16世紀の日本地図の経度と Prutenicae Tabvlae

 『遥かなるルネサンス 天正遣欧少年使節がたどったイタリア」(2017年、神戸市立博物館ほか)で、16世紀の日本地図 IAPONIAE INSULAE DESCRIPTIO が展示されていた。
アブラハム・オルテリウス Abraham Ortelius(1520-1598)編、ルイス・テイシェイラ Jesuit Luiz Teixeira 画
アントウェルペン Antwerp、1602年(初版1595年) 銅版画、手彩色 42×54.5cm
東京富士美術館所蔵

 同展の解説書によれば、これは「ヨーロッパで作られた地図の中で、最初に単独で日本を取り扱ったもの」という。
 注目されるのは、4辺の枠に緯度経度目盛りが付されていることである。本稿ではこれについて、特に経度に関してエラスムス・ラインホルト Erasmo Reinholdo による Prutenicae Tabvlae(プロシア表)との関連を考察する。同書はコペルニクスの天体理論に基づいたものである。


Edited by Abraham Ortelius(152701598), drawn by Jesuit Luiz Teixeira
Antwerpen, 1602 edition(1595,first edition)
東京富士美術館所蔵


図法
(当時同図法は既にあった。1569年)
メルカトル図法

緯度
 MEACO(=Miyako:京?)が北緯35°ほどで、ほぼ正確。しかしその他は全く不正確。全体に西の緯度が高く東の緯度が低い。これは、(少なくとも)京を除いて緯度が実測されていないことを示す。
 緯度は北極星の高度角を測定するだけで求めることができる(北極出地:17世紀には二代安井算哲(渋川春海)がこれを行っている)。
 北極星は正確に北極にあるわけではない。1600年頃には真北極との差は3°程度である(現在は1°以下)。緯度の誤差3°は小さくない(距離にして330km)。しかし北極星は真極から半径3°の円を 。だから半日を隔てて2回、つまり宵と明け方に測定し平均をとれば誤差は解消する。

経度
 九州が東経145〜150°。MEACO が153°ほど。Suruga(駿河、駿府?) が155°ほど。これらは現在の Greenwich を本初子午線(経度0°)とする経度(以下「Greenwich 経度」と称する)より15〜20°ほど大きい。
 Greenwich本初子午線は1884年ワシントンで開かれた国際子午線会議で正式に決められた。それ以前は国によってまちまちであったし、そもそもGreenwich天文台の創設が1675年で、それ以前にこの本初子午線が使われる道理はない。
 本図の本初子午線は不明。

経度の最小2乗推定
地名

y−x  経度1°はGreenwich 0.912°
 本初子午線は Greenwich 西経32°ほど。これは大西洋の真ん中。


 ポルトガルからアフリカ西岸を南下して喜望峰からインド洋に入る場合、途中で東経/西経が入れ替わるのは不便であろう。そのためにこの辺りを本初子午線としたか?


Greenwich経度との差とPrutenicae Tabvlae
 本図経度yとGreenwich経度xの差はすべて17°前後でかなり揃っている。
 この時代の経度の基準はPrutenicae Tabvlae(プロシア表)と考えられる。この書は、コペルニクス理論に基づきエラスムス・ラインホルト Erasmo Reinholdo が刊行した天体表で(1551年)、 である。
 同書には主にヨーロッパ各地の時差(したがって経度差)が記されている。それが0の地点つまり本初子午線は緯度54°17′とされている。これはバルト海沿岸の現ポーランドの と考えられる。 所である。地図によれば Greenwich東経20°ほどである。以下これを「Vramburg経度」と呼ぶ。したがって、

  Vramburg経度≒Greenwich経度−20°

 MEACO(京)はGreenwich経度≒135°, ∴Vramburg経度≒115°



 ところで、本図の という。一方、Prutenicae Tabvlae では、Lisbona(リスボン)の Vramburg との時差を S2h26mとしている。これは経度差36°.5'である(ただし、実際にはリスボンは Greenwich 9°Wほどなので、Vramburg との差は29°ほどであるが)。 したがって、ポルトガルのテイシェイラが Prutenicae Tabvlae の Lisbona を本初子午線としたとすれば、

  Lisbona経度≒Vramburg経度+36°.5≒Greenwich経度+16°.5

 MEACO(京)はVramburg経度≒115°,Lisbona経度≒151°.5

 これは本図の値(153°)とかなり近い。
 Prutenicae Tabvlae には Calecutum Indiae も掲載されている。 、Vramburg からは A4h21m≒65°したがってGreenwich経度≒85°E、実際には88°Eほどなので、MEACO の誤差1°.5 はこれより小さい。



推理と考察
 そもそもこの地図はどのようにして作られたのか、推理してみる。
 全体に西の緯度が高く東の緯度が低いという不正確な形状から、詳細な測量を行ったものではないと考えられる。おそらくはより古い時代の『行基図』などを模倣したものであろう。
 しかし行基図だけでは緯度経度を決定することはできない。少なくとも1箇所では測量を行っているはずである。その1箇所とは、緯度がかなり正確な MEACO(=Miyako,京)であろう。行基図のような図の上で京の緯度経度を確定したものと思われる。
 その場合、緯度は既に述べたように北極出地で決まるわけだが、経度は難しい。ポルトガルからの航路距離を経度に換算するというのは精度的に事実上不可能だろう。
 一方、Lisbona - Vramburg の経度差を36°.5とすれば本図の経度とよく一致するということは、Vramburg - Meaco の経度差はかなり正確ということになる。これはやはり天測の結果であることを示唆するであろう。
 もっと後年には、基準点との時差を直接測れるようになった。そのためには長い航海中の船の揺れや気温変化によっても狂わずに基準点の時刻を保持できる正確な時計が必要である。それが可能になったのは18世紀英国で『クロノメータ』が開発されてからで、16世紀には無理である。
 しかし、この時代にもある程度正確な機械時計はあった。徳川家康にスペイン国王から贈られた時計も遺っている。そのようなものを使えば、地方時を測ることは可能である。西洋(ポルトガル?)の時刻を保持することはできなくても、行った先(日本)で太陽南中を測ってその時刻を正午とすれば良いのだから。南中を測るためには正確な南北を知る必要があるが、
 さて、その地方時と基準点(本初子午線)の地方時との差はどのようにして知ることができるだろうか?
 それは『月距法』であろう。月は恒星天を27日7h43mで一周する(恒星月)。1日あたりの移動量は
 つまり、月とある星の角度(『月距』=赤経差)がα°であったとすると、翌日つまり24時間後には(α+13.18)°になる。
 今、基準点で0時のαがわかっているとする。別の地点で地方時0時にはそれがα’だったとすると、
 これが可能なためには基準点における月の正確な位置が知られなければならないが、Prutenicae Tabvlae はまさにそのような日月諸惑星の天体位置表で、その基準点は Vramburg だったのである。当然、これを基準として各地の(京を含む)経度が求められたであろう。そしてそれはかなり正確であった。
 しかしながら、テイシェイラはこれをLisbona本初子午線に変更した。そのとき Prutenicae Tabvlae における Lisbona の経度(Vramburg との時差)が誤っていたため、本図の経度になったのであろう。


Jul. 2017
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