延元1(建武3)年1月京都を駆逐されて翌月九州に逃れた足利尊氏・直義は,4月大軍を集めて博多を発し,尊氏は海路,直義は陸路を進んで畿内に迫り,四国勢を率いた細川一族も海上で主力と合流した。建武新政府は新田義貞・楠木正成に迎撃を命じ,義貞は和田岬に,正成はその西の湊川に布陣した。5月25日,四国勢は岬の前を搭回して生田に上陸し,尊氏軍の主力は和田岬に上陸して新田軍を攻めたので,新田軍は京都に向かって敗走した。楠木軍は陸路を攻め寄せた直義軍に反撃を加えたが,新田軍の敗走によって孤立し,敵の重囲に陥って敗れた。正成は一族・配下70余人とともに自害したと伝えられる。この敗戦により建武新政府は崩壊し,後醍醐天皇は叡山に逃れ,尊氏は再び入京し,光明天皇を擁立し,室町幕府を建てることとなる。 |
明治五年(一八七二年)五月二十四日、社名を「湊川神社」とし、初めて別格官幣社に列せられ、同日鎮座祭、翌二十五日楠公祭が斎行されて、ここに湊川神社が創建された。 |
湊川神社は、明治5年、殉節された5月25日をもって御鎮座となりました。そしてこの日の新暦7月12日が例祭日(官祭)と定められ、これに対して5月25日には、氏子等が賑々しく執り行う私祭としての楠公祭が行われることになります。 |
1.今般太陰暦を廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以ッテ明治六年一月一日ト被定候事 但新暦*板出来次第頒布候事 1.1ヶ年三百六十五日十二ヶ月ニ分チ四年毎ニ一日ノ閏ヲ置候事 ・・・・・ |
朕閏年ニ関スル件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得ベキ年ヲ閏年トス 但シ紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス |
戦前の”楠公さん”(湊川神社)への崇敬は、全国的にも盛んでした。 殊に昭和10年の大楠公六百年祭の折には、大楠公を景仰する人々によって神社への崇敬も篤く、全国的に崇敬の輪が広がりつつある気運が最高点に達したかのように、この年5月24〜26日の3日間に行われた楠公祭は、かつてない盛大かつ殷賑を極めたのでした。 ・・・ よってこの年の楠公祭武者行列は、「延元の昔を髣髴せしめる南朝の時代風俗を如実に描き出した絢爛豪華な古典絵巻が、蜿蜒三十余町に亘る総勢三千余名の大行列」となり、「沿道の人出五十万人と称せられ」る中を行進、「おそらく空前絶後の武者絵巻を展開」と、その日の新聞(神戸新聞など)が報じているほどの盛況となりました。 |
わらわ、今朝、高津が社へ参詣なし、前なる白酒売茶店に休らう。遥か西方を眺むれば、六つの甲の頂きより、土風激しうして、小砂眼入す。 |
天保年間のはじめ(一八三〇頃)、関西の伊丹、池田、灘、伏見などから江戸に入っていた『下り酒』の量は毎年八〇万〜九〇万樽だったということだ。 |
樽は四斗樽のことだが、正味は三.五斗(六三リットル)だから・・ |
米を蒸したり、できた酒に火入れするのに使った薪の量を参考までに書いておくと・・・一リットル当りでは、約五八〇キロカロリーになる。 |
膨大なエネルギーを必要としている現在でさえ、森林国である日本では、一年間に樹木が成長する部分だけを燃料にすれば、総エネルギーの二〇パーセントや三〇パーセント、つまり一人一日当り二万〜三万キロカロリー分はまかなえるという。 |
・・夜なべ仕事用の小灯(ことぼし)の松根が掘られて、はげ山になりました。松根は油脂が多く、明るく燃えるので、夜なべ仕事には必要でした。 |
木津川(淀川支流南山城部を貫流する)の支流不動川の天井川になったいきさつについて棚倉村古文書が興味ある事実を示す。すなわち「当村不動川筋の儀前々は内野田地より川床の方低く堤防も丈夫に御座候ところ、近年土砂押埋当時にては川床の方6間余も高く相成り其の上、堤追々欠込み前々とは川幅10間余(約20m)も相広み甚危急の体に相成り、もし右川通り切所など出来仕り候ては誠に一村亡ぶところに及び候云々」 これは18世紀のことである。このようにこの時期土砂が急に多量に出だしたということは、この地の森林伐採によるものと考えられるが、しかしそれでもまだ天井川とはならず、明治初期には対岸の人家が見通せたということである。今日不動川は著しく嵩上して天井川となっているが、これは明治中期以後のことである。 |
ことに人口の集中する商工業地帯に近接する里山(さとやま)にその傾向が認められ,幕末に東海道沿岸を観察したドイツの地理学者リヒトホーフェン F. von Richthofen(1833‐1905)は,風景はすべて赤茶けた土山であると記した。山土の流亡はことに地質的に粘土質に乏しい花コウ岩の深層風化や第三紀の砂礫層で構成された丘陵に著しく,もっとも著しいのは近畿地方の諸盆地をめぐる山々と瀬戸内海沿岸部とであった。 |
阪神大水害
六甲山に話を戻すと、明治になって英国人グルームが緑化に尽力したことはつとに知られるところである。しかしそれでも、1938(昭和13)年になって、その川は阪神大水害を引き起こした。その大水害は谷崎潤一郎「細雪」に克明に描かれている。「細雪」に出てくる川の名前としては、芦屋川、高座川、住吉川、大石川など。
その水害の中で、末妹妙子を助けて大活躍するのが写真屋の板倉であるが、「阪神間には大体六七十年目毎に山津波の起る記録があり、今年がその年に当っていると云うことを、既に春頃に予言した老人があって、板倉はそれを聞き込んでいた」とある。これはどの程度本当なのか?昭和13年の6,70年前といえば明治維新の頃、さらにその6,70年前は灘の酒が江戸を制した頃に当たる。記録を調べれば何かわかるのではないか。
そして不気味なことに、昭和13年からはそろそろ70年になろうとしている。