讖緯しんい説(天意を予言する中国古代に栄えた学問)によると、桓武天皇即位後の延暦三年(七八四)の十一月は、甲子朔旦冬至かっしさくたんとうじという四千六百十七年に一回しか巡ってこない天意の示される年月であった。その時を選んで、桓武天皇が遷都を考えたのは不思議はない。
福永光司、千田稔、高橋徹『日本の道教遺跡を歩く』pp156

『甲子朔旦冬至』とは何か?
 『朔旦冬至』とは、 である。かつての暦では 、その章初は必ず朔旦冬至になるものとされた。
 『甲子』については、年のこととも日のこととも解釈できる。ただ、歴史的には甲子日であると考えるべきだろう。当時の暦では甲子日の夜半(午前0時)に朔と冬至が重なるという非常に珍しい日すなわち 例えばこの延暦の頃に使われていた大衍暦ではその日が9600万年ほど昔に起こったとする。その根拠は不明なようであるが。
 さてそこで 確かに朔旦冬至であるが、その日は甲子ではなく である。ただしこの年はたしかに甲子年ではある。つまり、延暦三年は『甲子年朔旦冬至』であって、『甲子日朔旦冬至』ではない。ここには甲子朔旦冬至の意味のすり替えがあるように思われる。
 ともかく、甲子年朔旦冬至であるとすれば、上掲文のこれに続く「四千六百十七年に一回しか巡ってこない」というのが大間違いであることは誰でもすぐ気付くだろう。干支は60年で一巡する。しかし4617年というのは60で割り切れない。だから甲子になるわけがない。
 一方朔旦冬至は19年に一度とすると、
 60×19=1140年
という周期で甲子年朔旦冬至が起こるはずである。もっとも実際には必ず19年ごとに朔旦冬至になるわけではないのだが、とりあえず良い近似ではある。実際にはどうかというと、784年から1140年後の は朔旦冬至ではなかった。しかしその60年後、延暦三年からちょうど1200年後の1984年は朔旦冬至であった。もっともこの間に暦法の細部は変わっているので、これは偶然の要素もあるだろう。しかし朔とか冬至はその頃の暦でもかなり正確だったはずなので、それが干支一巡=60年の誤差で済んだ理由であろう。
 ともかく、甲子年朔旦冬至なら4617年の四分の一程度の周期で実際に起こっているわけである。

 ところで、延暦三年の事実はさて措き、「4617年に一回」の意味を考えるなら、これは甲子日朔旦冬至のことであろうと思われる。しかしその
 まず、
  4617=19×243
である。つまりこれはやはり19年に一度朔旦冬至があると考えているわけである。
 一方、
  243=35
である。
 実は というが、この120という数は
  3+9(=32)+27(=33)+81(=34
から来ているという。243はその次に来るべき数である。
 つまりこれは、どうも「数の遊び」のように思える。

 ところで、 そうである。この本の著者は何を根拠にこのような主張を展開しているのか、謎である。

Jun. 2010
ご意見、ご感想