長いまえおき |
さて2033年問題 |
定気は唐代からあった |
中気とは何か? |
日中暦日相違 |
| ということで、24気について知る必要が生ずる。『24節気』と呼ばれることが多いが、正しくは『節気』と『中気』に分かれ、両者をまとめたものは『24気』と呼ぶのが正しい。テレビのニュースなどでは、「立春」というと「暦の上では春」、「啓蟄」というと「地中から虫が出てくる」などと報じられる。古来、季節の変化の節目を表わすものとして花鳥風月を愛でるためにあるもののように捉えている日本人が多いのではないか?実はそれは副次的な意味合いに過ぎない。24気は本来天文学の要素なのである。 中国暦(の作暦)は冬至から始まる。冬至、これも「昼の長さが最も短い日」という解釈はまだ良いほうで、柚子湯に入るとかかぼちゃを食べるといった風習ばかりが重視されるきらいがある。無論それは冬至の重要性から始まった風習なのであろうが、本来の天文学的意味は忘れられているように感じられる。しかし本来、冬至とは太陽が最も南に偏る瞬間なのである。たとえば2012年の場合、 と、分の単位まで決まっている。この時、太陽は南回帰線の上にある。その後、太陽は北上しはじめ、やがて赤道に達する。この時が春分である。さらに太陽は北上を続け、北回帰線に達する時が夏至、そこから太陽は南に戻りはじめ、また赤道に達するのが秋分、さらに南下してふたたび南回帰線に戻り冬至となる。これが1年(太陽年)である。そしてこの冬至、春分、夏至、秋分(これらを「二至二分」という)の中間に四立すなわち立春、立夏、立秋、立冬を設ける。さらに、たとえば立春と春分の間を3等分する点を雨水、啓蟄とする。以下も同様で、こうして24気ができあがる。だから簡単に言えば24気とは冬至から冬至までの1年を24等分したものに他ならないのである。 |
A. | 2033.8.25 からの月には中気が含まれない。 |
B. | 2033.11.22 からの月には中気が2つ(小雪、冬至)含まれる。 |
C. | 2033.12.22 からの月には中気が含まれない。 |
D. | 2033.1.20 からの月には中気が2つ(大寒、雨水)含まれる。 |
E. | 2033.2.19 からの月には中気が含まれない。 |
|
|
中国暦が他に例を見ない定朔法を用いたのは、日食・月食の予報が重視されたためである。古来中国では皇帝が「天意を知る者」として暦を制定した。天意を知る、と口先で言うだけでは誰も信用しない。それは実証される必要があった。それが日食・月食の予報だった。これが当たるということは天意を知っていることになる。しかしひとたびそれが外れると皇帝の権威は失墜する。革命も起こりかねない。だから歴代王朝はこの予報を重視し、唐代には定朔法を採用するようになった。朔、望がずれていては日食、月食が当たる道理はないのである。そのためには定気法も、地動説やケプラーの法則とは無関係に観測事実から知ることになったのである。 日本では、天皇は「天孫」と称した。だから「天意を知る」ことは実証するまでもない自明のことという無謬神話が生まれた。これが日本の暦道・天文道を頽廃させた。陰陽師は「天皇が日食の光を浴びることは不吉」といった愚にもつかないことを言うばかりで、「天意を知る」という緊張感は全くなかった。 ヨーロッパでは、プトレマイオスは当時の天動説の枠内で天体の運行を正確に記述する方法を提示しただけなのであるが、これがキリスト教の唯一神の権威のもとに教条化、絶対視され、ルネサンス期までやはり天文学の発達を阻害した。 ともかく、定気法は既に唐代には知られていたのであるが、それは定朔を求めるためにのみ使われ、24気には採用されなかった。ひとつには、これを用いれば中気が乱れることを予見し、それを避けたのではないかとも考えられる。それが17世紀になって西洋天文学が導入された時、長い歴史のある平気法が捨てられたのである。 中気とは何か? ここで、中気とは何かということを考えてみたい。 平気法では、中気とは24気のひとつとばしのもので、それはまた1年(太陽年)を12等分する点でもあった。定気法はこの2つの概念を分断する。すなわち定気の24気は太陽黄経で決められる。これは天文学的な概念で、特に二至二分はこれによらなければ正確ではない。しかしこの定気24気を中気とするなら、それは1年の12等分点とはならない。ケプラーの法則の仕業である。 中気とは、月名を決めるという暦の概念で、天文学的概念ではないのである。それは平気法時代の1年の12等分点のほうがより適切なのである。思えば湯若望が時憲暦を作った時にはまだこの2つの概念が峻別されていなかったということになる。そして定気の天文学的24気をそのまま暦の中気に転用したことが混乱の原因となったのである。 なるほど湯若望は定気法における置閏法も提唱している。しかし既に見たように、清朝時代の時憲暦では必ずしもこれは行われなかった。長い歴史のある平気法を改めることがいかに困難であったかということの証左であろう。 そして日本であるが、2033年問題が取り沙汰されるというのは、その真の原因は にあるとしても、やはり多くの人が平気法のルールを引き摺っていることが、事態をより混乱させているのである。 しかし定気法の採用によって、中気の意味は既に変わってしまっている。実際2033〜2034年には中気を含まない月が3つ(A,C,E)出現するが、これらをすべて閏月とするわけにはいかないし、中気を2つ含む月(B,D)は、本来なら月名を決められないはずである。しかし実際にこれらが出現する以上、中気には元の意味はないわけである。 個人的なことになるが、筆者が暦に興味を抱くようになったのは24気の決定にケプラーの法則が使われていることを知った時であった。それはかつての天文少年の血を騒がせるに充分だった。だから、定気法にケチをつけるというのは慙愧に堪えないことなのであるが、しかしこうして歴史を知ってみれば、やはり定気法には難があると言わざるを得ないであろう。 それでも時憲暦から400年近くが経ち、もはや後戻りは困難であるように思われる。ご本家中国の紫金山天文台が湯若望のルールを採用しているというから、やはりそこに落ち着くのが無難ではないかというのが筆者の個人的見解である。 日中暦日相違 1997年には、日本では2月8日が旧正月だったが、中国の春節は前日の7日であった。何故か?実はこの時、朔が日本時間で8日0時6分、中国時間では7日23時6分だったのである。このように日中の時差のために日本の旧暦と中国の『農暦』の日付が異なることが時々起こる。 これは1685(貞享二年)から施行された貞享暦に始まったことである。貞享暦は渋川春海が作った初の国産暦であるが、この時春海は日本と中国の『里差』(経度差)を導入した。このため こととなったのである。 しかし、1日の違いというのはまだ良い方で、月まで違ってしまうこともある。2012年には小満(四月中気)が日本時間ではグレゴリオ暦5月21日0時17分であるが中国時間では20日23時17分となる。一方朔はどちらでも21日なので、日本ではこの21日からが四月となるが、中国ではその前の月が四月となるのである。因みに中国の四月は日本では閏三月、日本の四月は中国では閏四月となる。このように日中の月が2ヶ月間全く違ってしまうのである。
なお、2012年には五月朔(日本時間6月20日0時2分)、七月朔(日本時間8月18日0時54分)も中国では1日早くなる。中国では旧暦五月五日は『端午節』、七月七日は『七夕情人節』である。特に七夕は近年「中国のバレンタインデー」として盛んになっているという。これらが日本より1日ずつ早くなる。また旧暦四月八日の『佛誕節』は台湾(中華民国」では祝日なのであるが、これが日本より1ヶ月早くなるのである。 春節(旧正月)には香港では栃木の苺が日本の3倍とかの高値で売れるという。また中国の祝日には多くの観光客が日本に押し寄せる。その祝日の多くは旧暦(農暦)によっているのだが、それが日本と異なることがあると、それを知らずにビジネス・チャンスを失うことにもなり兼ねないのではなかろうか? ということで、筆者は日本の旧暦と中国の農暦は一致することが望ましいと考える。そのためにはどうすべきか。 一番簡単なのは日本が中国に合わせることである。「ご本家」である中国が日本に合わせるということはまず考えられないから。しかし、中国暦を頂いてそのまま使用することには抵抗を感じる人もいるようである。実は江戸時代初期までの日本はそんなレベルだったのであるが。 そこで提案である。既に見たように時憲暦以後「中気」の意味は変わってしまっている。これを逆手に取るのである。つまり、中気は別に天文学的な24気である必要はないのである。現在の「24気中気」の1時間前を『擬中気』(仮称)とする。そして擬中気を用いて湯若望のルールを適用するのである。擬中気は勿論、中国の中気と一致する。 朔は、さすがに定義を変えるわけにはいかない。しかしこちらは『退朔』を行えば良い。 宣明暦の時代には『進朔』というルールがあった。朔が現在の午後6時以降となる場合は翌日を一日としたのである。これに倣って、朔が午前1時より前の場合は前日を一日とする。これが『退朔』の意味である。これを行えば時差によって朔の日付が異なることもなくなる。 無論これは、何のことはない、中国暦をそのまま使うのと結果的には同じである。ただし中国暦(時憲暦)という言葉は全く使っていない。あくまでこれは日本独自の暦法なのである。 姑息だろうか?しかし、実はこんな例もある。
これはわが国における閏年の現在の法的根拠である。「神武天皇即位紀元年数」で決められていることに注目されたい。現在ではこれを使う人はきわめて僅かの筈であるが、法的には今も生き残っているわけである。さらに、「紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ」というのは、実は西暦に他ならない。これによって、西暦で決められているグレゴリオ暦の置閏規則を表わしているのである。 つまり、グレゴリオ暦では「西暦年数が100で割り切れて400で割り切れない年は閏としない」と、西暦(キリスト教紀)を用いているわけだが、キリスト教国でもない日本がこれを使うわけにはいかない。一方、都合の良いことに「神武天皇即位紀元」というのは江戸時代からあった。ならばそこから660を引けば西暦になる。ということで、日本の法体系の中に事実上の西暦を組み込むことができたのである。日本の旧暦を中国暦に合わせるのも、これと同じ手法を用いれば可能なのである。 ご意見、ご感想 |