一郎によれば、「寺田先生は流体層の熱の伝熱が、温度差が大きくなると伝導から対流に変わるという意味に関心を持たれていた」そうで、日野によれば「これが寺田の平行平板間の流れの熱対流の研究(1928、1929)で、調べた範囲ではこの研究は世界で最初の実験で今日でも引用される」とのことである。
【寺田の渦】(『槲』第90号、寺田寅彦記念館友の会 2021)

 つまり学位論文からはかなり後年となるが、寺田は確実に乱流に着目し実験も行っている。ならばこの後ででも、乱流を尺八と関連付けることは考えなかったのだろうか?それによって尺八(エア・リード)の発音機構を解明できたなら、尺八という日本独自の楽器を用いて、あのラウエ斑点の論文にも劣らない業績を残せたのではなかろうか?
 しかし寺田はレイリーという19世紀の物理学者に心酔するあまり乱流のような非線形現象への取り組みが遅れ、そのような発想には至らなかったようだ。それが寺田の限界だったと言えるのではなかろうか。

Oct. 4, 2002
改訂 May 2022