以前から気になっていたのだが、京都の地図を見ると、四条通と北緯35度のラインがすぐ傍を平行に走っている。近年測地系が変わったので、昔の地図ほどは接近していないが、それでも両者はほとんど平行なのは確かである。つまり四条通、というか京都の街並みの東西南北は非常に正確なのだ。
 当たり前と思うかもしれないが、どうして。1200年程も昔に、それほど正確に方位を知ったというのはかなり高度な技術だったと思われるのだ。どのようにして正確な方位を知ったのか?
 磁石はここまで正確ではない。「偏角」というのがあって、理科年表によると京都では(東京でも)7°くらいである。つまり磁石の指す北は本当の北から7°ほど東側へずれている。四条通はとてもそんなにはずれていない。偏角も時代によって変化しているだろうが、うまいこと1200年前に0に近かったと考えるのはムシが良すぎるだろう。
 もうひとつ、容易に考え付くのは北極星だろう。これは赤緯89°18′ということで、「天の北極」は赤緯90°だから1°もずれていない。
 ところが、地球は歳差運動というのを行っている。つまり独楽のようにその自転軸が「みそすり運動」を行っているのだ。このため、北極の位置は時代とともに変わって行く。現在の北極星は「こぐま座α」という星であるが、BC500年頃には「こぐま座β」が北極星だった。古代エジプトの頃には「りゅう座α」がそうで、さらに12000年程前には「こと座α」つまりヴェガ、東洋では織女星が北極星だったという。そして天の北極は25800年ほどの周期で小円を描いているという。1200年前は、単純に考えて現在の北極星「こぐま座α」とBC500年頃の「こぐま座β」の真中あたりに北極があったことになるだろう。これでは真方位の決定は難しかろう。
 このようなことを知ると、京都四条通の東西の正確さは益々謎めいて来る。実際、どのような方法を使ったのか?
 そんな疑問を抱いていた時に、こんな文章を見つけた(「条里の計画と技術」 方位設定法)
 条里区画は、東西〜南北の正方位が理想であるとされ、現に大平野では正方位地割が今でも残っている。
 中国や朝鮮から暦や天文書が伝わったのは6世紀ごろのことである。そのうち、『周礼』に地上に表(測量用の竿)を立て、これを中心とした円を描き、日出・日入の影が同一周上に交わる点を記し、その2点を結んで正東西線を得、これを2等分して表と結んで正南北線を得る方法(日き法)がある。また、『周髀算経』には冬至の日の卯之時(6時)と酉之時(18時)に北極周辺の大星を望み、これらと地上に立てた表の先端とを結んで地上に2点を印し、両点を結んで正東西線、その2等分点と表を結んで正南北線を得る方法(極星法)がある。
 因みに、「暦の会」の例会に参加した時、中村士先生(元国立天文台、現放送大学)に場違いなことをお伺いしたところ、Indian circle というのを教えて頂いた。これは上記の「日き法」と似ているようであるが、同じかどうかは現在のところ不明である。
 しかし筆者は、もうひとつの「極星法」に少なからぬ興味を持った。以下はこれについての考察である。

極星法の意味

 まず、上記の説明だけでは極星法について正確に理解するのはかなり困難と思える。これについて、知り得る限りで解明を試みてみたい。

・冬至に限られていること
 これはひとつのポイントであろう。冬至には太陽は(ほぼ)黄経270°の位置にある。無論太陽は朝東から昇り、昼には南中し、夕方には西に沈むわけだが、その天球上の位置は、冬至の日には黄経270°なのである。ただし天球上の天体の赤経は0h〜24hの時角で表すので、270°は赤経18hである。要するに冬至の日には、赤経18hにある天体は朝東から昇り、夕方西に沈むわけである。因みに、太陽は24時間で地球を一周するから(実は地球が24時間で自転しているわけだが)、卯之時(6時)には真東に、酉之時(18時)には真西にある。これは冬至に限らない。ただ冬至には日が昇るのは6時よりかなり遅くて、その方位は東より南に偏り、日没は18時より早くて西よりやはり南に偏るが。
 そんなわけで、赤経18hにある天体は、卯之時(6時)には天の北極と真東を結ぶ線上にあり、酉之時(18時)には天の北極と真西を結ぶ線上にある(ただし、時刻は江戸時代のような不定時ではなく、現在と同じ定時制とする)。そして、同じ天体であるなら、天の北極からの距離は常に同じだから、卯之時(6時)の位置と酉之時(18時)の位置は、北極から東西に正しく同じだけ離れている。だから、それらの位置と表の先端を結んだ線を延長して地上に落とした点を結べば、これは正しく東西を指すはずである。
 因みに、赤経6hにある天体でも同じことが可能である。こちらは卯之時(6時)には北極の真西に、酉之時(18時)には真東にと、先ほどとは正反対であるが、東西を知るためならこれでも同じことになる。

・「北極周辺の大星」であること
 冬至であるから、卯之時(6時)にはまだ日は昇っていないし、酉之時(18時)には既に日は沈んでいる。しかしまだ日出、日没に近いから薄明で、ある程度明るい星でなければ観測は難しいだろう。だから「大星」という条件が付くものと思われる。
 ここでひとつ、有力な候補が浮かび上がる。他でもない、大昔の北極星であったこと座のヴェガ、東洋では織女星がそれである。ヴェガの赤経は18h37m18sである。18hからはやや離れているが、既に述べた歳差運動を考えれば、昔はもっと18hに近かったという可能性は考えられる。一方、ヴェガの赤緯は38°47.5′である。これは「北極周辺」とは言い難いようにも思える。しかし、たとえば東京付近でも、冬至の夕方には「夏の大三角形」すなわちヴェガ、わし座のアルタイル(牽牛星)、はくちょう座のデネブは北西の空にたしかに見える。夜明け前には南東の空に見えるはずである(寝坊の筆者は確認していないが)。したがって極星法に用いるには何の支障もないのである。
 そうすると、平安京(さらに平城京)が建設された当時、ヴェガ(織女星)の赤経がどれくらいだったかを推定することが重要になる。

歳差運動による北極の軌道

 まず、当時の天の北極がどの辺りにあったかを推定する必要がある。近年ではパソコンソフトでもかなり正確なことがわかるようだが、ここでは過去の北極星の情報から推定式を作ってみた(計算の詳細)。
 天の北極の軌道は現在の北極(赤緯90°)を通る小円となるが、これを現在の赤緯、赤経(λ,φ)で表すと次のようになる。
 ただし、
  B2=1.1890618014191676

 そして北極はこの小円をT=25800年で一周するから、
として、t年前の北極の赤緯λt
 これを(1)に用いればt年前の北極の赤経φtが求められる。
オレンジの線は過去の天の北極の軌跡。数字は年数。
は1300年前の天の北極。
 この小円は各時代の北極星の近くを通っている。多少の誤差があるだろうが、「過去の北極星」のサンプルをもっと増やせば、さらに精度を上げられるだろう。

飛鳥・奈良時代の天体の位置

 ここで、t=1300として、すなわち1300年前の飛鳥・奈良時代の天体の位置を上記の式から推定してみる。
 まず、北極の位置は、
  λt=82.792°
  φt=12.555h
 λtは現在の北極(90°)とこぐま座β(74°7.2′)のちょうど中間あたりである。しかしφtは現在の北極ととこぐま座β(14h50m41s)を真っ直ぐ結んだ直線(大円)から2h(30°)以上ずれている。

 歳差運動で天の北極が動けば、当然天の赤道も動く。そして赤道と黄道の交点が春分点だから、春分点も動くことになる。1300年前の春分点は次のように推定される。
  λSt=7.131°
  φSt=1.115h
 これはうお座の中であるが、現在よりもおひつじ座との境界に近い。西洋占星術では春分点をおひつじ座としているが、これは紀元前の頃にそうだったものを未だに踏襲しているのである。ともかく、1300年前には春分点がおひつじ座に近付くというのは、この事実に合致する。

 そして問題のヴェガ(織女星)の位置は次のように推定される。
  λVt=38.306°
  φVt=17.893h
 すなわち、赤経は予想通り18hに近い。現在の18h37m18s(18.622h)よりもかなり近い。したがってこの星が極星法に使われた可能性は高い。

 ところで、この計算によればヴェガ(織女星)の赤経が18hちょうどになるのは1150年ほど前となる。

極星法は可能だったか?

 しかし、平城京や平安京が造営された飛鳥・奈良時代に極星法は可能だったろうか?
 これを行うためには、冬至という日が正しく知られなければならない。また卯之時(6時)、酉之時(18時)という時刻も知らなければならない。つまり暦や時刻が重要な役割を持つのである。しかし、この時代には暦は既に伝わっていた。また天智朝には漏刻が作られたとされる。つまり飛鳥・奈良時代はこのような要件が整った矢先であった。京の都は織女星を観測して造営されたということは、充分考えられるだろう。

極星法のその後

 周知のとおり、平城京、平安京は唐の長安を模して造営されたわけである。ならば大元の長安(現在の西安)の方位はどうだったか?地図を見るとやはりかなり正確なようである。
 一方、北京はというと、故宮博物院北側の濠などは、やや右肩上がり(東側が少し北に向いている)ようである。
 現在の北京は、元のフビライが造営した大都を基とするわけで、完成は1293年というから、唐の長安より600〜700年も新しい。しかるに方位がやや不正確というのは、一見不自然な気がする。

出典:「地球の歩き方」西安・敦煌・ウルムチ(ダイヤモンド社) 出典:世界大百科事典(平凡社)

 しかしながら、両都の造営に極星法が用いられたと考えるなら、辻褄が合うのである。ヴェガ(織女星)の赤経は、唐代には18hにかなり近かったが、時代とともに次第に動いて、現在の赤経(18h37m18s)に近付く。このことを知らずに、唐代と同じ極星法を踏襲したなら、北京の方位のずれは当然の帰結なのである。
 もっとも元代には天文学が非常に発達していたようで、この時代の授時暦は1年を365.2425日とする、つまり後の西洋のグレゴリオ暦と同水準だった。日本の江戸時代の最初の国産暦である貞享暦もこれを範としたくらいで、非常に優秀だったようである。それでも歳差運動までは知られていなかったのか?さらに調べてみたいところである。

Apr. 2008
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