シアトル大酋長のこと

 イチロー観戦でシアトルを訪れたついでに、Tillcum Village というアメリカ・インディアンの文化に触れることのできる観光地を見てきた顛末は別の記事に書いた。その中で、シアトルという町の名前が150年ほど昔のこの地の酋長に由来しているということを述べた。
 その後調べてみると、この酋長の言葉は日本でも様々な所で紹介されていることがわかった。とりあえず、シアトル酋長のメッセージシアルス(シアトル)首長の予言のふたつを紹介しておく。
 これらを読むと、何故町の名前にまでこの人の名が残っているのか、わかるような気がする。
土地や空気や水は誰の物でもないのに、どうして売り買いできるのだろう。
 土地は地球の一部であり、我々は地球の一部であり、地球は我々の一部なのだ。
 同感。
・・・・・わしは、白人に汽車の中から撃たれて、
そのまま大草原に放置されて腐ったバッファローの死体を何千と見た。
彼らは、生きるためにだけバッファローを殺す我々を野蛮人だと言う。
 鋭い指摘!
我々は知っている。
 我々の神はあなた方の神と同一である。
 白人と言えども、この共通の運命から逃れることはできない。
 我々は兄弟なのかもしれない。
 いずれ分かるだろう。

 なんという深い哲学!白人に父祖の地を追われようとしている時に、このように述べて、争わなかったという。これはもう、聖人ではないか?
 これらを読んでから、この人について、さらにはアメリカ・インディアンの文化についてもう少し知りたくなった。我々(私)は、この人達についてほとんど何も知らないことに気付いた。それはある意味、人類の歴史の半分を知らないことになるのではないか?そう思って、少し勉強した。ここには、それで知りえたことどもを雑文として記しておく。

 はじめに、150年前の酋長の名前であるが、「シアトル」と表記されたり、「シアルス」と表記されたりする。英語でも Seattle だったり、また筆者の読んだ本では Seeath というのもあった。どうも確定したものはないようである。
 しかしこれは当然のことかも知れない。彼らには文字はなかったはずだから、聞いた白人が自分が聞いたように表記したのにすぎないだろう。だから人によって多少の違いが生ずるのは仕方がない。また、当の酋長にとっては、自分の名前が英語で(まして日本語で)どのように表記されるべきかなんて、どーでもいーことだったろう。
 それでも、我々は人を固有の名で呼ぶという風習を捨てられないから、ここでは彼を「シアトル」と呼ぶことにする。しかしこれは記号みたいなもんで、たいして重要なことではない。たとえば「聖人」と呼んだって一向に構わないと思う。事実筆者はこの人を聖人と思っている。

 さて、シアトル酋長は Suquamish部族の人だったという。Suquamish というのはシアトル市から Puget Sound を挟んで対岸の Kitsap半島にある地名である。ここは今でも彼らの居留地になっているようで、シアトル酋長の住居の跡には Old Man House という建物が残されているらしい。
 ちなみに、筆者の少年時代に神戸にトーテムポールを建てて行かれた Joseph Hillaireさんは Lummi部族の人だったが、当時は Suquamish にお住まいだったと、神戸市シアトル事務所の松田高明さんに教えていただいた。神戸市および筆者とは少なからず縁ある土地と言えよう。

 Suquamish部族というのは、「北アメリカ北西沿岸部族」に分類されている。
 我々はひとくちに「アメリカ・インディアン」とか「ネイティヴ・アメリカン」とか総称してしまうが、アメリカは広い。かつてニューヨークでお世話になった商社員の方が、「ニューヨークからロサンジェルスまでは東京から東パキスタンほどもある」とおっしゃった。東パキスタンとは古い言葉で、思わず笑ってしまったが、今のバングラデシュのことである。北米だけでもそれほどの広大な地域である。しかも自然条件などにも大きなヴァリエーションがあり、それに応じて様々な文化を発展させてきた人々を一括りにするというのは、日本人、韓国朝鮮人、中国人、東南アジア諸国人、などを「東アジア人」とかで一括りにするのと同じくらい乱暴な話であろう。さらに中南米の諸部族を加えたら、ゆうに人類史の半分に相当するだろう。
 そんなわけで、北アメリカに限定しても今ではその言語や文化でいくつかに分類されている。金関寿夫「アメリカ・インディアンの口承詩」(平凡社)には「アメリカ・インディアン文化分布図」が載っている(pp19)。そして Suquamish部族はその中で「北西沿岸部族」に分類されるわけである。この人達は鮭などの漁労を主な生業として暮らしてきた。そしてトーテムポールは彼らに固有の文化である。その文化については、カナダ Douglas College 細井忠俊さんという方のトーテムポールの世界に詳しい。

 さて、シアトル酋長の言葉をもう一度見て行こう。

土地や空気や水は誰の物でもないのに、どうして売り買いできるのだろう。
 「オランダはマンハッタン島をインデアンから石くれ60個分の値段で買い取った」という司馬遼太郎の言葉を前回紹介した。塩浦信太郎著「インディアンの知恵」(光文社)によると、このときインディアンたちはウイスキーで酔わされていたらしい(pp127)。彼らは日本人と同じモンゴロイドで、アルコールに対する免疫がない。酒で失敗する者も多く、禁酒を定めている居留地も多いようだ。しかし、塩浦は次のようにも書いている。
島をお金で売買するなどという発想のなかったネイティヴ・アメリカンたちは、
酔った勢いでマンハッタン島を二束三文で売ってしまったのです。

 そう、彼らには土地を売買するという概念がなかったのだ。土地は誰のものでもないのだ。どうしてそれを売り買いできるのだろう?
 我々文明人(?)にとって、土地は誰かの所有物である。私有財産である。その所有権は品物のように売り買いできる。しかしネイティヴ・アメリカンにはそのような概念はなかったのだ。
 このことを考えるとき、我々はどうしてもエンゲルス「家族・私有財産・国家の起源」に眼を向けることになる。この本はいみじくも、ネイティヴ・アメリカンの家族制度を考究したモーガン「古代社会」に大きく依拠して、そこから私有財産、はては国家の成り立ちを説明しているのだから。
 (お前は共産主義者か、という声が聞こえてきそうな気がする。しかし筆者には何主義者と呼ばれようとそんなことはどーでもいー。ちょうどシアトル酋長が何と表記されようとどーでもいーのと同じである。筆者はただ、シッダルタだろうとナザレのイエスだろうとシアトル酋長だろうとマルクスだろうと、偉い人は偉いと考えるだけである。)

 まずはモーガン「アメリカ先住民のすまい」(古代社会研究会訳・上田篤監修、岩波文庫)から見ていこう。これは「古代社会」の続編として書かれたものという。この本の「第四章 土地と食物の慣行」は「土地の共同体所有」という項から始まる。その冒頭を引用しておく(pp147)。
 イロクォイ諸部族では、それぞれの部族がその領地を、共同体的に所有していた。彼らは無
条件に誰にでも売ったり譲ったりできる私有財産制度を基礎とする所有権というものを、まっ
たく知らなかった。土地のこのような私的所有というものを人類が認識するようになるには、
未開時代中期と後期をへて文明時代にいたる経験が必要であった。インディアンの社会では、
土地の絶対的な所有権を誰も得ることはできなかった。慣習により、土地は一括して部族とい
う共同体のものだったからであり、また土地を自由に売ったり、譲ったりすることができ、個
人の権利として法律で認められた所有権というものを、彼らはまったく知らなかったからであ
る。

 「未開時代中期、後期」、「文明時代」といった用語には、ダーウィニズムに触発された19世紀の「一線的進化主義」つまりすべての文明は同様の経過をたどって発展してきたという思想が現れている。これは現代では省みられることはないのだが、しかし、そのような「文明の解釈」の問題は別として、ここにはモーガン自身が観察した、インディアンの土地所有のありようが述べられている。そしてそれは17世紀初頭のマンハッタン島から19世紀中葉のシアトルにいたる、時間的にも空間的にもきわめて広範な事例に共通するものである。

 そしてまた、モーガンは「土地の私的所有」という概念のなかった人達にヨーロッパ人のルールを押し付けたことの帰結についても証言している(pp150-151)。
 カンザス州のショーニー部族の事例は、この悪辣な政策の実体をあますところなく明らかに
している。ショーニー部族は、いわゆるジャクソン政策のもとでカンザス州に移され、カンザ
ス川沿いの非常に肥沃な土地をその居留地とし、この先ずっとその本拠地とするよう言い渡さ
れた。ショーニー部族は数年間はなにごともなくそこを所有していた。ところが、白人のアメ
リカ人が西へどんどん流れていき、カンザスまで来ると、今はカンザス州となっている地域で
も最高の土地をショーニー部族が持っていることに気がついた。アメリカ人はただちに、この
インディアンの土地が欲しくなり、文明と進歩のために、という名目で、ショーニー部族を根
こそぎ追い払うことに決めた。彼らは、のちにシュルツ氏が採ったのと同じ方式を、自分たち
の目的を達成するために採用し、迅速かつ巧妙に成果をあげたのである。具体的には、まず、政
府にたいして、ショーニー部族が農耕に必要とする以上の土地を持っているという理由で、居
留地の一部を買い戻すようにもちかけた。次に、政府はインディアンに対して、残りの土地を
全部農地に分割し、個別に処分権つきで各家長へ譲渡するように働きかけた。
 この計画が実行に移されつつあった一八五九年に、わたしはカンザスを訪れたが、その時は
ショーニー部族の人たちは、中には四平方キロメートルにもおよぶ自分たちの農地を耕し、
あるいは改良し、また他の白人農民とおなじように農地を所有していた。その10年後に
カンザスを訪れた時には、一切は終わっていた。カンザスにはショーニー部族の者は一人もおらず、
白人アメリカ人の農民がその土地をすっかり手に入れていた。まさに、売る権利をともなった
私的所有権こそが、このような結果をもたらしたのである。

 エンゲルス(戸原四郎訳、岩波文庫)は「第5章 アテナイ国家の成立」で以下のように述べている(pp146-147)。
 それ以後ソロンにいたるまでのアテナイの政治史は、ごく不完全にしかわからない。バシレウ
スの職はすたれて、国家の頂点には、貴族のなかから選ばれたアルコンたちが現れた。貴族の
支配はますます強まり、紀元前600年ごろには耐えがたいものとなった。しかも、一般人の自
由を抑圧する主要な手段は−−貨幣と高利貸付であった。貴族の本拠はアテナイとその周辺にあ
り、ここでは海上貿易が、いまだにときおりおまけとしてやられる海賊行為とともに、貴族を
富ませ、貨幣の富をその手に集積させていた。発展しつつあった貨幣経済は、分解力をもつ硝酸の
ように、ここから、自然経済にもとづく古来の農村共同体の生存様式のなかへと浸透していった。
氏族制度は貨幣経済とは絶対に両立しない。アッティカの分割地農民の零落は、彼らを保護しつ
つとりまく古い氏族紐帯の弛緩と同時に生じた。債務証書や土地抵当(というのは、アテナイ人
はすでに抵当権を発明していたから)は、氏族をも胞族をも顧慮しなかった。そして古い氏族
制度は、貨幣も前貸も金銭債務も知らなかった。それゆえ、ますますはびこる貴族の貨幣支配は、
債権者を債務者から保護するために、貨幣所有者による小農民の搾取を神聖化するために、新し
い慣習法をもつくりあげた。アッティカの全耕地には抵当標柱が一面に立ちならび、それには、
この地所はだれだれにこれこれの金額で抵当にはいっている、と書かれてあった。この表示のな
い耕地は、大部分がすでに抵当流れか利子未納のために売られて、貴族高利貸の所有に移ってい
た。農民は、小作人としてそこにとどまって、その労働の収穫の六分の一で生活することを許さ
れれば、喜んでよかった。他方で彼は、六分の五を小作料として新しい主人に払わなければなら
なかった。それだけではない。売った地所の代金が債務の弁済にたりなかったり、この債務が抵
当による保証なしになされていたりしたときには、債務者は債権者に弁済するために、自分の子
供を外国に奴隷として売らなければならなかった。父による子の身売り−−これが、父権制と単
婚制の最初の果実であった!そして、吸血鬼がそれでも満足しないときには、彼は債務者自身
を奴隷として売ることができた。これが、アテナイ人での文明の心地よい曙光であった。

 つまり、古代アテナイにおいて、土地の抵当権は小農民にとって、土地を取り上げられて小作人(法外な小作料)または奴隷になることを意味した。そしてこの抵当権は、台頭してきた貴族の権利のために、この時代に発明されたもので、それは古い氏族社会を破壊するものだった、とエンゲルスは主張する。これは、小農民をショーニー部族、貴族を白人に置き換えれば、モーガンの証言と重なる部分が大きい。
 古代のアテナイが、モーガンの「古代社会」に出てくるイロクォイ部族と同様の氏族社会から発展してきたという説(一線的進化)がどこまで妥当なのかは、筆者にはわからない。しかし、エンゲルスが(「古代社会」の続編の)モーガン「アメリカ先住民のすまい」をも読んでいて、それをヒントにして古代アテナイについて推理したのならともかく(そうかも知れないが)、もしそうでないなら、この両者の類似は重要な意味を持つだろう。

 シアトル酋長の部族は農耕民ではない。農耕民の場合は、耕作している土地の占有権はあった。耕地を譲ったり相続したりすることもあった。ただしあくまで部族内部でのことであるが(モーガン pp147-148あたり)。
 農耕民でない Suquamish部族ではそれすらなかったろう。「ロングハウス」と呼ばれる大きな家に、数家族からときには500人が一緒に住んでいたのが北西沿岸部族である(モーガン pp202-204)。その家やカヌーの木材、狩猟や漁労の道具、そして鮭などの獲物のすべては、その家の周りの自然の恵みだった。どれが誰のものなどという区別はない。まさに「土地や空気や水は誰の物でもない。土地は地球の一部であり、我々は地球の一部であり、地球は我々の一部なのだ」というのが彼らの生き方だった。そこへ土地は私有物と見る白人が土足で踏み込んで、土地を「買い取り」、彼らを居留地へ追いやった。それがシアトル酋長が体験したことだった。

Nov. 2001
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