川越紀行〜仙波東照宮の謎に迫る

 2011年12月22日は冬至だった。この日、『暦の会』会員を中心に6名が川越に集まった。ドゥエル・ベーリ東京国際大学教授の呼びかけで川越見学会が行われたのである。
 午前中は「時の鐘」、「蔵造りの街並み」など定番の名所を見て回り、鰻を食した後、午後は喜多院に隣接する仙波東照宮に向かった。

 この日の主要な目的は、この東照宮であった。冬至の日の14時6分頃、太陽が東照宮女坂の方位でちょうどその傾斜角の高度から照らすことを、ドゥエル先生が突き止められていて、これを確認しようということになったのである。
 この日、午前中は曇り気味だったのだが、東照宮に着いた14時頃には小川理事のテルテルボウズの霊験か、薄日が差して来た。そしてたしかに、女坂の上方に太陽がさしかかろうとしていた。


2011年12月22日14時06分頃、仙波東照宮女坂
(小野行雄様 撮影)

 ドゥエル先生がこれを突き止められたのは、Univ. of Oregon のサイトの太陽位置計算によるものだった。ちなみにこれはドゥエル先生の故郷にある大学である。それが、先生が40年間住み、愛してやまない川越の地の歴史の一端を解明するのに役立ったとすれば、ご同慶の至りである。
 その後、岩沢氏子総代のご案内で、拝殿の中の三十六歌仙や鷹の絵を拝見、この東照宮の歴史についてご説明いただいた。こちらは徳川家康公の遺骨を駿府東照宮から日光へ遷す際、4日間逗留したということで、「三大東照宮」のひとつとされているという。また、明治の神仏分離の前は喜多院の一部であったということで、一般の神社のような氏子はいないので、徳川家から領地を賜っていた数軒の家で今でも護っているとのことであった。
 しかし、岩沢氏も冬至の日のこのような現象はご存知なかったという。してみるとこれには何か意味があるのか、あるいは単なる偶然なのか?

 そもそも、ドゥエル先生が最初にこれに気付かれたのは冬至のことではなかった。4月12日および8月30日には、「石階段」で同じ現象が見られる。女坂は拝殿から斜め方向に下るなだらかな階段であるが、「石階段」は拝殿正面のやや急な坂(傾斜角28°くらい)である。方位はドゥエル先生の測定によると260°(西より10°南寄り)である。


石階段

 ところで、家康の江戸入府は天正十八年庚寅八月一日であるが、これはグレゴリオ暦では1590年8月30日にあたる。ドゥエル先生はこれに着目されて、この日を記念するための装置だったのではないかとお考えのようである。
 もっともこの考えにはいくつかの留意点がある。
 まず太陽位置が同じになるのは太陽暦で同じ日でなければならない。これはグレゴリオ暦8月30日ということで問題ないように思ってしまうが、この時代、日本では太陽暦は使っていない。「太陽暦で同じ日」をどうやって知ることができるだろうか?
 いや、旧暦時代にも太陽暦はあった。二十四節気がそれである。ならば二十四節気を基準にして、たとえば上記の日なら「秋分の何日前」という数え方をすれば良いはずである。
 ところが、である。この1590年頃、日本の暦(宣明暦)では、節気(特に冬至)が実際より2日近く遅れていた。これより100年近く後に渋川春海が初の国産暦『貞享暦』を作るのも、これが大きな要因なのである。そんなわけで、節気(秋分)からの日数を数えたからといって正しくグレゴリオ暦8月30日に到達するとは限らないのである。
 さらに、この時代と現代では節気の決め方が違う。江戸時代末までは「平気法」といって二十四節気は冬至から冬至までを24等分して決めていた。それが現代(天保暦以降)では、「定気法」といって太陽黄経15°ごとを節気とする。これは一見同じことのように思えるが、地球の公転軌道が楕円であり、その動きが一定でないためにわずかな違いをもたらす。地球は太陽に近い時には動きが速い(ケプラーの第2法則)。近日点は冬至と小寒の間にあるので、その頃の節気間隔は短く、夏至の頃は長い。
 以上2つの理由により、天正十八年の秋分が現在のそれと同じかどうかはただちにはわからないのである。

 このような場合に便利なのは、内田正男編著『日本暦日原典』(雄山閣)である。この本には、我国で最初に用いられた元嘉暦の時代からグレゴリオ暦に変わる直前の明治五年までの暦日が内田先生の計算により再現されている。
 さて、この書を調べてみると、天正十八年の宣明暦による秋分は”甲午”の日となっている。一方、この年の八月一日(グレゴリオ暦1590年8月30日)は”庚午”なので、”甲午”はその24日後、1590年9月23日である。つまりこれは現代の秋分と同じである。たとえば2011年の秋分も9月23日であった。
 整理すると、宣明暦時代の節気は前述の2つの理由により必ずしも現代と同じではないのだが、この年の秋分に限っては、その2つの誤差要因が偶然相殺されたということであろう。
 ちなみに、現代の方法で計算しても、この年の秋分は9月23日になる。これは
  筆者の『日中萬年暦』
で確認できる。

 そんなわけで、グレゴリオ暦8月30日(秋分の24日前)は「家康江戸入府の日」として認定できることになる。つまりドゥエル先生のお説の有力な証拠を得たのである。めでたしめでたし。

 しかしながら、筆者はこれと見解を異にする。なにより、昔の日本で何かの日を太陽暦で記念したという事例を筆者は知らない。上に示したように節気から太陽暦を割り出すというようなことが行われたのだろうか?「八十八夜」や「二百十日」は、たしかに立春から数える。しかし、これらは民衆の間で言い伝えられてきた「ジンクス」のようなものだろう。公暦にこれらが採用されたのも貞享暦以後である。幕府や徳川家の「記念日」に同様のことを行うとはちょっと思えない。
 といって、折角のドゥエル先生のお考えに難癖をつけるのが筆者の本意なのではない。何かもう少し納得のいく対案を提示してみたいと思う。

 石階段の方位が260°と西に近いことから容易に考え付くのは浄土信仰である。中世「日想感」という風習があった。彼岸に真西に沈む夕日を拝み、阿弥陀如来の浄土を想うのである。大坂四天王寺が日想感の名所だった。能に『弱法師よろぼし』という演題がある。四天王寺の日想感で盲目の琵琶法師が生き別れていた父親と再会するという筋立てである。日想感つまり彼岸に夕日を拝むことが広く行われていたことのひとつの証左であろう。
 仙波東照宮が建立された喜多院のご本尊は阿弥陀如来である。また徳川家菩提寺のうち、上野寛永寺は天台宗であるが芝増上寺は浄土宗である。そして家康といえば
 「厭離穢土欣求浄土」
という言葉が思い出される。家康にも浄土信仰があったものと思われる。

 さて、春分秋分に川越では16時40分頃、太陽が260°の方向に来る。ただしその高度角は13.5°ほどで、石階段の約28°よりはかなり低い。
 しかし、石階段の手前にある『随身門』あたりから見るとどうだろう。日がちょうど拝殿の向こうに隠れることになりそうだ。つまりその時、夕日(の向こうの極楽浄土)と家康公を 同時に拝むことになる。

 さて、ドゥエル先生と筆者と、どちらが正しいのか、あるいはどちらも正しくないのか?それは宿題としておきたい。
 「九里四里(栗より)旨い」川越のさつま芋を食しながら、いや、芋焼酎を飲みながら、さらに考えてみよう。

Jan. 2012