・・京都から伊豆に下った北条早雲が、はじめて百姓の世話をする大名にな り、それが”領国大名”の模範になって、四方に影響した。戦国は領内政治の時代であり、もは や山名氏のように超然として租税のみを吸収するという盗賊のような守護大名の時代はおわっ たのである。 |
一九二〇年代に、日本の技術について私が学んだいくつ かの事柄を、第二次大戦後の日本で開花した技術のルネッ サンスと考え合わせると、非常に興味を覚える。日本の技 術者たちは、創り出すよりも模倣する傾向が強いことを私 は発見した。確かに模倣の技術は彼らの得意芸であった。 それにつけても一つの事件が思い出される。それは、 ジェット推進の講義の準備をしなければならなかった時の ことであった。これは当時の最先端の技術であって、ヨー ロッパの技術者たちの間でも、まだ議論がはじまったばかり であった。ジェットの原理を説明するために、私は圧縮空 気の入った瓶を車に取り付けようと思った。空気が噴出す ると、反動力が車を前に走らせるというわけである。しか しまずいことに、瓶の口を開けるバルブが車に垂直になっ ていたため、これでは噴射したとき空気は、真下に向かっ て出てゆくことになる。バルブを寝かせる、すなわち後方 に空気を噴射するためには、九十度だけバルブの向きを変 えねばならなかったのである。私は略図を書いて、瓶から 出る空気の通路を作るために、直角の二つの穴を開けるよ うに大雑把な線を引いて指示し、日本人職工にこの略図 を渡した。 実は、私には講義に入る前に装置の試験をするだけの先 見の明があり、このことが幸いした。まず私はバルブをひ ねってみたが、何も起こらなかった。もう一度やってみた が、車は動かず止まったままであった。故障の原因はすぐ にわかった。技術者が互いに合わない二つの穴を開けたの で、空気が通り抜けられなかったのである。私は彼に、ど うして合わない穴の開け方をしたのかと、少しばかり鋭く 詰問したところ、彼はむっとして、図面にしたがって正確 に開けたんだと答えた。結局その男は全く目的など考えな いで、ミリメーターまで正確にその略図通りに作ったので あった。 |
さて、平安朝以来800年にわたって使用されていた宣明暦について見ていこう。右の表は日本で宣明暦が採用される前後の事跡を年代順に並べたものである。 宣明暦自体は822年に唐で制定されている。日本には859年、渤海から伝わった。そして日本で採用されたのは862年である。渤海という国は698年に建国され、926年に滅んだ。日本へは727年から919年までの間に34回、使節を送っている。 遣唐使が菅原道真の奏上で廃止されたのは894年であるが、実はそれより56年も前の838年に派遣されたのが最後の遣唐使である。この最後の遣唐使の時には宣明暦は伝えられなかった。 |
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日本に律令制度がしかれた8世紀の初めころ, 暦道のことも決められた。中務省の管轄のもとに 陰陽寮がおかれ,陰陽頭のもとには天文博士や 漏刻(ろうこく)博士らとともに暦博士1人がいて暦を 作り,暦生10人に暦数を教えることが規定されて いた。やがてこの制度は形骸化して暦職は世襲さ れ暦道は秘伝となって賀茂家に独占されるように なった。 |
さて2001年の「夏」である。右の表を見ていただきたい。 新暦4/20が穀雨(3月中)なので、このあたりは旧暦3月である。新暦5/21が小満(4月中)なので、ここは旧暦4月でなければならない。遡って行くと、新暦4/24が朔なので、これを旧暦4月1日とする。 新暦6/21が夏至(5月中)なので、旧暦5月でなければならないが、当日が朔なので、この日が旧暦5月1日である。 そうすると、新暦5/23の朔から新暦6/20までは4月中も5月中も含まない月となる。したがってこれが閏4月である。 以下同様に、新暦7/23の大暑(6月中)を含む新暦7/21からが旧暦6月、新暦8/23の処暑(7月中)を含む新暦8/19からが旧暦7月となる。 だから、「暦の上で」4月から6月までを夏とするなら、新暦の4/24から8/18までの約4カ月間が夏ということになる。たしかにこれは長い。しかし、新暦の4月末が夏だろうか?一方、新暦の9月にまで残暑が及ぶことも別に珍しいことではない。右の表からわかるように、旧暦4月はどんなに早くても穀雨(3月中、新暦4/20頃)より速く始まることはないし、旧暦6月はどんなに遅くても処暑(7月中、新暦8/23頃)より前に終わる。だから9月の残暑を旧暦から予測することはできない。この「夏」というのは、「暦の上」のことにすぎない。 |
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