湊川物語

by theR.A.N.S.
湊川の戦
延元1(建武3)年1月京都を駆逐されて翌月九州に逃れた足利尊氏・直義は,4月大軍を集めて博多を発し,尊氏は海路,直義は陸路を進んで畿内に迫り,四国勢を率いた細川一族も海上で主力と合流した。建武新政府は新田義貞・楠木正成に迎撃を命じ,義貞は和田岬に,正成はその西の湊川に布陣した。5月25日,四国勢は岬の前を搭回して生田に上陸し,尊氏軍の主力は和田岬に上陸して新田軍を攻めたので,新田軍は京都に向かって敗走した。楠木軍は陸路を攻め寄せた直義軍に反撃を加えたが,新田軍の敗走によって孤立し,敵の重囲に陥って敗れた。正成は一族・配下70余人とともに自害したと伝えられる。この敗戦により建武新政府は崩壊し,後醍醐天皇は叡山に逃れ,尊氏は再び入京し,光明天皇を擁立し,室町幕府を建てることとなる。
平凡社「世界大百科事典」より

 世にいう「湊川の戦」である。正成が自刃したのは「楠谷」付近と伝えられる。現在の平野浄水場、「水の博物館」の近くである。そして湊川左岸付近にその首が晒された。
 首を晒すというのは見せしめのために行うのであるから、人が通らない所に晒しても意味がない。当時からここにはかなりの人の往来があったのだろう。実際、兵庫の港は中世にも栄えていて、南都東大寺、興福寺の所領となり、これらの寺は入港する船からの税金で稼いでいた。その兵庫の港からこの地は目と鼻の距離である。
 元禄期になって、徳川光圀(つまり黄門ちゃま)がこの地に「嗚呼忠臣楠子之墓」という墓碑を建てた。さらに明治5(1872)年には、正成を「忠君愛国の鑑」として、ここに湊川神社が創建された。

湊川神社
明治五年(一八七二年)五月二十四日、社名を「湊川神社」とし、初めて別格官幣社に列せられ、同日鎮座祭、翌二十五日楠公祭が斎行されて、ここに湊川神社が創建された。
(同社「由来」より)

 というわけで、「湊川の戦」のあった5月25日は「楠公祭」となった。筆者も子供の頃、武者行列を見た記憶がある。「楠公さんのお祭」は5月25日ということで、何の疑問も持ってなかった。
 ところが、
湊川神社は、明治5年、殉節された5月25日をもって御鎮座となりました。そしてこの日の新暦7月12日が例祭日(官祭)と定められ、これに対して5月25日には、氏子等が賑々しく執り行う私祭としての楠公祭が行われることになります。
(同社「楠公武者行列」絵葉書解説より)

 世界大百科事典でも、湊川神社の「例祭は7月12日」とされている。そうなのか、5月25日は「私祭」なのか。

 同社のお御籤などの売り場の女性(巫女さん?)に聞いてみた。お祭は5月ですね。はい。7月にはないんですか?「例祭」があります。12日ですか?彼女は首を傾げた。神社関係者でもその程度のようだ。

 「湊川の戦」のあった5月25日(新暦)が私祭で、これの旧暦の日付に対応する新暦の7月12日が官祭というのは、一見もっともらしい。しかしここにひとつの疑問が湧き上がる。それは、延元1(建武3)年5月25日が(1336年)7月12日になるというのは、グレゴリオ暦の規則を適用した場合に限られるのだ。一方、わが国が新暦を採用したのは湊川神社創建の翌年、明治6年(1873年)であるが、この時の布告(明治5年太政官布告337号)には次のようにある。
1.今般太陰暦を廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以ッテ明治六年一月一日ト被定候事
但新暦板出来次第頒布候事
1.1ヶ年三百六十五日十二ヶ月ニ分チ四年毎ニ一日ノ閏ヲ置候事
・・・・・
内田正男「日本暦日原典」(雄山閣)pp544)

これは厳密に言うとグレゴリオ暦ではない。
 どういうことかというと、
 多くの人は「閏年は4年に1度」と思っているのではなかろうか。しかし、現在わが国(および世界の多くの国)で使われているグレゴリオ暦では、閏年は400年に97回なのである。もっとも、21世紀初頭の現在生きている人の大部分はこの違いを気にする必要はない。前回閏年が省かれたのは1900年、そして次回は2100年だからである。しかし、明治6(1873)年頃から「湊川の戦」の1336年まで遡った場合、「閏年は4年に1度」という規則とグレゴリオ暦の規則では4日の差が生ずる。つまり明治5年太政官布告337号に従ったのでは、その日は7月12日にはなり得ないのだ。

 この太政官布告の不備は、1900年の直前になって急遽改められている。明治31年勅令第90号(閏年ニ関スル件)がそれである。
朕閏年ニ関スル件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得ベキ年ヲ閏年トス 但シ紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス
内田正男「日本暦日原典」(雄山閣)pp544)

 ここでは「神武天皇即位紀元年数」を根拠にしているが、「紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ」というのは西暦を言い直したのにすぎない。これでグレゴリオ暦の規則(西暦年が100で割り切れて、400で割り切れない年は閏年としない)と一致する。
 西暦というのは、イエス・キリスト生誕を起源とするわけで、欧米のキリスト教国ならこれを使うのは自然であろうが、キリスト教国でもない日本が法律でこれを使用することには抵抗があっただろう。何より、当時の一般の日本人には馴染みがなかったはずである。一方、「神武天皇即位紀元年数」というのは、科学的信憑性はともかくとして、記紀から計算できるはずで、当時の「天皇を中心とする神の国」としては最適であったろう。「明治」を使うことも勿論できたはずであるが、それでは年号が変わる度に法律を改正しなければならないから、はなはだ不便である。
 つまり、キリスト教国たる欧米列強の文化の一環としての暦を、非キリスト教のわが国で採用するためには、「神武天皇即位紀元」が必要だったと言えそうである。ちなみに、この「神武天皇即位紀元(皇紀)」が使われるようになったのは、この明治31年勅令あたりからではないかと思われる。「神武天皇即位紀元年数」と省略なしに述べているのは、これがまだ一般に流布するには至ってなかったという証左ではなかろうか?また、兵器に関しては、「三八式歩兵銃」というのは明治38年に制定されたものというが、零式艦上戦闘機(零戦)は皇紀2600年から付けられている。明治末にはまだ「皇紀」は使われてなかったのが、昭和の頃になって積極的に使われているのである。軍国主義の中で「皇紀」は肥大化したのであろう。

 ともかく、湊川神社の「官祭」の日付、7月12日というのは、明治の初めの暦制度からは説明がつかないのである。おそらく後年(明治31年勅令第90号以後?)になって改めて計算されたものではないかと思う。だいたい、「官祭」と「私祭」に分かれているというのも妙である。「私祭」の5月25日が根付いた後に、新たに「官祭」を設けたのではないか?

 「青葉茂れる桜井の」という唱歌は湊川へ向かう正成とその子正行(まさつら)の別れを描いたもので、戦前は有名だったらしいが、これも新暦の5月を意識しているように思える。もっとも「またも降り来る五月雨(さみだれ)の」という歌詞があって、この「五月雨」を伝統的な解釈である梅雨と考えれば新暦7月初めのほうが相応しいかもしれないが。
 作詞者は落合直文(1861〜1903)というから、日本が正式にグレゴリオ暦になった後まで生きているわけだが、一方、この人が小中村義象なる人物とともに「家庭において小学生に国の歴史を教えて『忠孝節義の風』を養わせようと」いう目的で「歴史読本」というのを1891年に出しているらしい。「青葉茂れる桜井の」もまさにそんな路線の歌だろうから、同時代か?とすればまだグレゴリオ暦は流布されていない。落合も「7月12日」説は知らなかったと考えるのが自然ではなかろうか。

 因みに、仮に「湊川の戦」の時に西洋人がいたとしても、「7月12日」とは記録しなかったはずである。何故なら当時はまだグレゴリオ暦はなかった。ローマ教会がこの暦を発布したのは1582年である。それ以前はユリウス暦で、これは4年に1度の閏年である。そしてグレゴリオ暦制定の時に日付が飛んでいるので、件の延元1(建武3)年5月25日はユリウス暦では7月4日になる。つまり当日を7月12日とする人は世界中でも一人もいなかった。
 ならば7月12日とすることには意味が無いのかといえば、必ずしもそうでもない。グレゴリオ暦というのは太陽年つまり地球が太陽を公転する周期にきわめてよく同期した暦なのである。太陽年とのずれは3000年で1日の程度である。実際、ユリウス暦からグレゴリオ暦に切り替えられたのも、長年の間にユリウス暦では太陽年とずれが生じたため、これを是正するためであった。だから、「湊川の戦」を7月12日とするというのは、「地球が太陽軌道上の7月12日にいる位置」であることを表わす。つまり天文学的には非常に正確なのだ。そして気候は基本的に太陽年と同期しているから、やはり今の7月12日頃の気候と考えて良いだろう。ただし気候は毎年同じでもないから、これを7月12日とするか、7月4日とするかはあまり重要とも言えないだろう。

武者行列
 さて、「私祭」としての5月25日には武者行列が行なわれた。筆者も子供の頃見た記憶があるが、その昭和30年代のものはかなり簡略化されたものだったという。昭和10(1935)年には「湊川の戦」600年ということで、盛大に行なわれた。
 戦前の”楠公さん”(湊川神社)への崇敬は、全国的にも盛んでした。
 殊に昭和10年の大楠公六百年祭の折には、大楠公を景仰する人々によって神社への崇敬も篤く、全国的に崇敬の輪が広がりつつある気運が最高点に達したかのように、この年5月24〜26日の3日間に行われた楠公祭は、かつてない盛大かつ殷賑を極めたのでした。
 ・・・
 よってこの年の楠公祭武者行列は、「延元の昔を髣髴せしめる南朝の時代風俗を如実に描き出した絢爛豪華な古典絵巻が、蜿蜒三十余町に亘る総勢三千余名の大行列」となり、「沿道の人出五十万人と称せられ」る中を行進、「おそらく空前絶後の武者絵巻を展開」と、その日の新聞(神戸新聞など)が報じているほどの盛況となりました。
(同社「楠公武者行列」絵葉書解説より)
 これはまた、平成14年に復活された。
 昭和10年といえば、軍国主義が台頭してきた頃である。大楠公の遺訓は益々強調されただろう。その中での600年祭であるから、盛大であったのは想像に難くない。
 しかし一方で、この頃は活動写真の人気も相当なものだったはずである。中でもチャンバラ映画は老若男女に人気を博していた。そんな中での武者行列は、言ってみれば太秦映画村や日光江戸村のようなものだったかもしれない。しかも、向こうから街中へ出張ってくれる江戸村、いや、室町村(?)だったと言えるだろう。こちらの側面も見ておきたい。

湊川新開地
 「湊川の戦」のあった湊川は明治になって流路が付け替えられた。そして旧湊川の河川敷は「湊川新開地」という歓楽街になった。ここは戦後三宮に取って代わられるまで、神戸随一の賑わいを誇った所である。その新開地で幼少期から映画を見て育ったのが、後の映画評論家・淀川長治である。ここにあった聚楽館(しゅうらくかん)という劇場・映画館は、今でも年配の神戸っ子には「ええとこええとこシューラッカン」というはやし言葉で記憶されている。
 筆者の子供の頃、昭和30年代にもここはまだ賑やかだった。チャンバラ映画の人気も高かった。筆者が一番よく憶えているのは「神戸東映」である。片岡知恵蔵の「大菩薩峠」は、原作全巻を読んでいた父に必ず連れて行かれた。母は大川橋蔵のファンだった。そして、「赤胴鈴之助」などの子供向け映画も多々見たと思う。

 湊川神社と新開地の間に「福原」という町がある。風俗街である。平清盛の「福原京」とは直接の関係はないようである。明治になってここに遊郭が作られたが、その時、東京の吉原、京都の島原に倣って「原」のつく地名にしたものという。無論、清盛の「福原」も意識にはあったに違いないが。
 清盛の福原は、湊川神社のちょっと西の有馬道を北上し、山へ入る直前の「平野」のあたりが中心だったようだ。清盛の「雪見御所」跡が残っている。正成が自刃した楠谷からも近いのだが、話が逸れ過ぎる。ただ、源平合戦と湊川の戦のゆかりの地はそんな目と鼻の距離なのである。

 新開地には、神戸に入っている4つの私鉄がすべて集結している。かつては、阪急は三宮、阪神は(三宮経由で)元町、山陽電鉄は兵庫、神戸電鉄は湊川から発着していた。1968(昭和43)年になって、これらを地下で結ぶ「神戸高速鉄道」が開通した。この時から、これら全私鉄が新開地に入ることになった。

天井川
 新開地から神戸電鉄で1駅目(といっても0.4kmしかないが)が湊川駅である。地下鉄山手線では湊川公園駅である。ここで降りて地上へ出ると、道路が丘のようなものを貫くトンネルを通っている。さらに「丘のようなもの」に登ると、そこが湊川公園である。楠木正成の銅像があるこの公園から、南のほうには商店街が、新開地の聚楽館跡地の方へ下っている。これが旧湊川の流路である。「丘のようなもの」はその上を湊川が流れていたことを物語っている。天井川だったのである。

 明治の初め、六甲山は禿山だった。
わらわ、今朝、高津が社へ参詣なし、前なる白酒売茶店に休らう。遥か西方を眺むれば、六つの甲の頂きより、土風激しうして、小砂眼入す。
上方落語「延陽伯」(東京では「たらちね」)で長屋のあほの所へ嫁ぐことになるお公家のお姫さんの台詞である。「六つの甲の頂きより、土風激しうして」砂が舞い来たった。これはもう、禿山に違いなかろう。
 六甲山は巨大な花崗岩の岩隗で、その表層は花崗岩がボロボロに風化した「マサ土」で覆われている。このマサ土が雨で流される。急峻な小川を流れて、平地に達するとそこに堆積する。こうして川筋が埋まる。川が氾濫するので、人は堤防を築く。さらに土砂が堆積する。堤防を嵩上げする。これを繰り返すうちに川底が天井より高くなる。つまり天井川ができあがる。
 日本で最初の鉄道トンネルは、やはり六甲山系の石屋川という天井川の下を通るものだった。湊川のトンネルにも昔は市電が走っていた。

  菜の花や月は東に日は西に
 蕪村がこの句を読んだ頃、西摂地方は菜の花の栽培が盛んだった。六甲山系の小川の水車で菜種油を絞った。それはまもなく、人力で絞っていた大坂の油絞り業を凌駕した。水車はやがて精米にも使われるようになった。これが良質な「灘の酒」を生み、江戸の市場を制圧した。
 それが蕪村から100年程の後には、同じ川が天井川になっていた。山が荒れた。

 石川英輔著「大江戸えねるぎー事情」は、江戸期の様々な物産について客観的データに基づいて検証していて、説得力がある。この本のデータを使って、酒造に必要な薪の量を割り出してみると、いかに六甲山が小さいといっても、100年やそこらで禿山になるとはちょっと思えないのである。
天保年間のはじめ(一八三〇頃)、関西の伊丹、池田、灘、伏見などから江戸に入っていた『下り酒』の量は毎年八〇万〜九〇万樽だったということだ。
(前掲書pp177)
樽は四斗樽のことだが、正味は三.五斗(六三リットル)だから・・
(前掲書pp177)
百万樽として63,000キロリットル。
米を蒸したり、できた酒に火入れするのに使った薪の量を参考までに書いておくと・・・一リットル当りでは、約五八〇キロカロリーになる。
(前掲書pp186)
 したがって、63,000キロリットルでは
  63,000×1000×580=36,540,000,000キロカロリー
 これが江戸で1年間に飲まれる酒を作るのに必要な薪の全エネルギーである。以下これをXとする。
 一方、
膨大なエネルギーを必要としている現在でさえ、森林国である日本では、一年間に樹木が成長する部分だけを燃料にすれば、総エネルギーの二〇パーセントや三〇パーセント、つまり一人一日当り二万〜三万キロカロリー分はまかなえるという。
(前掲書pp262)
 小さい方の20,000キロカロリー/人日を採用しても、日本全体で1年間なら
  20,000×120,000,000×365=876,000,000,000,000キロカロリー
 これはXの24,000倍に相当する。日本の総面積は37万km2だから、単純に計算すれば、その 1/24,000 は 15km2。しかし日本列島のすべてが森林ではないから、これはかなり過大で、実際にこのエネルギーを得るのに必要な森林面積はこれよりさらに小さいはずである。なんぼ六甲山地が狭いと言っても、そんなに狭くはない。しかもこの面積の「一年間に樹木が成長する部分だけを燃料にすれば」良いのであるから、この程度では禿山になるはずはない。

 実は英輔師匠も見落としていることがある。松根を掘ったのだ。
・・夜なべ仕事用の小灯(ことぼし)の松根が掘られて、はげ山になりました。松根は油脂が多く、明るく燃えるので、夜なべ仕事には必要でした。
(島田誠、森栗茂一著「神戸 震災をこえてきた街ガイド」岩波ジュニア文庫、pp21)。
 大消費地江戸に酒や菜種油を大量に供給しながら、当の生産地では松根を掘って自然破壊が進んだ。これは現代にも通じることではないか?日本など先進国が大量の木材を輸入して、そのために熱帯雨林が荒れている。

 18世紀から幕末、明治にかけて主に都市部周辺で禿山が出現したことは多くの文献に見られる。例えば以下の2点だけでも充分であろう。
 木津川(淀川支流南山城部を貫流する)の支流不動川の天井川になったいきさつについて棚倉村古文書が興味ある事実を示す。すなわち「当村不動川筋の儀前々は内野田地より川床の方低く堤防も丈夫に御座候ところ、近年土砂押埋当時にては川床の方6間余も高く相成り其の上、堤追々欠込み前々とは川幅10間余(約20m)も相広み甚危急の体に相成り、もし右川通り切所など出来仕り候ては誠に一村亡ぶところに及び候云々」
 これは18世紀のことである。このようにこの時期土砂が急に多量に出だしたということは、この地の森林伐採によるものと考えられるが、しかしそれでもまだ天井川とはならず、明治初期には対岸の人家が見通せたということである。今日不動川は著しく嵩上して天井川となっているが、これは明治中期以後のことである。
(矢野義男著「山地防災工学」山海堂,pp95)

ことに人口の集中する商工業地帯に近接する里山(さとやま)にその傾向が認められ,幕末に東海道沿岸を観察したドイツの地理学者リヒトホーフェン F. von Richthofen(1833‐1905)は,風景はすべて赤茶けた土山であると記した。山土の流亡はことに地質的に粘土質に乏しい花コウ岩の深層風化や第三紀の砂礫層で構成された丘陵に著しく,もっとも著しいのは近畿地方の諸盆地をめぐる山々と瀬戸内海沿岸部とであった。
(世界大百科事典「はげ山」)


阪神大水害
 六甲山に話を戻すと、明治になって英国人グルームが緑化に尽力したことはつとに知られるところである。しかしそれでも、1938(昭和13)年になって、その川は阪神大水害を引き起こした。その大水害は谷崎潤一郎「細雪」に克明に描かれている。「細雪」に出てくる川の名前としては、芦屋川、高座川、住吉川、大石川など。
 その水害の中で、末妹妙子を助けて大活躍するのが写真屋の板倉であるが、「阪神間には大体六七十年目毎に山津波の起る記録があり、今年がその年に当っていると云うことを、既に春頃に予言した老人があって、板倉はそれを聞き込んでいた」とある。これはどの程度本当なのか?昭和13年の6,70年前といえば明治維新の頃、さらにその6,70年前は灘の酒が江戸を制した頃に当たる。記録を調べれば何かわかるのではないか。
 そして不気味なことに、昭和13年からはそろそろ70年になろうとしている。

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