暦と天皇制



暦ってなんだ?
 1年は、平年は365日、閏年は366日である。「西向く侍」(二四六九士)が小の月で、その他が大の月。大の月は31日まであり、小の月は2月以外は30日、2月は平年は28日、閏年は29日である。閏年は4年に一度である。こんなことは小学生でも知っている。もうひとつ、400年に3回、閏年を省くという規則があるが、たいして難しいことでもない。暦ぐらい誰でも作れそうである。わからんのは春分、秋分くらいか。
 しかし、日本において暦がこんな単純明快なものになったのは1873年(明治6年)以降のこと。それ以前は太陰太陽暦、いわゆる旧暦が用いられていた。旧暦では、1箇月という時間の単位は文字通り天体の月と関連付けられていた。つまり1朔望月(新月から次の新月まで)が1箇月で、「ついたち」とは「朔日」つまり新月であり、望つまり満月は十五夜なのである。

余談ながら、NHKの「コメディ お江戸でござる」で、えなりかずき君の同心?が日記を読んでいた。「6月10日、満月・・・」おいおい、と思って見てたんだが、あの杉浦日向子先生、この間違いを指摘しなかった。どーゆーこっちゃ。暦の基本もご存知ないのか?上にも述べたように、江戸時代までの旧暦では満月は15日と決まっている。天文学的には1日くらいはずれることもあるようだが、10日が満月なんて、絶対に有り得ないのだ。

 さて、1朔望月というのは、平均すると29.5日程度なんだけど、長いときは29日と20時間、短いときは29日と6時間というかなりの変化がある。だから1箇月を29日にするか30日にするかを毎回決めなければならない。さらに、1箇月が29日または30日だから、12箇月では354日程度にしかならない。つまり1太陽年の365日より10日程も短くなる。それで3年に1回くらい、閏月を置く。これをどこに置くかというのが、またややこしい。
 このような旧暦に関する様々な知識は海上保安庁水路部のページに詳しい。なお、それによると「現在『旧暦』と呼んでいる暦は、日付の数え方や置閏法(閏月の置き方)が、天保暦を模倣しているというだけで、その元となる天体の運動理論や、時刻の取り方などはあくまで、現在の暦を流用したもので、あくまで『天保暦のようなもの』といったところでしょうか」ということである。つまり、旧暦を作るためには朔、望の起日や二十四節気などを知る必要があり、それらは古来、複雑な計算で求められていたわけだが、現在我々が「旧暦」と呼んでいるものは、そんなとこまで再現しているわけではないのだ。旧暦はそれほどにも複雑なのだ。

 ここで「天保暦」という言葉が出てくるが、これは前に述べた1873年の太陽暦(グレゴリオ暦)への移行以前に使われていた暦で、その名からわかるように天保年間に制定されたものである。天保というと19世紀半ば頃だから、太陽暦への移行までのその寿命はかなり短かったことになる。実は、江戸時代には何度か、暦の改定が行なわれているのだ。

 江戸時代の初め、五代将軍綱吉の頃までは、「宣明暦(せんみょうれき)」という暦が使われていた。これは、平安時代に唐から(正確には渤海から)輸入され、以後実に800年も使い続けられた暦で、賀茂家(幸徳井家)という公家が代々これを作っていた。なかなか精妙な暦であったらしいが、なにしろ地動説はおろか、月の運行も惑星の運行も正確には知られてなかった時代の暦だから、800年も経つと2日ほどのずれが出てきて、日蝕月蝕の予報も外れるようになった。
 これには幕府も焦った。「天文方」という役所を作り、暦の改定を行なった。そして渋川春海が中国の元(ゲン)の時代の暦を元にして貞享暦(じょうきょうれき)を作った(1685年)。幕府製の暦は、その後何度か改定され、最後のものが「天保暦」だった。これは同時代の中国の暦と比べても非常に精巧なものという。

 さて、上に概観したことから、武士は江戸時代になるまで暦を作らなかったことがわかる。実は、鎌倉時代の東国では一時、独自の暦が使われたらしいが、すぐに廃れた。鎌倉武士にはまともな暦を作るだけの知識はなかったのだろう。暦作りはもっぱら公家、つまりは朝廷の専権事項だったわけだ。
 鎌倉幕府も江戸幕府も、米本位経済つまり農業に大きく依存した体制だった。にもかかわらず、権力者は暦を作れなかった。年貢はしっかり取り立てるくせに、種蒔きや田植えの時期はわからない。こりゃ、迫力無いで。
 800年の間、暦を作るのは、前にも述べたように公家の賀茂家(幸徳井家)だった。つまりは朝廷だった。ここに朝廷の権威の源泉が垣間見られる。
 無論、朝廷の専権事項は暦だけではなかったろう。朝日新聞99/07/26西部夕刊によると、律令時代の木簡に、江戸時代の農業書と同じ稲の品種名が読めるという。この時代に既に、気候などに応じて稲の品種を決めていたものらしい。その品種が江戸時代にまで残っていたとすれば、そのような稲作の管理も連綿と続いていたのではないかと想像できる。これも律令時代からの知識を伝え得るのは朝廷だけだろう。
 また、現在から見れば取るに足りない迷信のようなものでも、人心を掌握するためには必須な知識といったものもあったかも知れない。陰陽学というのはそのような知識の集大成であろう。ちなみに暦学も初めは陰陽学の一部であったらしい。未だ科学と迷信が分化していなかったのである。そしてこれも朝廷の専権事項であったことは、稲垣吾郎君や野村萬斎君のテレビ、映画を見ればよくわかる。

 これらのハイテク技術を朝廷に握られてる限り、武士階級は朝廷を滅ぼしたり、ないがしろにするわけにはいかなかった。技術者だけをヘッド・ハンティングすればよさそうな気もするが、昔はそうもいかなかったろう。それに、暦だけじゃなく様々な技術者が必要だった。それら技術者集団のボスが天皇だった。彼らはボスの言うことしかきかない。ならば必然、ボスごとヘッド・ハントすることになる。こうして、武家政権の時代にも朝廷は生き残った。

 さて、「年貢はしっかり取り立てるくせに、種蒔きや田植えの時期はわからない。こりゃ、迫力無いで」と述べたが、実際そんな領主もいたかと思える。
・・京都から伊豆に下った北条早雲が、はじめて百姓の世話をする大名にな
り、それが”領国大名”の模範になって、四方に影響した。戦国は領内政治の時代であり、もは
や山名氏のように超然として租税のみを吸収するという盗賊のような守護大名の時代はおわっ
たのである。
(司馬良太郎「街道をゆく/因幡・伯耆のみち」pp100)
 「盗賊のような守護大名」は、朝廷の伝える技術なんて別に尊敬もしなかったろう。同じく司馬「洛北街道」に、これと同時代の後土御門天皇の話がある(pp61-62)。この人は37年も在位したが、それは譲位しようにも即位の儀式の費用も退位後の隠居所を建てる費用もなかったためという。やがて死去すると葬式の費用もなく、四十九日までほったらかされたというから驚く。「民心を掌握する技術」が顧みられなくなったとき、天皇はここまで零落した。

 やがて「領内政治」の時代が始まる。当然、暦や稲の品種といった知識(陰陽道も?)は尊重されるはずだ。
 そして、羽柴秀吉は天皇から豊臣姓を賜り、これを「源平藤橘」に並ぶ氏とする。あまつさえ、自ら「天皇の落胤」などと大デマゴーグを発して権威を高めようとするが、すべて天皇の権威に依拠している。徳川幕府も天皇を尊崇する。このあたりから観念的な天皇崇拝が始まったんだろう。しかし、戦国以前にはむしろその知識や技術において、朝廷は一目置かれたと考えるほうが納得がいくように思われる。これはまた、(これも司馬の受け売りながら)「農民軍」のような武士集団から鎌倉幕府が始まったこと、したがって彼らは公家に比べて圧倒的に知識・教養が乏しかったことの帰結であろう。中でも暦は象徴的である。武士には暦が作れなかった。暦が天皇を生き永らえさせたと言ってもよかろう。

 それでわ、公家にはどの程度の知識があったんだろう?800年の間に、彼らが暦の改良を試みたという事跡は見えない。たんに「一子相伝」で伝えられた方法に従って、800年間、愚直に計算を続けていたにすぎない。改良しようにも、そのための知識はなかったのだ。
 パソコンにたとえるなら、彼らはマイクロソフト社(MS)からエクセルという計算ソフトを買って、ただ計算してるだけのユーザーにすぎない。エクセルには重大なバグはなかろうと思うが、仮にあったとして、一般ユーザーには自分でそれを修正する術はない。エクセルなら、もしバグがあればMSから修正版を入手できるはずだが、宣明暦の製造元にはそれも期待できない。そもそも遣唐使が廃止された時点で縁は切れている。だからたとえバグがあっても、このユーザーは愚直にこれを使い続ける他、手がない。
 エクセルなどコンピュータ・ソフトのバグを修正するためには、ソース・コードが必要である。暦の場合、計算方法の元になっている理論がこれに当たる。つまり、暦理論を理解していない限り、暦の不具合を修正することはできないのだ。宣明暦に則って暦を作っていた公家は、この暦理論は理解していなかったわけである。理論を理解しないで愚直に計算だけを続けるというのは、次の文中の職工と重なるものがある。

 一九二〇年代に、日本の技術について私が学んだいくつ
かの事柄を、第二次大戦後の日本で開花した技術のルネッ
サンスと考え合わせると、非常に興味を覚える。日本の技
術者たちは、創り出すよりも模倣する傾向が強いことを私
は発見した。確かに模倣の技術は彼らの得意芸であった。
それにつけても一つの事件が思い出される。それは、
ジェット推進の講義の準備をしなければならなかった時の
ことであった。これは当時の最先端の技術であって、ヨー
ロッパの技術者たちの間でも、まだ議論がはじまったばかり
であった。ジェットの原理を説明するために、私は圧縮空
気の入った瓶を車に取り付けようと思った。空気が噴出す
ると、反動力が車を前に走らせるというわけである。しか
しまずいことに、瓶の口を開けるバルブが車に垂直になっ
ていたため、これでは噴射したとき空気は、真下に向かっ
て出てゆくことになる。バルブを寝かせる、すなわち後方
に空気を噴射するためには、九十度だけバルブの向きを変
えねばならなかったのである。私は略図を書いて、瓶から
出る空気の通路を作るために、直角の二つの穴を開けるよ
うに大雑把な線を引いて指示し、日本人職工にこの略図
を渡した。
 実は、私には講義に入る前に装置の試験をするだけの先
見の明があり、このことが幸いした。まず私はバルブをひ
ねってみたが、何も起こらなかった。もう一度やってみた
が、車は動かず止まったままであった。故障の原因はすぐ
にわかった。技術者が互いに合わない二つの穴を開けたの
で、空気が通り抜けられなかったのである。私は彼に、ど
うして合わない穴の開け方をしたのかと、少しばかり鋭く
詰問したところ、彼はむっとして、図面にしたがって正確
に開けたんだと答えた。結局その男は全く目的など考えな
いで、ミリメーターまで正確にその略図通りに作ったので
あった。
(「大空への挑戦 航空力学の父カルマン自伝」野村安正訳 pp141)

 これは日本人の「得意技」なんだろうか?

 それでも、武士を含む一般人がこれに追いつくには800年を要した。
 宣明暦が曲がりなりにも800年保ったというのは、それなりに優秀だったということだろう(実際、800年で2日ずれたというから、その点に関する限り結構正確である。同時代ヨーロッパの「ユリウス暦」は400年で3日ずれた)。遣唐使などの平安期の国際交流によって、日本人はこのような高品質の製品を輸入することには成功した。しかし、その理論、つまり科学的思想を移植することには失敗した。
 その時代、中国に「科学」はあっただろうか?少なくとも中国ではその後何度も暦が改められている。また、文永・弘安の役では元軍は「てつはう」という火器を使用している。科学技術は確実に進歩していたのだ。サラセンにも優れた科学があった。しかしそれらは日本には波及せず、江戸時代になって渋川春海がようやく元代の授時暦に注目したにすぎない。

 こんなことを書いてる間に、雅子妃が女児を出産した。すると一部のマスコミに「女性の皇位継承を認めるように皇室典範を改正しよう」という意見が現われ始めた。その種の論者の主張は、「日本には古来から女帝も居て、女性が皇位継承できないというのは皇室典範以降の新しい制度にすぎない」というものである。この主張はいちおう正しいとしておこう。しかし、それを主張するなら、国家における天皇の地位は何なのかという疑問が同時に発生するはずである。
 天皇の地位は、明治憲法に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と謳われたときに確定したものである。そして明治憲法と旧皇室典範は同時に制定されている。したがって、皇室典範が新しいと主張するなら、明治憲法したがって天皇の国家にとっての地位も同じだけ新しいということを認めなければならない。
 「法理論的にはそうでも、天皇の地位は古来から日本人が天皇を尊崇してきたことに由来するものだ」という反論がありそうだが、先に揚げた後土御門の例だけでもこれが迷信にすぎないことは明らかである。他にも、鎌倉幕府は後鳥羽上皇や後醍醐天皇を流罪に処したし、足利将軍は対外的に「日本国王」を称したなど、天皇が軽んぜられた例は枚挙にいとまがない。律令時代はともかく、その後の日本で天皇が尊崇された時代というのはそんなに長くもないし、法的に地位が確定したのも明治憲法以後のほんの100年ちょっとにすぎないのだ。
 であるなら、女帝を認める云々より先に、現在および将来の日本に、国家の「象徴」なり「元首」なりとしての天皇が必要か、という議論があってしかるべきであろう。日本国憲法に「その地位は国民の総意にもとずく」と謳われているが、その「総意」は一度も諮られたことがない。実に不思議な話である。

宣明暦
 さて、平安朝以来800年にわたって使用されていた宣明暦について見ていこう。右の表は日本で宣明暦が採用される前後の事跡を年代順に並べたものである。
 宣明暦自体は822年に唐で制定されている。日本には859年、渤海から伝わった。そして日本で採用されたのは862年である。渤海という国は698年に建国され、926年に滅んだ。日本へは727年から919年までの間に34回、使節を送っている。
 遣唐使が菅原道真の奏上で廃止されたのは894年であるが、実はそれより56年も前の838年に派遣されたのが最後の遣唐使である。この最後の遣唐使の時には宣明暦は伝えられなかった。
西暦記  事
822年唐で宣明暦制定
838年最後の遣唐使
859年渤海から宣明暦伝わる
862年日本で宣明暦採用
892年唐で宣明暦廃止
894年菅原道真の奏上で遣唐使廃止
921年安倍晴明生
977年天文道は安倍氏、暦道は賀茂氏に分かれる。
1005年安倍晴明没

 しかし、それ以前の暦には、遣唐使によって伝えられたものがある。吉備真備が717年に唐へ渡り、735年に帰国したときに持ち帰った大衍暦(だいえんれき)である。この暦は764年から94年間用いられた
 ところで、その吉備真備の6代目の子孫に、忠行という「陰陽道の大家」が出、さらにその子保憲には安倍晴明という優秀な弟子が現れた。テレビ、映画でおなじみの「陰陽師」である。保憲は死に際して安倍晴明に天文道を、実子光栄(みつよし)に暦道を継がせた。以来、光栄の賀茂家が暦道を継ぐことになる(以上、平凡社「世界大百科事典」より)。安倍晴明は暦という科学から離れて、卜占の類の迷信だけに専念する最初の陰陽師となったわけである。
 では賀茂家のほうは科学だったかというと必ずしもそうではない。昔の暦では「暦注」というものが重要だった。これも多くは日時や方角の吉凶といった迷信の類であるが、これの作成も賀茂家の仕事だった。江戸時代に暦の計算部分は幕府天文方が担当するようになっても、賀茂家の後継の幸徳井家は相変わらずこの暦注を作り続けていたという。そもそも、暦道と天文道が両家に分かれたのが977年。宣明暦が御本家の唐で廃止されてから85年後である。賀茂家は最初からそんな時代遅れの暦を受け継いだわけである。遣唐使も廃止されているから、それしかなかったんだろうが。

 しかし、そればかりでもあるまい。
 日本に律令制度がしかれた8世紀の初めころ,
暦道のことも決められた。中務省の管轄のもとに
陰陽寮がおかれ,陰陽頭のもとには天文博士や
漏刻(ろうこく)博士らとともに暦博士1人がいて暦を
作り,暦生10人に暦数を教えることが規定されて
いた。やがてこの制度は形骸化して暦職は世襲さ
れ暦道は秘伝となって賀茂家に独占されるように
なった。
(平凡社「世界大百科事典」より)

 律令初期のそのような制度が残っていれば、暦生の中から優秀なものが現れて、独自に暦を進歩させることもできたかもしれない(安倍晴明にはその方面の才能はなかったのか?)。一子相伝の秘法になったことが、その後の発展を阻害したということは充分考えられる。そのようなシステムは科学からは最も遠いものなのだ。

 つまり、科学的批判精神を抜き去られた一子相伝の秘法としての暦道が連綿と愚直に続けられ、そしてその非科学性のゆえに、暦は天皇制を生き永らえさせた、ということである。


旧暦とどう付き合おうか?
 ここまで、一見筆者は旧暦を否定しているように見えるかもしれないが、決してそうではない。筆者が批判するのは、一子相伝のような不合理な方法で暦が伝えられたという事実であって、むしろ古来の風習などは旧暦がふさわしいと考えている。
 そもそも、正月などを新暦(グレゴリオ暦)で祝うのは、東アジアでは日本だけではなかろうか。そしてこれは、明治政府のかなり強引な政策の結果である。1873年(明治6年)にいきなりグレゴリオ暦に移行したのも、役人の給料を浮かすという随分姑息な目的もあったものという。中国やヴェトナムなどに今も旧正月が残っていることを考えると、日本人がこの改暦に素直に従ったというのは不思議な気がする。
 いや、実際素直に従いはしなかったようだ。
 1月17日というと、今ではあの阪神淡路大震災のあった日として人々に記憶されているが、もうひとつ、尾崎紅葉「金色夜叉」の熱海の海岸、貫一お宮の有名な場面が同じ日付のはずである。ただし、「来年の今月今夜のこの月を・・」という有名な台詞は「旧暦の考えで小説を書いている」(暦の会編「暦の百科事典」)ものという。たしかに、旧暦でなければ、来年の今月今夜に今年と同じ月が昇るはずはない。また考えてみれば、新暦の1月17日といえば寒のさなか。夜、海岸を散歩するなんてよほど酔狂としか言いようがない。なんぼ貫一つぁんがマントを羽織っているといっても。旧暦なら少しは春めいても来よう。
 あの小説が発表されたのは旧暦が廃止されて20年以上も後というが、大都市部を除いて新暦はまだ浸透していなかったという(暦の会編「暦の百科事典」)。
 「年の初めのためしとて、終わりなき世のめでたさを・・」という歌は題名を「一月一日」という。随分、仰々しい。あるいは新暦を根付かせるための、政府のキャンペーン・ソングだったのではないかと、筆者は疑っている。「豆腐のはじめは豆である・・・」といった替え歌が広く流布しているのも、官製キャンペーンの胡散臭さに対する民衆の抵抗の痕跡ではなかろうか。

 ともあれ、新暦は根付いてしまった。旧暦では正月は立春の頃であった。立春とは、冬至と春分のちょうど真中で、これ以降、太陽は春分点すなわち春の側に近付く。だから「初春」なのだが、新暦の正月は春には程遠い。そして、「初春」を寿いだ後に小寒、大寒が訪れるという奇妙なことが起こる。ひな祭にハマグリを食べる風習は、旧暦桃の節句がちょうど潮干狩りのシーズンに当たったことに由来する。無論、その2日前が3月1日つまり新月で、大潮ということも重要である。新暦の3月3日は必ずしも大潮じゃないし、だいいち、潮干狩りなんかしたら風邪をひく。新暦5月5日に菖蒲はまだ咲かない。きわめつけは梅雨のさなかの七夕祭り!
 これが「こまやかな季節感を大切にする日本人」の実態である。

 むしろ、これらの風習には旧暦こそがふさわしい。たとえ「現代の暦法に基礎を置く天保暦もどき」でも、決して季節感を損なうことはない。仙台のように月遅れで七夕をやるだけでも、随分風情があるものだ。「日本の伝統を守る」と言うなら、天皇制なんかどーでもいー。まずは旧暦を大事にすべきである。

 六曜はどうか?これが取るに足りない迷信であることは、大昔の中国でさえ言われている。むしろ明治の新暦採用以後、騒がれるようになったらしい。せいぜい「友引は葬儀屋の休み」くらいに考えておけばよかろう。あの人たちは土日だからといって休むわけにいかないんだから。
 結婚式は、金持ちの年寄りから大枚の祝儀を貰うためには、妥協も必要だったろう。しかし近頃はヂミ婚も流行ってるようだし、だいいち年寄りもリストラなんかでたいして金持ちじゃない。下らんこと言うヤカラは無視して、仏滅の結婚式でも何でも、おおいにやればよかろう。
Dec. 2001

新たな迷信
 2002年1月1日の朝日新聞に「旧暦、新世紀に復活(スローでいこう 暮らし方再発見:1)」という記事があり、その中で、旧暦に従って仕入れを行っている業者が紹介されている。その人によると、2001年は閏4月があったので夏が長いと判断し、夏物の仕入れを延長したが、実際、猛暑で売上が伸びた、という。
 この内容は理解に苦しむ。「閏4月があったので夏が長い」というのは、なるほど旧暦では4,5,6月を夏とするので、暦の上ではそうだろう。しかし、実際に夏が長いか短いか、猛暑か冷夏かといったことは専ら気象学の問題であって、暦だけでわかる道理がない。もしそれが当たったとしても、単なる偶然にすぎない。朝日のような大新聞がこのような流言飛語の類を記事にし、「新たな迷信」を助長しているのは良識を疑う。

 上記のことを明確にするために、2001年の「夏」について詳細に見ておこう。そのためには旧暦についてのいくばくかの予備知識が必要である。
 まず、旧暦では二十四節気というものが重要である。これは端的に言って太陽の黄道上の位置によって季節を24等分したものである。例えば起点を春分点にとると、太陽が春分点にある日から次にまた春分点に来る日までを1太陽年という。これはおよそ365.25日である。だから新暦(太陽暦)では4年に1度の閏日によって、ほぼ正確に1太陽年に合わせられる(これだけだと400年で3日ずれるが)。この1太陽年をまず4等分する。これが春分、夏至、秋分、冬至である。この4等分された各期間を等分するのが立春、立夏、立秋、立冬である。さらに、たとえば立春と春分の間を3等分するために雨水、啓蟄を設ける。こうして二十四節気が出来上がる。
 二十四節気は「節」と「中」に分けられる。たとえば立春は1月節、雨水は1月中、啓蟄は2月節、春分は2月中、以下12月まで節と中が交互に現れる。重要なのは「中」のほうである。旧暦1月は雨水(1月中)を含まなければならない。2月、3月、・・・すべて同様である。
 ところで、旧暦の1カ月は天体の月の満ち欠け(朔望月)に対応している。つまり1カ月は朔(新月)を1日とし、次の朔の前日で終わる。これは29日または30日である。すると、時に月の中に二十四節気の「中」を含まないものが現れる。これが閏月である。たとえば4月の後にこれが現れれば「閏4月」となる。
 さて2001年の「夏」である。右の表を見ていただきたい。
 新暦4/20が穀雨(3月中)なので、このあたりは旧暦3月である。新暦5/21が小満(4月中)なので、ここは旧暦4月でなければならない。遡って行くと、新暦4/24が朔なので、これを旧暦4月1日とする。
 新暦6/21が夏至(5月中)なので、旧暦5月でなければならないが、当日が朔なので、この日が旧暦5月1日である。
 そうすると、新暦5/23の朔から新暦6/20までは4月中も5月中も含まない月となる。したがってこれが閏4月である。
 以下同様に、新暦7/23の大暑(6月中)を含む新暦7/21からが旧暦6月、新暦8/23の処暑(7月中)を含む新暦8/19からが旧暦7月となる。
 だから、「暦の上で」4月から6月までを夏とするなら、新暦の4/24から8/18までの約4カ月間が夏ということになる。たしかにこれは長い。しかし、新暦の4月末が夏だろうか?一方、新暦の9月にまで残暑が及ぶことも別に珍しいことではない。右の表からわかるように、旧暦4月はどんなに早くても穀雨(3月中、新暦4/20頃)より速く始まることはないし、旧暦6月はどんなに遅くても処暑(7月中、新暦8/23頃)より前に終わる。だから9月の残暑を旧暦から予測することはできない。この「夏」というのは、「暦の上」のことにすぎない。
新暦記事旧暦
2001/ 4/20穀雨(3月中)3月
4/244月1日
5/ 5立夏(4月節)4月
5/21小満(4月中)4月
5/23閏4月1日
6/ 5芒種(5月節)閏4月
6/21夏至(5月中)、5月1日
7/ 7小暑(6月節)5月
7/216月1日
7/23大暑(6月中)6月
8/ 7立秋(7月節)6月
8/197月1日
8/23処暑(7月中)7月
データは海上保安庁水路部のページによった。


 さらに重要なのは、上で見たように旧暦では二十四節気に合わせて月を決めていることである。そして二十四節気というのは黄道上の太陽の位置によって決められる。当然のことながら、二十四節気はむしろ新暦(太陽暦)でほぼ日付が固定される。言わばこれは太陰暦に太陽暦の要素を組み込む手段なのである。蓋し、中国3000年の暦の改定の歴史は、太陰暦と1太陽年とをいかに折り合いをつけるかという苦心の歴史だったと言うことができる。旧暦というのは、それ以上のものでもそれ以下のものでもない。この点に関する限りは新暦(太陽暦)のほうが合理的なのであって、季節の変化は新暦ではほぼ暦どおりに進行する。繰り返しになるが、それが旧暦で二十四節気を重視する理由でもある。だから旧暦によって夏の長い短いを判断しようなどというのは本末転倒なのである。
 地上の気象というのは、太陽や月の運行だけから占えるような単純なものではない。太陽や月の運行だけから決めた暦で、猛暑や冷夏、暖冬などがわかる道理はないのである。

 むしろ旧暦は詩的文学的な面で価値があるだろう。新暦の梅雨のさなかの七夕はどう考えても馬鹿馬鹿しい。旧暦七夕は2001年なら新暦8/25になる。天の川も美しい頃だ。そろそろ秋めいても来る。ちなみに俳句では七夕は秋の季語である。そのような形で旧暦を重視するのはおおいに結構であろうが、しかしそれが「新たな迷信」を産み出すようであってはならないだろう。

 旧暦を知っているともうひとつ利点がある。昨年のNHK「時宗」では、「弘安の役」で蒙古軍が嵐で壊滅した日(の翌日)を「弘安4年閏7月1日」と言っていた。これは処暑(7月中、新暦8/23頃)の直後であったことがわかる。閏7月は、処暑と秋分(8月中、新暦9/23頃)のどちらも含まない月でなければならないが、そのような月は処暑の直後に始まらなければならないからである。このように、歴史的事件が閏月に起こった場合は、かなり正確に新暦での日付が推定できる。もっとも閏月でなければ厳密な計算をしない限り、1カ月ほどのうちのどこか、としかわからないのだが。

Jan. 2002
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