申年の閏年と四国遍路

 旧聞に属するが、四国八十八箇所お遍路は「申年の閏年」にご利益が大きいのだという。そして2016年がこれに該当した。
 しかし、この言い方は奇妙なのである。というのは、閏年は4年に1度、申年は12年(=3×4年)に1度なのだから、 なのだ。わざわざ「申年の閏年」という理由がわからない。
 もっとも、旧暦の場合は話が違ってくる。旧暦では閏が3年弱に1回(19年に7回)あるが、その年の十二支は決まっていない。単純計算では、申年(他の何年でも)の3分の1くらいが閏年となる。これなら「申年の閏年」という言い方にも意味があろう。
 さて、旧暦の閏というのは新暦とは全く話が違う。新暦の閏は2月が1日多いだけだが、旧暦の場合は「閏月」が入る。つまり1年が13個月になるのである。しかし、たとえば米の穫れ高は閏年だからといって13箇月分に増える道理はない。したがって閏年は財政が苦しいのである。実際、明治政府が性急に新暦を採用したのは、明治六年が旧暦では閏六月があって役人の給料を13箇月分払う必要があったのを避けたものというのは有名な話である。
 閏年は経済的に苦しい。何らかの対処法が必要である。たとえば、あまり働けなくなった年寄りを「捨てる」。まさか本当に「姥捨て」をやるわけにはいかないだろうが、遍路旅に出せば口減らしにはなる。路銀は必要だろうが、少額持たせれば行った先には「お接待」という風習がある。万一途中で野垂れ死にしたとしてもそれはそれ。巡礼旅は「死出の旅」でもあったのだ。
 ならば3年に1度ほどの閏年に毎回お遍路が増えたかというとそうでもない。先の言い伝えによれば申年の場合に増えたようである。
 ひとつ考えられるのは飢饉である。閏年で逼迫しているところへ飢饉が重なればこれは苦しい。それが申年に起こった例を調べれば良さそうである。
 江戸時代には何回かの大飢饉の記録がある。多くは東北地方である。ただ、四国遍路を対象とするなら東北からは遠すぎる。遍路者は西日本が多かったであろう。
 これにピッタリ該当するのが「享保の大飢饉」である。 。この後、元文五(1740)が申年で閏七月がある。もっともこれは飢饉から少し離れすぎている。その間には享保二十乙卯(1735)、元文二丁巳(1737)にも閏があるので、特に「申年の閏」が重要だったとは言えない。
 もう一つは「天保の大飢饉」である。天保四〜十(1833〜1839)のもので、東北地方が特に甚大だったようだが、 ということで、西日本にもかなりの被害があったようである。「大塩平八郎の乱」の原因ともされる。
 そして、 という。「がしん」は餓死である。この申年は天保七丙申(1836)で閏年ではないが、前年に閏七月がある。閏年の直後の申年の飢饉ということで両者を結び付けて記憶されたとしても不思議はなかろう。
 つまり「申年の閏年のご利益」とは飢饉の人減らしだったのである。

Sep. 2017
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