平朔と定朔
 中国暦(いわゆる旧暦)では朔の日を毎月の一日とする。その朔の決め方には平朔と定朔がある。平朔は平均朔望月ごとに朔になるとするかなり簡単なものである。一方定朔は月および太陽の運行の変動を考慮したより複雑で精密なものである。
 平朔が用いられたのはかなり古い時代で、唐の頃から以後の暦はすべて定朔である。日本ではほぼ飛鳥時代まで用いられた元嘉暦だけが平朔で、それ以降はすべて定朔である。

平朔の実際
  は元嘉暦の時代の最初の数年の を示したものである。大と小が交互に並ぶことが7回または8回続くと大が2つ続く連大が現れる。これが平朔のパターンである。

元嘉暦
允恭天皇三十四年乙酉
(445)
十一
十二
同 三十五年丙戌
(446)
十一
十二
同 三十六年丁亥
(447)
十一
十二
同 三十七年戊子
(448)
十一
十二
同 三十八年己丑
(449)
十一
十二
同 三十九年庚寅
(450)
十一
十二

 したがって、以下の書物の記述は誤りである。

(1)  したがって、二九日の小の月と三〇日の大の月とを繰り返せば、ほぼ満足できるわけである。しかし、二朔望月の平均の長さは五九.〇六一一七八日だから、(略) したがって三三.三か月ごとに一日分となるから、大小大小大小・・・という組合せを三三カ月に一回大の月を重ねることでほぼ解消することになる 岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭 著『暦を知る事典』東京堂出版 2006年刊
 (2)「そこで昔の中国では、大小と規則的な組み合わせを十六回繰り返した後、連大といって、大の月を二回続けることによってこの端数を処理していた」上田雄 著(石原幸男監修)『文科系のための暦読本』彩流社 2009年刊

 もっとも(2)に関しては上田先生から筆者が監修を仰せつかったものなので、筆者にも責任がある。お買い求め下さった方にはお詫び申し上げます。

 (1)の「33.3ヶ月で1日の差になる」というのは一見もっともらしくて、つい騙される。しかし、「1日の差」を埋めるためには、本来小であった月を一つまるまる大にする必要がある。つまり、
   ・・・大大・・・
   ・・・大大・・・
という3連大にしなければならない。実際には連大の前後は小なので、
   ・・・小大小大小・・・小大小大小・・
   ・・・小大大小大・・・大小大大小・・
 1回目の連大の後は大と小の順番が入れ替わるだけで、1日の増加にはならない。2回目の連大までの間のの部分でようやく1日の増加となる。つまり「33ヶ月に1回の連大」では全く足りなくて、「33ヶ月に2回の連大」が正しいのである。
 正しくはこれは以下のように考えるべきなのである。
 下のの部分を1<区>と呼ぶ。
   ・・・小大大小大・・・大小大大小・・
1<区>
  1<区>:連大の2番目の大から次の連大の初めの大まで。
 したがって、
  1<区>=(n+1)×大+n×小
これが
  (2n+1)×平
と等しくなるためには
 つまり、各<区>の大小の繰り返し回数は概ね8回、6<区>のうち1<区>は7回ということになる。(大9、小8)の17ヶ月の平均日数は
 (大8、小7)の15ヶ月の平均日数は
 そして5×(大9、小8)+(大8、小7)の100ヶ月では29.53日である。
 連大が33ヶ月に1回というのはn=16であるが、この場合
これでは全く足りない。

 具体的な連大の置き方は月齢を考えるとわかりやすい。月齢は朔からの日数である。したがって朔の日は月齢は0で、翌日は1、以後毎日1ずつ増えていく。そして次の朔で0に戻る。
 平朔で平均朔望月が 日の場合を考える。第1日の月齢を0とする。第30日目の月齢は29で、まだ平均朔望月を越えないので、この日は第1月の三十日である。つまりこの月は大の月である。
 その翌日の月齢は30であるが、これは平均朔望月を越えるので翌月の一日となる。そしてこの日の月齢は平均朔望月を差し引いて
である。
 第2月の30日目の月齢は 。今回も平均朔望月を越えないので、この日は第2月の三十日、この月も大の月である。
 その翌日の月齢は30.4696であるが、平均朔望月を越えるので第3月の一日となり、月齢は
 その30日目の月齢は29.9388で平均朔望月を越える。したがってこの日は第4月の一日となり、第3月は二十九日で終わる小の月となる。第4月一日の月齢は
 以下も同様の計算を続ければ元嘉暦と同様の大小の並びが得られる。

平朔
初日
月齢
大/小
初日
月齢
大/小

 このシミュレーションでは初月初日を月齢0としたが、実際に月齢が0.0となることはきわめて珍しい。朔の日の月齢は0〜0.999のうちの<どこか>である。それが<どこ>なのかが決まらなければ以後の計算はできない。古い暦が上元を設けているのはこのためかと思われる。上元としては甲子夜半朔旦冬至という日が想定される。すなわち甲子の日の深夜(午前0時)に朔と冬至が重なるという非常に珍しい日で、たとえば宣明暦ではそれが700万年ほどの昔にあったとする。誰が見てきたんや、と思ってしまうが、ともかくそのような「暦の原点」を決めて、そこから平朔を求めたのであろう。なお、その日が甲子であるのは、かつて日は干支で数えたので、最初の干支である甲子から始めるのが計算上便利が良かったのだろう。

 容易に想像できることだが、このように(平均)朔望月を積算していく方式なら、非常に長期についての1ヶ月の長さの平均はその暦法における朔望月に限りなく近付く。100ヶ月なら29.53日、1000ヶ月なら29.531日、10000ヶ月なら29.5306日・・・という具合である。
 そして各暦法の平均朔望月は、日本で使われた最も古い元嘉暦でも現在の値と非常に近い。このため平朔に関しては長期の累積誤差もかなり小さい。元嘉暦と現在の差は0.000004日、したがって ヶ月(約20000年)で1日のずれである。これは節気(冬至)が宣明暦時代の800年ほどの間に2日近く遅れたのとは好対照である。

元嘉暦29.530585日
儀鳳暦29.530597日
大衍暦29.530592日
五紀暦29.530597日
宣明暦29.530595日
(現在29.530589日)

 つまり、平朔法ではあくまで のであって、前掲書(1)(2)にあるように「月の大小の決まったパターン」を当てはめるのではない。「決まったパターン」があるように見えるのは結果に過ぎない(その結果も前掲書とは全く違うが)。したがってこれは定朔法の朔の決め方(結果として月の大小の決め方)と基本的には同じなのである。ただ順次加える朔望月自体は平朔法は単純であるというに過ぎない。

 既に前4世紀の四分暦でも が確立されていたという。33ヶ月などという単純な連大法はどこにも無かったようである。

朔とは何か?
 定朔に進む前に、「朔(新月)とは何か」を明確にしておく。要するにそれは月と太陽が同じ方向にあるということである。
 まず太陽は天空上の黄道を動く。黄道十二宮すなわち西洋占星術の「おひつじ座」、「おうし座」、・・・「みずがめ座」、「うお座」という12の星座を1年かかって巡る。その位置を星座のかわりに から計った角度、黄経で表わす。つまり春分点は黄経0°であり、一周して360°で春分点に戻る。
 月も天空上を動く。その経路は白道といい、黄道とは5°ほど傾いている。黄道に垂直な方向の黄道からの離角を黄緯というが、月の黄緯はほぼ±5°以内ということになる。黄道と白道の交点では白道の黄緯は0°であるが、その付近で朔が起こった時には日食となる。
 さて、朔とは月と太陽の黄経が等しくなる時である。太陽は周天を1年(365.25日弱)で周る。これを太陽年と呼ぶ。月は27.3日ほどで周る。これを恒星月と呼ぶ。
 朔が起きたとしよう。その時の太陽、月の黄経をλとする。月はそれから27.3日後に同じ黄経λの位置に来る。しかしその間に太陽は動いているから、朔にはならない。朔までには月は太陽を追いかけなければならない。少し考えればわかることだが、朔から朔までの間隔つまり朔望月は、
の関係がある。したがって、
 ただしこれは太陽年も恒星月も一定と考えた場合の平均朔望月である。そしてこの平均朔望月ごとに朔が起きるとするのが平朔法であった。
 しかし実際には太陽も月も動きは一定ではない。その変動まで考えるのが定朔なのである。

ケプラーの法則
 太陽や月の動きの変動(の主要なもの)はケプラーの法則で説明される。すなわち、ケプラーが1609年に発表した
  第一法則:惑星の公転軌道は楕円である。
  第二法則:(いわゆる「面積速度の法則」)。

 この第二法則は次の方程式で表わされる。
 ここで
  r:太陽〜惑星(地球)間の距離
  λ:黄経
  t:時間
 dλ/dtは黄経の変化速度であるから、この式は黄経の変化がr2に反比例することを示す。つまり地球が太陽に近いほど、黄経変化は速い。
 この楕円軌道は次のように表わせる。
  r=a(1−e・cos(λ−λp))
 ここで、
  a:平均距離
  e:軌道離心率
  λp:近日点黄経
 そして
  λ≒Ω t+2e・sin(Ω t−λp)   (ケプラー黄経式)
 ただし
 黄経がΔλ変化するに要する時間は、  つまりλ=λpの時に最も短く、λ=λp+180°の時に最も長い。
 このケプラーの法則は月にも当てはまる。ただし軌道は地球を公転する軌道である。したがって次の記述は明らかに間違いである。

月の運動は不規則で、一般に秋から冬にかけては遅く、春から夏にかけては速い。
(岡田芳朗・伊東和彦・後藤晶男・松井吉昭 著『暦を知る事典』東京堂出版 pp11)

 おそらくこれは朔望月が一般に冬は長く夏は短いことを言ったものだろうが、これは月の遅速とは無関係で、太陽の遅速の帰結なのである。既に述べたように、太陽は冬至の頃に近日点を通過するのでその頃の移動は速く、その反対の夏至の頃は遅い。月はこれを追いかけるので、(速度が同じとしても)朔望月間隔は冬は長く夏は短くなるのである。
 「月の運動の不規則」はやはりケプラーの法則による。したがってやはり近地点では速く反対側の遠地点では遅い。しかしこの遅速は月の公転周期(恒星月)27.3日のうちに起こるので、季節によって変化するわけではない。また月の公転軌道離心率は0.055ほどで、地球の離心率0.017より3倍以上大きい。このため遅速の幅もかなり大きい。
 次式は の一部である。ただし簡略式といってもかなり正確である。
λ=124°.8754+4812°.67881 T(M-1)
+6°.2887 sin(338°.915 + 4772°.9886 T + A)(M-2)
+1°.2740 sin(107°.248 + 4133°.3536 T)(M-3)
+0°.6583 sin(51°.668 + 8905°.3422 T)(M-4)
+0°.2136 sin(317°.831 + 9543°.9773 T)(M-5)
+0°.1856 sin(176°.531 + 359°.9905 T)(M-6)
(以下略)
 Tの単位は年である。
 実際にはこの後に同様なsinの項が63項続くが、すべて振幅は微小で大局を見るときにはほぼ無視できる。(M-2)の中のAはTのsinを含むやはり微小な項である。
 (M-1)の項は、1年で4812°.67881進む、つまり 恒星月で一周する平均黄経である。
 (M-2)は、周期が の変動成分で、この周期は近点月つまり月が近地点から再び近地点に達するまでの時間である。これが恒星月よりやや大きいのは近地点が動くためである。この項はまさに『ケプラーの黄経式』式の2e・sin(Ω t−λp)に対応する(この式では近点月と恒星月の差を無視しているが)。
 (M-3)

 (M-4)

 (M-5)の角速度9543°.9773は(M-2)のそれの丁度2倍である。これは楕円運動をsin関数で展開したときに現われる倍振動である(これも以前の『ケプラーの黄経式』では無視した)。
 さて、(M-6)は の変動である。しかしその振幅(0°.1856)は小さい。
 黄経の変化速度は黄経を時間(T)で微分すれば得られる。sinの項の微分の振幅は元の黄経の式の振幅に角速度(ただしradian)を掛ければ良い。
(M-2)項と(M-6)項の微分の振幅は以下のとおりである。
微分項の振幅
 つまり、1年周期の変動成分(M-6)の速度変化は、近点月周期の成分(M-2)の変化の500分の1でしかない。「遅速の季節変動」はきわめて小さいのである。


定朔:宣明暦の場合
  。平朔は、既に述べたように平均朔望月を順次加えれば求められる。宣明暦の平均朔望月は ただし、1日=8400分で、これを統法という。
 任意の年の暦を作る場合には、 の平朔月齢を求め、そこから逆算して前年十一月平朔を求める。 わけだが、ここでの月齢はその遅れた冬至のものなので、朔を求める時には遅れは相殺される。十二月以降の平朔は通常どおりである。

 平朔が求められたら、太陽、月による補正量を求める。このうち太陽による補正とは、既に述べた太陽の季節による遅速(ケプラー運動)によるものである。このために、求められた毎月平朔の天正冬至からの隔たりを求める。そして次の入気定日加減数を用いて、それがどの節気から何日目であるかを求める。

宣明暦、入気定日加減数
 入気定日加減数は節気間の日数を示したものである。例えば1行目の「冬至・大雪」は、冬至〜小寒または大雪〜冬至の日数である。

 節気の決め方には平気法と定気法がある。定気法は清朝の時憲暦で初めて採用されたもので、ケプラーの法則によって節気を決めるものである。それ以前の暦法はすべて平気法である。無論、宣明暦も。平気法では節気は1年(冬至〜冬至)を24等分して決める。したがって節気の間隔はすべて同じである。
 にもかかわらず、宣明暦にはこのような入気定日加減数というものがある。これは節気は平気法で決めるが朔を正確に決めるためには季節による太陽運行の違いを知る必要があるためである。

 入気定日加減数は定気法による節気間隔のようなもの、と考えれば良い。ただし近日点は冬至に一致するとしている。実際の近日点は、古い時代には大雪付近にあったものが次第に動いて1300年頃に冬至点を通り、以後は小寒のほうへ動いている。なお、この節気間隔はケプラーの法則によるものと正確には一致しない。ケプラーより800年も昔の暦なのだから致し方なかろう。『ケプラーのΔt式』を用いて最小自乗法によって離心率eを求めると0.021ほどになる。実際のeは0.017ほどなので、これは2割ほど大きい。
 各日の太陽運動についての補正量は24節気損益 として立成(数表)に示されている。たとえば
 冬至から14日目はジク434.6909分
である。チョウは−、ジクは+の補正量である。以下これについて演習してみる。

 宣明暦では、平気法の節気間隔(気策)は
 一方、冬至〜小寒の日数は
 つまり、この間太陽は
速く動く。したがて14日目の太陽の位置は平気での
である。したがって日数の差は  このΔを角度に直せば
 これを
  月の黄経速度−太陽の黄経速度
で割れば朔の時間補正値となる。ただし、月の黄経速度はおよそ13°/日なのに対し、太陽はおよそ1°/日であり、古来中国暦では後者を無視した。
 月の黄経速度は
であるが、宣明暦では恒星月は明らかにされていない。あえて求めるなら、
 したがって補正値は
 恒星月の代わりに近点月である暦周を用いると、
 いずれも、入気定日加減数 434.6909分と正確には一致しない。しかし概ねこのような計算であろうと思われる。

 入気定日加減数 434.6909分から恒星月を逆算すれば、

 月による補正は、朔の日の近地点からの日数(入暦)を求め、それに対する補正値を立成から得る。
 そして太陽による補正値、月による補正値を加え合わせて定朔を得る。


 授時暦の定朔は、「ギリシャ的な幾何学的モデルを使って」(中山)、図のように解釈できるという。
 Oは太陽軌道P〜C〜A〜Dの中心、Eが地球である。OE__は離心率であるが、ケプラーのそれと区別して、以下ではこれをe2とする。
 gは平均黄経、wは実黄経に相当する。
であるから、
  Δ=w−g
とすると、
 これとケプラーの黄経式を比べれば
  e2=2e
である。
 ただし授時暦ではΔを「冬至または夏至」からの日数の3次式によって求める。これは正しくは「近日点または遠日点」のはずだが、ここでも近日点は冬至と一致しているとするわけである。実際、授時暦の時代には近日点は冬至に近かったのだが、宣明暦の例などを考えると、伝統に従ったまでで偶然の一致の面もありそうである。
 cは中国度。すなわち360°=365c.2425)。
 e2として宣明暦入気定日加減数から最小自乗推定したeの値の2倍の0.04259を用いると2°4程度の極値となる。すなわち、太陽の遅速に関しては授時暦の設定は宣明暦とあまり変わらないようである。

 月の運行も太陽と同様のモデルで解釈できる。つまり、月の平均黄経g’実黄経w’の差Δ’が近地点からの日数の3次式で求められる。
  Δ’=w’−g’(=3次式)

 定朔はまず第1近似として平朔を求める。ここまでは宣明暦と変わらない。しかし次に
によって補正値を求める。月の速度は、
(tは時間)で、
 平朔とは
  g=g’
のことである。したがってこのときは
  Δ−Δ’=w−w’
に他ならない。宣明暦では太陽による補正値、月による補正値を別々に求めたが、ここでは太陽と月の実黄経差から全補正値を直接求めるのである。
 この補正式は  速度は本来は
であるが、太陽速度を無視しているのは宣明暦の場合と同様である。しかしこの点を除けば、この補正式は近代的に見える。この補正で求めた結果を第2近似とし、これを用いて同じ手法で第3近似を求め、以下同様に結果が収束するまで繰り返せば、これはNewton-Raphson法である。もっとも立成には速度(転定度)が日単位でしか示されていないから、そのような詳細な計算は不可能なのであるが。

Oct. 2010
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