} 伊勢神宮式年遷宮と章法

 2013年には伊勢神宮の式年遷宮が行われる。2012年3月に時点でその最初の祭事の報道が見られた。

伊勢神宮内宮で立柱祭 式年遷宮最初の祭事
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の式年遷宮で、正殿を新たに造るにあたっての最初の祭事「立柱祭(りっちゅうさい)」が4日、内宮(ないくう)で営まれた。来年秋に最高潮を迎える「遷御(せんぎょ)」に向け、これから社殿の新築が本格化する。
 式年遷宮は1300年の歴史があり、20年ごとに社殿を造り替え、神宝などの調度品をすべて新調する。今回で62回目を数え、7年前から、御用材を山から切り出す際の作業の安全を祈る祭事などを済ませてきた。
朝日新聞2012年3月5日

20年ごと?
 記事にもあるように式年遷宮は「20年ごと」に行われているのであるが、筆者は、この「20年ごと」というのに常々疑問を抱いていた。もしかしたら「19年ごと」が正しいのではないかと思ったのである。それで Wikipedia を調べてみたら、この推測は的中していた。古い時代(8〜13世紀頃)には、たしかに19年ごとに行われていたのである。それが南北朝頃からやや乱れ、『応仁の乱』のちょっと前の1462年から1585年まで式年遷宮は中断し、江戸時代の1609年から20年ごとに行われている。ただし第2次大戦をはさんで1929年から1953年までは24年の間隔であった。
 つまり、本来は19年ごとだったものが戦国期の中断を経て復活した時から20年ごとになったのである。何故このように変わったのか?それはおそらく、古来から「20年ごと」と言い慣わされていたからではなかろうか。それは「かぞえ年」と同じ考え方で、式年遷宮が行われた年を1年目と数える。したがって次回は満では19年目なのだが、それを「20年目」と数えるわけである。
 実は諏訪大社の『御柱祭』がまさにこうで、寅年と申年の満で6年ごとに行われるのだが、「7年ごと」と言い慣わされている。昔はこのような数え方が一般的だったということではなかろうか。式年遷宮の場合、戦国期の中断を経て復活した時、この「かぞえ」が「満」と誤解されたものと考えれば納得が行く。

『章法19年』
 さて、何故筆者が式年遷宮は19年ごとと考えたかというと、これは中国暦の『章法19年』が念頭にあったためである。
 中国暦(いわゆる『旧暦』)では、19年に7回の閏月を置く。これを『章法』と呼ぶ。古代ギリシャでも同じことが行われていて、こちらは『メトン法』と呼ばれる。これらの暦は「太陰太陽暦」である。つまり、朔(新月)から次の朔までの朔望月を1カ月とし、一方で太陽年を1年とするのである。ところで朔望月は平均で29.53日ほどだが、太陽年は365日とちょっとである。ということは、12朔望月は354日程度なので1年よりは11日ほども短い。このため1年を12カ月とすると3年も経てば1カ月のずれが生ずる。これを避けるために閏月を設ける。その閏月を19年に7回とすれば、1年の長さがほぼ正確になるのである。

 中国暦ではこの19年を『1章』と呼ぶ。1章は『朔旦冬至』から始まる。これは冬至の日が朔になるという特別な日であるが、章法によれば19年に1度訪れるわけである。もっとも19太陽年と は正確に同じではないので、長い間には19年ごとの朔旦冬至が現れなくなるのであるが、古代にはこの『章首朔旦冬至』が重視され、宮廷では祝賀の儀式が行われた。日本の遣唐使も唐朝の朔旦冬至に列席したことがある(659=斉明天皇五年)。そして日本の朝廷では784(延暦三)年に初めて朔旦冬至の儀式が行われた。

『望宵霜降』
 伊勢神宮式年遷宮に戻る。ここでは内宮の場合を採り上げる(外宮は内宮の2年後の場合が多いようである)。
 内宮式年遷宮は19年ごとの九月に行われることが多かった。さらに日付のわかっている例は大部分が十六日である。陰暦十六日はほぼ望(満月)である。さらに調べてみると、 筆者はこれを『望宵霜降』と勝手に呼んでいるが、そう呼んでもおかしくない特別な日であろう。そしてこれが19年に1度起こるというのは朔旦冬至と同じ理屈である。少なくとも内宮式年遷宮は、この望宵霜降という特別な日を選んでいたと考えるべきであろう。

伊勢内宮式年遷宮
(外宮はほぼ2年後)
間隔
間隔
間隔
*792年 延暦11年 内宮正殿焼失のため臨時遷宮
内宮式年遷宮と霜降月日
西暦年内宮式年遷宮
月・日
霜降
(九月)
785九・一八一一日
792 二七日
810九・一七日
829九・一六日
849九・二八日
868九・二八日
886九・一七日
905九・一六日
924九・一七日
943九・一六日
962九・一六日
981九・一七一七日
1000九・一六一六日
1019九・一七一七日
1038九・一六一六日
西暦年内宮式年遷宮
月・日
霜降
(九月)
1057九・一六日
1076 一六日
1095九・一六日
1114九・一六一六日
1133九・一六一七日
1152九・一六日
1171 一六日
1190九・一六一六日
1209九・一六一五日
1228九・一六一六日
1247九・一六一六日
1266九・一六一六日
1285九・一六一六日
1304十二・二二一六日
1323九・一六一五日

 因みに、式年遷宮のメイン・イヴェントである『遷御』の儀式は というが、これもかつては望宵(満月)だったためであろう。それが江戸時代には一日(新月)の頃に行われるようになっている。暗くて不便だったろう。明治以降はグレゴリオ太陽暦の20年ごと10月2日に行われている(外宮は10月5日)。これでは月齢は毎回変わる。仮に19年ごととすれば、当分の間は毎回同じ日付で満月の日が選べる(章法)。実際、1993年の10月2日は旧暦ではたまたま八月十七日でほぼ満月だったのだが、2012年、2031年もそうである。

 では、何故こんな日が選ばれたのか?おそらくそれは陰陽五行説や古代の信仰などで決められたのであろう。筆者にはこれを解明する能力はない。しかし、断片的な知識からでも何かわかることがあるかもしれない。以下ではこれについて考えてみたい。

神嘗祭
神嘗祭(かんなめさい・かんなめのまつり・かんにえのまつり)は宮中祭祀のひとつ。大祭。五穀豊穣の感謝祭にあたるもので、宮中および神宮(伊勢神宮)で儀式が執り行われる。
解説
宮中祭祀の大祭で、その年の初穂を天照大御神に奉納する儀式が執り行われる。かつては旧暦9月11日に勅使に御酒と神饌を授け、旧暦9月17日に奉納していた。(以下略)
Wikipedia より

 このように、かつては九月十七日に神嘗祭の奉納が行われていたという。さらに「式年遷宮後最初に行われる神嘗祭は、神宮では『大神嘗祭』とも呼ばれる」とあり、式年遷宮の九月十六日は明らかにこれと関係があるだろう。
 ただし、まず神嘗祭の日程があって式年遷宮はそれに合わせたとは言えないのではないか?むしろ式年遷宮を望宵霜降という特別な日に決めたことが先で、神嘗祭のほうがそれに合わせたと考えるのが自然だろう。

北辰、北斗信仰
 次に注目されるのは北辰または北斗信仰である。北辰とは天の北極であるが、これと北斗七星が古来しばしば混同、習合される。
 古代(BC1000年頃)には、『こぐま座β星』が北極に近かった。この星は中国では『天帝』と呼ばれる。もう一つ、『天皇大帝』と呼ばれる星がある。日本の天皇はこの星に由来するという説がある。これが現在の北極星『こぐま座α星』ならわかり易いのだが、その説は少数派のようで、ケフェウス座の5等星とされる。そんなマイナーな星に『天皇大帝』という大げさな名前がつけられているというのは、どうも合点がいかないのだが、今はこれが主流のようである。
 さて、その天皇大帝について、ここでも Wikipedia を調べてみると、以下のような記述がある。

・796年、日本の天皇は北斗七星を祀ることを禁じた。罰則として 「法師は名を綱所に送り、俗人は違勅の罪に処せ」 と規定した(『類聚国史』 「延暦十五年」)。
・799年、斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「京畿の百姓」 に 「北辰に灯火を奉る」 ことを禁じた(『日本後紀』 「延暦十八年九月」)。
・811年、斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「北辰を祭り、挙哀改葬等の事」 を禁じた(『日本後紀』 「弘仁二年九月一日」)。
・835年、斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「京畿」 での 「北辰に火を供えること」 を禁じた(『続日本後紀』 「承和二年八月二日」)。
・967年施行の 『延喜式』 は斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「九月一日より三十日まで、京畿内、伊勢、近江、等の国、北辰に奉灯し、哀を挙げ、葬を改むる」 ことを禁じた。
Wikipedia 『天皇大帝』

 いずれも一般人が北辰または北斗七星を祀ることを禁じている。さらにその多くは「斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間」これを禁じているのである。
 『斎宮』とは、これまた Wikipedia によれば、斎王(さいおう、いつきのみこ)と同義で、「伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王(親王の娘)」とある。つまり伊勢神宮の巫女である斎王が伊勢へ行く九月の間、一般人が北辰を祀ることは禁じられた。それは斎王(皇室)だけの専権事項だったのである。既に述べたように、九月には神嘗祭があり、19年に1度の遷宮も行われる。上記の私幣禁止は紛れもなくこれに関わっているだろう。

北斗と望宵霜降の関係
 かつての九月の神嘗祭および式年遷宮が北辰または北斗信仰と結びつくだろうということはわかった。それではこれと望宵霜降とはどのような関係があるのだろうか?
 実は、北斗の柄の先端の『開陽(おおぐま座ζ星)』と『搖光(おおぐま座η星)』を結ぶ線(天球上の大円)を延長すると、二十八宿の『房宿』に達する。そこは黄道十二宮では『さそり座π星』あたりであるが、BC300年頃にはここに霜降点があったのである。つまり、霜降の日には北斗の指す房宿に太陽があり、その日が望なら満月はその正反対の方向にある。これが望宵霜降の意味である。


望宵霜降
北斗の柄の先端の『開陽』と『搖光』を結ぶ線(天球上の大円)を延長すると、二十八宿の『房宿(πSco)』に達する。BC300年頃、ここが霜降点だった。霜降にはここに太陽があり、望なら正反対に月がある。αUMiは現在の北極星。βUMiはBC1000年頃の北極星。

 『春の大曲線』は北斗の柄〜アークトゥルス〜スピカ。スピカは乙女座で秋分点。⇒霜降点ではない。
 十一月(冬至)は建子月。冬至の夕方に北斗の指す方向が子(北)である。
 夕方を18時とすれば、子の方向は秋分点。
 しかし、18時には冬至前後を除いて星は見えない。中緯度で夏至の頃でも星が見えるのは20時頃か。冬至の20時に子の方向は霜降点。⇒建子月(節月)に北斗の指す方向はどの時刻で考えるのか?

 もっとも、式年遷宮が始まった8世紀頃には地球の歳差運動のため霜降点は『てんびん座』に動いていた。現在ではさらに動いているが、西洋占星術(ホロスコープ)や、空海によって伝わった『宿曜経』では現在でもBC300年頃の星座位置を用いる。つまり霜降の日に太陽が房宿にあるというのは科学的事実というよりもむしろ一種の信仰なのであるが、式年遷宮の日取りはこの信仰によって決められたのであろう。なお、宿曜経では各月を望(十六日)からとするが、これも式年遷宮の日取りと関係があるかもしれない。

外宮式年遷宮
 外宮式年遷宮は、内宮の2年後に行われていた。日付のわかっているものは少ないが、その中では九月十五日、十六日が多い。
 望宵霜降の2年後には、九月八日または九日が霜降となる。したがって十五〜十六日は霜降から7〜8日後であり、太陽は心宿(αSco、さそり座アンタレス)にあって望となる。北斗との関係は見られないが、房宿での望宵霜降と、そのすぐ隣の心宿での望宵という類似性が見られる。

東方青龍北方玄武西方白虎南方朱雀
(牛)