| コリニーの暦 |
| 臨時朔旦冬至 |
| 伊勢(内宮)式年遷宮と“望宵霜降” |
| ハロウィーンと立冬 |
| 節分は2月3日? |
| ウィトビの教会会議 |
| 淮南子天文訓 |
| 千葉卓三郎とハリストス正教会 |
| 結語 |
| 保元元年 | (1156=784+19×18+30) |
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| 文永七年 | (1270=784+19×24+30) |
| 延慶元年 | (1308=784+19×26+30) |
| 節気 | 近年の日付 (日本) | 太陽黄経(°) | 太陽赤緯(°) |
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| こうした対立は世俗の王にとっても好ましくないという考えから、六六四年、ノーサンブリア王オズウィが招集して、イングランド中東部沿岸のウィトビで教会会議が開かれた。直接の争点は復活祭の算定方式だったが、結局は主催者のオズウィの意向がものをいって、ローマ方式が採用されることになった。 |
| ・・ところで,そのベーダのやや初期の著作に『年代について』がある.本書は,8世紀にイングランドで紛争の種となっていた,復活祭の日付決定をめぐる問題への解答である.イングランドでは,いわゆる「14日派」と「15日派」とが抗争しており,前者の伝統が優位を占めていた.664年にウイトビーで開催された地方教会会議において,ローマ教会が主導する「15日派」の正統性が承認されたが,反対も強かった.ベーダはローマへの服従を要求し、その根拠を聖書の解釈を通して正当化した.この書の影響力もあって,イングランドでは復活祭日付を現行方式によって計算するようになった. |