湯浅吉見著『暦と天文の古代中世史』より
について
変更事由(重複するものあり)。

1183,1202,1221,1259,1278,1297,1316, 8回
章首以外の朔旦冬至を避けるため1270,13082回
章首後の閏八月を避けるため1243,12812回
四大を避けるため1316, 2回
前年の年間日数385日を避けるため12281回
事由未詳11871回

 湯浅氏は、「史上最も輻輳した操作が行われている」正和5年〜翌年、および建武2年〜翌年について、その理由を としている。しかし、この見解には疑義がある。

 これら2例について暦日変更の内容を詳細に見てみよう。
正和5〜文保元(1316〜1317)
計算(進朔なし)
大/小中気
1136-18024-7215
閏115-7548 
1235-431635-2486
5-2305-6157
234-366436-1428
33-63736-5100
実施暦
大/小中気
閏10  
11 4-7215
12 35-2486
5-6157
23436-1428
3 6-5100
中気を1日遅らせる(進朔なし)
大/小中気
閏1036-1802 
115-75485
1235-431636
5-2306
234-366437
33-63737

・計算(進朔なし)では、朔(5-7548)が十一月中気(4-7215)の翌日となり、朔旦冬至は実現しない。
・実施暦では上記の朔を1日早めることで朔旦冬至は実現する。しかしこれによって前後の月が28日または31日になることを避けるため、ドミノ倒しで前後の朔を1日早める(朔(5-7548)は進朔で6とするなら2日早める)。さらにこの結果生ずる四大を避けるために朔(3-6373)の進朔を行わない。
・中気を1日ずつ遅らせるなら、自動的に朔旦冬至が実現し、他に何も問題を生じない。

建武2〜 (1335〜1336)
計算(進朔なし)
大/小中気
1115-507444-4260
1245-345314-7931
閏1215-1340 
44-678645-3202
214-292815-6873
343-659046-2145
実施暦
大/小中気
閏1015 
11 44-4260
12 14-7941
45-3202
21415-6873
3 46-2145
中気を1日遅らせる(進朔なし)
大/小中気
閏1015-5074 
1145-345345
1215-134015
44-678646
214-292816
343-659047

・計算(進朔なし)では、朔(45-3453)が十一月中気(44-4260)の翌日となり、朔旦冬至は実現しない。
・実施暦では上記の朔を1日早めることで朔旦冬至は実現する。これによって11月が31日になるのを避けるため朔(15-1340)も1日早め、その結果12月が31日になるのを避けるため朔(44-6786)を進朔しない。さらにこの結果生ずる四大を避けるために朔(43-6590)も進朔しない。
・中気を1日ずつ遅らせるなら、自動的に朔旦冬至が実現し、他に何も問題を生じない。

 つまり、これら2例とも、冬至(十一月中気)が朔より1日前であったため、朔を1日早めることで朔旦冬至を実現した。これ自体は他の多くの場合と同様であるが、この2例の場合はこの操作のため前後に28日や31日の月ができてしまう。これを避けるために次々に朔を早め、挙句にその結果生ずる四大を避けるための操作までが加わった。以上が「史上最も輻輳した操作」の内容である。
 実は、この時代には朔旦冬至を実現するためには中気(節気)が1日ほど早くなっていたのである。それは、宣明暦の章歳(太陽年)が365.2446日で、19年ごとに朔旦冬至を実現するためには少し短かったことによる。章法が厳密に続くためには
  19太陽年=235朔望月
でなければならない。このためには太陽年を365.2468日としなければならない(飛鳥時代の元嘉暦がこれにあたる)。宣明暦ではそれより短いので、その原点(822年)からの400〜500年の間に、章法で要請されるより冬至が1日ほど早くなったのである。これがこの時代の暦日変更の主な理由である。試しに中気をすべて1日ずつ遅らせてみると、自動的に朔旦冬至が実現する上に、他に何の問題も発生しない。これらの操作が必要となった理由は明白である。そしてそれは「当時すでに宣明暦を用いること自体に無理が生じつつあった」からではない。
 むしろ、宣明暦では元嘉暦などと比べて太陽年がやや正確になった。そのために19年ごとの章首朔旦冬至が実現しなくなったのであるが、(おそらく)そのことを理解しなかった司暦(および朝廷)が章首朔旦冬至に固執したことがこれら暦日変更の理由である。

 仮にこの時代授時暦(太陽年=365.2425日)を採用したとすれば、冬至は正確になるが、それは宣明暦より1日、元嘉暦より2日ほども早くなり、章首朔旦冬至はますます実現しなくなるはずである。従って、 というのは、この鎌倉期の暦日操作、それが「当時すでに宣明暦を用いること自体に無理が生じつつあった」ことを根拠とするのであれば当たらない。

 これ以上は歴史のシロートである筆者の論ずるところではなかろうが、あえて付言するなら、足利義満が明から日本国王に封ぜらた時には、明の大統暦が伝わっている。しかしこれが用いられることはなかった。このことからも、この時期朝廷が新しい暦法を希求していたとは筆者には思えないのである。

計算上
の朔
変更
計算上
の冬至
変更
冬至
延暦3年
から
延暦3(784)34-1579 34-1983 
・・・
 日時は
  大余−小余
または大余のみで表わす。
 大余と干支の関係は右表のとおり。
 小余は分。宣明暦では
  1日=8400分
大余と干支の関係


 ただし、承久3および正和5は小余が6300を越えているので が行われている。進朔を行わない場合の「真の計算上の朔」は各々46-8177および5-7548である。

1.延暦3(784)年以来19年目ごとを章首としている。
2.しかし上記の章首のうち鎌倉期には計算上で朔旦冬至となることはきわめて少なく、仁治元年と、進朔を行わない場合の承久3年の2例のみである。
3.その他では次のいずれかによって朔旦冬至を実現している。
  3-1)朔を1日早める・・・進朔を行わない場合の正和5(1316)年を含め7例。
  3-2)冬至を1日遅らせる・・・建仁2(1202)の1例。
  しかし、3-1)と3-2)は効果としては同じことである。ともかく計算上では朔が冬至より1日遅くなっている、または冬至が朔より1日早くなっている。

Dec. 2010