現在の平均的日本人の旧暦に関する認識は、多分こんなところだろう。
旧暦とは明治の初めまで日本で使われていた暦である。
旧暦を「陰暦」と呼ぶ人がいる。太陰暦と思っているフシがある。
旧暦は新暦より1ヶ月ほど遅い。たとえば旧正月は新暦2月初め頃である。
旧暦には閏月がある。このため1年が13ヶ月になることがある(このことを知ってびっくりする人も少なくない)。
24節気について旧暦に属するものと認識されている。
春分、秋分、夏至、冬至のように天文学的に意味が明確なものもある半面、「啓蟄は地中の虫が目覚める頃」などという科学的にはちょっと怪しいものも含まれている。
立春/立秋などは、「春/秋といってもちっとも暖かく/涼しくない」という揶揄の対象にされている。
「暦の上では」という枕詞とともに取り上げられ、花鳥風月の世界のことと考えられている。
節分立春の前日。豆まきをする。
雑節八十八夜、二百十日など。いずれも立春から数えるということはよく知られている。しかし、その意味を考える人は少ない。
土用土用波、土用干しなどと夏のものと認識されている。とくに土用丑の日は鰻を食べる日とされている。
六曜旧暦に属するものと考えられている。
大安は吉日、仏滅は凶日などとされ、また友引に葬儀などを行わないという風習が定着している。
しかし、これと旧暦の関係を明確に知る人は少ない。

旧暦とは
 1872(明治5)年までわが国で使われていた暦、と言って、とりあえず間違いではなかろう。
 しかしながら、たとえば「中秋の名月」の「中秋」とは旧暦八月十五日のことである。
 「新暦では1ケ月程度後になり、満月の日を『中秋の名月』と呼ぶことが多いようです。」
などという噴飯ものの書物もあるが
、少しものを知っている人にとってはこれが旧暦であるということは常識だろう。つまり中秋に月を見る風習が残っているということは、旧暦が残っているわけである。
 また、春分、秋分は24節気のひとつであると同時に、国民の祝日でもある。
 さらに、中国では「春節」といって旧正月を盛大に祝う。これは外国のことではあるけれど、その春節は日本でも旧正月であることが多い(食い違うこともあるが)。
 立春、立秋などの節気はニュースや天気予報でもよく取り上げられる。
 つまり、現在でも旧暦はかなり生き残っているのである。
 現在、日本の法律で定められている暦は新暦だけである。しかしながら、実は国立天文台では現在も旧暦が作られ続けているのである。もっともこれは、朔や節気などは現代天文学で決めて、それに『天保暦』の規則をあてはめているもので、厳密な意味では旧暦ではないようだが、それでも一般の感覚ではこれを旧暦と考えて、行事などに使用している。つまり旧暦は必ずしも過去の遺物ではない。
 さてここで、「天保暦」という言葉が出てきた。これは何だろう?旧暦とは「天保暦」のことなのだろうか?
 実は、ひとくちに旧暦といっても、細かく言えばいくつもの種類がある。勿論基本はすべて同じなのだが、細かい所が少しずつ違っている。細かい所というのは、例えば旧暦では大の月は30日、小の月は29日なのだが、この大小の決め方が違う(新暦のように1月が31日、2月が28日、・・というように決まっているのではなくて、毎年変わる)。節気の決め方そして閏月の置き方も違ってくる。
 わが国で使われた旧暦には以下のものがある。
暦法始行年行年
元嘉暦推古12(604)93
儀鳳暦文武元(697)67
大衍暦天平宝字8(764)94
五紀暦天安2(858)4
宣明暦貞観4(862)823
大統暦貞享元(1684)0.8
貞享暦貞享2(1685)70
宝暦暦宝暦5(1755)43
寛政暦寛政10(1798)46
天保暦弘化元(1844)29
 「天保暦」というのはこのうちの最後のもの、つまり明治に新暦に変わる直前まで使われていた暦である。
 この表からいくつかのことに気が付くだろう。まず、各々の暦が使われた年数にはかなりのばらつきがある。大統暦の0.8年や五紀暦の4年は例外としても、短いものは数十年、最も長いのは宣明暦の823年である。
 特に大統暦以後のものはだいたい短い。これらは江戸時代の暦である。そして貞享暦以後のものはすべて国産のものである。逆に言えば、それ以前はずっと中国の暦を輸入して使っていたのである。
 このように江戸時代には国産の暦がいくつも作られた。この時代に科学技術が急速に進歩したことが窺える。実際、これらは西洋の天文学も取り入れて作られたものである。
 一方、その前には宣明暦が823年にもわたって使われ続けていた。平安時代から江戸時代初期までである。その間、本家の中国では何度も改暦が行われている。特にあちらでは王朝が変わると暦も改められるのが常だった。大統暦は明の時代の暦であるが、その前の元の時代の授時暦というのは当時としては非常に精巧な暦であったとされる。しかしわが国ではこれが使われることはなかった。

旧暦は太陰暦ではない。
 旧暦のことを「陰暦」と呼ぶ人がいるが、これは正しくない。旧暦は太陰太陽暦つまり太陰暦に太陽暦の要素を取り入れたものである。前表に揚げた日本で使われた暦のすべて、さらにもっと古い時代の中国の暦もすべて太陰太陽暦なので、純粋な太陰暦が東アジアで使われたことは一度もない。
 純粋な太陰暦としてはイスラム暦が知られている。だから「ラマダン」の季節は毎年少しずつずれる。実は中東でも昔は太陰太陽暦が使われていた。しかしムハンマドが閏月を禁じたため太陰暦になったものという。その理由は金の貸し借りに関するトラブルを避けるためだったと言われる。

旧暦は新暦より1ヶ月ほど遅いか?
 概略としてはそう考えても良いが、いささか不正確である。
 たとえば旧正月は、早ければ大寒(新暦1月20日頃)の翌日、遅い時は雨水(新暦2月19日頃)と、約1ヶ月の幅がある。

閏月
 これがあるのが、まさに太陰太陽暦の特徴である。つまり、太陰暦では1ヶ月の長さは29日または30日だから、各々半分ずつの場合(必ずしもそうとは限らないのだが)、12ヶ月では354日にしかならない。これは1年(365日とちょっと)に比べて10日以上も短い。だから純粋太陰暦だと毎年季節が10日以上ずつも早くなる。これを防ぐために時々閏月を置くのである。閏月があると、その年は当然13ヶ月となる。
 古代中国では19年に7回閏月を置いた。これを「章法」と呼ぶ。一方古代ギリシャでも「メトン法」といってやはり19年に7回の閏月を置いた。洋の東西を問わず、古代から1年の長さはかなり正確に知られていたわけである。
 中国の章法では、19年ごとに太陽の運行と暦が同期した。特に、「朔旦冬至」といって十一月一日が冬至となることが当時はめでたいこととされたが、これも19年ごとに起こった。
 荘子に包丁ほうていという料理の達人の話がある。この人の使った牛刀は19年の間、刃こぼれひとつしなかったというから大変な技だったんだろう。しかし、何故19年なのか?20年でも15年でもないのか?おそらくこの章法が意識されているんだろう。当時はこの章法19年というのは重要な時間単位だったはずなのだ。
 しかしその後、章法は行われなくなった。いや、暦はもっと精密になったのだ。だから現在では閏月は19年に7回とは限らない。しかし、この19年という時間は今でも重要である。例えば2008年の旧正月は新暦2月7日であるが、19年後の2027年もそうである。

24節気
 さて、24節気であるが、実はこれは閏月の決め方にも密接に関係している。
 しかしその前に、24節気とは中国古代の太陽暦であるということを指摘しておきたい。旧暦を理解するためには、このことが肝なのだ。
 そもそも春分、秋分は「昼と夜の長さが同じ日」と説明される。夏至/冬至は「昼が一番長い/短い日」である。こんなことは小学生でも知っているだろうが、ともかく太陽の運行によって決められている。これが太陽暦でなくて何だろう?
 他の日も然りである。たとえば立春は新暦の2月4日頃である。つまり太陽暦である新暦で日付が固定しているのである。立春(24節気)自体が太陽暦なのだから当然のことである。
 「神宮館暦」という易占いの本と見られているものでさえ、たとえば立春は「太陽黄経が315度」などと説明されている。「黄経」についての説明は今は省くが、紛れもなく太陽の「位置」を問題にしているのである。太陽の位置で決まる日とは、まさに太陽暦である。
 あるいは、新暦には「365節気」があるのだとも言えるだろう。「毎日が節気」だからいちいち言わないだけなのだ。そしてそのうちの代表的な点を24個だけ選んだのが24節気。旧暦ではこれで充分なのだ。
 実際、虫が活動するのは4月の声を聞いてから、1日の最高気温が15℃ぐらいのころですので、旧暦ならドンピシャリ。現在の暦では、本当の「啓蟄」は1カ月ほど先なのです
 「半井小絵のお天気彩時記」
 これを読んだ時はぶっ飛んだ。この著者は「本当の(旧暦の)啓蟄」というのは「旧暦の3月6日頃」と思っているらしい。気象予報士という官許の科学者がこんな本を出してるのだから、開いた口が塞がらない。「24節気は太陽暦」ということさえ理解していればこんな珍妙な説は考えつくはずもないのだが。
・・もちろん大年のそばは意味としては年越しそばだが、現在のように「年越しそば」の言葉が使われるようになるのは、どうやら明治半ば以降のことらしい。そして、新暦では節分は二月初旬と決められたから、江戸時代のように年末と前後するような混乱を来すこともなくなったわけだ。
 岩崎信也「江戸っ子はなぜ蕎麦なのか?」
 これも珍妙な文章である。まるで新暦で節分が二月初旬なのは法律か何かで決められたかのようである。そうではなくて、元々太陽暦である節分/立春が、やはり太陽暦である新暦では2月3日/4日頃に当たる、ただそれだけのことなのだ。

 24節気とは、1年(365日とちょっと)を24等分したものと考えて基本的には間違いない。
 伝統的には、冬至から開始する。冬至から翌年の冬至までを24等分する。そして等分点が順に小寒、大寒、立春、・・・、大雪となるわけである。
 さらに、我々は「24節気」と呼んでいるが、本来は「節気」と「中気」に分けられ、それらが交互に現れる。すなわち立春が正月節気、次の雨水が正月中気、啓蟄が二月節気、春分が二月中気、・・・、小寒が十二月節気、大寒が十二月中気である。
 ここで重要なのは中気のほうである。正月中気の雨水は、必ず正月でなければならない。一方、旧暦では朔(新月)が毎月の一日であるから、雨水の直前(雨水を含む)の朔の日が元日となる。同様に春分の直前(春分を含む)の朔の日が二月一日、三月以降も同様である。このようにして、太陰暦で決めた月が大きく季節がずれないように、太陽暦である中気(24節気)で調整している、これが東アジアの暦の特徴なのである。
 ところで、「365日とちょっと」を24等分すれば、15日ちょっとになる。中気の間隔はその倍だから30日ちょっとである。一方、旧暦の1ヶ月は29日または30日であった。このため時々、中気を含まない月が現れる。実はこれが閏月なのである。

 このような24節気の本来の意味を理解するためには、「啓蟄は地中の虫が目覚める頃」などという説明はむしろ百害あって一利なしだろう。そんな説明によって多くの人が本質を見誤っているのである。そして24節気というと花鳥風月の世界のことと思ってしまう。もっとも、無理もないか。

  秋立つ日よめる              藤原敏行朝臣
 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

 すでに平安時代からこのような風潮が続いてきたのだから。ただ、花鳥風月を愛でるにしても、24節気が太陽暦だから都合が良かったのだとも言えるだろう。正月といっても年によって大寒(新暦1月20日頃)の直後であったり雨水(新暦2月19日頃)であったりするんだから、季節を特定するには節気しかなかったのだ。

 立春/立秋といってもちっとも暖かく/涼しくないというのは、たしかにそうなのだが、ちょっと本来の意味に立ち返って考えてみよう。節気は1年を24等分したものであるが、たとえば立春は冬至と春分の間を等分する点、立秋は夏至と秋分の間を等分する点になる。つまり立春というのは、この日からは冬至よりも春分に近くなる日であり、同様に立秋はこの日からは夏至よりも秋分のほうが近くなる日である。春分を春の真中、夏至を夏の真中、秋分を秋の真中、冬至を冬の真中とする、つまり太陽の運行を目安とする「天の季節」を考えれば、まさに立春、立夏、立秋、立冬がそれぞれの季節の始まりになるわけである。ただ、「下界の季節」はこれより遅れる、ということである。

Oct. 2007
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