ディサ国の執務室
 机の上には書類が山のように積まれている

 その中に埋もれるようにして、
 国の城主は地道な作業を続けていた


 若草色の髪に紫電の瞳

 魔界始まって以来の馬鹿王子と評されている、
 カイザル・アイニオス第二王子である



「…予算…は、この位で順当か
 倒壊した民家の件数は…あぁ、でも苦情は少ないな
 被害額は思ったより少なかったが…しかし人件費が――…」

 既に頭の中は飽和状態

 しかし馬鹿であろうとガキだろうと職務はやらなければならない
 以前はリノライが書類をまとめてくれていたが、今はそうもいかない

 現在リノライは実験室で召喚魔法の研究中だ

 どんなに優秀な部下であろうと、身体はひとつしかない
 彼一人に任せられる仕事量には限度がある


 ただでさえ少ない睡眠時間を削らせて無理難題に挑ませているのだ
 日増しに疲労の色が溜まって行くのが傍目から見てもハッキリとわかる

 元々華奢だった身体は更にひと回り細くなった
 肌も滅多に陽光にも当たらないせいか血管が透けて見えそうな程に白い

 睡眠時間どころか食事をする時間すらも削っているのだ
 そういえばここ数日、彼が城外に出ている姿すらまともに見たことがない

 最近ではついに視力をやられたらしい
 本や書類に目を通す時には眼鏡をかけるようになった



「…だんだん…ボロボロになって行くな……」

 その原因は他ならぬ自分のせい
 それがわかっているからこそ辛い

 リノライが自分の為に頑張ってくれているのは嬉しい
 しかしこのままでは自分よりも先に命が潰えてしまうのでは――…という不安も過ぎる

 口には出さないだけで、病気の一つや二つ持っていてもおかしくない

 運動不足に栄養不足、そして睡眠不足
 これだけの不摂生を数十年も続けていれば体調も崩す


 労ってやりたいし、たまには休息も与えてやりたい

 その仕事量の半分だけでも肩代わりしてやれたらと何度思ったことだろう
 しかし、リノライの仕事はどうしてもカイザルの手に余る
 結局カイザルに出来る事は、目の前に詰まれた書類の山を片付ける事だけだった

 ―――…が、どうやらそれすらも危ういらしい

「…あぁ…何度やっても計算が合わない…
 何処で間違っ―――…あ、この用紙の存在を忘れていたのか…」

 初歩的なミスの繰り返し
 リノライなら絶対にしないだろう


「えっと、被害状況と死傷者リストを照らし合わせて――…
 …あれっ…住民登録票をまとめたファイル、何処に片付けたかな…」

 一向に進まない
 この部屋で滞り無く進んでいるものは時計の針だけだった

 そして、仕事は進んでいないのに容赦無く睡魔は襲ってくる
 ふらふらする頭も、カイザルの注意力の散漫さに拍車をかけていた

 元々、大人しく座っていられるような性格ではない


「あぁ――…嫌になってくる…!!」

 志も薄れ始めて、独り言に泣き言が混ざり始めた
 そんなカイザルに遠慮するかのように、控えめなノックが執務室に響く

「誰――…だ…?」

「…あ、俺…ジュン、です
 カイザルさん、入って良いですか?」

「ああ、入ってくれ」

 おずおずと遠慮しがちにドアを開く青年
 栗色の髪がランプの炎に照らされて赤毛のように見えた




「カイザルさん、大丈夫…ですか?」

「――…うん?
 流石にリノには敵わんが…我なりに頑張っているぞ」

「いや、そうじゃなくて…
 そろそろ夕飯の時間なんですけど、ちゃんと食べて下さいね」

 ………夕飯…?
 ちら、と時計を見やる

「…ふむ…妙だな…
 さっき食したような覚えがあるぞ」

 机の片隅にはその時の食器が重ねて置いてあった

 ターキーのサンドイッチにマッシュポテト
 キャロットとセロリのスティックサラダとホットミルク

 書類が汚れないように、汁気の少ない物を運ばせた所まで鮮明に覚えている


「…確かに食した筈…だが…」

 記憶を辿ってみる
 晩餐の時刻はいつも6時50分と決まっていた

 そして現在の時刻は6時30分

 …………。

「……あれ…?
 ジュン、この時計…ズレていないか?」

「いえ…正常ですけど」

「……えーっと…?
 あれ…だって皿あるし…?」


 使用済みの食器

 良く見ると乾いてカピカピだ
 まるで、丸一日その場に放置されたような―――…


「…い、今…6時30分…?」

「はい」

 ―――…現在の時刻は6時30分
 その意味を知ってカイザルは思わずペンを取り落とした

「…うそ…あれから24時間も経ったの…か…?」

 丸一日この部屋で書類と格闘していた事になる
 何より辛いのは、そこまで頑張っても大した量を片付けていないという現実なのだが


「…カイザルさん…
 もしかして、一晩ここで過ごしたんですか?」

「そ、そう…いう事に…なるな…」

「……気付かなかったんですか…?」

「――…あれ〜ぇ…?
 気付かなかった…なぁ、あはは…はは…」

 笑ってその場を誤魔化す
 …が、ジュンの呆れ顔が痛い



  



「まったく…シェフたちが心配してましたよ
 いつまで経ってもオーダーが来ないって」

「そ、そうか…それは悪い事をしたな」

「それで、さっきリノライさんに泣き付いてるの見ました
 自分の身分では呼ばれないとカイザルさんの部屋まで行けないからって
 夕食の時間にリノライさんが適当に見繕って持って来てくれるそうですから
 仕事も良いけど、皆も心配するから…夕食くらいちゃんと食べて下さい…ね」

 ジュンはそれだけ言うと、机の上の食器を持って出て行った
 恐らくリノライに泣き付くついでにジュンに片付けを頼んだのだろう


「…駄目だな…僕は何をやっても人の迷惑になる…」

 あと20分もすればリノライが来る

 研究に一分一秒ですら惜しいだろうに
 結局リノライにも無駄な手間を与えてしまった

「…所詮、僕は出来の悪い馬鹿王子…か…」

 こんな王子に一生仕えなければならないなんて
 リノライは人生の貧乏籤を引いた――…そう思えてならない


「どうして…僕なんかの事を好きになってくれたのだろうな
 血の繋がった母様にさえ疎まれて…呪われたというのに…」

 理解出来ない
 しかし、だからと言って彼の気持ちを疑う気は無かった

 物心付く前からずっと一緒に育ったのだ
 ディサ国に追放された時も当たり前のように付いてきてくれた
 それが、母親であるゴートと敵対する事になるという現実を踏まえた上で

 リノライの忠誠心も愛情も…全て本物だと信じている




「…一度、爆発したが…な」

 リノライから受けた暴行は一生忘れないだろう

 信頼していた家臣からの裏切り
 カイザルは身も心も激しく傷付いた

 背中に突き立てられたナイフの冷たさ、そして焼けるような痛みはまだ記憶に新しい


 ずっと溜め込んで押さえてきたリノライの感情
 ジュンへの嫉妬が引き金となって爆発して、自分に降りかかってきた

 リノライだけを責めるつもりは無い
 彼からの想いを軽んじた自分自身にも責任がある

 そして、突き付けられた現実から逃げようとした臆病な心にも


「…だが…今は違う…
 リノライとの関係も真正面から向き合った
 自分の意志で決めたんだ…もう僕は逃げない…」

 もう覚悟は決めた
 目を逸らさずに全て受け入れるように決心もついた

 それなのに


「現実は酷なものだな…
 想いを伝え合った恋人同士が生活を共にしているというのに」

 相手をしてくれるのは専ら仕事の山
 寝る時は冷たいベッドで一人寝

 最近では二日三日、顔を合わせない事も珍しくない


「…味気無いな…」

 暖かな日差しを浴びながら、
 リノライの腕の中で目覚める朝――…

 そんな目覚めは、未だ訪れず
 それどころか、身体に触れてくる事すらしない

 以前は歩く時は肩を抱いて支えてくれたり、
 椅子から立ち上がる時には手を引いてくれたりしたものなのに

 最近はむしろ意図的な拒絶さえ感じる
 仕事を理由に実験室に閉じこもって、顔すら滅多に見せてくれていない

 鈍いカイザルでさえ不自然さを感じるほど、露骨に避けられていた


「…まだ、あの時の事を気にしているのか…?
 もう僕も気にしていないし、リノライを拒んだりしないのに…」

 心を埋め尽くす言葉は『寂しい』の一言
 埋まると思っていた心の隙間は、余計に開いたような気がする

 熱い抱擁も甘い口付けも無い

 レンのように楽しく語らいかけてくれる事も無ければ、
 ゴールドのように情熱的に愛を語ってくれる事も無い

 ジュンもレグルスも、恋人と少なからず甘いときを過ごしている


 首筋にキスマークをつけているのを揶揄されたり、
 朝、相手のシャツを間違えて着ていた事に気付いて赤面したり

 …一度でいいから、そいういう経験をしてみたいものだ

 他人と比べる事自体が間違いだと理解はしている
 それでも、目の前で見せ付けられては己の不遇を呪わざるを得ない

 何せ、常に二組の熱愛カップルに見せ付けられて生活しているのだ




「…羨ましいではないか…
 全く、リノは一体何をしているのだ…」

「申し訳ございません、何か粗相でも致しましたでしょうか」

「―――…っ!?」

 顔を上げると、そこにはリノライがいた
 申し訳なさそうに顔を曇らせながら、真っ直ぐにこっちを見ている


「なっ…ぶ、無礼な!!
 ノックぐらいして入れ!!」

「勿論、しましたが―――…返答が得られませんでしたので
 中でお休みなのかと思い、非礼を承知で確認させて頂いた次第でございます」

 …全く気付かなかった
 そこまで物思いに更けていたのだろうか

「そ、そう…か
 少し考え事をしていたものでな」

「あまり無理をなさらぬよう」


 リノライは机の書類を脇に置きながら、ワゴンの皿を並べ始める

 甘いスープの香りが部屋に広がった
 続いて焼けた肉の塊が切り分けられる
 次々と並べられる皿の数にカイザルは目を疑った

「…少し…ヘビーじゃないか?」

「本日は…御召し上がりにならなかったそうですね
 栄養は摂って頂きませんと、御身体を害してしまわれます」

 リノライには言われたくない
 下手に反論しても絶対に勝てないので黙っているけれど


「さあ、残さず召し上がって下さいませ
 鹿肉のローストとコーンのポタージュでございます
 キノコとビーンズのリゾットと温野菜のムニエル風サラダもどうぞ
 デザートにはパンプキンプディングとナッツのクリームタルトを用意致しました」

 絶対、量多いだろ、それ…
 妙にコッテリしたものが多いし

 レンならペロリと行くだろうが――…自分には無理


「…その…あまり食すと眠気が…
 まだ書類も残っているし――…だな」

「どうぞ、お休み下さいませ
 昨夜は睡眠を取られておりませんでしょう?」

「で、でも仕事が…っ!!
 まだ半分も片付いてないし…!!」

「期限の迫っているものは、私が代わりに
 ですから無理せずにお休みになって下さいませ」

「でも―――…!!」

 それではリノライの負担が増える
 少しでも彼の仕事量を減らしたかったのに

「……でも……」

 結局、自分では力不足だった
 つまりはそういう事だ



「……そう…だな……」

「では、冷める前に召し上がって下さいませ
 私はニ時間ほど後に再度参らせて頂きます」

「…ああ…」


 深々と礼をして去って行くリノライ
 彼を見送りながらカイザルは思った


 ―――…どうするんだよ、この量―――…

 しかも、二時間で食べ切ろと!?
 一時間じゃないだけまだマシかも知れないが…

「絶対に無理だろう、それは…!!」

 ここまで来たら嫌がらせかとも思う
 実際、リノライの方にも多少の意はあったのだろう

 何せ彼は自分自身の事は御座なりなくせに、カイザルの事となると妙に口煩い
 食事を抜いた事で恐らく腹を立てているのだろう


「はぁ…困ったな…
 昔から食事を残すと小言が煩いし…」

 途方に暮れつつ思わず天を仰ぐ
 その時タイミング良くノックの音が響いた




「誰だ?」

「あ…ジュンです
 すみません、届け物が――…」

「ああ、入れ」


 本日二度目の訪問をした青年
 その腕は大切そうにボトルを抱えていた

「シェフが、ワゴンにワインを乗せるのを忘れたって…
 だから代わりに届けに来ました
 ―――…うわ…凄い量ですね…」

 机の上の皿にジュンも目を丸くする

 それもそうだろう
 その量は、きっちり三食分あるのだ
 抜かした二食分の栄養も摂らせようとしているのだろうが――…


「カイザルさんって…たくさん食べるんですね…」

「そんな筈が無いだろう
 レンの胃袋と一緒にしないでくれ
 こんなに持って来られて、途方に暮れていた所だ」

 さて、この皿をどうするべきか――…


「…ジュンはもう晩餐を済ませたのか?」

「俺は夕方にゴールドと買い食いしたんで、夕食は頼みませんでした
 新規オープンの店で…野菜のたくさん入ったパスタの店なんですよ」

「夕方…という事は、数時間ほど前になるな
 そろそろ小腹が空いてくる頃ではないか?」

「そうですね、野菜ばかり食べてたから
 脂っこい物が欲しいな…後でゴールドに何か買ってきてもらおう」

 ターゲット、ロック・オン
 カイザルは心の中でガッツポーズを決めた


「ジュン、我と一緒に食してくれ
 一人で手に負える量ではないのだ」

「えっ…良いんですか?」

「ああ、一人の晩餐ほど味気ないものは無い
 久しぶりに、ゆっくりと会話も楽しみたいしな…相手をしてくれないか?」

 結果はどうであれ、一晩徹夜で頑張ったのだ
 少しくらい息抜きをしても大丈夫だろう

「…じゃあ、少しだけ」

 その一言を合図に、二人の晩餐会が始まった




「…二人がかりでなら、案外あっさりと片付くものだな…」

 二時間どころか、三十分足らずで完食
 皿をワゴンに片付けるジュンの姿を眺めながらカイザルはワイングラスを傾けていた

 甘口のロゼワインが舌を火照らせる
 当たり前のようにジュンの分も注ぎ入れると、彼は苦笑を浮かべた


「俺の周囲って、酒に強い人ばかりな気がします
 ワインってアルコール度数が強くありませんか?」

「…むしろ低い方だと思うが…
 ジュンはあまり強くはないのか?」

「俺はワイングラスに一杯飲めば充分酔います
 ビールなら、ある程度は飲めそうですけど…やっぱり弱い事に変わりはありませんね
 ゴールドの奴はそれを知って以来、わざと俺を酔わせようとしてくるんですよ…困った事に」

「…そうか…多少弱い方が都合が良いのかも知れないな…」

「はい?」


 思い出に心馳せてみる
 リノライとは今までに何度もグラスを交わせて来た

 しかし――…元々カイザルの方が強かったのかリノライの前であまり酔った覚えがない
 ぐいぐいと一気に飲みすぎて注意される事はあるが、二日酔いで体調を崩した事もない

 今まで自分がアルコールに強いのか弱いのか…そんな事は気にした事がなかった
 漠然と、平均よりは弱いかも知れない――…と思っていたのだが根拠は無い


 比べる相手がリノライだったからかも知れない
 何せ彼はあくまでも適量しか口にしないのだ

 どんなに多くてもグラスに三杯まで
 それ以上は絶対に手を出そうとしない

 だからカイザル自身、リノライが強いのかどうかすらもわからない


「…多少酔って見せるくらいの方が、可愛げがあるだろうか…」

「可愛気…?
 な、何かあったんですか…?」

「ああ、リノの事で少しな
 …どうも我には魅力がないようで…困っている
 わざと潰れる一歩手前まで飲んでからリノの部屋を訪れてみるか――…」

「ちょっ…身体壊しますよ
 というか、上手く行っていないんですか!?」

 物凄く意外そうな顔をされた
 …まぁ、その気持ちはわかる

 何を隠そうカイザル自身が一番意外に思っているのだから


「ああ…まぁ、忙しいというのも理由のひとつなのだがな
 どうも仕事を理由に避けられているような気がしてな…
 我自身にもっと色香があれば、上手く行けるのかも知れないが――…」

 そうだ、相手が何もしてこないのであれば自分から仕掛けるしかない
 都合の良い事に目の前には経験豊富(カイザル主観)なジュンもいる事だし


「ジュン、アドバイスを頼みたい
 誘い方を教えてくれないか?」

「ええっ!?
 そ、そう言われても…困りますよ
 大体ゴールドは万年発情男ですし
 リノライさんとは根本的に違うと思いますよ?」

 …さり気に酷い言われようだ
 ジュン本人は気付いていないみたいだが

 カイザルは思わずゴールドに同情した


「…と、とにかく参考程度で良いのだ
 こう…色っぽいというか思わず襲いたくなるような仕草を知らないか?」

「そんな事聞かれても俺は本当によくわからないんで…
 ありきたりな意見ですが、酔って相手の警戒心を解く――…っていうのは良く聞きますよ」

「そうか…やはり酔って見せるのは有効な手段なのだな」

 この瞬間カイザルの中でアルコールは重要アイテムとなった


「誘っているのかどうかはわかりませんけど、チラリズムとか定番ですね
 他には『相手を上目遣いで見つめる』というのも効果があるらしいですよ?
 あと意外と効果的なのが『相手の名前を呼ぶ』…これも、地味に使えるらしいです」

「成程な…非常に参考になった――…協力感謝する」

「いいえ、大した事は言ってませんよ
 じゃあ俺はそろそろ部屋に戻りますね」

「ああ、付き合ってくれてありがとう」

 ジュンの背を見送りながらカイザルはグラスの中身を飲み干した





「…さて…本番に向けて練習してみるか」

 せっかく貰ったジュンからのアドバイスだ
 いざという時に失敗しないように、今から練習をしておいた方が良い

 ぶっつけ本番でリノライを誘惑できる自信は無かった


「…チラリズム…か…
 胸でも肌蹴て見るか」

 襟のホックを外して手を滑り込ませる
 ――が、どこまで脱げば良いかわからない

「…こ、このくらい…?
 いや、脱ぎ過ぎだろうか…?
 ちらっと見える程度と言っても、どこが見えればいいのだ…?」

 第一歩から悪戦苦闘

「ま、まあ…この程度で良いか
 次は酔ったふりの練習でもしてみようか…」


 本当に酔うまで飲んでしまったら、誘うどころではない
 必要なのは、あくまで『酔ったふり』なのだ

「…さて…どうするか…
 何かモデルがいてくれれば楽なのだが…」

 具体的な酔っ払いのイメージが浮かばない
 あまり外部との接触がないカイザルは、当然ながら酒場の隅で酔い潰れる客の姿など見た事もない


「…確か…酔うと、笑い出す…とか聞いた事があるな…」

 それは俗に言う笑い上戸という奴なのだが、カイザルはそこまで詳しくは知らない
 ただ何となく聞いた事のある話を繋ぎ合わせて『酔っ払い像』を築き上げて行く


「ええと…それからリノの瞳を見つめて…名前を呼べばいいのだったな」

 とりあえず、イメージトレーニングをしてみる
 客観的に自分の姿を意識する事によって、より効率的に動けるようになるのだ

 それは体術の稽古と同じだ

 己にそう言い聞かせながら、リノライを誘う自分の姿を想像してみる
 胸を肌蹴た自分がケタケタ笑いながら『リノ〜』と彼を見つめる姿――…


 ―――……。


「…何だか…リノがタチの悪い酔っ払いに絡まれた可哀想な青年に見えてくるな……」

 ハッキリ言って、迷惑以外の何者でもないだろう
 こんな姿にリノが欲情するとは思えない

 押し倒すどころか、むしろ説教モードに入りそうな気さえする



「…でも…他に方法も思い浮かばないからなぁ…」

 ぶち当たった壁は、登って超える事も破壊して乗り越えてゆく事も困難そうだ
 何か手段がある筈なのだろうが――…まるで思いつかない


「…リノ…せめて、お前の気持ちさえわかればな…」

 舌先でワインを転がしながら、思いを馳せる

 時間さえあれば、色々と疑問や不満をぶつける事もできる
 しかしリノライは『忙しい』と言って、すぐに踵を返してしまう

 このままでは最悪なケースに陥ってもおかしくないだろうに


「…リノ…お前は、僕を選んでくれたのだろう…?
 ティルティロ国も、魔王への忠誠も、実母の腕すら振り解いて――…僕と来てくれたのだろう…?」

 じゃあ、何故今になって突き放す?
 やっと縮まった距離を自ら開いて…それがお前の望みだったのか?

 一晩掛かってでも問い詰めてやりたい
 しかしそれは叶わない――…せめて記憶の中のリノライに語りかけた


「…まさか…後悔なんて、していないだろうな…?」

 ずっと保ってきた主従関係
 その関係に亀裂を入れたのは他ならぬリノライだ

「冗談じゃない…今更、昔の関係に戻りたいなどと言われても…
 もう僕にはリノしかいないんだ…二度目の裏切りは許さないぞ…」

 今度は殴るだけでは済まさない
 本気で拷問室送りにしてやる

 まあ、まずはリノライ本人に真意を確かめてから、だが

 しかし普段のリノライのあの態度だ
 あまり良い答えは期待出来そうにない


「はぁ…僕の何が悪かったのだろう
 思い当たる節が多すぎて悲しいな…」

 悲しみを紛らわすかのようにカイザルはグラスを煽る
 ワインボトルは見る間に空になっていった

 あっという間に最後の一杯
 並々と注がれたワインを舐めながら、カイザルは物思いに耽る

 とは言っても、相変わらず考える事はリノライの事ばかりなのだが



「…リノ…リノライ……」

 名前を呼ぶだけで、胸は鼓動を早める
 カイザルは肌蹴たままの胸元に手を滑り込ませ、その鼓動を確かめた

「…熱い…な…」

 身体が熱い
 ワインのせいか、それともリノライの事を想っていたせいだろうか

 胸が痛い
 こんなにもリノライの事を想っているのに

 どうして、この気持ちをわかって貰えないのだろう


「…リノ―――…」

「お呼びで?」


 がちゃ

 ドアが開いた
 良過ぎるタイミングにカイザルは声を裏返す

「り、リノ…!?
 お前っ、いつからそこに…!?」

「たった今ですが
 ドアをノックしようとした時、私の名を呼ぶのが聞こえまして――…」

「…そ、そうか…
 丁度リノの事を考えていたのだ
 無意識にお前の名を呼んでいたのだな」

 何とか誤魔化しながら、内心冷や汗を拭う
 リノライを誘う練習をしていたなんて、とてもじゃないが言えない


「…さようでございますか
 ですが、今日はもうお休み下さいませ」

「……ん?」

「お身体、相当疲労なさっておられる筈です
 自覚は無いでしょうが…睡眠はとって頂かないと」

 言われて、そういえば徹夜だった事を思い出す

 …が、何故か睡魔は訪れていない
 カイザル自身が不思議に思うくらいに


「眠くない」

「いけません
 お休みになって下さいませ」

「…だって…眠くないものは仕方が無いじゃないか」

 残ったワインを一気に飲み干す
 あとはもう、開き直るしかない

 頭の中はリノライを誘う練習をする事で一杯
 おちおち寝てなんかいられないのだ


「…仕方がありませんね
 ですが、せめて寝所に向かって下さいませ」

「横になる気も起きないんだけど」

「寝酒を持って参ります
 少し酔いが回れば睡魔も訪れる事でしょう」

 何が何でも寝かせる気らしい

 リノライは見た目に寄らず頑固な所がある
 カイザルが眠りたくないと言った所で、あっさりと承諾するような性格じゃない


「…わかった
 じゃあ、先に行ってる」

「はい」

 あーあ…
 もう少し練習したかったんだけどな…

 意気込んでいた矢先だったので、残念だ

 …まあ、仕方が無い
 子供じみた意地を張ってこれ以上リノライに迷惑をかけるのも悪いし

 カイザルは溜息をひとつ吐くと、大人しく自分の部屋へ向かった