彼岸、涅槃会、一の谷


   願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ

 こう詠んだ西行は、まさにそのとおりに建久元年二月一六日に没した。「きさらぎの望月」は涅槃会つまり釈尊入滅の日である。旧暦なので、花(桜)の頃でもあり、それとともに釈尊への憧憬が読み取れる。しかしまた、上記の西行の忌日は、新暦では1190年3月30日となる。春分(彼岸)とも近い。これが本稿の主題である。

 そもそも、春分は24節気の一で、二月中気とされる。つまりこの日は必ず旧暦二月(如月)でなければならないのである。無論、実際の日付は月齢によって二月一日になることもあれば、三十日になることもある。しかし長期の平均を考えれば、春分は二月の真中頃になる。つまり涅槃会と重なるのである。

 中世、「日想観」という習わしがあった。春彼岸の入日を拝むのである。春分には日は真西つまり極楽浄土のほうへ沈む。しかしそれは秋分でも同じことだ。とりわけ春分を重視したというのは、涅槃会を意識したものと思える。歳時記で彼岸は春とし、秋は「秋彼岸」と呼ぶのも同じ理由からだろう。
 大坂の四天王寺が、この「日想観」の名所だったという。当時、四天王寺の前はすぐ海だった。そして彼岸の入日はその海の向こう、須磨一の谷に沈むという。地図で確かめてみると、実際そのようだ。

 一の谷といえば、源平合戦のあった所。義経の鵯越逆落とし、敦盛最期など、エピソードは尽きない。この合戦があったのは元暦元年二月七日であるが、これも新暦に直すと1184年3月27日。やはり彼岸の直後である。
 さて、「一の谷合戦」というが、これに疑問を抱く人も多いようだ。吉川英治(「新平家物語」)もその一人。そして筆者も違うと思う。詳細は省略するが、鵯越から攻めるとすれば、福原京跡の平家の本陣のほうが相応しかろう。一の谷にも平家の軍はいただろうが、播磨からの攻撃を防ぐための分隊に過ぎなかったろう。安徳幼帝や建礼門院そして彼らに仕える女官たち、そんな連中があんな狭い所にいたとは考え難い。

 しかし、それならば何故「一の谷合戦」と呼ばれるのか?その鍵が四天王寺の「日想観」に求められそうである。春分の日が沈む場所として「一の谷」は有名だったろう。そして日想観に集まった人々は、「昔、あのへんで戦があったんや」と噂し合ったかもしれない。
 「あのへん」には違いなかろう、大坂から見れば。しかし、神戸っ子に言わせるなら、範頼軍が平家と対峙した生田川(現在の三ノ宮)からは一の谷は10kmも離れてるで、となる。

 能楽に「弱法師(よろぼし)」という演題がある。盲目の少年が四天王寺で父親と再会する。その時、夕日は西へ、つまり一の谷の方へ沈んで行くという、まさに日想観の光景である。思えば「平家」は盲目の琵琶法師達によって語り継がれてきたものだ。