なじみの薄い二十四節気

 朝日新聞2014年3月1日の”be”に、『なじみの薄い「二十四節気」は?』というのがあった。それによると、小満、芒種、清明、雨水などの知名度が低く、冬至、立春、夏至、春分などが高いという。これはまあ、順当な結果だろう。
 さて、記事では「ところで、「二十四節気」とはもともと何なのだろうか」と振って、以下のように説明している。
 二十四節気は、太陽の位置を基準に1年を24等分した季節の分け方。中国伝来なのでもともと季節にズレがある。国立天文台のHPによれば、明治時代、太陽の動きを基準に採用された「新暦」(太陽暦)の直前に使われていた天保暦を一般に「旧暦」(太陰太陽暦)という。月の満ち欠けを基準にする「太陰暦」はひと月平均29.5日で年約354日となり、季節がずれていくため、二十四節気を加味し、閏月をもうけて調整したのが「旧暦」だった。

 なんとも中途半端な説明である。紙数の都合で短縮したものかもしれないが、国立天文台のHPまで参照しながら、これでは肝心な内容がほとんど伝わらない。
 「肝心な内容」とは何か?それは「二十四節気とは正しい季節を知る指標」ということである。旧暦時代の人にとって、「立春」というのは現代人の「2月4日」と同じ、「啓蟄」というのは「3月6日」と同じ意味なのである。実際、現在の新暦(『グレゴリオ暦』という太陽暦の一種)ではほぼこのとおりになる(細かな変動については今は説明しない)。しかし新暦がなかった時代には、二十四節気によらなければこの正しい季節がわからなかったのである。
   年の内に春はきにけり一とせを去年こぞとやいはん今年とやいはん

 よく例に出される古今集在原元方の歌であるが、このように旧暦では立春は年の内(十二月)になることもあれば年明け(一月)になることもある。逆に言えば、旧暦では元日は大寒(新暦1月20日頃)から雨水(同2月19日頃)までの間の「どこか」でしかない。つまり「何月何日」と言ってもそれだけでは正確な季節はわからないのである。一方、新暦では立春はほぼ2月4日である。この現代なら暦日でわかることを昔は節気で知ったのである。
 『赤穂事件』の元禄十五年十二月十四日はグレゴリオ暦では1703年1月30日で立春の直前、『源平一の谷の戦』の寿永三年二月七日は1184年3月27日で春分の直後であるが、旧暦時代には、新暦がないから、「1月30日」「3月27日」という情報はない。それで、立春、春分という節気と関連付けなければ季節を特定できなかったのである。
 明治以後は、暦日だけで季節がわかるようになった。だから二十四節気は不要と言えば言えなくもない。ただ、「2月4日」よりは「立春」、「3月6日」よりは「啓蟄」と言うほうが「風情がある」と思うかもしれない。しかしそれは副次的なもので、本来の意味はあくまで「季節を正しく特定すること」なのである。
 ところが現在では副次的な「風情」だけが残ってしまった。それが嵩じて日本気象協会が「季節感に合った『日本式二十四節気』」の作成を提唱して失笑を買ったのは記憶に新しい。もっとも筆者は ので、悪しざまに言うとばちがあたるかもしれないが。
 この際、「風情」などはいったん捨て去るべきなのだ。「中国伝来なのでもともと季節にズレがある」などというのも、どーでもいーことである。本当にズレがあるのかどうかも、考え方によって見解が分かれる。「風情」などにこだわっているなら、いずれまた気象協会の愚を繰り返すことになるだろう。

蛇足ながら・・
 ではなぜ、季節が特定できない暦なんぞが作られたのだろう?しかもこれは中国三千年の歴史を通じて使われ続けてきたのである!
 実はこの暦は月の満ち欠けを基準にする『太陰暦』から始まっている。その1ヶ月は朔(新月)から始まり望(満月)を経てまた朔になるまでの『朔望月』である。つまり毎月の1日は朔なので「朔日ついたち」という。この朔望月は平均が29.53日ほどなので、12ヶ月では354日ほどにしかならない。一方、1年(太陽年)は365日ほどということも古くから知られていた。だから差を埋めるために閏月を置く。これを『太陰太陽暦』というのである。
 このような太陰太陽暦はかつては世界の多くの地域で用いられていた。その中で中国暦に特有なのが二十四節気なのである。これは1年を冬至を起点として24等分するものである。そして、月の名前は二十四節気によって決められる。冬至は必ず十一月であり、その次の小寒はとばして大寒が十二月、また立春をとばして雨水が一月、等々と決められている。これらを毎月の『中気』というが、時々、中気を含まない月が現れる。これが閏月である。このようにして、月名がそれぞれの中気と結び付けられているため、季節が大きくずれることはないのがこの暦の特徴である。
 と、これだけのことを知っていなければ”be”の記事は何を言ってるのか皆目不明だろう。おそらく、書いた記者も生半可な理解しかしていないと考えざるを得ない。
 「「新暦」(太陽暦)の直前に使われていた天保暦を一般に「旧暦」(太陰太陽暦)という」というのも、前後の脈絡からはあまりにも突出した「専門的」定義である。現在の旧暦が天保暦法によっているのはたしかだが、ここでそんなことまで言う必要はない。ここは、「明治以前に使われていた中国式の太陰太陽暦を『旧暦』という」で充分だろう。

Mar. 3, 2014

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