八月十五日、九月十三日はろう宿なり。この宿、清明なるが故に月をもてあそぶに良夜とす

 徒然草二百三十九段は、たったこれだけの短い文章である。異例と思われる。これは暦師のような人から聞いた話のメモ、覚書なのではなかろうか。
 ともかく、その内容は八月十五日の中秋、九月十三日の「後の月」に関するいわれを述べたものである。すなわち、この両日は婁宿であるから観月に適しているのだと。
 婁宿とは、二十八宿という中国の星座のひとつである。そもそもは月が27.3日で天球( 恒星天)を一周することに由来する。この周期を恒星月というが、この27日ないし28日の間、月は毎日異なる星座に宿ることになる。それが二十八宿である。ただし、徒然草の時代(というより江戸時代初めまで)はこのうち牛宿を除いた二七宿が用いられた。次表がその二十八(七)宿である。

東方青龍北方玄武西方白虎南方朱雀
(牛)

 そしてこの時代の暦では毎月一日の星宿は決まっていた。たとえば八月一日は角宿で、以降、上の表の順で二日は亢宿、三日はテイ宿、・・と動いて行く。そして牛宿はないから、十五日は婁宿となる。また九月一日はテイ宿で、これも同様に辿っていけば十三日は婁宿となる。これが徒然草二百三十九段の前半の意味である。
 ところで、婁宿というのは西洋の星座では「おひつじ座β星」付近にあたる。雑誌などの西洋占星術ではたいてい3月21日(春分)頃からを「おひつじ座」としている。実はこのおひつじ座、婁宿は2000年程の昔には春分点があったところなのである。
 ただし、春分点はその後移動して、現在では「うお座」と「みずがめ座」の境付近になっている。二十八宿では壁宿あたりである。これは地球の歳差運動によるもので、春分点は25800年かかって天球を一周するのである。
 実は地球は1年(春分から春分、冬至から冬至、など)で公転軌道を一周(360°)していない。その間の公転角は359°59′ほどなのである。これが歳差運動によるもので、春分点が移動する原因なのである。何故一周を1年としないのかというと、それでは季節が次第にずれる、たとえば春分の日付が毎年少しずつ遅くなるからである。それでは暦としては都合が悪い。だから一周してなくても春分から春分(または冬至から冬至)を1年とするのである。これを太陽年と呼び、真に一周する時間を恒星年と呼ぶ。
 さて、中国暦(いわゆる『旧暦』)では秋分を八月中気とする。つまりこの暦では秋分は必ず八月なのである。これを天文学的に言い換えると、八月には太陽は必ず秋分点付近にあることになる。一方、満月は必ず天球上で太陽と正反対の位置にある。つまり太陽が秋分点にあるなら満月は春分点にあるわけである。したがって
  八月の満月≒中秋の名月
は必ず春分点付近にある
のである。そして2000年前には春分点は婁宿にあった。だから八月十五日が婁宿というのは、その時代には天文学的に正しかったのである。また恒星月が27.3日だから、 の十三日頃にはやはり月は春分点付近に戻ってくる。
 勿論、月が婁宿というより春分点に来ることは毎月(27.3日ごとに)起こる。ただ、そこで満月になるのは中秋だけなのである。

 
洋暦旧暦視赤経西洋星座二十八宿
2006年10月7日八月十六日23h47mみずがめ座壁宿
2007年9月27日八月十七日0h18mうお座壁宿
2008年9月15日八月十六日23h11mみずがめ座室宿
2009年10月4日八月十六日0h21mうお座壁宿
2010年9月22日八月十五日22h53mみずがめ座室宿
*赤経0h(24h)が春分点

 以上で中秋および後の月には月が春分点付近にあることはわかった。しかし、徒然の後半「この宿、清明なるが故に」は何を意味するのだろうか?
 キーワードは「清明」である。文字の意味からすれば ということになろう。実際、秋になれば空が澄み切って月が美しいとはよく見られる説明である。しかし兼行法師が言っているのは「この宿」つまり婁宿のことである。これを本来の星座と考えるなら、何故その星座だけが澄み切るのかがわからない。また婁宿に充てられる日と考えることもできるかもしれないが、その場合も
 別の解釈として、これを二十四節気の「清明」と捉えることが考えられる。清明とは、春分の次の節気で、洋暦(グレゴリオ暦)では4月5日頃である。
 実は、既に述べた歳差のために、徒然より少し前の頃から婁宿は清明点の近くになっていたのである。そして現在では   あたりまで動いている。これは、かつては婁宿にあった春分点が壁宿まで動いたことの裏返しで、、星座のほうに着目すれば逆方向に動くことはすぐ理解できるだろう。

節気2000年前1000年前現代
雨水壁宿室宿危宿
啓蟄奎宿壁宿室宿
春分婁宿奎宿壁宿
清明胃宿婁宿奎宿
穀雨觜宿胃宿婁宿

 もっとも、この論が矛盾を含んでいるのは明らかである。既に述べたように中秋の名月は常に春分点付近にある筈である。決して清明点にはならない。近年の旧暦八月満月もすべて壁宿または室宿で、これは春分点または啓蟄点で、清明点ではない。
 しかし古い時代には暦法によって中秋(八月十五日)は婁宿と決められていた。つまり二十八宿が本来の星座としてではなく、  一方、 。 この二つが混同されたのが徒然草二百三十九段の記述なのではなかろうか?




 さて、「婁宿=(二十四節気の)清明」と考えるなら、何故その日が「月をもてあそぶに良夜」なのだろうか?
 『清明節』は中国では墓参の日である。沖縄でも『うしーみー』と呼ばれてこの風習が残っている。この日はご馳走を持って墓へ行くピクニックのような日である。
 実は 。 だとすればこれは清明節を思わせる。古代には日本にもこの風習があったのかもしれない。それは渡来系上流階級に限られたかもしれないにしても。
 そんなわけで清明には死者を弔う、死者と出会うという意味が込められていそうである。ここで思い出されるのは嫦娥じょうがの伝説である。

嫦娥(じょうが)または?娥(こうが)は、中国神話に登場する人物。后?の妻。

『淮南子』覧冥訓によれば、もとは仙女だったが地上に下りた際に不死でなくなったため、夫の后?が西王母からもらい受けた不死の薬を盗んで飲み、月に逃げ、蝦蟇になったと伝えられる。

別の話では、后?が離れ離れになった嫦娥をより近くで見るために月に向かって供え物をしたのが、月見の由来だとも伝えている。

道教では、嫦娥を月神とみなし、「太陰星君」さらに「月宮黄華素曜元精聖後太陰元君」「月宮太陰皇君孝道明王」と呼び、中秋節に祀っている。
Wikipedia より

 この月と不死の薬の関係は竹取物語にも出て来る。すべての出所はこのあたりにあるようである。
 また、婁宿が西方白虎の星宿であることに留意すべきである。そこは西王母の住む方位である。つまり中秋は婁宿であり、そこでの満月は嫦娥と西王母が出会う時なのであろう。そして不死ないし死者の再生への願望も込められているのであろう。
 もっとも十五日の星宿が西方であるのは八月に限らない。九月、十月もそうである。

八月十五日婁宿
九月十五日昴宿
十月十五日觜宿

 しかし昴宿や觜宿は清明からは遠い。もしも清明に重要な意味を求めるなら、婁宿の八月十五日以外はあり得なくなるのである。

 ところで岩波文庫版『竹取物語』の解説には、
仲秋の明月を賞する風習が貞観以後にはじまること・・
という文言が見える。貞観期とは859〜876年、唐の末期である。その唐では845年に「会昌の廃仏」というのがあって、以降は道教が重んじられるようになっていった。おそらく中秋節はこの時代に始まったものだろう。であるならそれは、先に述べた歳差運動によって婁宿がそろそろ清明点近くへ移っていく頃である。初めから清明が意識されていた可能性もある。
 またこの貞観期というのは、 。その宣明暦は唐から直接は伝わらず、渤海国を介したのであるが、中秋節のようなものもそれとともに伝わったのであろうか?

Jun. 2010
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