農事と旧暦
 よく見る主張に「旧暦は農事に適合している」というのがある。一方、世の識者はこれを否定する。農業には太陽暦こそが重要なので、基本的に陰暦である旧暦はむしろ適合していないのだ、と。もっともである。が、この議論はどこか噛み合ってないように思える。

 ここに興味深い例がある。
 重松は家に帰ってから加藤大岳編纂の「宝暦」という暦を見た。旧暦は立待月の六月十七日、聖護院大根、隠元豆、結球白菜など、人参、瓜類の後地に播くに適した日頃となっている。九月の残暑というものを利用した農作経験から得た貴重な教えである。なるほど、これなら鯉の子も育つわけだと思ったが、あと三日で新暦では八月六日の広島原爆追悼日、八月九日は長崎原爆追悼日となっている。
井伏鱒二「黒い雨」

 重松の一家は広島で被爆し、田舎に引きこもっている。だから時代は昭和20年代頃と思われる。ほんの60年ばかりの昔であるが、その頃でもまだ、このように旧暦を拠り所とする農民は居たものかと思われる。
 しかし、注意深く読んでみると、『旧暦は立待月の六月十七日』という情報は付け足しに過ぎないことがわかるだろう。その後の『聖護院大根、隠元豆、・・播くに適した日頃』というのは、新暦の8月6日の3日前(8月3日)頃に適切なアドヴァイスであって、旧暦六月十七日のためのものではない。旧暦六月十七日というのは年によってもっと早かったり遅かったりするからである(この年の旧暦六月十七日は、かなり遅いほうである)。そして重松、いや著者の井伏はこれを『九月の残暑というものを利用した農作経験から得た貴重な教え』と正しく解釈している。無論この『九月』とは新暦の意味である。おそらくかつての農民の多くは、暦書の記述をこのように正しく理解したはずである。
 しかし、それなら農事と旧暦は無関係かというと、そうは言えないだろう。なにしろ、重松は「宝暦」という旧暦の暦書に頼っているのである。
 要するに、重松(すなわちかつての農民)は旧暦の暦書というメディアを信頼したのであって、旧暦の暦法を信頼したのではない。ここを間違うと話が噛み合わなくなるのである。

 話は変わるが、筆者の老母はかつて毎年「主婦の友」の新年号だけを買っていた。付録の家計簿が目当てだった。「主婦の友」は廃刊になったが、同社は今でも家計簿は出し続けている。老母のような主婦は多数居たのだろう。「主婦の友の家計簿」というのは、彼女たちにとって一種のブランドだったのである。またこれは一種の「暦書」とも言えるだろう。
 かつての農民にとっての旧暦の暦書は、主婦にとっての「主婦の友の家計簿」と同様の意味を持っていたのではなかろうか?それが明治になって新暦に切り替えられた。それは彼らが信頼してきたものを否定することを意味した。いや少なくともそのように解した人は少なくなかろう。

 日本で暦書が作られ始めたのは6〜7世紀頃のようであるが、一般庶民にまで広まったのはずっと新しい。おそらく江戸時代だろう。しかしともかく、まだ大部分の日本人は百姓だった頃である。庶民に向けられた暦は当然農事を重視した。農業の役に立たない暦なんて売れる道理もなかったろう。農民、すなわち日本人の大部分は、「黒い雨」の重松のように暦書の記事を参考にしてきたはずである。それが暦書というメディアへの信頼を生み出していった。現代と違って、情報メディアはきわめて少なかったはずだから、この信頼は絶大なものだったろう。
 ところが明治になって新暦が採用された。これは太陽暦なのだから、むしろ農事には適合しているのだが、多くの人はそのようには受け取らなかった。なにしろ彼らが信頼してきたメディアを否定されたからだ。

 「メディアを否定された」と考えるのには理由があった。明治の改暦では旧来の暦法から西洋のグレゴリオ暦に切り替わったのだが、それだけではない。「暦註」が廃止されたのだ。暦註というのは、日本の(中国の)古来の暦には必須のものであるが、その内容は日の吉凶、方位の善し悪しといった要するに迷信の類である。明治政府はこれらを廃し、日本を迷信にとらわれない文明国に変えようとしたのである。しかし、この性急な改変は上流階級だけが西洋化文明化しようという「鹿鳴館的」発想で、庶民は置いてきぼりにされた。ともかく、これによって少なくとも「官暦」は数字が並ぶだけの「カレンダー」に変わってしまった。農業記事(無論これは迷信ではないのだが)の出る幕もなくなってしまった。

 もう一つ、新暦では日付が1箇月前後も早くなることにも当初は抵抗が大きかったろう。後に新暦を採用した中国などと違って、日本では正月や節句などもすべて新暦に移行した。それらの行事は農事と直接の関わりはないにしても、農事の節目ではあったろう。たとえば八十八夜の直後に端午の節句が来るなどは、最初の頃は違和感が大きかったに違いない。もっとも、端午の前に田植えが済んでなければならないといった法はどこにもないから、これは馴れの問題にすぎないかもしれないが。
 しかし、そのような違和感と信頼してきたメディアを否定されたことへの反発が相俟って、新暦への不信ひいては「農事には旧暦が適している」という俗説が醸成されていったとしても不思議はない。

 さて、官暦が新暦へ完全移行した後も、民間暦という形で旧暦は生き残った。旧来の暦書と同様に旧暦や暦註さらには農事記事などを掲載した暦が出版され続けた。「黒い雨」の重松が拠り所にしたのもそのような暦書の類だろう。
 「黒い雨」の舞台から60年程を経た現在でも、その種の暦書は残っている。例えば「神宮館暦」などというのがそれである。もっとも時代の変化だろう、農事記事はあまり多くないようだが、それでも以下のような記述が見られる。
種まきの凶日
丙寅日、庚辰日、辛巳日、・・・
種まきの適期
水稲 四月下旬−五月中旬
陸稲 五月上旬−五月下旬
・・・・
 前者は全くの迷信であろうが、後者は実際には30種類近くの作物についての具体的な記述である。それなりに参考にする農業者も居るのかもしれない。なお、これらの日付は当然のことながら新暦である。「農事には旧暦が適している」という迷信はこの種の暦書自体によって否定されているのである。
 「大儀福禄寿暦書」という台湾の暦書を見ると、24節気ごとに「水稲栽培」「蔬菜播種」「漁労」といった項目がまとめられている。おそらくこれが古い時代の暦書の形式を踏襲しているのだろう。

 蓋し、24節気というのは太陽暦なのである。旧暦はこのような形で太陽暦を組み入れているからこそ、新暦なんぞ誰も知らなかった江戸時代でさえ、暦書が農事の指針たり得たのである。
 したがって、純粋の太陽暦である新暦を用いるなら、農事には何の支障も無いのである。ただ、長い間農民が拠り所にしてきた暦書があれば良かったのである。その場合、暦書には旧暦の日付など必要ない。せいぜい24節気があれば良かったはずである。他には八十八夜、二百十日などの雑節だろうか?これらも立春という節気から数える完全な太陽暦だから、旧暦は不要である。しかしながら歴史の皮肉だろう。民間暦として生き残った旧暦時代と同様の暦書が農民(当時の一般大衆)に支持された。選択肢は他になかったのである。そこから「農事には旧暦が適している」という俗説が蔓延することになったのである。

 それでも多くの農民は重松と同様に暦書の農事記事を正しく太陽暦で解釈しただろう。その限りにおいてはこのことには何の害もない。
 ところが、多くの人が農業から離れてしまった現在において、かの俗説が一人歩きを始めている。ろくに旧暦を知らない輩が、旧暦は「スローライフ」に適しているなどと根拠の無いことを吹聴しているのである。もう少し勉強してから言ってもらいたいものだ。


Jul. 2008
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