井上章一「阪神タイガースの正体」にこんな下りがある。
 「女性ファンの姿も戦前のスタンドには数えるほどしかみ当たらなかった。・・しかし皆無だったわけではない。洲崎球場には場所柄玄人筋の女性の顔がみえた。そんな中で現在でも語り草になっている女性ファンが三人いる。井上現コミッショナーの令嬢と音楽評論家太田黒元雄氏の双生児の令嬢二人」
井上章一「阪神タイガースの正体」pp262
 これは戦前の「職業野球」に女性ファンがきわめて少なかったことの証言として、『プロ野球二十五年』(1961、昭和36)から引用されている文章である。
 当時の数少ない女性ファンのうちの有名な3名の二人の父親の名が見える。一人は井上『現』コミッショナー。この人については、引用部分の前のページに西条八十の「洲崎野球場風景」という詩が引用されていて、その中に
断髪すがた美しく
ひときわ目立つ令嬢の
父なる紳士とたずさえて
いと朗らかに微笑めり
『あれこそここのジャンヌ・ダルク
I大審院判事のお嬢さん
・・・
とある。さらに
 なお、彼女は井上登大審院(今の最高裁)判事の娘である。同判事が、のちにプロ野球機構のコミッショナーになったことも・・
とあり、プロ野球界にとって重要な人だったことがわかる。
 さて、もう一人の『音楽評論家太田黒元雄氏』については、何の説明も見当たらない。勿論、初期の職業野球の女性ファンの父親がどんな人だったかなんてことはどーでもいー、という人も多いだろう。著者の井上章一氏もそう考えているのかもしれない。しかし、この人物の「正体」を知ることによって上の文章から見えてくることがあるのである。

 太田黒元雄氏は音楽評論家であるという。現在なら誰に見立てれば良いか?例えば吉田秀和氏。筆者は個人的にはこの方の『音楽展望』の永年の愛読者である。そんな音楽ファンは少なくなかろう。しかし、『プロ野球二十五年』(現在なら七十年か)などという書物にこの人の名前が出て来たら相当の違和感を持つだろう。たとえその令嬢が熱心なプロ野球ファンであったとしても。ならば『音楽評論家太田黒元雄氏』の名が当たり前のように出て来るのは何故か?
 実はこの人にはもう一つの顔があった。『話の泉』というラヂオ番組のレギューラー出演者だったのである。この番組は1946年から1964年までNHKで放送された。戦後まもなくから、まだテレビがなかった頃、あってもあまり普及していなかった頃を含む長寿番組である。人気も高かったようだ。だから太田黒氏の名は多くの日本人が知っていた。『プロ野球二十五年』の読者も当然、ああ、あの人の、と合点しただろう。

 漫画「サザエさん」にこんなのがある。
 どこかの男性どうしが人の噂をしている。「そいつが、よく似てるんだよ。ほら、トンチ教室の・・なんていったかな、大きな体の黒メガネの・・」傍で聞いていたカツオが叫ぶ。「いしぐろけいしち!」
 『トンチ教室』もNHKラヂオの人気番組で、石黒敬七氏はそのレギュラーだった。たしか柔道家だったか。『話の泉』の太田黒元雄氏もこれと同類だったろう。
 太田黒氏にしろ石黒氏にしろ、当時人気を博したのはインテリ文化人だった。おバカタレントの出る幕はなかったのだ。

 東京、杉並区荻窪に太田黒公園というのがある。実は太田黒元雄氏の邸宅だった所である。氏の仕事場および氏が使ったピアノなども保存されている。かつてここでCDコンサートが定期的に開催され、筆者も何度か聞きに行ったことがある。
 また、JR荻窪駅前にはつい10年ほど前まで『話寿司』という店があった。名前の由来を聞いたわけではないが、太田黒元雄氏のラヂオ番組を想起させる。つまり荻窪ローカルに限ってながら、つい最近まで地元の有名人として記憶されていたものかと思われるのだ。

 さて、先程の文章をもう一度読んでみよう。
「語り草になっている女性ファン三人」が観戦したのは洲崎球場という印象を持つだろう。それは違う、と筆者は考える。

 しかし、洲崎球場、上井草球場などは、ほんとうにひとがあつまらない。
井上章一「阪神タイガースの正体pp225
 この本にはたったこれだけの記述しかないのだが、プロ野球草創の頃、東京には二つの野球場があった。ひとつは既に出てきた洲崎球場、もうひとつは、上井草球場、こちらは正式には『東京球場』と言った。
 洲崎というのは現在の江東区新砂である。荻窪からは地下鉄東西線直通電車でもゆうに30分以上かかる。無論そんな便利な電車ができたのはずっと後の時代である。しかも、「場所柄玄人筋の女性の顔がみえた」とあるように、近くには遊郭もあった。令嬢が出入りするに相応しい場所とは思えない。そりゃまあ、大審院判事の父君と一緒ならどこでも怖いことなんかなかったろうが、太田黒氏令嬢の場合はどうだろう?
 一方の上井草は、荻窪から現在ならバスで10分という近さである。こちらと考えるほうがはるかに自然だろう。
 太田黒公園内の記念館に置かれている太田黒氏のプロフィールから抜粋すると、
1919(大8)年娘鈴子、鞠子誕生。
1933(昭8)年大森山王より杉並区東荻町20(現杉並区荻窪3丁目33)に転居。(38歳)
 つまりプロ野球誕生の頃、同氏はたしかに荻窪に住んでいた。そして双子の令嬢は16、17の娘ざかり。こりゃ目立ったに違いない。まだご存命ならかれこれ90歳。今の時代あり得ない話ではない。キンさんギンさんの例もある。

 『地図で見る東京の変遷』((財)日本地図センター)には東京の昔の地図が収録されている。残念ながら、1921(大正10年)頃の次は1955(昭和30年)頃で、プロ野球草創期ぴったりのものはないのだが、それでも1955年の版には西武新宿線上井草駅の前に野球場がはっきり見て取れる。一方、1921年にはまだ西武新宿線が走っていない。

「地図で見る東京の変遷」((財)日本地図センター)、1955(昭和30)年頃。
赤丸の部分をクリックしてみて下さい。

 「洲崎」の地名は1921年版には深川区の海岸べりに見える。また1955年版には「江東区洲崎弁天町」の地名が見える。しかし球場は跡地すら見当たらない。

 昔の地図なども参考にして、太田黒元雄氏の双子の令嬢が上井草球場に向かった様子を想像してみようか。
 中央線の『天沼陸橋』はまだなかったはずで、都電(東京市電)は荻窪駅南口を発着していただろう。令嬢方は市電と中央線をどこかで渡る。中央線はまだ複線だったはず。電車よりもまだ汽車だったろう。
 当時上井草方面へのバスはあったろうか?なければまっすぐ北上して井荻から一駅だけ電車に乗ったろうか?その可能性もあろうが、結構歩く割に待ち時間など考えるとあまり早くもならないので、上井草まで全部歩くとしよう。
 青梅街道は現在のような6車線もの大きな道路ではない。四面堂に環八道路もまだない。荻窪警察署の交差点を右折すると、まもなく左手に『はらっぱ公園』がひろがるが、ここは先年カルロス・ゴーン氏によって閉鎖された日産の工場の跡地。『笑点』の林家木久扇師は戦時中中島航空機の近くに疎開していたというから、このあたりだろう。そんな軍需工場の裏手みたいな所を令嬢方が歩いたかどうか自信がないが、まもなく、作家浅田次郎氏が出た中央大学杉並高校の前で道はやや左に逸れる。いや、真っ直ぐ行くと観泉寺の山門に突き当たる。ここは今川義元の息氏真が桶狭間合戦の後入った寺ということである。後に江戸に入った家康は氏真に領地を与えたと言う。そんな名刹を横に見て早稲田通りを渡ると、ほどなく下り坂に差し掛かる。井草川の小さな谷である。今は暗渠になっているこの川に沿った遊歩道は、近くに住む小柴昌俊さんを記念して『ノーベルの小道』として整備されつつある。昔はこの川沿いの狭い低地だけが水田で、両側は小高い台地の雑木林だったようである。いや、『杉並』というくらいで、杉も多かったかもしれない。谷の対岸側の斜面を登るとまもなく上井草駅であるが、そのちょっと手前で左へ曲がる。かつての『東京球場』はすぐそこである。

 今、その場所は区営の『上井草スポーツセンター』になっている。1階には『東京球場』の歴史の展示コーナーがあり、ここで投げた沢村投手などの写真も飾られている。
 すぐ北には早稲田大学ラグビー部がある。昔も今もスポーツと縁浅からぬ土地柄なのである。

Jul. 2008
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