朝日新聞に連載されている 池澤夏樹 『また会う日まで』も、2021年12月7日時点でまもなく完結するようである。主人公秋吉利雄は海軍少将で天文学者そしてキリスト教徒という人物で著者池澤氏の大叔父であるという。
 さて、その中に1934年2月14日の の話が出てくる。本稿で問題にするのは、この時の「京都帝大の柴田叔次君の報告」に出てくる次の個所である。
皆既前十五分くらいの時に太陽の西、角距離にして数秒のところに金星が見えました。
池澤夏樹『また会う日まで』 ローソップ島37 (朝日新聞2021.4.7)

 これは明らかにおかしい。太陽(および月)の視直径が角度で32分ほどなのである。だからそこから「角距離にして数秒」だとすると、ほとんど金星食すれすれということになる。それが気になったので、 で調べたところ、この時太陽(と月、日食だから同じ位置)は“やぎ座δ”と“みずがめ座ι”の間あたり、金星は“みずがめ座ε”あたりで、ざっと17〜18度ほど離れていた。月は1日に13度ほど動くから前日には金星と近かったろうが、当日は月も太陽もそんなに近くはない。むしろ土星がかなり近くにあり、水星、火星もみずがめ座付近に集まっていた。また少し南には一等星フォーマルハウトも見られる。
星名赤経赤緯
εAqr20h47m.1-9°33′
δCap21h46m.5-16°11′
ιAqr22h5m.9-13°56′
(2000年の値。1934年は歳差のため1度くらい異なるが、星間の距離は変わらない。)


 さてそれでは、「柴田叔次君の報告」にある「角距離にして数秒」とは何のことだろうか?既に見たように、金星が月・太陽にそこまで接近していたわけではない。
 オーダー的に見ると、「角度で数秒」は惑星の視直径程度である。そこから候補を探してみる。
 まず金星は、地球から最も遠い場合の最小視直径が10秒ほどである。「数秒」よりはかなり大きい。
 この時月・太陽に最も近かったのは土星であるが、これの最小視直径は16秒ほどでさらに大きい。
 火星の最小視直径は4秒ほど。これは「数秒」と言えるかもしれない。しかしこの時火星は月・太陽より東にあったので、「柴田叔次君の報告」とは合わない。
 ということで、この「数秒」の意味は全く不明である。


 ところで、ここに出てくる「京都帝大の柴田叔次君」というのは後に に就いた人である。氏はその前に も歴任されている。実は筆者の父はその時の部下の一人だった。もっとも筆者はまだ小学生だったので知遇があるわけもないが、ただ、当時は気象台構内の官舎に住んでいた。官舎の子供たち(十数人くらいはいた)は台長室の目の前で遊び回っていた。そんな呑気な時代だったのである。そんな経緯もあって、ここで「柴田淑次君の報告」とされる奇妙な内容には修正を期するものである。

 柴田氏が台長だった時代に尖閣諸島などで金環日食があった(1958年4月19日)。神戸でもかなりの部分食が見られたが、この時、気象台の天体望遠鏡が稼働していた。この望遠鏡は現在、バンドー神戸青少年科学館に「たいよう」という名で収納されているものである。
 なぜ気象台に天体望遠鏡なのか、不思議に思うかもしれない。その経緯は に詳しい。実は、神戸の海洋気象台は東京の中央気象台に次いで我が国で2番目に古い気象台である(設立は1920年)。当時の気象台は研究機関の側面が大きかった。海洋気象台でも、関口鯉吉(後の東京天文台長。『また会う日まで』2021/12/4に登場する)による太陽黒点の気候への影響などの研究が行われた。そのため1923年に英国クック社製口径25cm屈折式望遠鏡が導入されたのである。この時、東京天文台は20cm、京都天文台(花山)は18cmだったので、神戸の25pは国内最大だった。関東大震災の時には一時、東京天文台に代わってここから全国に時報が発せられたという(まだ時刻は天測で決められていた)。
 そんな由緒ある望遠鏡だが、1950年代頃にはほとんど使用されていなかった。筆者の記憶する限りでは稼働していたのは'58年の日食の時だけである。この時だけ使われたというのは、あるいはローソップ島日食観測に参加し「いちばんの成果を上げた」という柴田台長の意向があったのだろうか?


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