授時暦の敗北? 延宝三年五月の日食について
第359回 暦の会、2010年11月20日
by 石原幸男

 安井算哲(後の渋川春海)が授時暦を推挙していた延宝三年には五月一日に日食があったが、授時暦ではこれは予報されず、従来の宣明暦での予報が当たった。これを契機に算哲は授時暦に改良を加え、これが後の貞享暦となった。
 しかし、この時の日食はどのようなものだったのか?はたして授時暦の予報は外れていたのか?以下ではこれについて検証してみる。

延宝三年、宣明暦五月一日は授時暦では閏五月一日
グレゴリオ暦宣明暦授時暦時憲暦
1675年6月21日  夏至?
1675年6月22日 夏至? 
1675年6月23日(日食)五月一日閏五月一日閏五月一日
1675年6月24日夏至  

夏至は五月中気。宣明暦では五月二日が夏至。
この時代、宣明暦の節気(平気法)は実際より2日ほど遅れていた。
授時暦の節気はかなり正しかったはず(ただし平気法としては)。
(清朝)時憲暦(定気法)では夏至はさらに1日ほど早くなる(はず)。

 いずれにしても、この時の日食は夏至に近い。

日食の実態
 北海道大学『日食・月食・星食情報データベース』(http://www.hucc.hokudai.ac.jp)で調べてみると、

金環食
赤経の合:1675年6月23日5時32分27秒(世界時)

時刻(UT)緯度経度
欠け始め3:23:3438:41 N19:12 E
金環食の始め5:1:1461:52 N39:11 W
食の最大5:44:584:2 N165:35 W
金環食の終り6:26:5653:34 N150:16 W
欠け終り8:4:2727:29 N162:22 E
食の最大時の食分:0.988

35°N,135°E(≒京都)35°N,113°E(≒陽城)40°N,116°E(≒北京)
欠け始め6;34UT(15:34JST)なし6:29UT
食の最大7:11UT(16:11JST)なし6:40UT
最大食分0.126- 0.009
欠け終り7:45UT(16:45JST)なし6:50UT

 この日食は中国の大部分では正現しなかった。日食帯の限界は山東半島から朝鮮半島と済州島の間、九州中部を通る。北京は限界ぎりぎりくらい。そして陽城(洛陽)には日食帯は達していない。したがって、中国暦の基準点である陽城で判定するなら、授時暦は外れたとは言えないのである。
 一方、宣明暦は年がら年中「オオカミが来る」と言ってるような暦だった。外れることも多かったが、この時は偶々当たったのに過ぎない。

 月は地球半径の60倍ほど離れているので、図の波線部分はこれを省略しているものである。月と地球中心を結ぶ直線はPからP'へ繋がる。この月方向と太陽方向との角θは
 ただし
  Re:地球半径(6370km)
  Rm:月までの距離(380000km)
 つまり、月は太陽(ほぼ北回帰線)より0.9°北側にあった。
 太陽までの距離は月の400倍なので、ここでは無限遠と考えて良い。

渋川春海の改良−−貞享暦
主な改良点
1.里差の導入
2.近日点の修正

1.里差の導入
里差
創為之○ 申時日食如三日月按宋史當紹聖元年是歳三月壬申朔食未六刻甚此 本朝與異方同日之食而加時差一辰此最為國差之證也○宋史曰 有食按此當 本朝寛元四年是時諸道勘申云申酉之間而蝕不正現獨算道主税頭雅衡云不可食果然乃賞之叙正四位下此則雅衡蓋知里差而言歟○武江與南部南北行程相距一百三十里北極出地差四度置相距里数以差度除之約三十許里而北極出地之差一度也○武江與津軽南北行程相距一百八十里北極出地差六度此亦約三十里為北極出地差度用乗三百六十五奇則知一周凡一萬一千里地厚凡三千五百里○用商尺六尺五寸為間六十間為町三十六町為里也
国立天文台所蔵『貞享暦 写本7冊』

余談
宣明暦渤海より伝わる(862年行用)。 
 耶律阿保機契丹(後の遼)を建国(916)。
 契丹により渤海滅亡(926)。
 耶律楚材(阿保機の子孫)里差を提唱。
渋川春海、貞享暦に里差を導入。宣明暦廃止(1685) 
嘉保元年甲戌三月一日壬申
皆既食
赤経の合:1094年3月19日6時28分40秒(世界時)

時刻(UT)緯度経度
欠け始め3:40:2926:9 S42:33 E
皆既食の始め4:38:024:26 S28:7 E
食の最大6:23:376:3 N88:31 E
皆既食の終り8:9:1534:12 N155:43 E
欠け終り9:6:5132:29 N141:14 E
食の最大時の食分:1.017

日本(35°N,135°E)中国(35°N,120°E)
欠け始め6:35UT(15:35JST)6:19UT
食の最大7:43UT(16:43JST)7:32UT
最大食分0.9520.849
欠け終り8:45UT(17:45JST)8:40UT
 *食の経過は UT では日本、中国ほぼ同じ。⇒ 時差だけ違う。
 *食の最大
UT地方時『貞享暦写本』
日本7:4316:43申刻
7:3215:32未六刻

淳祐六年正月辛卯朔日
金環食
1246年1月19日7時16分44秒(世界時)

時刻(UT)緯度経度
欠け始め4:32:3319:48 S21:39 E
皆既食の始め5:30:4920:7 S6:58 E
食の最大7:17:2219:39 S77:47 E
皆既食の終り9:3:5318:26 N134:21 E
欠け終り10:2:418:45 N119:41 E
食の最大時の食分:1.008

日本(35°N,135°E)中国(35°N,120°E)
欠け始め7:59UT(16:59JST)8:1UT
食の最大 8:51UT
最大食分 0.359
食の終り8:20UT(17:20JST)(日没)9:20UT
 *食の始まりが日本では日没直前だったため観測されなかった。

その他
 武江(江戸)〜南部、津軽の距離と北極出地差(北極星高度差)から(地球)一周凡そ11000里、地厚(地球直径)凡そ3500里。
 ただし、1里=36町、1町=60間、1間=6尺5寸
2.近日点の修正
 さて近日点の平均黄経は,概略,
     281°.22+6189″T+1″.63T2
で求めることができる。ただしTは1900.0年から計って100年を単位とする。授時暦採用の至元19年は1280年であるから,上式で計算すると,その頃の平均黄経は270.6度で,冬至点(270度)とほとんど一致している。そのため授時でも近日点と冬至点は一致しているとしている。・・貞享の頃は,近日点は277度にあり,そのために,延宝3年の授時による日食予報は失敗した。春海がこの近日点黄経の誤りに気付いたことは,里差(経度差)を考慮に入れたことと共に授時暦と貞享暦の大きな相違であろう。もちろん春海は授時暦の日食予報法に満足せず改良につとめたことは「授時暦固より古今に冠絶す。然し交食においては,少差無きこと能わざるなり」と言っていることで明らかである。
内田正男編著『日本暦日原典』(雄山閣)pp537

 その後春海は自ら観測を行い、宣明暦の誤りと授時暦・大統暦だいとうれきの正確さを立証した。しかし日月食の推算について、延宝三年(一六七五)五月朔日の日食については、授時暦では無食、宣明暦は二分半の食としたが、かえって宣明暦の方が蜜合した結果となった。この日食予報の失敗により、改暦のことは頓挫してしまった。
 春海はこの度の失敗の原因は、授時暦が作られた一三世紀後半には冬至点と太陽の近地点がほとんど一致していたが、四〇〇年後の延宝三年には、近地点が冬至点から六度ほど前進していたことによる。春海はその事実を西洋天文学の成果を盛り込んだ「天経或問てんけいわくもん」(游子六著)によって知った。
岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭 著『暦を知る事典』東京堂出版 pp64

暦と近日点の関係(近代的解釈)
 ケプラーの法則
 ここで
  r:太陽〜惑星(地球)間の距離
  λ:黄経
  t:時間
 この楕円軌道は次のように表わせる。
  r=a(1−e・cos(λ−λp))
 ここで、
  a:平均距離
  e:軌道離心率
  λp:近日点黄経
 そして
  λ≒Ω t+2e・sin(Ω t−λp)   (ケプラーの黄経式)
 ただし
 黄経がΔλ変化するに要する時間は、  節気間はΔλ=15°
 なので、近日点(λ−λp=0°)のとき、
 、遠日点(λ−λp=180°)のとき、
  ∴ Δtmax−Δtmin≒1日
 実際、冬至〜小寒は約14.7日、夏至〜小暑は約15.7日である。⇒定気法

中国暦の実際
 ・授時暦(大統暦)まではすべて平気法。
 ・ただし、唐代以来定朔を採用。⇒太陽(および月)の運行の不定性を考えている。

宣明暦、入気定日加減数
 *1日=8400分
内田正男編著『日本暦日原典』pp512
 入気定日加減数は節気間の日数を示したものである。例えば1行目の「冬至・大雪」は、冬至〜小寒または大雪〜冬至の日数である。

 節気の決め方には平気法と定気法がある。定気法は清朝の時憲暦で初めて採用されたもので、ケプラーの法則によって節気を決めるものである。それ以前の暦法はすべて平気法である。無論、宣明暦も。平気法では節気は1年(冬至〜冬至)を24等分して決める。したがって節気の間隔はすべて同じである。
 にもかかわらず、宣明暦にはこのような入気定日加減数というものがある。これは節気は平気法で決めるが朔を正確に決めるためには季節による太陽運行の違いを知る必要があるためである。

 この入気定日加減数はケプラーの法則とは一致しない。ケプラーより800年も前なので当然であろう。
 これに「ケプラーのΔt式」を適用して最小二乗法によってeを求めると、
  e≒0.021
 これは実際の値(0.017)よりやや大きい。多少イビツな軌道である。
授時暦

薮内清,中山茂『授時暦−訳注と研究』
アイ・ケイコーポレーション,2006年,pp10
 授時暦の定朔は、「ギリシャ的な幾何学的モデルを使って」(中山)、図のように解釈できるという。
 Oは太陽軌道P〜C〜A〜Dの中心、Eが地球である。OE__は離心率であるが、ケプラーのそれと区別して、以下ではこれをe2とする。
 gは平均黄経、wは実黄経に相当する。
であるから、
  Δ=w−g
とすると、
 これとケプラーの黄経式を比べれば
  e2=2e
である。
 ただし授時暦ではΔを「冬至または夏至」からの日数の3次式によって求める。これは正しくは「近日点または遠日点」のはずだが、ここでも近日点は冬至と一致しているとするわけである。実際、授時暦の時代には近日点は冬至に近かったのだが、宣明暦の例などを考えると、伝統に従ったまでで偶然の一致の面もありそうである。
 e2=0.03346(=2×0.01693;実際の離心率)とした場合、Δが極値をとるのは88°.2ほどとなり、そのときのΔは1°.95ほどとなる。授時暦儀の日行盈宿では2c.40としているが、かなり大きい(cは中国度。すなわち360°=365c.2425)。
 e2として宣明暦入気定日加減数から最小自乗推定したeの値の2倍の0.04259を用いると2°4程度の極値となる。すなわち、太陽の遅速に関しては授時暦の設定は宣明暦とあまり変わらないようである。

さて、貞享暦は・・・
 「近地点が冬至点から六度ほど前進」⇒冬至点が近地点Pからへ移動。夏至点が遠地点Aからへ移動。
 宣明暦延宝三年五月一日は夏至の直後

・近地点=冬至 の場合
 授時暦実黄経式において
  e2=0.04259
とする。
  g=181°とすれば
  w=180.96°
・近地点=冬至+6° の場合
 gは近地点から測るので、夏至の直後は
  g=181°−6°=175°
 一方、上のwと比較すべきは冬至からの黄経なので
  w+6°=181.20°
 つまり、[近地点=冬至] の場合より太陽黄経が0.24°進む。
 一方、月は1日に13°進むので、この差を追いつくためには27分かかる。つまり、朔が27分遅くなる。逆に言えば、授時暦は朔が27分早かった(正しくは[月行度−太陽行度]で時間差を求めるべきであるが、古来中国暦ではこのような場合太陽行度を無視する)。

延宝三年五月一日(1675年6月23日)朔時刻
宣明暦(陽城時)授時暦北大*(世界時)石原試算(中国時)
13:125:32:2713:31
* 北大は「赤経の合」。朔は「黄経の合」なので意味が違う。しかし、日食時には月〜太陽の黄緯差は小さいし、また夏至、冬至の頃は赤経と黄経はほとんど同じなので、ここでは。「赤経の合」≒朔 と考えられる。

・宣明暦朔は陽城時間(東経113°)。中国時(東経120°)では13:41 で誤差はわずか9分ほど。しかしこれは偶然の要素が強く、2時間以上の誤差のものもある。
・一方、貞享暦は近日点移動による授時暦の30分ほどの誤差を修正している。
朔時刻(中国時)
年/月/日宣明暦石原試算