二十四節気と”ゆらぎ”

 以前、敬愛する上田雄先生とちょっとした議論をしたことがあった。それは2012年の立春頃のこと、先生があるメーリングリストに流された以下の記事(一部省略)についてのものであった。

昨日は節分、今日は立春、季節の変わり目と考えられる時です・・・が
立春は天文学的な考え方で、太陽の位置が黄経315度にある時を
含む日を立春と言います。=今日の午後7時22分

太陽の位置なので、これは太陽暦です。
ところが往々にして人々はこれを旧暦と思い込みます。
今日も正午のNHKニュースでは、アナウンサーが開口一番
「今日は暦の上では立春です」と宣わった。

チョット待って下さい、「暦の上」もヘチャチャもない。
「今日は立春です」と言えばよい。
「暦の上」なんて言うから間違いの基になるのです。

春夏秋冬の四季節を、どこで区切るか、その区切り方に
神の法則もなければ、天下国家の定めもない。
誰がどう定めても自由であると言えます。

ただ、中国で生まれた月の動きを基にし、それに太陽暦の要素
(二十四節気)を加味した太陰太陽暦(日本でのいわゆる旧暦)では
春=立春2/4から立夏の前日まで 5/4
夏=立夏5/5から立秋の前日まで 8/6
秋=立秋8/7から立冬の前日まで 11/6
冬=立冬11/7から立春の前日まで 2/3 
と決めています。だから5/4 8/6 11/6 2/3は季節を
分ける日、即ち節分です。

この立春などが旧暦のものと誤解されるのは、
旧暦の理想としては、この立春が正月元日となるように
作成されているからです。しかし、宇宙の「ゆらぎ」のせいで
理想(立春=元旦)となることはまずないのです。
例えば今日は旧暦では正月十三日です。

 上田雄先生について少し紹介しておく。先生は『渤海国』(講談社学術文庫)、『遣唐使全航海』(草思社、海事学会賞受賞)などのご著書があり、古代の唐や渤海などとの交流史を研究なさっておられる。その中で、歴史上の日付(旧暦)をたとえば「新暦より1ヶ月後」などとする安易な傾向(実際これが多い!)におおいに疑問を抱かれ、暦を研究、『文科系のための暦読本』(彩流社)をものされている方である。
 そんな先生だから、二十四節気や太陰太陽暦に関するご理解は正確である。この記事の大部分は「我が意を得たり」であった。ただ一点、「宇宙の”ゆらぎ”のせいで理想(立春=元旦)となることはまずないのです」という所に筆者は反論した。
 宇宙の”ゆらぎ”というのは量子力学の概念で、それは『不確定性原理』に由来する。つまり量子力学の世界では物理量は確率的にしか決まらない、決定論的な議論はできないというのがこの原理である。一方、立春が必ずしも元日(正月朔)にならないというのは、ニュートン力学という決定論によるもので、だから立春も正月朔も何年も先まで非常に正確に予測できる。これは”ゆらぎ”とは関係ない、というのが筆者の主張である。
 上田先生はこの頃、 の講演を聴いて、「宇宙は量子的な”ゆらぎ”から生まれた」というお説に感銘を受けられたようである。それが上記の表現に結びついたのだとすればわからなくはない。一方、筆者の反論は一応教科書的には正しい、はずである。ただ、世の中教科書がすべてではない。もう一歩踏み込んでみたら、何かが出てくるかもしれない。

 以下では二十四節気の代表としてやはり立春を考えるが、別に他のどの節気で考えても構わない。なお、正月朔については今は触れない。立春の”ゆらぎ”(?)だけに焦点を絞ろう。
 次表は最近4年間の立春の日時である。
2010年2月4日7時48分
2011年2月4日13時33分
2012年2月4日19時22分
2013年2月4日1時13分

 一見して、立春は毎年6時間弱ずつ遅れることがわかる。2013年だけは2012年より18時間強早くなったように見えるが、実は2012年が閏年で2月29日があったから、2012年2月4日から2013年2月4日までは366日。したがって、
  2013年立春=2012年立春から366日−18時間強=365日+6時間弱
 つまり、18時間強早くなったのではなく、やはり6時間弱遅くなったのである。立春は前年の立春から365日と6時間弱の時刻になる。これは平均太陽年が365.2422日であること、および立春が太陽黄経315度になる時刻であることの当然の帰結である。
 ところで、立春の場合この4年間はすべて2月4日であるが、たとえば 。このように1日くらい変わることはままあるので、たとえば春分は「3月21日頃」としか言えない。実際、多くの書物にはこのように書かれている。他の節気も皆同様である。このことは「二十四節気は太陽暦である」ということに疑念を抱かせるかもしれない。人々が抱く印象は、せいぜい「二十四節気は太陽暦といっても不完全なもの」ということではなかろうか?
 実は逆である。二十四節気は、たとえば立春は「太陽黄経が315度の時」と決められている、これ以上はない正確無比な太陽暦なのである。むしろ、我々が使っている暦つまりグレゴリオ暦のほうが太陽暦としては不完全なのである。
 こんなことを言うと、「グレゴリオ暦は1年が365.2425日で平均太陽年365.2422日と0.0003日しか違わない非常に正確な暦である」という反論が来るだろう。しかし待っていただきたい。グレゴリオ暦では400年に97回の閏日を置く。その結果、
 したがって400年の平均は
 つまり400年という長いスパン(マクロ)では平均の1年が正確ということであって、400年より短いスパンではそれほど正確ではない。特に数年くらい(ミクロ)では、365日が3年続いて366日の1年が来るという、小さからぬ”ゆらぎ”を持っているわけである。そんなやや不正確な「暦の上」に正確な太陽暦である二十四節気を置いてみると、毎年6時間弱の誤差が現れるというのが真相なのである。

 400年より短いスパンではグレゴリオ暦が正確ではないことの一例として、関東大震災を挙げておこう。1923(大正12)年9月1日に起きたこの大災害は、『二百十日』の惨事と思われがちである。近年では9月1日は立春から数えて210日目の雑節だからである。ところが、この日は二百十日ではない。何故ならこの年の立春は2月5日だったので、二百十日は翌9月2日だったのである。
 かつては立春が2月5日のことが多かった。それがこの100年ほどの間に2月4日(または3日)になっている。その理由は、このところ4年に一度の閏年が続いていることにある。この100年ほどに限ればグレゴリオ暦はユリウス暦と同じく、1年が365.25日なのである。これはやや長すぎるため、立春や節気の日付は約1日ずつ早くなってしまった。この傾向は2100年に閏を省くまで続く。

 それでは、グレゴリオ暦より正確な太陽暦は作れないだろうか?不可能ではない。1日を
とし、
 1年=365日
とすれば良い。こうすれば立春は必ず2月4日、春分は必ず3月21日となり、閏年を置く必要もない。
 しかし、実用に供する暦としては、こんなことはできるはずがない。1月1日は0時から始まるとしても、2日は0時0分57秒から、3日は0時1分54秒から始まる。7月には1日の始まりが昼頃となる・・・こんな暦は誰も使わないに決まっている。
 一見馬鹿げた例に見えるだろうが、これは暦の本質を理解する上で有用な例である。すなわち、暦では時間が
  太陽日=24時間
という単位で「量子化 quantize」されるのである。この量子化は人類、というより地球上のほとんど全ての生物にとってきわめて自然なものである。誰でもこの周期で生活を営んでいるのである。
 一方、この量子化は太陽暦には馴染まない。それは太陽年が365.2422日という端数を持つためである。
 この1日という単位での時間の量子化と太陽年との軋轢が、二十四節気の時刻の小さなふらつき(”ゆらぎ”)を生むのである。

太陽黄経

(二十四節気の”ゆらぎ”)

時間の量子化

図 1

 さてここで、上田先生の記事に出てくる「宇宙の”ゆらぎ”」について考えてみる。これは量子力学の『不確定性原理』に関連する。しかしその前に、古典力学から始めよう。
 古典力学(ニュートン力学)では、ある物理量q(一般に”座標”と呼ばれる)にはそれの”正準運動量”pがあり、それらは次の運動方程式を満たす。
 ここでtは時間、f(q)はqのある関数である。これらを時間で積分すると、
  q(t)=q(0)+∫pdt
  p(t)=p(0)+∫f(q)dt
 一般にはこの積分が可能かどうかはわからない。しかしここではそれが可能であると仮定する。このとき、初期条件つまりt=0におけるq,pが知れていればその後の任意の時刻におけるそれを知ることができるというのがこの式の意味である。つまりこの式は列車の時刻表に譬えることができるかもしれない。これを「決定論的」という。太陽黄経(実は地球の公転運動)は、ニュートン力学の決定論的現象の一つの例である。
 19世紀には、この宇宙のすべての物理現象が(原理的には)この決定論的法則で理解できると考えられていた。例えば熱力学は非常に多数(たとえば1023)の分子原子がニュートンの運動方程式に従っていて、それらを統計したものとして解釈された。
 ところが20世紀になると量子力学が現れ、この状況は一変した。そこでは上記のqとpを同時に正確に知ることができないのである。このことは次式によって表現される。
  ΔpΔq >〜h
 ここでΔp,Δqは各々p,qの測定誤差、hはある定数である。今、pを正確に知ろうとすると(Δp=0)、Δq=∞となり、逆にqを正確に知ろうとすると(Δq=0)、Δp=∞となる。これを『不確定性原理』と呼ぶ。原理なのだから、どうがんばったってこれを破ることはできない。つまり、Δp,Δqを同時に0とすることはできず、p,q(の観測値)には常にいくらかの誤差が含まれる。このため古典力学の決定論は成り立たず、p,qは「このへんからこのへんまでのどこか」にあることしかわからない。p,qが固定したある値になることは、その確率しかわからないのである。そして「このへんからこのへんまでのどこか」というのが”ゆらぎ”の正体である。本当のところ「どこ」なのかは決してわからない。

 量子力学では物理量は「量子化」される。エネルギーでも運動量でもその他何でも、連続的に変化することはない。たとえばエネルギーの量子をεとすると、その物理系のエネルギー状態はεの整数倍に限られる。0.5εとか1.33εとかの状態は存在しないのである。
 さて、この「量子化された物理量」が不確定性原理によって”ゆらぎ”を持つという状況は、先の二十四節気の”ゆらぎ”と似ていないだろうか?

不確定性原理

(”ゆらぎ”)

物理量の量子化

図 2

 図1の「太陽黄経」のところに図2では「不確定性原理」が入る。しかし太陽黄経はニュートン力学で計算できる決定論的現象である。だから二十四節気の”ゆらぎ”は「毎年6時間弱ずつの遅れ」という非常に規則的なものとなり、この点が不確定性原理によって確率的にしかわからない量子力学的”ゆらぎ”とは大きく異なる。上田先生への筆者の反論はおおむねこの意味である。やはり、節気や暦に”ゆらぎ”を持ち出すのは不適切なのだろうか?

 ところで量子力学には『観測問題』というのがある。何らかの物理量(qやp)を観測しようとすると、その観測手段自体によって元の物理量が乱されるというものである。
 観測とは何か?たとえば対象を「見る」ことである。見る、とは対象から飛んでくる光を受けることである。対象自体が光を発するとは限らないから、通常は対象に光を当てて、それが反射したり回折したりしたものを受光する。ここで「光を当てる」という能動的行為が存在することになる。マクロな観測の場合、対象に光を当てるくらいでは対象の状態(位置や速度、など)はまず変わらない。しかし、ミクロの場合は、対象の持っているエネルギーと当てる光のエネルギーが同程度になることもある。その場合、対象の状態は当てた光によって乱されるだろう。ちょうど止まっているサッカーボールに野球のボールをぶつけたら動き出すのと同じことである。
 そんなわけで、ミクロの現象では観測された物理量というのは観測によって乱された状態なのであって観測しなかった場合の「元の状態」を知ることはできない、というのが『観測問題』である。そしてこれが不確定性原理と結びつく。つまり、
  ΔpΔq >〜h
という不確定性は、少なくともその一部は観測問題で説明されるのである。これはボーア、ハイゼンベルグ以来の量子力学の伝統的解釈である。これに異を唱えるアインシュタインとボーアの有名な論争がある。

 ところが最近になって、この が現れた。ということは、従来は観測問題という”ノイズ”を含んだ観測値によって不確定性を評価していたことになる。もしそうなら、観測問題を除き去った後の不確定性とはどんなものなのか?まだ正確なことは誰も理解していないのではないのか?場合によってはそこには未知の決定論的法則があるのではないか?つまり、「神はサイコロを投げない」というアインシュタインの信念にもう一度目を向けることになるのではないか?
 何の証拠もない以上、これはたんなるホラ話であるが、もしこれが当たっていたなら、暦に「宇宙の”ゆらぎ”」を見た上田先生が正しかったことになる。

May 2013

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