『新法暦書』管見
〜天保暦と木星〜



 『新法暦書』とは、江戸時代末の天保暦の暦法を記した文書である。この暦法では、二十四気の決定に我が国では初めて『定気法』が用いられた。これは二十四気を太陽黄経15度ごととするものである。そして太陽黄経を正確に求めるためには『ケプラーの(第1、第2)法則』を用いる。これは清朝の時憲暦に始まるものである。
 ところで、「太陽黄経を求める」とは地動説で考えれば地球の公転軌道上の位置を求めることである。これを正確に求めるためには、太陽と地球の2体間のケプラー運動だけでは不充分である。月の影響は大きい。さらには木星や金星による摂動も考慮する必要がある。月の影響については既に寛政暦において取り入れられていた。しかし、木星、金星については天保暦において初めて考慮されたのである。
 筆者は『世界の暦事典』(朝倉書店)の天保暦の項を執筆する機会を得た。浅学の身には不相応な大役であったが、にわか勉強でどうにか役目を果たすことができたかと自己評価している。このにわか勉強に際して新法暦書に触れることとなった。その中で、主に木星の摂動に関する天保暦法での記述に少なからず興味を覚えた。それは『新法暦書続編』に見られるものであるが、本稿ではこれについて述べていくこととする。

天保暦とは?
 我が国では古代から中国製の暦がそのまま用いられてきたが、江戸時代になって暦が国産化されるようになった。『天地明察』で有名になった渋川春海の貞享暦がその最初である。以後、宝暦暦、寛政暦を経て、最後に作られたのが天保暦である。
国産暦一覧
暦法造暦者始行年行年
貞享暦渋川春海貞享2(1685)70
宝暦暦土御門泰邦ら宝暦5(1755)43
寛政暦高橋至時ら寛政10(1798)46
天保暦渋川景佑ら弘化元(1844)29
 「国産暦」といっても、これらは中国暦の一種と言えよう。それは渋川春海がげんの授時暦をもととして若干の独自の改良を加えたものが貞享暦であることからもわかる。筆者は「広義の中国暦」という呼び方を提唱する。その定義は以下のものである。
・朔の日を毎月の始まりとする。この点では太陰暦である。
・月の名を決めるのに二十四気のうちの「中気」を用いる。中気を含まない月を閏月とする。この点では二十四気という太陽暦要素を用いる。
 世界には同様の太陰太陽暦は数多く存在する。しかし二十四気を用いるのは中国暦とそこから派生した日本暦だけである。したがってこれらは1つのカテゴリーと考えてよいであろう。
 天保暦は明治6年(1873)のグレゴリオ暦採用によって廃止された。しかし現在「旧暦」と呼ばれているものは、朔や二十四気は国立天文台が現代天文学によって計算するものの、それに天保暦法を適用して作られている。その意味ではこの暦法は現在でも生きているとも言える。

 天保暦にはそれ以前と2つの点で大きな違いがある。その1は、二十四気に定気法を採用したこと、その2は時刻を定時から不定時に変えたことである。そして本稿ではこのうちの前者にかかわることについて述べる。

恒気法と定気法
 広義の中国暦で用いられる二十四気は次のものである。

二十四気
節気中/節
 これらは1つおきに中気と節気に分かれる。月名は中気によって決められる。たとえば冬至は十一月中気なのでこれを含む月は十一月、大寒は十二月中気なのでこれを含む月は十二月、以下同様である。
 朔望月の長さは平均29.53日ほどであるが中気間隔は30日強なので、時に中気を含まない月が現れる。これが閏月である。
 なお、「啓蟄」は日本以外では「驚蟄」である。

 二十四気の決め方には「恒気法」と「定気法」がある。
 恒気法(常気法、平気法とも言う)は、1年を単純に24等分して決める。この場合の「1年」とは冬至から冬至までとするのが常である。たとえば宣明暦、これは我が国では貞享暦に改暦されるまで823年に渡って使われ続けたものだが、そこでは、
 したがって、  また、2至2分(冬至、春分、夏至、秋分)の間隔はすべて
である。しかし実際には至分の間隔は同じではない。これは『ケプラーの法則』によるものである。
 まず、至分の天文学的意味を明確にしておく。すなわち、
 ・冬至とは太陽が南回帰線に到達した時。
 ・春分とは太陽が赤道を南から北へ横切る時。
 ・夏至とは太陽が北回帰線に到達した時。
 ・秋分とは太陽が赤道を北から南へ横切る時。

 これらは地軸の方向と太陽の方向の関係で決まる。すなわち地軸の指す方向(天の北極)が太陽の方向から最も遠くなった時が冬至であり、地軸と太陽の方向が90°になるのが春分、地軸が最も太陽の側を向くのが夏至、ふたたび地軸と太陽の方向が90°になるのが秋分である。地動説で考えるなら、これらは地球が公転軌道を90°動くごとに起こる。天文学では地球から見た太陽の方向を黄経で表わす。春分の太陽黄経を0°とする(太陽から見た地球の方向は180°)。夏至の太陽黄経は90°(同270°)、秋分は180°(同0°)、冬至は270°(同90°)である。

 つまり、2至2分とは太陽黄経の間隔が90°ごとの事象である。しかし地球の自転速度は一定ではないのである。『ケプラーの法則』によれば、
  第1法則:地球(惑星)の公転軌道は太陽を1つの焦点とする楕円である。
  第2法則:地球(惑星)の公転角速度は太陽からの距離の2乗に反比例する。
 そして地球は現在、冬至〜小寒の間で太陽に最も近づく 。このためこの頃が太陽黄経の変化が速く、夏至の頃は変化が遅い。したがって冬至〜春分の間隔は短く夏至〜秋分は長いのである。
 したがって恒気法では 春分は実際より遅く秋分は実際より早くなる。
 この欠点を補うのが定気法である。これは清朝の時憲暦で初めて導入された。時憲暦は、イエズス会士アダム・シャールによって作られたものであり、 のである。
 そしてわが国では天保暦で初めて定気法が採用された。

太陽黄経の算出
 定気法では太陽黄経を求めることが必要となる。それは地球の公転運動を正確に知ること(地球の公転軌道上の位置と太陽黄経は180°の差)であり、当然、ケプラーの法則が基本となる。
 ただし、厳密に言うとケプラーの法則に従うのは地球単体ではなく、地球と月の全体である。月の質量は地球の 倍なので、地球、月の共通重心は地球中心から月までの距離の1.2%の所にある。ケプラーの法則に従うのはこの共通重心で、地球(中心)はその周りを公転しているのである。したがって地球中心から見た太陽黄経を求めるためにはこの共通重心に対する地球の運動を知らなければならない。つまりこれは太陽黄経に対する月の影響を知ることとなる。
 さらに太陽黄経は他惑星の引力による”摂動”の影響も受ける。中で大きいのは木星、金星による摂動である。
  というのがある。これの最初の数項は次のとおりである。
λ=279°.0357+360°.00769T
 +(1.9159−0.00005T)sin(356°.531+359°.991T)
 +0.0200 sin(353°.06+719°.981T)
 +0.0048 sin(248°.64−°19.341T)
 +0.0020 sin(285°.0+329°.64T)
 +0.0018 sin(334°.2−°4452.67T)
 +0.0018 sin(293°.7−°0.20T)
 +0.0015 sin(242°.4+°450.37T)
 +0.0013 sin(211°.1+°225.18T)
 +0.0008 sin(208°.0+°659.29T)
 +・・・
365.2422日の公転周期
近日点移動
近日点移動の倍振動
白道昇降点の18.6年周期
398.88日、木星の会合周期
29.53日、平均朔望月

金星会合周期の倍振動
金星の会合周期
木星会合周期の倍振動

λ:太陽黄経, T:年
 この式には全部で20ほどの項があるが、そのうちのかなり上位に木星や金星の摂動項が見られるのである。
 そして天保暦の暦法書である『新法暦書』では、二十四気を求める際にまず恒気を求め、そこから定気時刻を算出する過程で「求木星距日」、「求金星距日」という項があり、あきらかに木星、金星による摂動も加味されている。

天保暦成立の経緯
 天保暦への道程はその前の寛政暦成立の直後から始まる。寛政暦はわが国で初めて西洋天文学を導入して作られたものだが、それは中国の天文暦書を通じてのものであった。中国にそれを伝えたのはイエズス会系の宣教師であり、ティコ・ブラーエの周転円を用いた天動説が基本である。しかし周転円に拠る限り、惑星の運行は正確さを欠く。
 享和3年(1803)、寛政暦の造暦者高橋至時は『ラランデ天文書』を貸与され調査を命じられた。これはフランスの天文学者ラランドの "Astronomie"(1771年刊)の蘭訳である。至時は一見してその西洋天文学の精緻さを見抜き、私物であった同書を幕府に買い取らせ、オランダ語の知識は乏しかったにもかかわらずその大意を把握し、『ラランデ暦書管見』として纏め上げた。この直後(1804)、以前から胸を患っていた至時は急死するが、 とされる。
 その後、至時の長子景保が至時の盟友間重富の助力を得て同書翻訳を引き継いだ。 が、至時の次子で を継いだ景佑がさらに引き継ぎ、天保7年(1836)『ラランデ天文書』を従来の暦書の形式で訳出した『新巧暦書』40冊を完成した。
 天保12年、この西洋天文学を全面的に採用した『新巧暦書』による改暦の命が下され、これを受けて渋川景佑らは翌13年『新法暦書』を完成。同年10月に改暦宣下を受け、翌々天保15年(改元して弘化元年)から施行された。
 この経緯からも明らかなように、本暦では『ラランデ天文書』から得られた西洋天文学の知識が全面的に採り入られている。そして定気法を採用するにあたり、木星、金星による摂動も加味されているのである。
 なお、『新巧暦書』では黄経黄緯の計算に西洋式の「周天為十二宮一宮為三十度一度為六十分一分為六十秒」を、また時刻には「一日為二十四小時一小時為六十分一分為六十秒」の西洋時を用いている。『ラランデ天文書』の翻訳であるから当然であろう。

木星摂動の扱い
 前置きが長くなったが、愈々、天保暦における木星摂動について触れることとする。
 『新法暦書続編』に次の記述がある。
木星物質與太陽物質一千分之一畧等(詳後第四十三章)因木星以其一千分之一障碍太陽逮地力故木星引力為太陽引力一千分之一也木星距日線五倍太陽距地(按是木星與太陽本天半径比例也即木星距離)故木星逮地力與太陽引力二十五分之一等乃以一千分之一二十五除之得二萬五千分之一為木星逮地力即太陽逮地力二萬五千分之一也因是当検出以太陽使地球旋転其本天引力二萬五千分之力生地球行度変差(按蓋是推算日躔二均張本)
新法暦書続編巻二十八第二十八章

 「木星の物質(質量)は太陽の1/1000であり、木星の距日線(公転軌道半径)は地球の5倍だから、木星逮地力(引力)は太陽の1/25000である。按ずるにこれが日躔二均(木星摂動)の張本であろう」
 つまりこれは万有引力 によって木星から受ける引力と太陽引力の比を正しく推定しているのである。実際、『天文年鑑』(2013)によれば質量は、
 木星軌道長半径:5.20260
なので、新法暦書続編の数値はおおむね正しい。
 しかし、渋川景佑はこれらの値(木星の質量は太陽の1/1000、木星の軌道半径は地球の5倍)をどのようにして知ったのだろうか?

木星軌道半径
 まず軌道半径であるが、これは『ケプラーの第3法則』から知ることができる。これは惑星の軌道半径rと公転周期Tの間に
という関係があるというものである。rの単位をAU、Tの単位を年として地球にこれを適用すれば一定値は1である。一方、木星の公転周期は
  
である。したがってrは

 ところで、ケプラーの第3法則は高橋至時の師匠である麻田剛立が独自に発見していたとされる。剛立自身による記述はないが、至時がそのように述べているという。そして至時の実子である渋川景佑もこれを
因意為空間再乗冪如時間冪者亦麻田采彰所発明也
としている(新法暦書続編巻二十八第五章)。「采彰」は剛立の本名である。

・・
渋川春海貞享暦
(徳川吉宗)宝暦暦
麻田剛立(宝暦暦の誤りを指摘)
(ケプラーの第3法則を独自に発見)
 ↑
(師弟)
 ↓
高橋至時
寛政暦
 ↑
(親子)
 ↓
渋川景佑
天保暦

木星質量
 次に質量であるが、ここで『木星四小星』が登場する。つまりガリレオ衛星である。
 1609年、ガリレオ・ガリレイは初めて望遠鏡を天体に向けた。そして月面のクレーターを、さらに木星を公転する4つの衛星を発見した。これらはイオ、エウロパ、ガニメデ、カリストと名付けられる。ガリレオはこれらの発見によって地動説を確信するようになる。
 さて、ガリレオ衛星においてもケプラーの第3法則が成り立つ。ただし、注意すべきことがある。
 次表は惑星とガリレオ衛星について第3法則を検証したものである。左が惑星、右がガリレオ衛星である。軌道半径rの単位をAU、公転周期Tの単位を年としてr3/T2を求めてみると、惑星ではすべて1となるのに対してガリレオ衛星ではすべて0.0009、惑星の1/1100でしかない。つまり、r3/T2はすべての惑星で同じ、すべてのガリレオ衛星で同じなのだが、惑星のそれとガリレオ衛星とでは全く違うのである。

惑星
星名軌道長半径(AU)公転周期(年)3/T2
ガリレオ衛星
星名軌道半径(km)
    (AU)
公転周期(日)
    (年)
3/T2

 これは万有引力によってはじめて説明がつく。すなわち、
であるが、質量Mの天体を質量mの天体が公転する時、このFは遠心力
 mrω2
と釣り合う。そして公転角速度ωは
なので、
 つまりr3/T2は公転軌道の中心星の質量Mに比例する。惑星では太陽、ガリレオ衛星では木星の質量である。したがって前表におけるこの値の違いはまさに太陽と木星の質量比を示しているのである。
 なお、Gは万有引力定数
 G=6.67×10-11Nm2kg-2
であるが、今はその値を知らなくても太陽と木星の質量比を知ることはできる。

 木星は「太陽になり損ねた星」と言われることがある。通常それは質量が小さすぎて核融合反応が起きなかったことを指して言われるのだが、それ以前に、多くの衛星を従えてケプラーの第3法則を独自に実現している姿も「ミニ太陽系」を彷彿とさせる。ホルスト作曲組曲『惑星』での はまさに相応しい。

渋川景佑の論拠
 さて、『新法暦書続編』には次の記述がある。

平中距木星距日線一億七千零七十五萬零五百里(即平中距木星本天半径)
木星距恒星一周四千三百三十二日五四一(依 測定)
第四小星距木星線四十一萬零五百二十八里(亦依奈端測定即第四小星本天半径)
第四小星本天一周一十六日六八八九八
空間零個零零二四零四(即小星與木星本天半径比例乃以平中距木星距日線為一率第四小星距木星線為二率平中距木星距日線一個為三率求得四率即是也)
空間 零個零零零零零零零一三八九三
時間零個零零三八五二(即小星與木星本天周比例乃以木星距恒星一周為一率第四小星本天一周為二率木星距恒星一周一個為三率求得四率即是也)
時間 零個零零零零一四八三七九
木星逮真第四小星力一百六十二個零二(太陽逮木星力為一乃比例乃以時間冪為一率空間為二率太陽逮木星力一個為三率求得四率即是也)  木星〜カリストの引力と太陽〜木星の引力の比は
木星與太陽 比例零個零零零九三六三二(即木星逮仮第四小星力置空間再乗冪以時間冪除之即得又置木星逮真第四小星力?空間冪亦同)  木星質量MJと太陽質量MSの比は
*これは を応用している。
新法暦書続編 巻三十 第四十四章

 すなわちここでは木星と第4小星(カリスト)のr3/T2を求め、その比を中心星の質量比と正しく認識しているのである。

 ケプラーの第2法則は、ニュートン力学では『角運動量保存則』であるが、これは引力が中心力すなわち動径rだけで決まる場合には常に成り立つ(rのどのような関数であるかは問われない)。一方、第3法則はその力がr2に逆比例する場合にのみ成り立つ。つまり縛りがきつい。万有引力はこれにあたる。さらに、第3法則で「定数」とされるr3/T2の値は、実は中心星の質量に比例するので、太陽を中心星とする惑星と木星を中心星とするガリレオ衛星では異なるのである(これは『第4法則』と呼んでも良いかもしれない)。
 なるほど麻田剛立は第3法則を知っていたかもしれないが、それだけでは木星の質量(太陽との比)を知ることはできない。これは完全にニュートン力学、万有引力の知識が必要とされる。渋川景佑おそるべし、である。

木星摂動と太陽黄経
 以上は純粋に天体力学的な考察であるが、渋川景佑は天保暦において太陽黄経の推定のためにこれを行ったのである。つまり前に述べたように

と推察しているのである。以下ではこれがどの程度正しいか検証してみる。

 まず、前に挙げた海上保安庁水路部「太陽の位置の略算式」から太陽黄経の変化率
を求めてみる。
 第1行目から
  360°.00769/年
が得られる。太陽が1年で1周することを示すものである。2行目以降の変化率はこれに比べて圧倒的に小さいので、この値をdλ/dTの代表値と考えて良い。
 次に、木星の会合周期で変化する5行目の変化率は、  これの振幅と上記1行目変化率の比は
 つまり、木星摂動による太陽黄経変化率は平均変化率の1/31305で、木星と太陽の引力比1/25000にかなり近い。渋川景佑の推察は是認できるだろう。

 しかし、木星軌道半径が5AUということは、地球から最も近い時(衝)には4AU、最も遠い時(合)には6AUということになり、引力は変化するはずである。このあたりをもう少し詳細に見ておこう。

 地球位置を(r,λ)、木星位置を(rJ,λJ)とする。
 木星引力がない場合の地球の軌道を
  r=const.
  λ=λ0+ωt
とする。すなわち角速度一定の円運動で近似するわけである。
 木星の軌道も
  rJ=const.
  λJ=λJ0+ωJ
とする。


 木星の引力FJによる地球の運動は
 ただし、r2,λ2は木星の引力FJによる地球軌道のずれ(日躔二均)。また
  MJは木星質量。
 地球軌道はこの木星の摂動によって前記の円運動からわずかにずれるだけである。このため(2)においてもr=const.とすると、
 ここで、
 という、 を用いる。ただし、
 電磁気学においては、電荷分布が作る静電ポテンシャルをこの展開によって表現する。 電荷分布から充分遠ざかった所ではそれは点電荷で近似できるが、それを表現するのがP0である。もう少し近づくと電荷分布は双極子の性質を持つ。これがP1、さらに近付くと4重極子が現れこれがP2、・・以下、Plは2l重極子成分となる。
 この多項式を使って、
 したがって(2)’は、
 この第1項はたしかにGMJ/rJ2に比例する、つまり
  rJ=const.(≒5AU)
としたときの摂動である。渋川景佑はこれを見積もっているのである。
 これを積分すると、
 第1項の振幅は
 ここで、第3法則
および

を使った。この結果はまさに「木星逮地力即太陽逮地力二萬五千分之一也因是当検出以太陽使地球旋転其本天引力二萬五千分之力生地球行度変差(按蓋是推算日躔二均張本)」を裏付ける。
 水路部式の対応する項は、
となり、オーダー的にはよく合っている。
 一方(3)の第2項については『新法暦書続編巻二十八第二十八章』では触れていないが、cos2(ω−ωJ)という木星会合周期の倍振動である。これの振幅は、

 水路部式の対応する項は、
 これはやや差が大きいが、倍振動項はLegendre 展開のより高次の項にも現れるのを無視しているためであろう。

金星の摂動
 『新法暦書卷一』には「推日躔用數」が記されている。そのうちの初均、二均、三均を水路部式と比較してみる。

新法暦書卷一水路部式意味
初均最大一差一度九十二分五十三秒一十四微(1.9159−0.00005T) sin(356°.531+359°.991T)近日点移動
初均最大二差二分零二秒二十二微0.0200 sin(353°.06+719°.981T)近日点移動の倍振動
初均最大三差二秒八十六微0.0003 sin(349°.6+1079°.97T)近日点移動の3倍振動
二均最大一差一十九秒七十二微0.0020 sin(285°.0+329°.64T)398.88日、木星の会合周期
二均最大二差七秒五十微0.0008 sin(208°.0+°659.29T)木星会合周期の倍振動
三均最大一差二十二秒七十八微0.0013 sin(211°.1+°225.18T)金星の会合周期
三均最大二差二十六秒三十九微0.0015 sin(242°.4+°450.37T)金星会合周期の倍振動
T:年

 初均(近日点移動)、二均(木星摂動)は現代の値とほとんど同じであるが、三均(金星摂動)は誤差が大きい。これについては、
火金水三星因無附小星之指示引力故不能依前法之意以算其各物質
新法暦書続編巻三十第四十九章
 つまり、 ので、第3法則から質量を求めることができなかったのである。そして、
按此求五星物質 法蓋不能通用於五星因麻田采彰所発明垂球之理及 之説・・
続編巻三十第五十章
という記述があり、
「所用之六曜(不算太陰) 算其各物質粗密得」
として以下の値を掲げている。
 土星 零個一八四三三
 木星 零個二九零四二
 火星 零個七二九一八
 金星 一個二七四九五
 水星 二個零三七六四
 これらは
としている。この根拠(麻田采彰所発明垂球之理?)はよくわからない。
為一則地球毎日平行(按太陽毎日平行九十八分五十六秒四十七微)為其一十一倍八六平方開之得三個半弱由此知地球密実三倍半于木星
続編巻三十第四十九章
五星公転周期T(年)

 三均一差、二差の値はいずれも水路部式の1.75倍である。これは金星の質量を実際の1.75倍としていることになる。それ以外は木星の場合と同様に正しいはずである。

 『ラランデ暦書』の金星摂動は如何?

2014年 節気
節気水路部式三均を新法暦書

Oct. 2013

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