ニアミス

 The Boundary Conditions of Koji Hidaka

 ここでは、日高と同時代に神戸またはその近辺にいた偉大な物理学者について述べてみたい。ただし、日高のすぐ身近にいた岡田武松については、ここでは触れない。この日本気象学界の巨人については、いずれ稿を改めて論述したいと考えているが、今はそのときではない。
 むしろここで取り上げるのは、同時期にすぐ近所にいたにもかかわらず、日高との交流の痕跡が見当たらない、言わば日高とニアミスした人達である。そのような大物理学者が少なくとも二人いる。テオドール・フォン・カールマーンおよび湯川秀樹である。

テオドール・フォン・カールマーン
 言わずと知れた、「カールマーン渦列」や乱流理論のカールマーンである。日本では「カルマン」と表記されることが多い。しかし Karman のスペルのふたつの a の上にはカタカナの「ノ」を平べったくしたような記号が付いており、これはハンガリー語で長母音を表わすのだそうだ。それで筆者は「カールマーン」を採用する。これはまた、「カルマン・フィルター」の R.E. Kalmanと区別する上でも便利かと思っている。ただし、以下では文献引用時には原文のまま「カルマン」とすることがある。同一人物の表記が異なるのは混乱を招きかねないが、このような事情であることをご理解願いたい。
 カールマーンの来日の経緯については、谷一郎「わが国の流体力学の先覚を語る」(「ながれ」4-1, Mar 1985、日本流体力学会)に見える。また、カールマーンの自伝である「大空への挑戦」(野村安正訳、森北出版株式会社)にも同様のことが書かれている。
 それらによると、カールマーンを招聘したのは川西航空機(現在は新明和工業)という。ここは後年、「紫電改」という名戦闘機を生んだ会社である。
 谷によれば、川西ははじめプラントルを招聘しようとしたが、そのプラントルが若いカールマーンを紹介したという。カールマーンは日本みたいな「未開な国」には行きたくなくて、断るつもりで倍の給料をふっかけたら、これがあっさり認められて、それで仕方なく日本へ来ることになったという。谷では月給が1000円、「大空・・」では1500円になっているが、その他の大筋では一致している。
 さて谷によると、カールマーンは大枚な給料のほかに、宝塚にコックと女中と自動車付きの邸宅をあてがわれて、金の使い道がなく、「神戸で骨董を買い、葵の紋服を買って帰られましたが、おそらく骨董屋を肥えさせた分もあったのではないかと思います」ということである。一方、「大空・・」の序章には、共著者のエドソンがカールマーンを初めて訪れた時の様子が書かれているが、「彼の太鼓腹は青い日本の着物で包まれ・・」部屋には東洋の家具なども「あふれんばかりであった」という。それらは「学生からの贈り物だと聞かされた」とあるが、どうだろう。その中には神戸で買い込んだ品物も含まれていたのではなかろうか。
 ところで「大空・・」には、「旅行の目的は、日本の有名な航空機メーカーであった神戸の川西機械工業が、日本で初の航空研究所を建設するのに助力してくれというものであった」とある。つまり、川西という一民間企業が日本で初の航空研究所を設立したのである。そしてカールマーンが来日したのは1927年。ところで、海洋気象台も関西の海運業者の寄付によって1920年に神戸に設立されている。この時代の関西ブルジョワジーの心意気を見る思いがする。その海洋気象台が刊行していた雑誌はその名も「海と空」である。同じ神戸の川西のカールマーンとは交流があってもよさそうに思われる。
 1927年といえば日高は神戸に赴任したばかりである。春風丸に乗って観測を行っていた頃と思われる。後年「静振」の研究で学位を取る頃の日高は勤務の合間にも研究にいそしんでいたようだが、まだそのようなテーマを見つけていないこの頃は、そのような意欲もなかったのだろうか。
 後年の日高の著書「海流」では、「第4章 海面における風の応力」に「カルマン(Th. von Karman)の一般統計理論」、「カルマンの常数」などの語が見られる。その「統計理論」は1938年に発表されているが、この本が刊行された1955年頃にはすでにこれらの概念は広く知られていたのであろう(ちなみに「カールマーン渦列」はずっと古くて1911年)。しかしそのカールマーンが「統計理論」の10年ほど前に自分と同じ神戸にいたことについての感懐は見当たらない。学術書の「海流」にないのは当然としても、「海洋学との四十年」のような読み物でもそうである。

湯川秀樹
 湯川秀樹が後に日本人として初のノーベル賞を受けることになる論文は、西宮市苦楽園に在住していた1934年に書かれたそうである。西宮市にはこれを記念して「西宮湯川記念賞」というのが制定されている。
 1934年というと、ちょうど日高が帝国学士院賞を受けた年である。しかも両者は西宮と神戸という目と鼻の距離に住んでいたわけである。しかし、日高と湯川の間に交流の痕跡は見られない。「海洋学との四十年」には、「UNESCO,SCORと私」の章に「その年の秋、私はパリのユネスコ総会に出席する手筈であったと聞いているが、連絡がないままに年を越した。たしか尾高先生の他に湯川秀樹さんがでられたと聞いている。」という一文があるが、ここからも湯川との個人的交流の気配すら窺えない。
 思えば湯川の中間子論というのは、クライン−ゴルドン方程式という量子力学の波動方程式(シュレディンガー方程式を相対論的に拡張したもの)を用いて、新粒子の存在を予言したものである。それまで素粒子といえば陽子、中性子、電子と光子しかなかったものが、湯川以後おびただしい種類の素粒子が発見されてゆく。やがてそれらは「クォーク」に収斂されて行くのだが、ともかくも理論物理学は湯川によって新しい局面を迎えることになるわけである。量子論的波動と日高の静振のような古典論の波動の蜜月に終止符を打ったのが湯川と言うこともできようか。神戸と西宮の奇しき因縁、であろうか。

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