暦の会 第372回
暦と初歩の天文学のおはなし
2012年2月18日石原幸男


朝日新聞、2011年12月13日

清明
 新暦では、子どもや学生は入学式・新学期をあと数日に控え、社会人は新年度が始まったばかりのころ。
半井小絵「お天気彩時記」(かんき出版)

 両者に共通するのは、「清明」を「新暦では」と説明している点。
 「清明」(二十四節気)を説明するのに「新暦では」、「旧暦では」という必要があるだろうか?
二十四節気
節気意味
*ただし、現在の「定気法」ではこれより少しずれる(重要ではない)。

 上記以外の二十四節気の説明は所詮文学にすぎない。
 二十四節気とは本来、二至二分(冬至、夏至、春分、秋分)を基にした天文学の概念である。
 日本人は天文学の概念である二十四節気を「天の文学」として解釈し、「季節感に合わない」などと見当違いな不満を漏らし続けてきた(平安貴族以来)。
 四立(立春、立夏、立秋、立冬)はそれぞれの「季節の始まり」とされる。これは季節感の問題ではなく、契約社会を円滑に営むための約束ごとなのである。
 約束ごとに文学でイチャモンをつけても、不毛な論議に終わることは必定。
 清明が「新暦では4月5日ごろ」になるのは結果である。本来の天文学的意味(春分の半月後)を理解すれば、結果には容易にたどり着くことができる。二至二分(冬至、夏至、春分、秋分)くらいは小学生でも知っていることだから。
 本来の意味を述べないで結果だけを述べることが二十四節気への誤解を招く原因である。

余談
 近頃、「中学生みたいな大学生」が増えていると聞く。本来の意味を理解せず、結果だけを覚える、教科書(偉い先生の学説)を鵜呑みにする、そのような教育ばかりを受けてきたためではないか?

第3回気象協会メセナ(2012年2月10日)

春分、夏至を立春、立夏、立秋の「真ん中」と説明するのは本末転倒。

気象協会『日本版二十四節気』とは・・・
 マスコミは天気予報などで二十四節気の本来の意味を理解もせず、便利な「埋め草」として使ってきたが、現代では通用しなくなった。そのため「季節感に合った新しい言葉」を作ろうという趣旨?
本来の二十四節気とは無関係

『春秋時期魯国暦法研究』 電子工業出版社(北京)

余談
 上掲書によると、BC660(辛酉)年庚辰朔(日本の「神武天皇即位、辛酉年正月庚辰朔」)は魯国暦では「二月朔」。
 魯国は「建丑正月」であったため。
冲方丁『天地明察』の科学的誤り
歩測
江戸から小田原までの途中、歩測で「三度もの幅で誤る」
(pp179)
 「まともな歩測」とは言えない。

北極出地
犬吠埼『三十五度四十二分二十七秒』
(pp215)

京、梅小路『三十四度九十八分六十七秒』
(pp461)

 犬吠埼は現代の緯度である。一方、京、梅小路の値は現代ではあり得ない。
 実は、江戸時代には角度は
  1度=100分
だった。そして現代では京都の四条通がちょうど北緯35°ほどなので、江戸時代風に表現するなら梅小路の『三十四度九十八分六十七秒』は妥当である。一方、犬吠埼のほうは現代の
  1度=60分
で記載されている(実際、現代の地図で調べると犬吠埼はこのくらいである)。
 つまり、この犬吠埼と梅小路の「北極出地」の値は現代の数値と江戸時代の数値が混在している。おそらく冲方氏は犬吠埼のくだりを書いた時点ではまだこの江戸時代の角度を知らなかったが、梅小路を書く頃までに知ったので、こういう矛盾が生じたのだろう。

 それだけならまだ良いのだが、実は「北極出地」(北極星の高度角を測る)では、この小説のように一度測っただけでこんな正確な緯度はわからないのである。何故なら、「北極星」は正確に北極にはないからである。
 北極星(Polaris、こぐま座α星)は、2012年には赤緯89°19′.1にある。つまり北極からは41′ほど離れている。これは満月1個(視直径32′)よりも大きい。しかし、2等星という大きな星がこんなに北極に接近したのは有史以来稀なのである。渋川春海が貞享暦を作った頃には北極から2°.5 ほど離れていた。だから一度測っただけでは測定がどんなに正確であったとしても最大2°.5 の誤差がある。
 もっとも、夕方と明け方に測定して足して2で割れば、かなり正確な結果が得られるだろう。星は(北極星を含む)北極の周りを丸一日(正確には23時間56分4秒)かけて一周する。だから、約12時間隔てて2回測定した結果の平均はかなり正確な緯度のはずである。しかし、夕方「星だ!」と言って北極星を見つけ、それを観測しただけで(pp177)正しい緯度がわかるわけはない。だいたい、2等星の北極星が見える前にはいくつかの1等星や時によっては金星や木星が現れるはずで、いきなり「星だ!」と言って北極星を見るのもおかしい。

 その上、春海らが現代と同じ緯度を得ることはなかったはずである。何故なら、江戸時代まで用いられていた「中国度」では周天を360度ではなく365度としていたからである。つまり太陽が1日に動く度数を1度としていたのである。したがって、西洋度とは72度で1度、35度では約0.5度の差が生ずる。だから現代の緯度と同じにはならないのである。
 このことは、冲方氏が参考文献に挙げている『授時暦 訳注と研究』(薮内清/中山茂著、アイ・ケイコーポレーション)にも書かれている。その書では中国度を「」つまりcを小さくして右肩に乗せて表記し、「°」と区別している。老眼が進んでいる筆者などは「視力検査か!」と思ってしまう。非常に見辛いのだが、若い冲方氏に読めないことはないだろう。
 渋川春海自身は、西洋天文学書の中国語訳である『天啓或問』を読んでいるから、西洋度も知っていたであろう。ただしそれは大和暦を作り始めていたこの小説の時代よりやや後年のことであるし、他の日本人にはこれは通用しない。緯度(北極出地)を西洋度で表わすはずがないのである。


 一つは、大地だった。授時暦が作られた中国の緯度と、日本の緯度、その差が、術理に根本的な差をもたらしていたことを実証したのである。北極星による緯度の算出、その”里差”の検証、さらには漢訳洋書という新たな視点によって、その誤謬が確実なものとなった。
 すなわち授時暦は中国において”明察”である。その数理に矛盾はない。だが日本に持ち込まれた時点で、観測地の緯度が変わり、ひいては授時暦の誤謬となるのである。
(pp442)

 ここは全くのデタラメである。
 ”里差”とは緯度ではなく経度の差、つまり時差なのである。中国暦では、暦要素つまり朔、望、二十四節気などの時刻は当然中国の時刻で表わされる。授時暦の場合それは元の大都(北京)の地方時である。渋川春海はそれを日本時、京都の地方時に変えたのである。「北極星による緯度の算出」はこれとは何の関係もない。また既に述べたように、この小説のような方法では正確な緯度は求められないし、春海もそんなことはやっていないだろう。

 実際の渋川春海の里差の認識は以下のようである。

里差
創為之○ 申時日食如三日月按宋史當紹聖元年是歳三月壬申朔食未六刻甚此 本朝與異方同日之食而加時差一辰此最為國差之證也○宋史曰 有食按此當 本朝寛元四年是時諸道勘申云申酉之間而蝕不正現獨算道主税頭雅衡云不可食果然乃賞之叙正四位下此則雅衡蓋知里差而言歟○武江與南部南北行程相距一百三十里北極出地差四度置相距里数以差度除之約三十許里而北極出地之差一度也○武江與津軽南北行程相距一百八十里北極出地差六度此亦約三十里為北極出地差度用乗三百六十五奇則知一周凡一萬一千里地厚凡三千五百里○用商尺六尺五寸為間六十間為町三十六町為里也
国立天文台所蔵『貞享暦 写本7冊』

 これは渋川春海自身が書いたものである。
 まず、「里差は元の耶律楚材やりつそざいが創始した」と、つまり自身の創意ではないことを明確に述べている。
 次に、
 「嘉保元年甲戌三月一日壬申(宋では紹聖元年是歳三月壬申)の日食が日本では申の刻に甚だしかったが宋では未の刻と、時差があった」。
 「宋では淳祐六年正月辛卯朔日に日食があった。本朝では寛元四年になるが、酉の刻(18時)に日食の予報があったが発現しなかった(おそらく日没後に発現)」。
と、時差の証拠を示している。
 その後、
 「武江(江戸)と南部の南北距離は130里で北極出地差は4度であるから、1度は約30里ほどである。武江と津軽の南北距離は180里で北極出地差は6度であるから、やはり1度は約30里である。だから地球一周は30里に を掛けて凡そ11000里。地厚(地球の直径)は凡そ3500里である」。
 このように、江戸と南部または津軽との南北距離と北極出地差からおよその地球の大きさを求めている。そうすると京都と北京の(およその)距離から両者の経度差(里差)がわかるわけである。
 このように、春海は江戸と北方の緯度差を「度」の単位でしか認識していない。小説のように細かい数値は用いていないのである。これはヘレニズム期のエラトステネスがアレキサンドリアとシエネの緯度差から地球の大きさを求めたのと同程度の正確さであろう。
 なお、春海は
 1間=6尺5寸、 1町=60間、 1里=36町
としている。現在では
 1間=6尺
であるが、1891(明治24)年の度量衡法制定以前には上方では「1間=6尺5寸」だったのである。1尺を現在と同じ0.30303mとすると、春海の出した地球の大きさは
 実際は40000kmほどだから、これは17%ほども大きい。しかし京都と北京のおよその里差を推定するにはこれくらいの精度でも良かったのだ。

 建部はなおも九州に渡ることを主張したが、伊藤および随伴の医師の説得により、赤間にて療養することを、無念そうに承知した。代わって伊藤が隊を取り仕切り、春海がそれを補佐しつつ、一行は九州を巡った。さらに各藩と交渉し、琉球、朝鮮半島、北京および南京に観測者たちを派遣している。これらの観測者たちから、
『朝鮮三十八度、琉球二十七度、西土北京四十二度強、南京三十四度』
 という観測結果が江戸に報告されたのは、それから半年余も後である。詳細な観測が行えたとは言い難かったが、それでも大まかな値を得ることはできた。
(pp210)

 江戸幕府はオランダ船、清国船以外の来航を禁じたばかりでなく、日本人の海外渡航も禁じていたのである。だからこのような海外への観測者の派遣はあり得ない。仮に観測隊を派遣したとしても、相手側が外国人にこのような観測を許すはずがない。国土の測量は国防上の重大事なのである。春海は文献などからこれらの情報を得たに過ぎないだろう。

 日延は呉越ごえつ国の杭州こうしゅうに渡り、そこで公暦として用いられていた”符天ふてん暦”を学んで帰国し、ついに賀茂保憲に改暦のすべをもたらしたのだが、
「そのせっかくの暦法を、むざむざ捨ておったのだ」
(pp203)

  もので、日本で使われた宣明暦より古い。またその1年は365.2448日で、宣明暦の365.2446日より僅かながら不正確である。したがって仮にこれが採用されたとしても、「800年で天に2日の遅れ」という宣明暦の難点は改善されない(むしろ少し悪くなる)。だからその暦法を「むざむざ捨ておったのだ」という非難はここでは不適切である。

 地球は、太陽の周囲を公転し続けている。そのこと自体は天文家にとって自明の理である。
 だがその動き方が、実は一定ではない、、、、、、、、ということを、春海は、おびただしい天測結果から導き出したのだった。
 ・・・・
 後世、”ケプラーの法則”と呼ばれるもので、この近日点通過と、遠日点通過の地点もまた、徐々に移動していく。となると、地球の軌道はどんな形になるか。太陽を巡る楕円である。
 ・・・・そして驚くべき誤謬を招いた。なんと授時暦が作られた頃は、近日点と冬至が一致していたのだ。このため授時暦を作った元の才人たちは、それらが常に一致し続けるものとして数理を構築したのである。だが今、四百年もの時間の経過において、この近日点は、冬至から六度も進んでいた。
(pp442-443)
 ここがまた、嘘ばっかし。
 太陽の動き方(実は地球の動き方)が一定でないということは既に唐の時代から知られていた。春海が「おびただしい天測結果から導き出した」わけではない。宣明暦でもこの事実は採用されている。それは「定朔」つまり正しい朔望月を求めるためである。
 朔(新月)とは、月と太陽が同じ方向に来る(黄経が同じになる)ことである。これは平均では29.53日毎に起こるが、実際には毎回かなりの変動がある。その原因のひとつが太陽の動きの遅速である。太陽の動きが速い時には月は追いつくまでにより時間がかかるので朔望月は長くなり、太陽の動きが遅ければ朔望月は短くなる。
 日食は必ず朔の時に起こり、月食は必ず望(満月)の時である。だから朔望が正しくなければ日食月食の予報が当たる道理がない。それを正しく知るのが定朔で、これは唐の頃から行われていた。宣明暦も定朔を用いる暦のひとつだったのである。
 太陽の動きに関する認識では、授時暦も宣明暦と大きくは違っていない。”ケプラーの法則”にはまだ遠いのである。

 ケプラーの(第2)法則が発表されたのは1609年。渋川春海が生まれるより前である。だから「後世、”ケプラーの法則”と呼ばれるもの」という表現は不適切。
 このケプラーの法則は、清朝の『時憲暦』で本格的に導入された。二十四節気の決定にこの法則が使用されたのである(定気法)。これが1645年。春海の貞享暦より40年ほど前である。春海は時憲暦を知っていたかどうか?少なくとも詳しく研究した形跡は見えない。ただ、少し後の八代将軍吉宗は確かに知っていた。
 「近日点通過と、遠日点通過の地点もまた、徐々に移動していく」、つまり近日点移動であるが、「となると、地球の軌道はどんな形になるか。太陽を巡る楕円である」、ここは論理が完全に破綻している。近日点や遠日点があるということ自体がすでに楕円軌道(少なくとも真円ではない)を想定している。その近日点が移動するかどうかは別問題である。
 近日点移動の大きな原因は地軸の歳差運動である(それに木星の摂動が加わる)。
 地軸は、ゆっくりと(25800年という長い周期で)「みそすり運動」をしている。これが歳差で、前に述べた北極星の位置変化もこれが原因である。「天の北極」とは、地軸の北極を天に(無限遠まで)延長した方向であるが、その方向が北極星から僅かばかり離れていて、しかもその位置は時代によって変わるのである。このように北極が動くと赤道も動くので、赤道と黄道の交点である春分点、秋分点も動く。冬至点や夏至点もそれに連動して動く。
 一方、暦では「春分から春分まで」を1年とする。中国暦では「冬至から冬至まで」だが、基本は同じことである。地球が春分点を通って、再び春分点に達するまでが1年であるが、その間に春分点は動いている。だからこの”1年間”に地球は楕円軌道を完全に1周はしないのである。楕円軌道を1周するのは近点年(近日点から近日点までの周期)で、それはこの「春分から春分まで」の1年よりやや長い。これが近日点移動(のひとつの要因)である。

 「四百年もの時間の経過において、この近日点は、冬至から六度も進んでいた」、これ自体は正しい。しかし春海はまさにこのことを『天啓或問』を読んで知ったのである。観測によって知ったのではない。