2033年問題と『中気』

目  次
長いまえおき
さて2033年問題
定気は唐代からあった
中気とは何か?
日中暦日相違

長いまえおき
 暦関係者の間では『2033年問題』というものが話題となっている。これはいわゆる「旧暦」の話なのだが、現在日本で用いられている暦法では2033〜2034年にかけて、月の名前が決められなくなるということである。
 どういうことか、まずその問題のありかを理解するためには旧暦のしくみを知る必要がある。

 そもそも「旧暦」と呼ばれているものは、明治の初めまで用いられていた暦であるが、それは基本的に 。それは太陰太陽暦というカテゴリーに属する。すなわち、太陰(月)の満ち欠けにより1ヶ月を決め、一方太陽の動きによって1年を決めるものである。しかし月の満ち欠けの周期(朔望月)は平均で29.53日ほどで、これの12ヶ月は354日ほどにしかならない。一方、太陽で決めた1年(太陽年)はご承知のとおり365日ほどなので、太陰の12ヶ月は1太陽年より10日強も短い。これでは3年も経てば季節が1ヶ月もずれてしまう。わかりやすく言えば、3年後の正月は3年前の12月頃の季節になってしまう。15年も経てば正月が真夏になってしまうのである。これを避けるために、この種の暦では「閏月」を置いた。つまりしばしば1年が13ヶ月となったのである。19年に7回の閏月を置けば太陰周期と太陽周期がほとんど合致するということがかなり古い時代から知られていた。これを という。中国でも「章法」といって同じことが行われていた。
 しかしそうすると閏月をどのように置くかということ(置閏法)が問題になる。古代の多くの地域の暦では時々年末に閏月を置くものが多かったのだが、中国暦だけはユニークな置閏法を持っていた。それは『24気』を応用するのである。
24気
冬至十一月中12月22日頃
小寒十二月節1月6日頃
大寒十二月中1月20日頃
立春正月節2月4日頃
雨水正月中2月19日頃
啓蟄二月節3月6日頃
春分二月中3月21日頃
清明三月節4月5日頃
穀雨三月中4月20日頃
立夏四月節5月5日頃
小満四月中5月21日頃
芒種五月節6月6日頃
夏至五月中6月21日頃
小暑六月節7月7日頃
大暑六月中7月23日頃
立秋七月節8月7日頃
処暑七月中8月23日頃
白露八月節9月8日頃
秋分八月中9月23日頃
寒露九月節10月8日頃
霜降九月中10月23日頃
立冬十月節11月7日頃
小雪十月中11月22日頃
大雪十一月節12月7日頃
 ということで、24気について知る必要が生ずる。『24節気』と呼ばれることが多いが、正しくは『節気』と『中気』に分かれ、両者をまとめたものは『24気』と呼ぶのが正しい。テレビのニュースなどでは、「立春」というと「暦の上では春」、「啓蟄」というと「地中から虫が出てくる」などと報じられる。古来、季節の変化の節目を表わすものとして花鳥風月を愛でるためにあるもののように捉えている日本人が多いのではないか?実はそれは副次的な意味合いに過ぎない。24気は本来天文学の要素なのである。
 中国暦(の作暦)は冬至から始まる。冬至、これも「昼の長さが最も短い日」という解釈はまだ良いほうで、柚子湯に入るとかかぼちゃを食べるといった風習ばかりが重視されるきらいがある。無論それは冬至の重要性から始まった風習なのであろうが、本来の天文学的意味は忘れられているように感じられる。しかし本来、冬至とは太陽が最も南に偏る瞬間なのである。たとえば2012年の場合、
  
と、分の単位まで決まっている。この時、太陽は南回帰線の上にある。その後、太陽は北上しはじめ、やがて赤道に達する。この時が春分である。さらに太陽は北上を続け、北回帰線に達する時が夏至、そこから太陽は南に戻りはじめ、また赤道に達するのが秋分、さらに南下してふたたび南回帰線に戻り冬至となる。これが1年(太陽年)である。そしてこの冬至、春分、夏至、秋分(これらを「二至二分」という)の中間に四立しりゅうすなわち立春、立夏、立秋、立冬を設ける。さらに、たとえば立春と春分の間を3等分する点を雨水、啓蟄とする。以下も同様で、こうして24気ができあがる。だから簡単に言えば24気とは冬至から冬至までの1年を24等分したものに他ならないのである。

 さて閏月であるが、それは24気うちの中気によって決まる。中気は24気の一つとばしのものである(残りが節気である)。具体的には立春の次の雨水が正月中気、啓蟄をとばして春分が二月中気、清明をとばして穀雨が三月中気、以下同様に大寒の十二月中気までが決められている。そして正月中気は必ず正月に、二月中気は必ず二月に含まれるとする。24気は1年(約365日)を24等分したものだから、その一つとばしの中気は1年を12等分したものである。したがって中気と中気の間隔は30日とちょっとである。ところで、既に述べたように朔望月の平均は29.53日ほどである。このため旧暦の1ヶ月は30日または29日なのだが、これは中気間隔より短い。そうすると、時に中気を含まない月が現れる。これを閏月とするのが中国暦の置閏法なのである。近年の例として、2009年を挙げれば、
 グレゴリオ暦6月21日が夏至(五月中気)
 6月23日が朔(新月)
 7月22日がまた朔
そして7月23日が大暑(六月中気)
であった。つまり には中気が含まれていない。だからこれが閏月で、前月が五月だからこれは閏五月となるのである。7月22日からの月は六月である。

 この中国暦特有の置閏法は前漢時代の太初暦以来のものであるが、まことに合理的である。いや、であった、と言うべきか。実はこの方法が続いていれば『2033年問題』は起こりようがなかったのである。それでは何故、このような事態になったのか?
 清朝の1645年に『時憲暦』という暦法が制定された。実はこの暦を作ったのはイエズス会士のアダム・シャール(中国名:湯若望)で、そこには西洋天文学が採り入れられたのである。
 この12年前の1633年にはガリレオ・ガリレイの異端審問裁判が行われ、ガリレイは地動説を放棄させられた。つまりヨーロッパではまさに地動説が台頭しはじめた時代である。コペルニクスは既に1543年に地動説を提唱しているが、ここでより重要なのはケプラーの(第一、第二)法則(1609)である。それは後のニュートンの『プリンキピア』(1687)によって、天文学をプラトン以来の「天上の全き世界」から「天体の力学(林檎が落ちるのと同じ法則)」へ転換させることの先がけとなった。その法則とは、
 第一法則:惑星の公転軌道は楕円である(コペルニクスではまだ円軌道だった)。
 第二法則:ある惑星の公転角速度と軌道中心(太陽)からの距離の2乗の積は一定である(『面積速度の法則』。後のニュートン力学では『角運動量保存側』)。
 これは簡単に言えば地球が太陽に近いときは太陽の動きが速く、太陽から遠い時は遅いことを示している。アダム・シャールは24気の計算にこの法則を用いたのである。アダム・シャールはイエズス会士つまりカトリックであるから、その天文学は天動説だったわけだが、それでも太陽や惑星の運行にはケプラーの法則が採り入れられていたのである。
 このケプラーの法則によれば、例えば「冬至から春分まで」の時間と「春分から夏至まで」の時間は同じではない。何故なら近年(といっても1000年単位の)では近日点は冬至の頃だからその頃太陽の動きは速く、夏至の頃は遅いためである。中気の間隔が最も短いのは冬至(十一月中気)から大寒(十二月中気)で、
 最も長いのは夏至から大暑で、
 このようにまる2日の違いがある。
 このようにケプラーの法則を採用することによって中気の間隔は一定でなくなった。そして時にそれは朔望月(平均は29.53日)より短くなることも生ずる。これが中国暦の置閏法を乱すこととなる。
  中気間隔 < 朔望月
の場合、一つの月に二つの中気が入ることが起こり得るからである。そうするとその月の名前が決まらなくなる。また、中気を二つ含む月ができると、その前後には中気を含まない月ができる。従来それは閏月であったわけだが、この方法ではそんな「閏月」が二つ以上生ずることも起こり得るのである。
 このようにケプラーの法則を応用して24気を決める方法を『定気法』と呼ぶ。それとの対比で従来の1年を単純に24等分する方法を『平気法』(または『恒気法』)と呼ぶ。

さて2033年問題
 以上でようやく、2033年問題の核心に迫る準備が整った。以下でこれを見ていこう。
 現在の日本の『旧暦』は定気法を採用している。これは1844年に制定された天保暦に準拠したものである。
 さて、2032年末から2034年までの朔および中気を算出してみると、以下のような異常が見られる。
A.2033.8.25 からの月には中気が含まれない。
B.2033.11.22 からの月には中気が2つ(小雪、冬至)含まれる。
C.2033.12.22 からの月には中気が含まれない。
D.2033.1.20 からの月には中気が2つ(大寒、雨水)含まれる。
E.2033.2.19 からの月には中気が含まれない。
(日付はグレゴリオ暦)
 これらはいずれも定気法を採用したために生じた乱れである。平気法の時代のルールで月を決められないのは明らかである。

西暦年.月.日中気 
2032.12.3 5:54 
2032.12.21冬至(十一月中)16:58  
2033.1.1 19:18 
2033.1.20大寒(十二月中)3:35  
2033.1.31 7:1 
2033.2.19雨水(正月中)17:36  
2033.3.1 17:24 
2033.3.20春分(二月中)16:25  
2033.3.31 2:52 
2033.4.20穀雨(三月中)3:14  
2033.4.29 11:47 
2033.5.21小満(四月中)2:12  
2033.5.28 20:37 
2033.6.21夏至(五月中)10:2  
2033.6.27 6:8 
2033.7.22大暑(六月中)20:54  
2033.7.26 17:13 
2033.8.23処暑(7月中)4:4  
2033.8.25 6:40A
2033.9.23秋分(八月中)22:401:53 
2033.10.23霜降(九月中)11:2916:29 
2033.11.22小雪(十月中)9:1710:40B
西暦年.月.日中気 
2033.12.21冬至(十一月中)22:46  
2033.12.22 3:47C
2034.1.20大寒(十二月中)9:2819:2D
2034.2.18雨水(正月中)23:31  
2034.2.19 8:11E
2034.3.20春分(二月中)22:1919:16 
2034.4.19 4:27 
2034.4.20穀雨(三月中)9:5  
2034.5.18 12:13 
2034.5.21小満(四月中)7:59  
2034.6.16 19:27 
2034.6.21夏至(五月中)15:46  
2034.7.16 3:16 
2034.7.23大暑(六月中)2:38  
2034.8.14 12:54 
2034.8.23処暑(7月中)9:50  
2034.9.13 1:14 
2034.9.23秋分(八月中)7:42  
2034.10.12 16:33 
2034.10.23霜降(九月中)17:19  
2034.11.11 10:17 
2034.11.22小雪(十月中)15:7  
2034.12.11 5:15 
2034.12.22冬至(十一月中)4:35  

 しかし、時憲暦を作成したアダム・シャール(湯若望)は定気法の採用に伴い新たな置閏法も提唱している。それは
 ・冬至は十一月とする。
 ・冬至から冬至までが13ヶ月の場合は中気を含まない最初のものを閏月とする。
というものである。これを適用するなら、2032.12.21 の冬至から2033.12.21 の冬至までの間には朔が12回しかないので、この間に閏月は必要なく、中気がなくても2つあっても、単純に十二月から順に月を割り振っていけば良い。一方、そこから2034.12.22 の冬至までには朔が13回あるので、この間には閏月が必要だが、「中気を含まない最初のもの」は2033.12.22 から始まるC なので、これを閏十一月とする。ということで何の問題も起こらないのである。
 ところが、天保暦には
 ・春分は二月、夏至は五月、秋分は八月、冬至は十一月
というルールがある。これが曲者なのである。実際、秋分を含む2033.9.23 からの月を八月とし、冬至を含む2033.11.22 からを十一月とすることは、九月または十月を としないかぎり不可能である。実はこの「天保暦のルール」こそが2033年問題の最大の(唯一の?)難点なのであるが、先にあげた A〜E のような平気法時代にはイレギュラーなものの出現が混乱に拍車をかけている。そして中気を含まないAやEを閏月とするといった様々な案が提出されてしまったというのが実情なのである。

 ところでその「天保暦のルール」であるが、 では、江戸時代の文献にこれは見当たらないということである。どこかで紛れ込んだ誤った情報が伝え続けられたという可能性も否定できない。
 また「湯若望のルール」のほうは、これも須賀氏によれば清代には必ずしもこれが適用されたわけではないとのことである。むしろ宗教的要請などによって場当たり的な決め方(須賀氏の言葉では「都度判断」)がなされたりしたものらしい。ただ、現在の中国の紫金山天文台ではこのルールを採用しているという。

定気は唐代からあった
 ところで、定気法は湯若望が西洋天文学を応用することによって導入されたと述べたが、実はこれも必ずしも正しいとは言えない。既に唐代からこれと同種のことは知られていたのである。

宣明暦、入気定日加減数
 *1日=8400分
内田正男編著『日本暦日原典』pp512
 日本では唐代の宣明暦が平安時代から江戸時代の初めまで(862〜1683)使われ続けたが、この宣明暦には「 」というものがあった。それは24気間の間隔を示したものである。これを見ると、冬至〜小寒および大雪〜冬至は で最も短く、芒種〜夏至および夏至〜小暑は15日7835.625分で最も長い。これは先に見たケプラーの法則の帰結と概ね一致する。これに最小2乗法を用いて を推定してみると
  e≒0.022
となる。正しいeは0.017ほどなので、これはやや大きいが、ケプラーより800年ほども昔のものとしては決して悪い精度ではなかろう。
 この入気定日加減数は、定朔を求めるために用いられた。
 朔望月は平均29.53日ほどであるが、実際には毎回かなりの変動がある。朔を平均朔望月で求める方法を平朔法、その変動まで考えるものを定朔法と呼ぶ。世界の太陰太陽暦の中で定朔法を用いるものは中国暦だけである。
 これも須賀氏が指摘していることであるが、定朔を行うためには定気が不可欠なのである。何故なら朔とは太陽と月が同じ方向に来る(黄経が等しくなる)ことであるが、そうすると太陽の動きが速い時には月はそれを追いかけなければならないから、より時間がかかる、つまり朔望月が長くなるという関係にあるためである。

 中国暦が他に例を見ない定朔法を用いたのは、日食・月食の予報が重視されたためである。古来中国では皇帝が「天意を知る者」として暦を制定した。天意を知る、と口先で言うだけでは誰も信用しない。それは実証される必要があった。それが日食・月食の予報だった。これが当たるということは天意を知っていることになる。しかしひとたびそれが外れると皇帝の権威は失墜する。革命も起こりかねない。だから歴代王朝はこの予報を重視し、唐代には定朔法を採用するようになった。朔、望がずれていては日食、月食が当たる道理はないのである。そのためには定気法も、地動説やケプラーの法則とは無関係に観測事実から知ることになったのである。
 日本では、天皇は「天孫」と称した。だから「天意を知る」ことは実証するまでもない自明のことという無謬神話が生まれた。これが日本の暦道・天文道を頽廃させた。陰陽師は「天皇が日食の光を浴びることは不吉」といった愚にもつかないことを言うばかりで、「天意を知る」という緊張感は全くなかった。
 ヨーロッパでは、プトレマイオスは当時の天動説の枠内で天体の運行を正確に記述する方法を提示しただけなのであるが、これがキリスト教の唯一神の権威のもとに教条化、絶対視され、ルネサンス期までやはり天文学の発達を阻害した。
 ともかく、定気法は既に唐代には知られていたのであるが、それは定朔を求めるためにのみ使われ、24気には採用されなかった。ひとつには、これを用いれば中気が乱れることを予見し、それを避けたのではないかとも考えられる。それが17世紀になって西洋天文学が導入された時、長い歴史のある平気法が捨てられたのである。

中気とは何か?
 ここで、中気とは何かということを考えてみたい。
 平気法では、中気とは24気のひとつとばしのもので、それはまた1年(太陽年)を12等分する点でもあった。定気法はこの2つの概念を分断する。すなわち定気の24気は太陽黄経で決められる。これは天文学的な概念で、特に二至二分はこれによらなければ正確ではない。しかしこの定気24気を中気とするなら、それは1年の12等分点とはならない。ケプラーの法則の仕業である。
 中気とは、月名を決めるという暦の概念で、天文学的概念ではないのである。それは平気法時代の1年の12等分点のほうがより適切なのである。思えば湯若望が時憲暦を作った時にはまだこの2つの概念が峻別されていなかったということになる。そして定気の天文学的24気をそのまま暦の中気に転用したことが混乱の原因となったのである。
 なるほど湯若望は定気法における置閏法も提唱している。しかし既に見たように、清朝時代の時憲暦では必ずしもこれは行われなかった。長い歴史のある平気法を改めることがいかに困難であったかということの証左であろう。
 そして日本であるが、2033年問題が取り沙汰されるというのは、その真の原因は にあるとしても、やはり多くの人が平気法のルールを引き摺っていることが、事態をより混乱させているのである。
 しかし定気法の採用によって、中気の意味は既に変わってしまっている。実際2033〜2034年には中気を含まない月が3つ(A,C,E)出現するが、これらをすべて閏月とするわけにはいかないし、中気を2つ含む月(B,D)は、本来なら月名を決められないはずである。しかし実際にこれらが出現する以上、中気には元の意味はないわけである。
 個人的なことになるが、筆者が暦に興味を抱くようになったのは24気の決定にケプラーの法則が使われていることを知った時であった。それはかつての天文少年の血を騒がせるに充分だった。だから、定気法にケチをつけるというのは慙愧に堪えないことなのであるが、しかしこうして歴史を知ってみれば、やはり定気法には難があると言わざるを得ないであろう。
 それでも時憲暦から400年近くが経ち、もはや後戻りは困難であるように思われる。ご本家中国の紫金山天文台が湯若望のルールを採用しているというから、やはりそこに落ち着くのが無難ではないかというのが筆者の個人的見解である。

日中暦日相違
 1997年には、日本では2月8日が旧正月だったが、中国の春節は前日の7日であった。何故か?実はこの時、朔が日本時間で8日0時6分、中国時間では7日23時6分だったのである。このように日中の時差のために日本の旧暦と中国の『農暦』の日付が異なることが時々起こる。
 これは1685(貞享二年)から施行された貞享暦に始まったことである。貞享暦は渋川春海が作った初の国産暦であるが、この時春海は日本と中国の『里差』(経度差)を導入した。このため こととなったのである。
 しかし、1日の違いというのはまだ良い方で、月まで違ってしまうこともある。2012年には小満(四月中気)が日本時間ではグレゴリオ暦5月21日0時17分であるが中国時間では20日23時17分となる。一方朔はどちらでも21日なので、日本ではこの21日からが四月となるが、中国ではその前の月が四月となるのである。因みに中国の四月は日本では閏三月、日本の四月は中国では閏四月となる。このように日中の月が2ヶ月間全く違ってしまうのである。

グレゴリオ暦日本中国
2012.5.20
閏三.三〇
四.三〇小満(23:17)
5.21
四.一朔(8:48)小満(0:17)
閏四.一朔(7:48)

 なお、2012年には五月朔(日本時間6月20日0時2分)、七月朔(日本時間8月18日0時54分)も中国では1日早くなる。中国では旧暦五月五日は『端午節』、七月七日は『七夕情人節』である。特に七夕は近年「中国のバレンタインデー」として盛んになっているという。これらが日本より1日ずつ早くなる。また旧暦四月八日の『佛誕節』は台湾(中華民国」では祝日なのであるが、これが日本より1ヶ月早くなるのである。
 春節(旧正月)には香港では栃木の苺が日本の3倍とかの高値で売れるという。また中国の祝日には多くの観光客が日本に押し寄せる。その祝日の多くは旧暦(農暦)によっているのだが、それが日本と異なることがあると、それを知らずにビジネス・チャンスを失うことにもなり兼ねないのではなかろうか?

 ということで、筆者は日本の旧暦と中国の農暦は一致することが望ましいと考える。そのためにはどうすべきか。
 一番簡単なのは日本が中国に合わせることである。「ご本家」である中国が日本に合わせるということはまず考えられないから。しかし、中国暦を頂いてそのまま使用することには抵抗を感じる人もいるようである。実は江戸時代初期までの日本はそんなレベルだったのであるが。
 そこで提案である。既に見たように時憲暦以後「中気」の意味は変わってしまっている。これを逆手に取るのである。つまり、中気は別に天文学的な24気である必要はないのである。現在の「24気中気」の1時間前を『擬中気』(仮称)とする。そして擬中気を用いて湯若望のルールを適用するのである。擬中気は勿論、中国の中気と一致する。
 朔は、さすがに定義を変えるわけにはいかない。しかしこちらは『退朔』を行えば良い。
 宣明暦の時代には『進朔』というルールがあった。朔が現在の午後6時以降となる場合は翌日を一日としたのである。これに倣って、朔が午前1時より前の場合は前日を一日とする。これが『退朔』の意味である。これを行えば時差によって朔の日付が異なることもなくなる。
 無論これは、何のことはない、中国暦をそのまま使うのと結果的には同じである。ただし中国暦(時憲暦)という言葉は全く使っていない。あくまでこれは日本独自の暦法なのである。
 姑息だろうか?しかし、実はこんな例もある。


朕閏年ニ関スル件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得ベキ年ヲ閏年トス 但シ紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス

 これはわが国における閏年の現在の法的根拠である。「神武天皇即位紀元年数」で決められていることに注目されたい。現在ではこれを使う人はきわめて僅かの筈であるが、法的には今も生き残っているわけである。さらに、「紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ」というのは、実は西暦に他ならない。これによって、西暦で決められているグレゴリオ暦の置閏規則を表わしているのである。
 つまり、グレゴリオ暦では「西暦年数が100で割り切れて400で割り切れない年は閏としない」と、西暦(キリスト教紀)を用いているわけだが、キリスト教国でもない日本がこれを使うわけにはいかない。一方、都合の良いことに「神武天皇即位紀元」というのは江戸時代からあった。ならばそこから660を引けば西暦になる。ということで、日本の法体系の中に事実上の西暦を組み込むことができたのである。日本の旧暦を中国暦に合わせるのも、これと同じ手法を用いれば可能なのである。

May 2011
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