「天文暦算大師黄正」氏の御説

 神保町東方書店で「大義福禄寿暦書2008」というのを見つけたことは、既に述べたが、この書物には「趣味的暦法」というページがあって、これがなかなか面白い。著者は「天文暦算大師黄正」という人で、清明節の日付について解説している。それによると、民国93年(2004)には清明節が4月4日だった。それまでは毎年4月5日だったので、多くの読者から質問があったという。清明節の日付は固定しているのか変動するのか?

 節気の日付がそれくらい変動するのは別に珍しいことではないのだが、向こうでは清明節がかなり重要なので、その日付がちょっと動くと多くの人が注目したもののようだ。
 日本ではどうか?おそらく節分が同様の注目を浴びるだろう。このところずっと、節分は2月3日(立春が2月4日)であるが、これが2月2日(立春が2月3日)に動いたら、少なからぬ人が驚きそうだ。そして実際にこれは2021年には起こるので、上記の例はあまりひとごととも言えないだろう。

 さて、黄正大師はその博覧強記をもってこれに答えている。が、残念ながら大師の説は間違っているのだ。
 以下でははなはだ不完全ながら要点を訳出して検討してみる。
 「某些人」はこれを次のように解釈した。「清明節は冬至から105日目である。しかるに93年は閏年であったため、2月が29日有り、このため清明節は4月4日となったのだ。」
 この解釈はなかなか明確である。ただ、概略の説明にすぎない。今詳細な説明を供して読者の参考とせむ。
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 清明節は二十四節気の一である。節気の決め方には平気法と定気法の2種類がある。平気法は「俗称的」二十四節気で、正しいのは定気法である。平気法では節気間の長さは一様であるが、定気法では、黄道を24分割する(ために一様ではない)。
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 地球の赤道は黄道と23度26分の角度を持って、2点で交わっている。春分点と秋分点である。春分点から次の春分点、或いは秋分点から次の秋分点までを一回帰年と称する。
 黄道を12等分したものが黄道十二宮である。第一が白羊宮、以下金牛宮、・・・。また春分点を24等分したのが二十四節気である。だから黄道十二宮の夫々にはふたつの節気が対応する。白羊宮の0度が春分点であり、15度が清明。金牛宮の0度が谷(穀)雨、15度が立夏。
 地球は公転中に太陽と月の引力によって地軸が黄北極を中心とする円周運動をなし、毎年約50.29秒西へ退行し、約25800年で一周する。いわゆる春分点西行である。古く中国では二十八宿東行として知られていた。歳差としてよく知られていることである。時間に換算するなら歳差(の50.29秒)は20分24秒である。この歳差の影響により、春分点そして節気は毎年前に移動する。根拠として統計結果を挙げると、1901年から1943年までは清明節は4月5日または6日であったが、1944年から1975年までは4月5日、1976年から後は4月4日または5日になっている。
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 わが国では唐朝に定気法が現われた。惜しいことにこれは広く使用されず、天象にのみ応用されて、暦には平気法が使われた。清朝の時憲暦で平気法を改め定気法が使われた。これは暦法上の一大革命である。

 つまり、黄正大師によれば地球の歳差運動により春分点ならびに節気は毎年早くなるということである。しかし、毎年20分24秒早くなるなら、約70年で1日、2000年では1箇月近くも早くなる。逆にいえば、イエス・キリスト降誕(西暦1年)の頃には春分は今より1箇月ほども遅くて、4月20日ころだったことになる。これは本当か?
 そんなことはない。西暦1年頃も現代も、春分の日付はほぼ同じなのである。無論節気(を太陽黄経で決める場合)も。
 もっとも、春分が少しずつ早くなった時代というのはあった。ローマ時代に制定された「ユリウス暦」が使われていた時代である。この暦では閏年は4年に一度であったが、これが少し多すぎたのだ。このため16世紀になると春分が聖書の頃より10日も早くなってしまった。このため、ローマ教皇グレゴリウス13世の時代(1582)に暦を改訂した。これが現在も使われている「グレゴリオ暦」で、閏年は400年に97回と、少し減らされた。また、改訂時に日付を10日飛ばすことによって、聖書の頃と一致させた。だから現代のグレゴリオ暦を西暦1年頃まで遡って適用すれば、春分は現在と同じく3月20日頃、清明も4月5日頃なのである。

 ならば、黄正大師が「根拠」としている、清明節がだんだん早くなっているというのはどういうことか?実はこれはユリウス暦の例と同じことなのである。
 1900年以降現在までは、4年に一度閏年が置かれて来た。つまりユリウス暦と同じである。1年の正確な長さは365.2422日である。だから平年は0.2422日短いので、清明(および節気全般)は毎年これだけずつ遅くなる。4年では0.9688日であるが、そこで閏日が入るので、逆に0.0312日早くなる。これが25回続いて100年では0.78日、これだけ清明(および節気全般)は早くなった。黄正大師の「根拠」は、実はこういうことだったのである。つまり、「某些人」の説のほうがむしろ正しいのである。
 さて、今後も4年に一度閏年が置かれれば、2100年には節気は1900年より1.56日早くなる。しかしグレゴリオ暦では2100年には閏年を省くから、1日戻って1900年より0.56日早くなる。2200年には、さらに0.78日早くなるがまた閏年を省くから、 早くなる。2300年には、 早くなる。つまり、1900年から2300年までの400年間で0.12日早くなるだけである。それでも3200年経てば0.96日早くなるが、ユリウス暦などと比べれば非常に小さな誤差である。

 それでは、黄正大師の言う「歳差」の問題はどうか?歳差により、春分点が毎年約50.29秒西へ移動するというのはそのとおりである。これを時間に直せば、(地球は1年間で360°公転するから)20分24秒になるというのもそのとおり。では、何故春分(や節気)はそれだけ早くならないのか?
 この答えは既に述べたことの中に含まれている。つまり、春分の日付が2000年前とほぼ同じになるように現在の暦が作られているからである。1年の正確な長さ365.2422日というのは、春分点から、50.29″西へ移動した翌年の春分点に達するまでの時間なのである。逆に言えば、地球は1年間に公転軌道を360°ではなく、
  360°−50.29″=359°59′9.71″
しか周っていないのである。
 このことは、暦の本質を考えさせる重要な問題だろう。天文学的には、地球の公転周期つまり360°周る時間が重要なはずである。しかし、それを1年としたら(公転年)、春分(や節気)は毎年動いて行く(70年で1日)。季節の変化と暦の変化が一致しなくなる。、そんな暦は誰も嬉しくない。暦はあくまで人の生活のためにあるのだ。科学よりも、人間にとっての便利さのほうが優先されるのだ(無論これは科学が重要でないという意味ではない)。

 上に述べたことからわかるように、1公転年は
これだけの時間を隔てて、地球は公転軌道上の同じ所に還って来る。地球から見た太陽の位置が、たとえば「白羊宮の0度」だったとすれば、1公転年後にもやはり「白羊宮の0度」である。ただ、最初にそこが春分点だったとしても、還って来た時のその同じ場所は春分点ではない。歳差によって春分点は動いていて、それよりも20分24秒前に通過しているのである。そしてその春分点までが1年(1回帰年)なのである。
 「黄道12宮」とは、黄道上の12の星座のことであるが、「白羊宮(おひつじ座)」もそのひとつである。西洋占星術の書物の多くでは春分点をこの「白羊宮」としている。しかしこれは紀元前の時代のことで、現在では歳差のために春分点は「雙魚宮(うお座)」の中、むしろ「宝瓶宮(みずがめ座)」の近くにまで移動している。「春分点の西行」とはこういうことなのである。「二十八宿の東行」も同じことである。このことは既に紀元前にギリシャのヒッパルコスが発見している。西洋占星術は、それが知られていなかった頃の星座を未だ頑迷に踏襲しているのだ。
 しかるに黄正大師は、かの頑迷時代遅れの西洋占星術の書物に倣って、春分を「白羊宮」などとしている。歳差運動まで理解しているのに勘違いしている。惜しい人物である。

 2021年に節分が2月2日(立春が2月3日)になっても、このような珍説に惑わされることがないよう願うものである。


May 28, 2008

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