大隈重信は2ヵ月分を浮かせたのか?

 我国では明治五(1872)年に太陰太陽暦(いわゆる”旧暦”)から西洋暦(いわゆる”新暦”)への改暦が行われた。これに関して、以下のことが言われている。

 当時の政府の頭痛の種は財政問題であった。しかも、明治六年は旧暦では閏六月があり、十三か月分の官吏の俸給を必要とする年であった。この悪条件の下での財政ピンチを切り抜ける方法として、智慧者の参議大隈重信の頭に浮かんだ方策が太陽暦への改暦という妙策であったということは、『大隈伯昔日譚』に、大隈自身のことばで語られている。
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 この改暦により、明治五年十二月は二日しかない。そこで、政府は十一月二十七日の太政官布達で、「当十二月ノ分ハ、朔日・二日・別段月給ハ賜ハラズ」と一方的に決めてしまったので、明治五年十二月分と、翌六年の閏月分との給与は、この改暦でまるまる節約できたことになる。文明開化の仲間入りと合わせて、太陽暦への改暦は、一石二鳥の妙手であったわけである。
広瀬秀雄著『暦』(日本史小百科5) 近藤出版社,1978

 はたしてこれは本当だろうか?いや、事実関係はこのとおりなのに違いあるまいが、それが本当に「2か月分の給料を浮かせた」ことになるのだろうか?

 天保暦(旧暦)によれば、明治六年はグレゴリオ暦(新暦)1873年1月29日に始まり、1874年2月16日に終わる。つまり383日という長い1年であるが、これは閏月があるためである。それを新暦に改めたため、実際の明治六年は1873年1月1日から12月31日まで、無論365日である。したがって、旧暦なら明治六年中だったはずの1874年1月1日〜2月16日の47日間は実際の明治六年には含まれない。また旧暦では明治五年だった1873年1月1日〜28日が明治六年に組み込まれた。このように「明治六年」といっても旧暦と新暦では内容が違うことに注意すべきである。

 明治六年が旧暦のままだった場合と新暦に移行した場合の給料日を比較してみよう。ここではわかりやすくするために毎月末を給料日とする。
 明治五年十一月二十九日(1872年12月29日)はまだ改暦前なので、どちらの場合も十一月分が支払われる。その後、1873年1月28日が旧暦十二月末であるが、その3日後が新暦1月末で、月名は違うが給料は3日遅れるだけである。以後、遅れは徐々に大きくなるが、旧暦明治六年中(新暦1874年2月まで)では遅れは半月を越えることはなく、給料日の回数も、その遅れを除いて同じである。
 この1874年1月、2月を明治六年に入れるかどうかで給料日の回数が変わってくる。旧暦ではこれらは明治六年なので入れるが新暦では明治七年なので入れない、それで比較すれば2回違うのは当然である。

グレゴリオ暦給料日(旧暦のまま)給料日(新暦移行)
1872年12月29日十一月分(十一月分)
1873年1月28日十二月分 
1873年1月31日 1月分
1873年2月26日正月分 
1873年2月28日 2月分
1873年3月27日二月分 
1873年3月31日 3月分
1873年4月26日三月分 
1873年4月30日 4月分
1873年5月25日四月分 
1873年5月31日 5月分
1873年6月24日五月分 
1873年6月30日 6月分
1873年7月23日六月分 
1873年7月31日 7月分
1873年8月22日閏六月分 
1873年8月31日 8月分
1873年9月21日七月分 
1873年9月30日 9月分
1873年10月20日八月分 
1873年10月31日 10月分
1873年11月19日九月分 
1873年11月30日 11月分
1873年12月19日十月分 
1873年12月31日 12月分
1874年1月17日十一月分(旧暦明治六年) 
1874年1月31日 1月分(新暦明治七年)
1874年2月17日十二月分(旧暦明治六年) 
1874年2月28日 2月分(新暦明治七年)

 もっとも政府には会計年度というものがある。その年度としては明治六年は2か月分を浮かせたことになるが、たんに帳簿の上の話で、明治六年が47日も早く終わったので、その後の2回分を数えていないだけである。実際にはその2回は明治七年(1月、2月)分として支払われたのである。つまりこれは会計年の区切りに関するカラクリに過ぎない。そのカラクリを大隈はことさらに吹聴したのである。もっとも財政難に苦しむ明治政府にはこのカラクリも重要だったのだろう。

 この問題はより長いスパンで考える必要がある。周知のように太陰太陽暦では19年に7回の閏月を置く。この19年とは太陽年である。つまり
  19太陽年=235か月
 一方、グレゴリオ暦には閏月などないから、
  19太陽年=228か月
 だから、旧暦から新暦への改暦では19年間の給料日の回数が235回から228回に減るのである。月額給与が変わらないとすれば、この間の給与総額は
 つまり3%の給与カットになる。
 昨今、消費税が3%上がるというと大騒ぎになる。だからこれは決して小さいとは言えないだろう。しかし、1年の給与を2回削減するというほどの大きな問題ではない。また年末のボーナスという風習を考えれば3%くらいはどうにでも調整できるだろう。

 そもそもこの問題の本質は、税収のもとである生産(GDP)が太陽年ベースであるのにその分配(給与)が太陰月ベースであったことの矛盾によるものと言える。
 たとえば米でも何でも良いが、その収量は太陽年あたりで決まる。無論、実際には毎年の豊凶はあるわけだが、まさか閏年だから収量が多いなどということはあり得ない。税収はこの収量によって決まる。ならば分配も太陽年ベースで行わなければ、齟齬が生ずるのである。太陰月ベースで閏月にも他の月と同様に給与を支払えば、たちまち破綻するのである。もっとも19年の平均では問題は起こらない(総額が3%多くなることを除いて)のだが、財政が逼迫して余裕のない時に閏月が入ると、行き詰ってしまうのである。

 どこかの地方に「閏年に墓を作ってはいけない」という禁忌があるという。その解釈として、これは旧暦時代の話で、閏月があれば1年が長いが、収入は平年と変わらないのだから大きな出費は控えよという戒めであるとも聞く。明治政府はこの戒めを知らなかったのか、年俸制だった官吏の給与を月給制にした、それが間違いのもとだったのである。しかし閏月のない新暦ならこんな問題は起こらない。ここがこの問題の肝なので、2か月分浮かせたなどは大隈のプロパガンダと考えるべきだろう。

Aug. 2012