ドルイドの天文知識


 本稿では、ドルイドの天文知識について概観するが、併せて東洋(特に日本)の歴史や習俗の中に見られる類似の現象についても述べる。
  である。ただし、本来のドルイドが居たのは紀元前のことで、本稿で見る2世紀以降の頃に居たのは、 とされる。しかし本稿ではこれを含めて「ドルイド」と呼んでおく。

コリニーの暦
臨時朔旦冬至
伊勢(内宮)式年遷宮と“望宵霜降”
ハロウィーンと立冬
節分は2月3日?
ウィトビの教会会議
淮南子天文訓
千葉卓三郎とハリストス正教会
結語

コリニーの暦
  。「2世紀末の5年間62箇月にわたる太陰太陽暦」とのことだが、より詳しく言うと、
 
 extra month(閏月)は2.5年毎というから、30年では12回となるが、これは多すぎる。  つまり、30年間で1.4日ほどの差でしかない。おそらく Coligny calendar では30年間のどこかで1度、閏を省くのだろう。
 このような太陰太陽暦はかつては世界の各地で行われていた。そしてギリシャから中国に至る広い地域で『メトーン周期』を応用していた。それは19年に7回の閏を置く、したがって235箇月とするものである。
 こちらは19年でわずか0.09日の差である。これに比べれば Coligny calendar はやや精度が悪い。
 メトーン周期はBC5世紀のメトーンが提唱したものだが、Coligny calendar はそれより古い起源のものかもしれない。 というが、これもその一例であろうか。

臨時朔旦冬至
 中国には「朔旦冬至」という日があった。十一月一日(太陰暦なので朔、新月)が冬至と重なるという日である。それは19年に1度出現した。メトーン周期である。中国ではこの19年を「章」と呼び、その間に7回の閏月を置く方法を「章法」と呼んだ。そしてこの朔旦冬至を「章首」とした。
 日本は古く飛鳥期から中国暦を採り入れていたが、朔旦冬至も桓武天皇の延暦三年(784)に初めて行われ、以後この年から19年ごとを章首とするようになった。
 もっとも、メトーン周期といっても厳密に成り立つものではない。数百年経てばずれが生じ、鎌倉期には章首に朔旦冬至が起きなくなった。それでも暦司は を行って強引に朔旦冬至を実現した。
 そしてこの時期、章首以外に「臨時朔旦冬至」が出現することもあった。これも暦操作によって朔旦冬至でないことにしたのだが、これが現れたのは章首から11年目、ひとつ前の章首からは30年目である。つまり、Coligny calendar の30年周期というのはたしかにかなり有効なのである。

臨時臨時朔旦冬至の例
保元元年(1156=784+19×18+30)
文永七年(1270=784+19×24+30)
延慶元年(1308=784+19×26+30)

伊勢(内宮)式年遷宮と“望宵霜降”
 伊勢神宮の式年遷宮は20年ごとに行われている。しかし古い時代には19年ごとだった。応仁の乱の頃に途絶えたものが江戸時代に復活したのだが、その時「かぞえで20年」だったものが「満20年」にすり替わったものと思われる。
 さらに、内宮のそれは19年ごとの九月十六日で、しかもその日は二十四節気で立冬のひとつ前の「霜降」の日だった(グレゴリオ暦10月23日頃)。霜降の日付が19年ごとに同じになるのはメトーン周期によるものである。そして陰暦十六日は望(満月)である。つまりこの日は“望宵霜降”と呼ぶべき日で、それは朔旦冬至と全く同様、メトーン周期によって実現する。かつてはそのことが明確に意識されていたはずなので、20年ごとになった現在の式年遷宮は伝統とは全く無縁のものなのである。

二十四節気
節気近年の日付
(日本)
太陽黄経(°)太陽赤緯(°)
太陽赤緯:+は北緯、−は南緯。

ハロウィーンと立冬
  。正確に言うと、ハロウィーンは「万聖節 All Hallow's Day」の前夜であるが、その万聖節の起源であるケルトのサウィン Samhain が立冬に当たるのである。
 四立しりゅうすなわち立春、立夏、立秋、立冬とは、二至すなわち冬至、夏至と二分すなわち春分、秋分の間を等分する点として定義される。そしてケルトにはその があり、中でサウィンが年始とされた。それがキリスト教に採り入れられて万聖節となったのであるが、その時代つまり9世紀頃には、立冬つまり秋分と冬至の中間点はユリウス暦11月1日頃であった。このためその日が万聖節となり、その前夜がハロウィーンとなったのである。
 そもそもユリウス暦というのは1年の長さが少し長過ぎた。閏年を4年に1度置くので平均の長さは365.25日となるが、正確な太陽年は365.242日ほどなので、0.008日ほど長い。このため130年ほどで1日長くなる。
 一方でローマ教会は325年の『ニケーア公会議』で「春分は3月21日」と決めた。これは天文学的な真の春分つまり太陽が赤道を(南から北へ)横切る時とは無関係にユリウス暦上で日付を固定したのである。 、ユリウス暦上での日付は130年ほどで1日ずつ早くなる。そして9世紀には6日ほども早くなった。これは二至二分すべてに当てはまり、したがってそれらの中間点である四立も同様である。こうして立冬であるサウィンが11月1日となった。
 強調しておきたいのは、サウィンが11月1日という日だったわけではないことである。それはあくまで立冬つまり秋分と冬至の中間点という天文学によって決定される日で、ドルイド(ケルト)はたしかにそのように認識していたはずなのであるが、ローマ教会に採り入れられた時代にはそれがたまたま不正確なユリウス暦で11月1日だったのである。
 ローマ教会は16世紀になってようやくユリウス暦を改めたわけだが、その時には春分が3月11日になっていた。ニケーア公会議の決定からは10日も早くなっていたのである。それで1582年に教皇グレゴリウスXIII世により現在のグレゴリオ暦が制定され、この時に 春分(したがってすべての節気)を325年当時に戻し、また 1年の長さをきわめて正確なものとした。これ以後、立冬は本来の11月7日頃に戻ったわけだが、サウィンを基とする万聖節は11月1日に固定されたままなのである。ユリウス暦の残滓と言うべきであろう。


星座(十二宮)は現在の位置

 本来、ユリウス暦はキリスト教とは何の関係もない。ユリウス・カエサルが を基に作ったもので、キリスト教がローマの国教になった時代にそれが使われていたというに過ぎない。キリスト教はもともとユダヤ教の一分派だったわけで、そのユダヤの暦は太陰太陽暦、ケルトや中国と同類のものだった。キリスト教では磔刑に処されたイエスの復活が重大なのだが、その日は元々は「過越の祭りの第1日=ユダヤ暦ニサンの月の14日」とされた。それは春分の直後の満月の日に当たるため、復活祭(イースター)の日取りを決めるために春分を知る必要があり、325年のニケーア公会議はそれを決めたものなのである。
 当初、ローマ教会には130年で1日ずれるというユリウス暦を修正する知識はなかった。2世紀アレキサンドリアのプトレマイオスは古代ギリシャ天文学の集大成とも言うべき『アルマゲスト』を著したが、ヨーロッパにはそれはずっと後年にアラビアから逆輸入された。 なのである。そしてグレゴリオ暦への改正はコペルニクスが地動説を提唱したよりも後の時代なのである。

節分は2月3日?
 「2月3日は節分です」、スーパーの恵方巻売り場の惹句である。しかし、節分は必ず2月3日なのだろうか?
 近年はたしかにそうである。しかし20世紀前半には2月4日のことが多かった。そしてまもなく、2021年からは節分が2日になる年が現れ始める。これについて考えてみよう。
 まず、節分とは立春の前日なのである。いや、本来は四立の前日はすべて節分なのである。四立が各々の季節の始まりの日とされたため、その前日で「季節を分ける」のである。ただその中で立春は年初と認識されていたため、その前日の節分が特に重視されるようになった。それで以下では立春について考える。
 既に述べたように四立とは二至二分の間を等分する点である。立春は冬至と春分の真ん中である。ところで、現在のグレゴリオ暦では400年に97回の閏を置く。したがって平均の1年は365.2425日となり、これはかなり正確である。実際の太陽年との差はおよそ3000年で1日程度、したがって冬至も春分も3000年くらい経たないとずれは生じない。
 ただし、これはあくまで「平均としては」なのである。400年に97回の閏、つまり閏は4年に1回より僅かに少ないのだが、実は1900年から2100年までの200年間には閏が省かれることはない。つまりこの間は閏が4年に1度なのである。これはかつてのユリウス暦と全く同じなので、130年も経てば冬至も立春も1日ずつ早くなる。1900年からは既に120年ほど経っているから、今まさにこれが起きている。こうして立春は1900年頃より1日早くなったのである。
 “八十八夜”、“二百十日”などはすべて立春から数える。1923(大正十二)年9月1日に起きた関東大震災はまさに二百十日に起きたと思われがちだが、この年の立春は2月5日だったので、正確に言えば二百九日だったのである。
 もし、何かの“権力”があって、「立春は2月4日、したがって節分は2月3日」と決めたとすれば、これはニケーア公会議で「春分は3月21日」と決めたのと同じことで、本来の天文学的な意味は失われることになる。もっともグレゴリオ暦では2100年、2200年、2300年に閏を省くことによって1900年頃に戻るので、ユリウス暦のように大きなずれが生ずることはないのだが。

ウィトビの教会会議
 7世紀後半、ヒベルニア(現エール)のキリスト教会とローマ教会の間に対立があった。
 こうした対立は世俗の王にとっても好ましくないという考えから、六六四年、ノーサンブリア王オズウィが招集して、イングランド中東部沿岸のウィトビで教会会議が開かれた。直接の争点は復活祭の算定方式だったが、結局は主催者のオズウィの意向がものをいって、ローマ方式が採用されることになった。
原聖『ケルトの水脈』pp227
 筆者のような門外漢にはわからないことだらけなのだが、まず、この時代には“ヒベルニアの教会”というのがローマ教会とは別にあったらしい。この書の少し前のほうを読み返してみると、ヒベルニアにキリスト教が伝わったのは4〜5世紀で、6世紀後半から7世紀にかけて最盛期を迎えたという。
 ただし、この地での布教は という。ただし、この“ドルイド”は「大陸ガリアの正統的ドルイドとは全く異なる、呪術を行う祭祀者」ということを同書は強調している。「(ヒベルニアについては)ガリアの場合と異なり、彼ら自身がドルイドを名乗ったことは文献的に確認されていない」とも。そのような(偽)ドルイドの呪術的要素も混入し、ヒベルニアの教会はローマとは異なるものになっていったのだろうか。
 このような観点を踏まえて、664年ウィトビの教会会議について見て行こう。前掲引用では「直接の争点は復活祭の算定方式だった」とされている。これについて、もう少し詳しい説明がある。
・・ところで,そのベーダのやや初期の著作に『年代について』がある.本書は,8世紀にイングランドで紛争の種となっていた,復活祭の日付決定をめぐる問題への解答である.イングランドでは,いわゆる「14日派」と「15日派」とが抗争しており,前者の伝統が優位を占めていた.664年にウイトビーで開催された地方教会会議において,ローマ教会が主導する「15日派」の正統性が承認されたが,反対も強かった.ベーダはローマへの服従を要求し、その根拠を聖書の解釈を通して正当化した.この書の影響力もあって,イングランドでは復活祭日付を現行方式によって計算するようになった.
樺山紘一『尊者ベーダ』(『暦の大辞典』朝倉書店 pp124)
 ここで言う「14日派」、「15日派」とは、イエスの復活をユダヤ暦ニサンの月の14日とするか15日とするかという問題で、325年のニケーア公会議の頃から論争があったものという。そして同会議で15日派が正統とされたことをベーダは論拠としたということのようである。
 しかし、ベーダ(673頃〜735)はウイトビーの会議の時にはまだ生まれてもいないのである。論争の内容が正しく伝わっていたかどうか。
 復活祭の日取りは「春分の次の満月の次の日曜日」とされる。したがって第一に春分を決める必要があるが、ニケーア公会議ではそれを(ユリウス暦)3月21日とした。“イースター満月”つまり春分の後の満月は、メトーン周期を利用した19年分の表 Paschal Full Moon(PFM) によって決められるが、664年の場合4月17日となる。


M:March, A:April

 ところで、664年というとニケーア公会議からは340年ほど経っている。ユリウス暦では春分の日付が130年で1日の割合でずれるから、この頃までには2.6日ほどずれる。もっとも325年時点で真の春分は3月20日でニケーア公会議の決定とはすでに1日違っていたので、664年の真春分は21日より3〜4日前となる。実際、現代の計算によればそれはブリトン地方時でユリウス暦3月17日である(この日は『聖パトリックの日』とされるが、たんなる偶然だろうか)。一方、満月が4月17日だったとすると、その29〜30日前の3月18〜19日も満月だから、こちらが“真のイースター満月”となるはずである。
 「巨石文化」の時代ははるか昔(2000BC〜1500BC)であるが、たとえば らしい。そのような“装置”を使えば、春秋分の日出日没を知ることも容易である。
 たとえば、 という。ブルターニュは北緯48度ほどで、たとえば夏至の日出の方位は東から37.3°であるが、
このように正確である。そして、春秋分の日出日没の方位は正確に東西であるから、この長方形の上辺または下辺の延長上である。


“クロムレッヘ”における日出方位

 真の春分が3月17日であった場合、4日後の21日の日出方位は北緯50度では2.5°ほど北寄りになる。小さな差のようではあるが、太陽の視直径は0.5°ほどなので、それの5個分である。春分を観測で決めていたなら、この違いは容易に気付くはずである。3月21日というローマ教会の“春分”には異を唱えたであろう。
 ヒベルニアの“偽ドルイド”に巨石文化時代の天文知識が受け継がれていたという証拠はないのだろう。ただ、コリニーの暦やサウィンが立冬であることなど、状況証拠はたしかに見られる。一方、ベーダのような文献的証拠は、ローマ教会という強大な権威が背景にあったわけで、事実が歪曲されている可能性はどこまで検討されているのか、門外漢の筆者には知る術もないところである。

淮南子天文訓
 中国前漢時代の『淮南子天文訓』にも春秋分を測る方法が書かれている。それによれば、4本のグノーモンABCD を東西南北に実に1里間隔で立てる。


『淮南子天文訓』の春秋分観測
 もしも春秋分の日に上辺AB___の延長上から日が昇るなら、そこが世界の中心である、とする。この時、下辺のDから太陽を見ると、右辺BC___上のC'を通る線上にある。
 CC'___=1寸 とすると、 とされているので、
 これはあまりに過小で、実際には、AS___=1億5000万km なので、CC’___=1寸(=3cm)となるためには、
でなければならない。しかしこちらも古くから日出日没で春秋分を測っていたことがわかるのである。

千葉卓三郎とハリストス正教会
 千葉卓三郎とは、東京都五日市町(現あきるの市)で発見された明治期の民衆憲法草案、『五日市憲法』の起草者である。この 。それによると彼は
「(明治)四年六月ヨリ同八年四月マデ、東京駿河台ニ於テ、魯人ニコライに就キテギリシャ教ヲ学ビ、兼テ魯学ヲ修メ」
とのことである。履歴書は体裁の良いことばかりを書いている可能性もあるが、この件に関しては神田駿河台のニコライ堂でウラが取れている。
 千葉は当初、「ギリシャ教」すなわちハリストス正教に熱心に帰依していたが、明治八年つまり1875年には突然離れている。新井勝紘氏は「なぜなのだろうか」と訝っている。
 ひとつ思い当たることがある。千葉が正教会に居た1873(明治六)年、日本は従来の和暦(天保暦、いわゆる「旧暦」)を廃止し、西洋の した。ここにひとつ問題がある。1582年にローマ教会が制定したグレゴリオ暦を東方教会は受け入れていなかった(今も!)。こちらは未だにユリウス暦だったのである。日本が洋暦に変わったといっても、それは千葉のいたハリストス正教会とは異なるものだった。この19世紀には、グレゴリオ暦(G暦)とユリウス暦(J暦)とでは日付が12日違う。そして、ハリストス正教会はニケーア公会議の「春分は(J暦)3月21日」という決定を守り続けていたから、その日はG暦4月2日、真の春分からは12日離れてしまっている。
 そして、復活祭を決める“イースター満月”は、G暦を用いるローマ・カトリックやプロテスタントでは3月21日だったが、これは当然、J暦3月21日(G暦4月2日)より前なので、 。復活祭はキリスト教では最も重要な日なのである。事実、千葉が師事したニコライの名を関するニコライ堂の正式名称は『東京復活大聖堂教会』である。その復活祭の日取りがこの正教会だけ他と異なるのである。千葉が疑義を抱いたとしても不思議はなかろう。
 もっとも、この時期の卓三郎が他宗派の復活祭まで知っていたかどうかはわからない。ただ、1873年にはキリスト教が解禁されているので、カトリックやプロテスタントも布教を進めていたはずである。
 さらに、春分は和暦でもわかる。春分は仏事の彼岸会であるばかりでなく、 では作暦のための重要な要素である。それは「二月中気」とされ、この日が必ず二月に含まれるように暦が作られる。このため「春分二月中気」は和暦には必ず記載されていた。たとえば明治六年和暦(改暦のためこれは使われなかったのだが)では、
 二月廿二かのとひつじ(辛未)春分二月中
とされているが、これはグレゴリオ暦1873年3月20日である。この時代の『天保暦』は既に西洋天文学を全面的に採用していたので、その春分はグレゴリオ暦のそれとほとんど違わない。そのことは知識層には知られていたはずである。
 また、千葉の履歴書には「(明治三年)十二月ヨリ同四年四月マデ、櫻井恭伯ニ就キ浄土真宗ヲ聞キ」とある。この宗派は彼岸会を「夕日が西方浄土の方角に沈む日」として重視する。その日は無論春分(および秋分)である。
 その後、1877年には「福田理軒ニ就キ洋算相修メ」とある。 というが、Wikipedia によると福田理軒は 「1842年には土御門家に仕え」 ている。土御門家とは、江戸時代の初めまで朝廷で暦を担当していた家である。渋川春海が『貞享暦』(1685)を作ってからは幕府天文方が主導することとなったが、 作暦の実権を奪回しようとした。最終的には洋暦(グレゴリオ暦)が採用されたためこれは叶わなかったわけだが、ともかく和暦に関しては力があったのである。和暦の本家とも言うべき土御門家に仕えた後、さらに洋算や天文学も修めていた福田理軒に就いたのは、 ユリウス暦に起因するハリストス正教の春分、復活祭への千葉の疑念に発したものと推察できるのではなかろうか。

結語
 古代以来、ドルイド(巨石文化)にしろ中国天文暦学(和暦を含む)にしろ、そして近代天文学にしろ春分を知る方策は常にあった。一方、古代ローマのユリウス暦は太陽暦としては不完全であったにもかかわらず、ローマ教会はそれの上で「春分は3月21日」などと決めてしまった。これに伴う齟齬がキリスト教の復活祭の決定とも相俟って様々な問題を起こしてきたと総括できるのではなかろうか。