九十夜、二百十二日


第7回「本屋大賞」を受賞した冲方丁うぶかたとう「天地明察」は渋川春海を主人公にしたものという。渋川春海(旧名安井算哲)は、江戸時代に貞享暦という初の国産暦を作った人である。それ以前の日本では中国の暦、それも唐の時代の時代遅れの暦を800年にわたって使い続けていたのである。それが江戸時代になってようやく国産の暦が作られた。と言っても、春海はやはり400年も前のゲンの授時暦という暦をベースにして、それに多少の修正を加えたにすぎないのだが、しかしそれは春海が授時暦の内容を理解していたことを示す。内容を理解しないで修正などしたら、どんな結果になるか解りはしないのだから。実際、それ以前の暦師は暦議というマニュアルに書かれているとおりに計算して作るだけで、そのマニュアルの意味を理解していたわけではなかった。それは人に言われたとおりに電卓を叩くようなものである。答えは出るが、何故そのように計算しなければならないのかは理解していない。内容を理解していなければ、暦に狂いが生じても何が原因なのか、何処を治せば良いのかがわからない。これが江戸時代初めまでの日本の暦の実情だった。渋川春海は日本の暦をようやく科学にしたと言うことができるだろう。

 さて、春海の造った貞享暦では、八十八夜や二百十日という雑節が新たに導入された。これらは中国や韓国などの暦にはない、日本独自の暦註であるという。そして二百十日に関してはは次のようなエピソードが伝えられている。
 ある快晴の日、春海が釣りを楽しもうと、海辺の村にやってきた。船頭に舟を出すように命じたところ、船頭は、
 「今日は二百十日で、かならず時化しける」
と言ってことわった。
 春海は怪訝におもったが、水平線上にあらわれた一点の雲が、みるみる空をおおって、大風雨となった。春海はこの体験にもとづいて、「二百十日」を全国の暦に記載するようになったという。
岡田芳朗『春夏秋冬暦の言葉』(大修館書店)

 しかし、この話には矛盾がある。実は貞享暦ではそれ以前の宣明暦より立春(二十四節気)が2日ほど早くなったのである。これは貞享暦が採用された貞享二年について、それ以前の宣明暦と比較すれば確かめることができる。
貞享二年立春
宣明暦1685年2月6日(甲子)
貞享暦1685年2月4日(壬戌)
内田正男編著『日本暦日原典』(雄山閣)

 この原因は、宣明暦が1年の長さを365.2446日としていたことにある。実際の1年は365.242?1)日なので、これは0.002日ほど長すぎる。
 宣明暦というのは唐の時代の暦で、日本には平安時代に渤海国を通じて伝わったものである。中国ではその後何度も暦が改訂されたが、日本には伝わらなかった2)。このため日本の朝廷では、この宣明暦を800年にわたって使い続け、その間、長すぎる「1年」を愚直に積算しつづけたので、節気が実際より2日近く遅れたのである。貞享暦ではこれを改善し、かなり正確になった。

 周知のように八十八夜や二百十日は立春から数えるから、それまでの宣明暦の八十八夜は貞享の新暦では九十夜、宣明暦の二百十日は貞享では二百十二日にならねばならないのである。
 もっともこれらは他の暦註と違って、農漁民などの間で経験的に言い伝えてきたものであろうから、1日2日の違いに目くじらをたてるべきではない、という考え方もあるだろう。ただ、先の渋川春海のエピソードは(宣明暦時代の)二百十日ピンポイントについてのものである。そして貞享暦で立春が2日早くなることは春海が一番よく知っていたはずである。したがってこれは少なくとも論理的には矛盾である。

 ところで、八十八夜や二百十日が暦に記載されるようになったのは明暦二(1656)年の伊勢暦からとされる3)。貞享改暦より30年ほど前である。この伊勢暦というのは「地方暦のひとつで、伊勢神宮の神官がお札を配りながら全国を歩く際に、おみやげにしたもの」(岡田)という。200万部以上発行されたというから、かなり普及していたようだ。渋川春海はこれを正規の官暦に採り入れたのである。そこには自らの経験によって有用性を認めたということもあったかもしれないが、むしろそれ以上に、既に広く知られていた暦註を公認したということであろう。その時、1日2日の違いにこだわるよりは従来どおりの八十八夜、二百十日のほうが通りが良いという判断が働いたのであろう。

朝鮮通信使と『朝鮮暦』
 実際のところ、八十八夜、二百十日が九十夜、二百十二日であろうとなかろうとどーでもいーことではある。ただ、貞享改暦の時、節気が2日ほど早くなったという事実は、かなり重要な意味を含んでいる。その一例は朝鮮通信使に関連する。
第一回回答兼刷還使の出発
 一六〇七(慶長一二)年三月、壬辰倭乱後の最初の朝鮮使節団が日本の土を踏んだ。くわしく言えば、一行の漢城出発は一月一二日、釜山出港が二月二九日、対馬府中(厳原、現・対馬市)出発が三月二一日、四月八日大坂、同一二日京都、そして五月二四日(以上の日付はいずれも朝鮮暦)にようやく江戸に到着した。
仲尾宏「朝鮮通信使」(岩波新書)pp29

 江戸時代最初の朝鮮通信使(正式名称は「回答兼刷還使」)の旅程である。「以上の日付はいずれも朝鮮暦」という注意書きが目を引く。つまり、日本の暦では必ずしもこうではなかったということである。どのように違ったのかについてはこの本には何も書かれていない。しかし、調べてみるとこの年日本では閏四月があった4)。閏四月があったとすると、京都を出た四月一二日から江戸へ到着した五月二四日までは70日強ということになる。これは長すぎるだろう。もし閏四月がなければ40日強だから妥当な日数である。つまり日本の暦には閏四月があったが朝鮮暦にはなかった。したがって通信使が江戸へ着いた五月というのは日本の暦では閏四月だったのである。

 何故そのようなことが起こったかというと、既に述べたように、日本の当時の宣明暦では節気が2日ほど遅れていたことが原因なのである。これは旧暦の暦法を知れば理解できる。
 一般に「旧暦」と呼ばれるこの中国起源の暦では、月を「中気」によって決める。中気とは、二十四節気のうちのひとつとばしのものである。すなわち、立春の次の雨水が「正月中気」、啓蟄の次の春分が「二月中気」、清明の次の穀雨が「三月中気」、・・そして大雪が「十二月中気」である。正月中気の雨水は必ず正月に含まれる。同様に二月中気の春分は二月に、三月中気の穀雨は三月に含まれる、というのが基本ルールである。一方この暦は「太陰太陽暦」であるから、1ヶ月は必ず朔(新月)の日から始まる。したがって、雨水の直前(雨水当日を含む)の朔の日が正月一日であり、春分の直前(春分当日を含む)の朔の日が二月一日、以下も同様である。
 ところで、二十四節気というのはつまるところ1年を24等分する点である。5)中気はそのひとつとばしだから、1年(365日とちょっと)を12等分することになる。その間隔は30.4日ほどである。一方、朔から朔までの間隔(朔望月)は、多少の変動があるが平均では29.53日ほどである。つまり旧暦の1ヶ月は中気間隔より短い。このため時に中気を含まない月が現れる。これが閏月である。これは中国暦に特有の実に精妙な置閏法なのである。

二十四節気

小寒十二月節1月6日頃
大寒十二月中1月20日頃
立春正月節2月4日頃
雨水正月中2月19日頃
啓蟄二月節3月6日頃
春分二月中3月21日頃
清明三月節4月5日頃
穀雨三月中4月20日頃
立夏四月節5月5日頃
小満四月中5月21日頃
芒種五月節6月6日頃
夏至五月中6月21日頃
小暑六月節7月7日頃
大暑六月中7月23日頃
立秋七月節8月7日頃
処暑七月中8月23日頃
白露八月節9月8日頃
秋分八月中9月23日頃
寒露九月節10月8日頃
霜降九月中10月23日頃
立冬十月節11月7日頃
小雪十月中11月22日頃
大雪十一月節12月7日頃
冬至十一月中12月22日頃
二十四節気の日付

 2010年の節分の新聞記事に「節分は平年には2月3日、閏年には2月4日」とあった。しかし、節分が2月4日だったのは1984年が最後で、それ以後近年は閏年でも節分は2月3日である。あの新聞記事は随分古い時代の資料に依拠したものと見える。そして2025年以降は閏年の翌年には節分は2月2日となり、この2月2日節分の頻度は徐々に増える。
 何故このようなことが起こるかというと、実はこれは現在の暦つまりグレゴリオ暦に原因がある。現在の暦は基本的に4年に1回の閏年を設ける。平年は365日、閏年は366日だから、4年の平均では暦の1年(暦年)は365.25日である。これは天文学的な1年よりやや長い。ローマ時代から使われたユリウス暦では、この4年に1度の閏年を1600年にわたって続けたため、暦日が10日ほども遅れてしまった。周知のようにグレゴリオ暦では、これを是正するために400年に3回閏年を省くことになった。つまり西暦年が100で割り切れて400で割り切れない年は閏年としないというルールである。これで暦年は400年の平均では365.2425日となり、真の1年と非常に近くなった。
 しかし、これはあくまで400年という非常に長い期間での平均である。もっと短い期間では、ほとんどの場合4年に1度の閏年だから、平均はユリウス暦と同じ365.25日となり、暦日は少しずつ遅れる。逆に言えば季節が少しずつ早くなる。そのテンポは100年で0.75日ほどである。特に、1900年から2100年までの200年間は閏年を省くことがないから、1.5日ほど季節が早くなる。このため、かつては立春が2月4日〜5日だったものが2月3日〜4日へ移動する。節分は無論その前日である。そして2100年に閏年が省かれることによって少し元に戻り、2200年、2300年を過ぎればほぼ1900年頃と同じに戻る。つまりグレゴリオ暦では200年の間季節のずれが蓄積され、その後の200年で解消されるのである。
 このようにグレゴリオ暦の不斉一性が節分、立春の日付に影響している。他の節気もすべて同様である。これは節気がグレゴリオ暦以上に精密な太陽暦であるためである。これは後述するように節気が太陽黄経によって決められていることの当然の帰結である。

 以上のことを踏まえて慶長十二(1607)年の暦を見てみよう。
 宣明暦では、四月中気の小満はグレゴリオ暦1607年5月24日であった。したがってその直前の朔である4月26日が四月朔(一日)である。
 五月中気の夏至は6月24日であった。そしてその当日が朔なので、この日が五月一日である。
 ところが、この四月と五月の間に、グレゴリオ暦5月26日の朔がある。この日から5月朔までの間には中気がない。したがってこれが閏(四)月である。

 しかし既に述べたようにこの時代の宣明暦は節気が2日ほど遅れていた。それでは節気(中気)を2日早めるとどうなるだろうか?
 小満はグレゴリオ暦5月22日になるが、その直前の朔は4月26日で、前と変わらない。
 しかし、夏至は6月22日となり、宣明暦の五月朔(6月24日)より早い。そしてこの直前の朔は宣明暦の閏四月朔(5月26日)で、こちらが五月朔に変わる。
 大暑(六月中気)も7月22日となり、宣明暦の六月朔(7月24日)より早い。宣明暦の五月朔が六月朔に変わる。
 処暑(七月中気)も、8月22日となり、宣明暦の七月朔(8月23日)より早い。宣明暦の六月朔が七月朔に変わる。
 秋分(八月中気)は、宣明暦の八月朔(9月21日)と同じ日となり、したがって八月朔は変わらない。
 宣明暦の七月朔(8月23日)から始まる月は中期を含まなくなる。したがってこれが閏七月である。
 つまり、中気(節気)が2日早まることによって宣明暦の閏四月〜七月が五月〜閏七月に変わる。まる4ヶ月の間、月名が異なることになるのである。
慶長十二年、宣明暦
四月朔甲戌1607年4月26日
小満辛酉5月24日
閏四月朔癸亥5月26日
五月朔壬辰6月24日
夏至壬辰6月24日
六月朔壬戌7月24日
大暑壬戌7月24日
七月朔壬辰8月23日
処暑癸巳8月24日
八月朔辛酉9月21日
秋分癸亥9月23日
内田正男編著『日本暦日原典』(雄山閣)
中気が2日早まった場合
四月朔甲戌1607年4月26日
小満己未5月22日
五月朔癸亥5月26日
夏至庚寅6月22日
六月朔壬辰6月24日
大暑庚申7月22日
七月朔壬戌7月24日
処暑辛卯8月22日
閏七月朔壬辰8月23日
八月朔辛酉9月21日
秋分辛酉9月21日
 

 なお、ここでは宣明暦の朔の日付は正しいものと考えている。これには確証はないが、大きな間違いはないと考える根拠はある。それは宣明暦の朔望月の長さが29.530595日で、現在の平均朔望月ときわめて近いということである。平均が正確なら毎回の朔が正確とは限らないが、1日も2日もずれるということはまずあり得ない。そもそもこの時代には「晦日に月が出る」ことはあり得ないはずだったので、それが起これば誰でも不審に思ったはずである。
 因みに、「宣明暦では季節が2日遅れたために日食の予報が外れるようになった」とは、かなり多くの書物に見られる記述であるが、これが誤りであることは内田正男氏が既に1975年に明らかにしている。6)日食が外れたのは宣明暦の精度がもともとその程度であったのに過ぎないので、季節が2日遅れたこととは何の関係もない。また渋川春海が貞享暦を推していた頃、その原型であるげんの授時暦の日食予報が外れ、逆に宣明暦のほうが当たったという例もある7)。ただ、江戸時代の初め頃、日食の予報が外れることが頻出したということだが、むしろ偶然である。
 日食は朔にしか起こらないわけで、それがこの時代でも当たることもあったのだから、宣明暦の朔自体はかなり正確であったはずである。

 さて、第一回朝鮮通信使に戻る。そこでは『朝鮮暦』とされているが、これは明の大統暦である。当時の朝鮮国は明の「正朔を奉ずる」国だったからである。
 大統暦というのは事実上その前の元の時代の授時暦とほとんど変わらないという。中国では王朝が変われば暦も改まるのが通例だったのだが、授時暦は既に完成度の高いものだったので、明では名前だけ変えてこれを使ったものである。
 そして貞享暦は、渋川春海が授時暦を研究し、それを基として作ったものだから、大統暦とは兄弟のようなもので、内容もきわめてよく似ていたはずである。したがって前記の「宣明暦の中気を2日早めた場合」というのは、大統暦と大筋同じと考えて良いはずである。
 実は足利義満が永楽帝から日本国王に封ぜられた時、大統暦は伝わっていた8)のである。しかし朝廷はこれを用いなかった。しかし渋川春海が新暦を提唱した時に、朝廷で暦を作り続けていた土御門家(安倍晴明の子孫)はこれに対抗するために300年近くも放置していた大統暦を持ち出した9)というから、ご都合主義も極まれりである。もっと早くに大統暦を採用していれば、渋川春海の出る幕はなかったはずである。

 ところで、宣明暦と大統暦の暦日相違は、この慶長十二年に限ったことではない。このようなことは、中気が2日違うために朔との前後関係が変わる場合には必ず起こる。それは閏月前後である。そして閏月は19年に7回、およそ33ヶ月に1回の割合で現われるのである。
 ならば、両暦の違いに気付く人がいてもおかしくはないだろう。まず考えられるのは、その頃日本にいた朝鮮人達である。先の第一回朝鮮通信使の正式名称は「回答兼刷還使」であった。実はこれは、それ以前の秀吉の朝鮮出兵の時に被虜人として連れ去られた人達を取り返すための交渉の使節であった。実際、3万とも5万とも言われる人達が日本へ拉致されていたのである。この人達の中には日本の暦が「おかしい」と気が付く人もいたかもしれない。被虜人の多くは官僚や技術者など知識階層だったのだから。
 それだけではない。当時幕府はまだ鎖国政策を採っていなかった。このことはスペインやポルトガルの船が来航していたことばかりを意味しない。日本人も海外へ進出していた。たとえば角倉了以である。その一族は現代で言えば総合商社のような存在で、安南(現ヴェトナム)などとの貿易も行っていた。明や朝鮮そして安南といった東アジア諸国の中で、日本の暦だけが特異であることには気付いていて不思議はない。そしてそれらの国との交易の上でそれは悩みの種であったろうと思われる。

国内の暦日相違
 元和三(1617)年、徳川家康に朝廷から「東照大権現」の神号が下賜された。二代将軍秀忠は謝礼のため上洛したが、この時、朝廷の「京暦」と幕府の「三島暦」に相違が起こった。暦日の相違は日の吉凶の不一致をもたらし、表敬行事全般に影響を及ぼすので、これは政治的問題となった。10)

 ここで言葉の整理をしておく。
 宣明暦、貞享暦、大統暦、授時暦などというのは暦法つまり暦を作るための計算ソウトウェアの名称である。これに対して、京暦、三島暦、伊勢暦などというのは暦の作成者、版元を表わす。京暦は京都の暦師、三島暦は伊豆の三島神社、伊勢暦は伊勢神宮から出されていたものである。この時代はどの暦も暦法は宣明暦であった。暦法が同じなら内容が違ってはおかしいのだが、そこは昔のこと、計算間違いなどもあって、必ずしも一致するとは限らなかった。これがさらに事態を紛糾させる。貞享の改暦の後は、幕府によって頒暦の統一が計られたので、このような相違はなくなった(はずである)。

 ここで再び角倉が登場する。第一回朝鮮通信使のあった慶長十二(1607)年頃、大手ゼネコンでもあった角倉は幕府の命により富士川、天竜川の改修を行った。幕府の命で東日本の工事を行うのだから、京の角倉も幕府の三島暦を使わざるを得なかったろう。昔の土木工事では日の吉凶は重要だった。土を掘ってはいけない日などというのもあった。それを占うのに東日本の請負人や人足が京の暦を受け入れたとは思えない。ここでも角倉は暦の相違に悩まされたことだろう。

角倉一族と吉田光由
 その頃、角倉一族に与七という少年がいて、算学に才があった。後に江戸時代を通じてのベストセラーである数学書『塵劫記』を著すことになる吉田光由(1598〜1672)がその人である。この光由こと与七少年が暦の研究をしていたことを物語る話がある。それは渋川春海の弟子が師から聞いた話という。
 吉田七右衛門光由、算学に名あり。年七十余。しきりに中村七左を訪ふ。繁説長座、帰ることを知らず。七左これを厭ひ、後、病と称してはず。よりて予がもとに至り、愀然として曰く、日本の地、北に流るること五百里と。予問ひて曰く、何をもってこれを知るかと。曰く、吾少年の時、八尺の表を立て、冬至の日影を測る。今これを測るに、前に比して五分長し。一寸千里の説をもってこれを視るに、北に流るること五百里なりと。予問ふ、知らず、北極の度数、少年の時に比するに、高きを増すこと幾度なるぞと。光由曰く、北極はすなはち知らざるなりと。予曰く、足下よく書を読まざるの過ちなり。国何すれぞ流移せんや。足下用ひて愀然たるなかれと。一寸千里の説、朱子もまたこれを取れり。おそらくは是にあらざらん。
『塵劫記』大矢真一校注(岩波文庫)pp270
 ここに見られる光由はどうしようもない爺々である。中村七左とは当時の有名な儒学者だそうだが、そこへ行っては長居をするので嫌われ、仕方なく渋川春海(当時はまだ安井算哲という名であったはずだが)の所へ行き、日本の地は五百里も北へ動いたなどということをいい加減な根拠で述べたというのだから。
 それでも、「吾少年の時、八尺の表を立て、冬至の日影を測る」というのは注目に値する。ひょうとは鉄の棒のことで、これを垂直に立てて冬至の日影を測る。ノーモン gnomon と呼ばれる。昔の暦(中国暦)では冬至を決めてそこから翌年の暦を作るのだが、そのために冬至をこのような測定によって決めた。もっとも日本の朝廷では長くこのような測定は行わなかったのだが、光由は少年期から暦ないし天文の知識があったものと見える。
 しかし、八尺の鉄の棒を入手し、それを正確に垂直に立てる。そして影を測るためには地面を水平に整えなければならない。これを少年ができたのだろうか?
 実は角倉は京の大堰川(保津川)に舟を通すための工事で「水面下の大石については先の尖った大きな鉄棒を十数人で吊り上げ一気に落下させて砕く」11)という工法を行っていたという。そのための鉄棒を利用したのかもしれない。また角倉の技術者ならそれを垂直に立てることも容易だったろう。
 しかし、「八尺の表」というのがもうひとつ重要である。実ははるか昔の遣唐使の時代、天平七(735)年に吉備真備が大衍暦だいえんれきとともに唐から持ち帰った測影鉄尺かげをはかるくろがねのしゃくがやはり8尺だった12)。元代の授時暦が作られた時には40尺という巨大な表を用いたというが、これは例外で、8尺というのは冬至の影を測るための古代からのスタンダードだったのである。
 冬至の影の長さは、勿論表の高さによって変わる。変わらないのは表の高さと影の長さの比(タンジェント)である。無論、晩年の光由はそんなことはわかっていただろう。しかし、「一寸千里の説」などという時には、影の長さ自体を問題にしている。それは表の高さが同じでなければ比較しても意味がない。それは8尺というスタンダードが確立していたからこそ可能な言説なのである。ただし、現代科学の観点からはこの「一寸千里」は全く荒唐無稽な説13)であるが、しかしそれ以前に、スタンダードを知っていたかどうかは重要である。そして与七少年はこれを知っていたのである。
 彼の少年期というと、第一回朝鮮通信使そして角倉が富士川や天竜川を改修した慶長十二(1607)年頃から、どんなに遅くとも家康が「東照大権現」を賜わった元和三(1617)年に重なる。おそらく暦に悩まされていたであろう角倉了以やその子息素庵が彼に暦を学ばせたと推論するのはあながち外れていないのではなかろうか。

 「一寸千里の説」は『周髀算経』という成立年代不詳の書物に見られるという14。もっともその内容は「夏至の日の正午に、高さ8尺の(ノーモン)の影の長さは1尺6寸であったが、そこから南へ千里のところでは1尺5寸、北へ千里のところでは1尺7寸であった」というものである。冬至ではなく夏至の影なのである。しかるに吉田光由はこれを冬至に適用している。夏至と冬至では影の長さは全く違うことは誰でも経験的に知っているはずで、渋川春海(安井算哲)に謗られたというのも致し方なかろう。
 なお、『周髀算経』の観測点が洛陽あたり(北緯35°前後)とすれば、夏至の日の太陽南中時の天頂角は11.5°程度なので、8尺のノーモンの影が1尺6寸というのはほぼ妥当である。ただしそこから千里で変化が1寸というのはやはり過小である。ここでの1里は400mほどとされているが、それでも過小なのである。

 『塵劫記』では『新板塵劫記序』に「日月の行動、春秋の運気、其外、・・・、みな算数によって、吉凶をもとめ、・・」とある他は暦に関することは見当たらない。しかし吉田光由には、暦に関する2点の著作が知られている。次のものである。
 ・『和漢編年合運図』(1645)
 ・『古暦便覧』(1648)
 いずれも、既に50歳前後である。そして内容は宣明暦に関するもので、渋川春海のように授時暦を研究したという形跡は見られない。晩年の光由は失明したというから、授時暦に接する機会もなかったのだろうか。

 因みに、渋川春海(旧名:安井算哲)の父、初代安井算哲の従兄弟に安井道頓という人がいる。大坂の道頓堀を開削した人である。この人がいなければ阪神タイガース「カーネル・サンダースの呪い」はなかった、という軽口はさておき、この安井一族と、京に高瀬川を開き大堰川(保津川)を改修した角倉とは、大都市の舟運を整備したという点で共通する。

貞享改暦と『時憲暦』
 ともあれ、貞享二(1685)年になって渋川春海の貞享暦が採用された。既に述べたようにこれ以後、幕府によって頒暦の統一が計られたので、国内の暦の相違はなくなった。
 対外的にはどうか?貞享暦は授時暦を基にしているので、明の大統暦とはいくらも違わない。八十八夜、二百十日が九十夜、二百十二日にはならなかったが、節気の遅れはなくなった。だから宣明暦時代のような相違はあり得ない、はずであった。しかしそんなに甘くなかった。
 この間に明が滅亡し、清の時代となった。清朝では新たに時憲暦が用いられた。1645年のことである。実はこの暦では、西洋天文学を導入し、節気の定義が変わってしまったのである。

 コペルニクスが地動説を発表したのは1543年であるが、これ自体は今はあまり重要でない。13)しかし、ガリレイが望遠鏡を天体へ向けた1609年、ケプラーの第一、第二法則14)が発表された。これはプラトン以来の「天界の全き清浄な運動」を「天体の物理学」へ引き摺り下ろすもので、後のニュートンの「天体だろうと林檎だろうと同様に働く」万有引力への道を開くもの15)だった。
 すなわち、第一法則は
 「惑星の公転軌道は太陽をひとつの焦点とする楕円である。」
というもので、コペルニクスではまだ円軌道だったのとは異なる。
 第二法則は「面積速度の法則」と呼ばれる。楕円軌道上で太陽からの距離によって惑星の公転速度が変わるというものである。これが節気の決め方に影響する。

 大航海時代以来、中国にはイエズス会宣教師が来航していた。その中には天文学に通じている者があった。無論彼らはカトリックだからその天文学は天動説だった16)が、それでもこの「ケプラーの法則」は採り入れられていた。そんな宣教師の一人、アダム・シャールが作ったのが時憲暦である。ケプラーの法則を採り入れた節気の決め方を定気法という。これに対してそれ以前の方法を平気法(または恒気法)という、

 平気法の節気は1年(365.24??17)日)を単純に24等分したものである。一方、定気法では節気間隔は一定ではない。これを理解するためには、まず節気とは何かを理解する必要がある。もっとも24もある節気のいちいちを説明するのは冗長なだけであまり意味はない。そーゆーのは歳時記の類に任せるとしよう。ここで重要なのは二至二分つまり冬至、夏至、春分、秋分の4つの節気(実は中気)である。
 冬至とは、太陽が最も南(南回帰線)に達する時である。夏至は太陽が最も北(北回帰線)に達する時、春分は太陽が赤道を南から北へ横切る時、秋分は赤道を北から南へ横切る時である。よく言われる「冬至は昼が最も短い日」、「春分は昼と夜の長さが同じ日」・・などは便宜的な説明にすぎない。
 このように太陽が南北へ移動するというのは、地球の赤道面が公転軌道面(黄道面)に対して傾いているためである。或いは同じことだが、地軸(地球の自転軸:北極と南極を通る軸)が黄道面に垂直ではなく傾いているためである。地軸の北極側は「天の北極(北極星のすぐ近く)」のほうを向いている。地球は宇宙の中でこの姿勢を保ったまま、太陽の周りを公転しているのである。
 夏至の時には地球から見て太陽が最も天の北極側に寄る位置に地球はある。冬至には逆に、地球から見て太陽が最も天の南極側に寄る位置にある。無論、夏至から冬至までに地球は公転軌道を半周(180°)する。夏至、冬至から90°周った時には、太陽は地軸に直角な方向にある。これが春分秋分である。つまり地球の公転角によって二至二分が起こるわけである。もっとも通常は地球から見た太陽の天球上での方向である太陽黄経を用いる。これは公転角と逆(180°違う)なわけだが、二至二分が90°ごとに起こることには変わりはない。なお太陽黄経は歴史的経緯により春分を0°として測る。この春分点には、地球から見て太陽は『うお座』と『みずがめ座』の境界近くにある18)
 さて、ケプラーの第一法則によれば地球の公転軌道は楕円であり、太陽は楕円の2つの焦点のうちの1つにある。つまり地球から太陽までの距離 r は地球が公転軌道上のどの位置にあるかによって変わる。地球が最も太陽に近付く点(近日点)は、冬至点の近くにある19)。遠日点はそこから180°周ったところである。そうすると図を描いてみるとわかるが、近日点に近い冬至から春分までの90°および秋分から冬至までの90°の軌道弧は遠日点に近い夏至から秋分までおよび春分から夏至までのそれより短い。だから秋分〜冬至〜春分の180°を周る時間は春分〜夏至〜秋分の180°を周る時間より短いであろうことは想像がつく。そして実際そうなのである。

 地球が公転角Δλだけ公転するとき、その間の軌道弧の長さはrΔλである。これに要する時間をΔtとすれば、20)軌道周回速度は
 もしこの速度が一定なら、図からの推測のとおりである。ところがケプラーの第二法則によれば
なので、
 つまり、周回速度はrが大きいほど小さい。したがって近日点付近と遠日点付近の周回時間差は図からの推測よりも大きい。

 このように二至二分とは太陽黄経が90°進むごとに起こる現象であることがわかった。ならば二十四節気はこれらの間をそれぞれ6等分すれば良い。例えば春分(太陽黄経0°)から夏至(太陽黄経90°)の間を6等分すれば、太陽黄経15°が清明、30°が穀雨、45°が立夏、などとなる。以下も同様である。節気をこのように決めるのが定気法なのである。

 2010年1月20日は大寒であったが、春のような暖かい日であった。マスコミには「大寒なのに・・」という報道が目白押しであった。しかし大寒とは冬至から春分までの経路を1/3過ぎたところというのに過ぎない。無論、「大寒の頃が一番寒い」というのは統計的にはそのとおりである。季節は太陽の運行に連動するのだから、目安にはなる。しかし本来大寒はそのようにして決められたわけではない。この日は「十二月中気」で旧暦では必ず十二月である。同様に、冬至から春分までの2/3にあたる雨水は「正月中気」で、このようにして月を決めるから、冬至から春分までの半分にあたる立春の近くの朔の日が元日になるのである。このような旧暦のしくみがほぼ忘れ去られた中で、言葉の意味ばかりをことさらに取り上げてブンガクしてしまう。そして「大寒なのに暖かい」とか「立春といってもまだ寒い」などと言っているのが現代の日本人なのである。

 それでは、定気法の節気間隔はどのようになるだろうか?
 節気間隔をΔTとするとき、やはりケプラーの第二法則により(黄経差Δλはすべて15°なので)、
  ΔT=15°×c×r2
 ただしcは定数で、「すべての節気間隔の合計が1年」という条件で決まる。
 一方、ケプラーの法則を満たすrは次のように表現される。
  r=a(1−e・cosΛ)
 ここで、aは太陽までの平均距離で、1天文単位である。具体的な値は、暦について考える時は知らなくても良い21)
 eは軌道離心率で、軌道がどれくらい扁平であるか(円から離れているか)を表わす。地球の場合は0.0167ほどで、約60分の1と覚えておけば今は間に合う。
 Λは近日点との黄経差である。近日点は冬至〜小寒の間にあるので、この節気間隔を求める時にはΛ=0°として良い。以降、小寒〜大寒はΛ=15°、大寒〜立春はΛ=30°などと、15°ずつ増やしていく。
  e≪1
なので、
  r2=a2(1−2e・cosΛ)
という近似が成り立つ。一方、節気間の平均の間隔は
 したがって
  ΔT=15.2184日×(1−2e・cosΛ)
 2eは約1/30なので、冬至〜小寒(Λ=0°,cosΛ=1)と夏至〜小暑(Λ=180°,cosΛ=−1)とでは(1−2e・cosΛ)の部分は1/15だけ違う。したがって、冬至〜小寒は夏至〜小暑よりちょうど1日ほど短くなる。

 さて、中国暦は冬至を起点とする。冬至から翌年の冬至までを1年とし、その間の節気を決める。したがって定気法でも平気法でも冬至は同じのはずである23)。定気法では、冬至から上記の節気間隔を逐次加え合わせたものが節気となる。一方、平気法では節気間隔はすべて1年を24等分したものである。この2種の節気の冬至からの日数を比べてみる。
 なお、ここで言う「1年」とは「冬至から冬至」である。これはここ1000年以上にわたって365.2427日ほど24)であって、平均太陽年365.2422日ではない25)。これは近日点移動によって起こる食い違いである。因みに「春分から春分」は365.2423日、「夏至から夏至」は365.2417日、「秋分から秋分」は365.2421日ほどである。
 次表の「平気法(もどき)」は、節気間隔を平均冬至間隔365.2427日を24等分したものとした場合である。

節気の冬至からの日数
節気定気法平気法(もどき)

 たとえば立春は、定気法では冬至から44.36日後であるが、平気法では45.66日後で、まる1日以上違う。つまり定気法を用いた時憲暦では平気法の大統暦や日本の貞享暦より立春が1日早いのである。したがって平気法での八十八夜、二百十日は定気法では八十九夜、二百十一日にならねばならない。いや、宣明暦を基準とするならそれは九十一夜、二百十三日になるわけである。
 しかしそれは序の口である。貞享暦と時憲暦では中気が異なるわけだから、前に見た慶長十二年の場合と同様、閏月の相違が起こる。

貞享暦以後
 享保四(1719)年にも朝鮮通信使があった。これは八代将軍吉宗就位の祝賀使であった26)当然、享保元年の就位以降、交渉が行われたはずであるが、その間の享保三(1718)年に閏月があった。清および当然その正朔を奉じた朝鮮の時憲暦では閏八月、九月、十月だった27)のだが、日本の貞享暦では九月、十月、閏十月となった28)
 この事態に吉宗は「レレレのレー!」と驚いたかどうかはわからないが、彼が貞享暦に満足していなかったことは確かである。吉宗は西洋天文学の造詣も深く、時憲暦についても知っていたようである。そして和算の大家関孝和の高弟だった建部賢弘を幕府天文方29)に擁し、さらなる改暦を進めさせた。しかし吉宗没後に成立したこの宝暦暦は、幕府から暦の主導権を奪還しようとする朝廷の土御門家の干渉などもあって、ろくなものにはならなかった。
 吉宗の遺志は孫の松平定信に引継がれた。大坂に麻田剛立という天文学の大家がいたが、定信はその弟子の高橋至時、間重富を天文方に迎え、彼らの手によって寛政暦が成った。この時代が幕府天文方全盛期の感がある。至時に師事した伊能忠敬が『大日本沿海輿地全図』を作ったのもこの時代である。しかし寛政暦にも未だ定気法は採用されなかった。
 その後、至時の長男景保がシーボルト事件で獄死30)するという事態を経て、至時の次男で渋川家を継いだ景佑によって弘化元(1844)年に制定された天保暦で、初めて定気法が採用された。時憲暦より約200年の遅れである。
 明治六(1873)年、西洋のグレゴリオ暦が採用され、天保暦は法的には廃止された。しかし現在でも様々なところで「旧暦」が残っているのは周知のところである。この「現在の旧暦」31)は、天保暦の暦法を踏襲している。ただし朔や節気の時刻は国立天文台が現代天文学で計算したものを発表し、それを用いて作暦しているのである。
 中国では1911年、辛亥革命によって成立した中華民国がやはりグレゴリオ暦を採用したが、時憲暦も「農暦」として残された。農暦は人民共和国になって一旦廃止されたが、その後復活して現在に至っている。

 大正十二(1923)年9月1日の関東大震災は、まさに二百十日に起きた大災害として語られることが多い。しかし、この年は立春が2月5日で、9月1日はまだ二百九日だった。しかもこれは、そのわずか80年前に制定された天保暦を適用した場合なので、この暦註が初めて公的に採用された貞享暦で考えれば、この日はまだ二百八日であるし、その前の宣明暦なら二百六日である。
 やはり二百十日や八十八夜は、その日ピンポイントで考えるべきではないのだろう。

「現在の旧暦」の諸問題
 さて、現在の日本の旧暦は基本的に天保暦であるし、中国の農暦は時憲暦である。どちらも定気法によっているので、かつてのような暦日の相違はなさそうなものである。ところが、1997(平成九)年の中国の春節は日本の旧正月より1日早かった。実はこれは日中の時差によって起こることなのである。
 宣明暦までの時代、日本では中国の暦をそのままの形で使っていた。しかし渋川春海が貞享暦を作った時、授時暦に日本との時差を考えて修正した。これが今となっては裏目に出た。朔や節気が日本時間で0時台になる時は、中国では前日の23時台となるわけである。
 これは確率的には24分の1であるから、節気は年に1回くらい、朔は2年に1回くらいの割合で起こる。特に大きな行事でもなければあまり気にする人はいないが、先の春節(旧正月)は中国文化圏では重要である。また2009年には『清明節』が日本より1日早くなった。中国では墓参の日である。他に『七夕情人節』は最近は「中国のバレンターンデー」として盛大になっているそうだが、2012年にはこれが日本の旧暦七夕より1日早くなる。『中秋節』にもこの可能性はあるが、2020年までを調べたかぎりでは相違はなさそうである。
 さらに、中気が時差によって1日動くと、そのために月が変わってしまうことがある。慶長十二年や享保三年と同じ理屈である。実際、1890(明治二十三)年には日本の旧暦閏十二月、正月、二月32)時憲暦では正月、二月、閏二月33)となった。
 2012年には、日本では閏三月、四月となるところが中国では四月、閏四月となる。34)旧暦四月八日の潅仏会(釈迦の誕生日)は台湾(中華民国)では『佛誕節』という祝日だそうであるが、これが日本の旧暦より1ヶ月早まるのである。台湾関係者は要注意であろう。
 2017年には、日本では閏五月、六月となるところが中国では六月、閏六月となる。横浜関帝廟では六月二十四日を祭神関羽の誕生日、関公誕35)として祝っているが、これが日中で1ヶ月異なることになる。
 次表は中国、台湾で重要と思われる旧暦行事が日本の旧暦と相違する例を2020年までについて推定したものである。
日中暦日相違
項目日本中国、台湾
2012年佛誕節5月28日4月28日
2012年端午節6月24日6月23日
2012年七夕情人節8月24日8月23日
2013年清明節4月5日4月4日
2013年端午節6月13日6月12日?
2017年関公誕(横浜)7月17日8月15日
? は僅かの計算誤差で食い違っている可能性もある。

 さらに定気法に固有の問題がある。既に述べたように、定気法では近日点に近い冬季には節気の間隔が短く、逆に夏季にはそれが長い。これが中気によって月を決めるという従来の規則を乱すのである。
 まず、これによって中気を含まない閏月が夏季に多くなる36)ということがある。別にこれは地球温暖化によって「夏が長くなった」のではない。単に節気の決め方により発生する人為的な問題である。
 さらに厄介なのは、中気を含まない月が2つ以上発生したり、逆に中気を2つ含む月が現われたりする可能性がある。これでは従来の方法では月が決められない。そして実際、2033年から2034年にかけてこれが起こることが知られている。37)
 時憲暦を作ったアダム・シャールはこれを予見して、
 ・冬至から冬至までが13ヶ月になる場合は中気を含まない最初の月を閏月とする。
という規則を作った。38)
これなら、従来の規則とはやや違うものの、月名はユニークに決まる。
 ところが天保暦では
 ・春分は二月、夏至は五月、秋分は八月、冬至は十一月
という余計な規則を設けた。2033年には、これに従うことは欠月39)でも設けないかぎり不可能なのである。

 実は2009年12月、『暦の会』(岡田芳朗会長)ではこの問題に関するシンポジウムが開かれた。しかし特に活発な論議が行われることもなかった。なにしろ24年も先のことで、出席者にはそれまで生きているかどうか怪しい人(筆者を含めて)が多かったので致し方あるまい。この問題はこれからの世代に委ねられることになろう。その点では「地球温暖化」とも通ずる。

結語
 最後に本稿で述べてきたことを概観するとともに、言い足りなかったことを補足して、結びとしたい。

 江戸時代の初め、日本で用いられていた暦は宣明暦であった。これは平安時代から800年にわたって使い続けられて来たが、この時代には季節が遅れていた。このため明や朝鮮など東アジア諸国の暦(大統暦)とは齟齬を生じた。加えて朝廷の権威の衰微もあって、国内でさえ暦は不統一であった。この事態は角倉のような貿易や全国的な土木事業を行う大商人には悩みの種であったろうと思われる。そして角倉一族の吉田光由は少年時より暦を研究した。やがて彼は『塵劫記』を著わし、これは和算の発展の基となった。それは和算の大家関孝和に引き継がれる。一方、角倉と同様に大坂の道頓堀の開削などをした安井一族から出た二代目安井算哲(渋川春海)は、授時暦を研究し初の国産暦である貞享暦を作った。これにより宣明暦のような季節の遅れはなくなった。また貞享暦行用とともに幕府天文方が置かれ、国内の暦は幕府によって統一された。
 しかしその頃、明が滅び清朝となり、その暦は大統暦から時憲暦へ変わっていた。これは西洋天文学を採り入れて節気の決め方が従来と異なる暦であった。このため貞享暦は周辺諸国となお相違を起こすことがあった。
 幕府はさらなる暦の改革を進めた。この背景には八代将軍吉宗や老中松平定信といった権力者の意向があった。吉宗は既に時憲暦についても知っていたようで、それと同等な暦が要求された。そして曲折を経て、時憲暦とほぼ同等の天保暦が作られた。
 しかし、渋川春海が導入した日本と中国との時差が今度は仇となり、今なお、日本の旧暦と中国の農暦にはしばしば相違が見られる。中国経済が発展し中国文化圏との交流がますます盛んになるであろうこれからの時代であるが、向こうでは旧暦の風習がまだまだ残っていることを考えると、これは一抹の不安材料ではなかろうか。
 また、時憲暦以来用いられている節気の決め方(定気法)は、置閏法に乱れをもたらすという問題もある。たかが旧暦、されど旧暦、である。

Jun. 2010
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