日高とわが父
 日高孝次にはこんなエピソードがある。あるとき、給料日をとっくに過ぎているのに日高が給料を取りに来ない。たまりかねた担当者が「早く取りに来てくれないと困る。」と文句を言ったらやっと取りに来たが、そのとき「なんだか、もう貰ったような気がしてた。」とおっしゃった、というのである。なんとも浮世離れした話である。
 これは、かつて神戸海洋気象台に勤務していた筆者の父から聞いた話である。だから、おそらく海洋気象台時代のエピソードであろう。もっとも、日高は1942年に東京大学へ転任しており、1941年に海洋気象台に入った筆者の父は辛うじて日高と面識があった程度であろう。だからこのエピソードは父も、もっと古い人から聞いた話であったのかも知れないが、既に鬼籍に入っているので確かめようもない。ただ、そんなに尾鰭のついた話ではなかろうと思っている。父は事務官だったので、日高に文句を言った担当者とは近い所に居たものと想像する。
 それに、これが重要であるが、このエピソードは日高が希代の秀才であったという話を抜きにして語られることは決してなかった。それだからこそ、筆者も日高の名とこのエピソードをよく覚えているのである。
 海洋気象台は、周知のように岡田武松の奔走により、大正時代に設立されたものである。ここには「時習会」という職員たちの学問研修を目的とした会があっったことが、海洋気象学会の「海と空」第50巻第2〜3合併号(1975)に日高自身が寄稿している「神戸生活15年の思い出」に見られる。ちなみに「海洋気象学会」は、その「時習会」から発展したものという。
 このような海洋気象台初期の時代の学問的熱気は無論、初代台長で指導者であった岡田の薫陶によるところが大きい。一方、日高はこの時代の海洋気象台の学問的エースであったと見ることができよう。
 筆者は父から聞いたエピソードもあって、この神戸時代の日高の業績に興味を抱いた。そしてこれについて調べ得たところを文章に残したいと考えるものである。

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