短歌の小部屋

野口辰彦歌抄


目   次(何れも旧作ですが、下のタイトルをクリックして下さい。)

死にたまふ母

亡き弟に

アメリカンパーティー 

ホモ・ファベル抄


死にたまふ母

母な死にそ死なさじと内に叫べども医師ならぬ我が術のあらなく

医も愛も術無きものかたらちねの母奪わんとする病魔不条理

癒ゆるなき病と知らで腹切らす母の覚悟の日々澱となる

生きたしと涙もて医師に訴うる母の膵臓を癌の蝕む

小さくなりし身に終の意志みなぎらせ手術の麻酔受けし母はも

測り得べき長さを生きんとする母に何やなすべき子なる我等は

長子われ老いたる母と住まざりき癌に逝かんとするこの母と

消ゆるがに痩せ給うなり死に行かん母が手とりてしばし歩めり

みどり児の目に戻りたる母が目を見入るわが目に涙溢れき

何か叫ぶ幻聴繁き夜をこめて母は昏睡に入りにけらしや

昏睡の母が手の浮腫さすりつつ明けたる空の黒き雲疾し

二度と醒めぬ眠りにつきて雨台風激しき夜に母逝かんとす

また一つ命消えたる外科病棟母は醒めざる眠りを眠る

看護婦走り医師は渾身のマッサージピクリともせず心臓モニター

七日余の昏睡の後の断末魔医師は拒みき酸素吸入器除去

吼えるごとき苦悶の声のいや細りやがてひたと止み母死に給う

吼え叫ぶごとき声細り弱り行き穏やかな顔となりて母死す

夫と子らに両手取られて死にし母の面安ければ我が泣かざりし

終の面花に埋もりて笑みてあれば黄泉路の母の魂安かるべし

ふっと漏るる吐息感じぬ白布取れば死化粧したる母の口許

死化粧終われば子らを去らしめて終の別れをし続けり父は

五十年見ざりしは父の涙かな母逝けば二時間を忍びて泣けり


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亡き弟に

はつか開きし目蓋閉じやれば命無き冷たさは戦慄となりて貫く

耳にかかる汝が長き髪かきやりつかきやる毎に落つる涙は

一瞬に命絶えしならん眠るがの口許はつか歪みていたり

一瞬に血は汝が脳に溢れしや頭蓋内壁朱に染みいたり

シューベルト "Adie"の耳に鳴り止まず卒然と汝は逝きにけるかな

鈴打てばおう何だと出づるがの汝が仏壇の下一夜寝る

異学なれば我が知らざるを分かち持つ師友は篤し血の縁越ゆ

慟哭は死語にあらざり弟よ汝が亡きを泣く友の幾人

生きて行けるこの子あればと汝が妻の言える葬り日桜咲き初む

花に埋む終の父の顔にまた一つ花添うる甥を我は抱きしむ

ハンカチ握り涙耐えつつ焼香の級友に黙礼したる遺子かは

父葬る放心の母にしかと添い支うがに立つ遺子は十一

人ともに酒愛したる汝を泣く友がら遠く佐渡より来りぬ

酒寿ぎの旅人を若き日に言いき魂の界に今誰と酒汲む

サクラサクと合格告げて四半世紀汝は死したり東大助教授

サクラチルや震いつつ電報受けし母に汝は何告げて共の黄泉なる

生き難き時もありしを誠実に学に生き来つと師の弔辞哀し

家宝にと父の言いけり一語一語深き理解と情満つる弔辞

『残念です』畳につける手に涙滂沱たる友我が死にはありや

長子われの優柔不断を責めし汝が短折などかかく断固たる

才質は異なれど互みに頼み来し汝が無くて我が跛行を危ぶむ

会うを皆ファンになせりと友言える汝が周り幼きより人多かりき

亡き跡にポッカリと開きし大き穴辺に立ち呆たりと上司言い給う

整理よき研究室を驚きぬ汝が性かかるとは兄の知らざる

論文の構想ならんレジュメらしき残れり主無き研究室に

中国の地図広げありし研究室汝が論もともに逝きけり

講義前の師の寄ればともに飲みしとう茶の器虚しく書棚にありき

時計塔の巡りは花に満ちぬべし汝が窓にのみ明かりは無くて


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アメリカンパーティー

六十の社長夫婦も踊りたるカクテルパーティーに我は招かる

敬虔なユダヤ教信者の社長踊る会社業績漸く上向き

艶々し社長となりし人の顔社長退きし人髪疾く白し

彼我はなく失意の人を老いさする昨年までは聞きしジョーク出でざり

手の平の緋の美しき黒人のキング婦人と握手したりき

寡黙なる夫はブルーカラーならんキング夫人経理を職とす

妻を置きて来しとう英国籍の人パートナー無きを嘆きひた飲む

英国のパーティーや如何にとわが問えば"formal but Rock music"と肩すくめ言う

ミスター何ミセス某と握手せる社長から工員までみな夫婦なりき

ダンスをと手を延べくれし丈高きアメリカ婦人の心のみ受く

美しくステップを踏む金髪の婦人七人子を産みきという

発語機を外より喉にあてがいて語り居る癌に声失いし人

発語機の言葉抑揚を伴わず感情は凝りて潜みいるらし

鋭き目据えつつ一人タバコのむ脇に座したるその人の妻

失いしは声のみならん8ビート激しく妻と踊りていたり

いつとなく始まりそして誰も居なくなり果つるアメリンパーティー

宴半ば社長短きスピーチす我が招待に一言触れて

ポケットに忍ばせ来たるスピーチの原稿捨つるその機会なく

ダンス好む者はなせ会話楽しまん向きはせよ!"individualism" U

席順なく胸の名札のタイトルなく集えるは同じ市民夫婦とや

定席なきパーティーと知れどこの国の見事なるまでのラテラル社会

日本時は未だしと言えと時間切れのカクテル券をくるるユーモア

一杯のマルティーニ仕留めテーブルに戻ればたちまち起こる爆笑

昨晩はターキー食みきと言えばターキーに食われしならずやと小声の半畳

これやこのアメリカ文化の一端に絡め取られていい気な一夜

週末のパーティー果てて夫婦帰り妻置きて来し者等ら残れる


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ホモ・ファベル

技術者われ我が製品に「頑張れよ」とつぶやきていし試運転前

電気抵抗ゼロの金属ありと言う一言ゆえに親を離かりき

技術は真に不偏と信じ来しや技術論論争世をはばかりし後

ホモ・ファベル物造る故に人なりとフランクリン言えるその物を問え

物造る目は常に物の側に向く技術馬鹿また技術者冥利

技術は暴力をはらむと静かに言う哲学者が羨し技術者我は

「技術屋」の語に潜み居る蔑視を知りたる人の技術立国を言う

『我は人、人の事なべて我関す』テレンチウス、マルクス、ボーア継ぐ無く

首から下使う事少なくなりたれば堕落と若き技術者の言う

万情報伝うケーブルの一瞬に燃えてかく脆きハイテク社会

学校休むと電報をもて伝えしとう児の隣家にや友は無かりし

電話のみが頼みと老の一人住む情報化社会のうそ寒き利便

輸出されし核融合の実験機に日本人技師は神の札貼る

日本語を公用語にと座長戯れしアメリカの超電導国際会議

名刺交わし互いの母国語で読みてより英語弾みぬ日中の技師我ら

唇噛み育ての親論を我は説くオリジナリティーを言いアメリカの友は

帰るべきレバノンは無くてアメリカに生きると言う小企業の主任技師として

ワープロのローマ字漢字変換に慣れつつ思う安政のヘボン

タイプの音オフィスより追いしワープロのプリンタ音の人を急かしむ

疲労著るき我と知りたり昂りて己が手染めし実験の後

技術を神と言う易きには与みせざらん再び真夜をバナール読み継ぐ

ものなべて死すべき絶対零度近く液体ヘリウムの泡浮き動く

静寂の極低温と思いしに超音波騒ぐオシロスコープ

顕微鏡覗きつつ試料整うる物理学者居て実験室は眠らず

半年の準備経て束の間に終わる実験は虫の一生に似ると

世界初のデータならんやと我が問えば髭伸びし顔はにかみ肯なう

近く居し野次馬に我は過ぎざるに心はしゃぎぬおめでとうと言えば

『僕はレアー、君どうする』とテネシーのステーキ食みし人は還らず

人の生理無視するジェット作りたる人ならば体内時計も合わせよ

通貨のみ早ドルとなる面白さ言葉も生理もそのままにして

十二時間座りしままの機内食二度平らぐる人もありつる

ニューヨーク一夜明け聴くドボルザークピアノトリオよし心みなぎる

マルコスついに国を出でつとラジオ言い時差残る我が耳を疑う

ブルックヘブン加速器トンネル洞ばかり予算カットせしレーガン政権

筆走る音ステレオで聴き居たり墨黒く書きしは「緑」とぞ言う

刺すごとく朝の車中を伝い来る誰がデジタル時計の時報

ペリー率し黒船もかく小さかりき初海軍艦コンステレーション

共同者はた競争者良きに負う新しき理論形成すまで

超電導フィーバーは愛憎半ばする我が二十年の生業にして

低温物理国際会議に群れ行きし二千余の一に我もありける

予測せぬが神ならざれば誠実と書き遣りし相次ぐアンケート

ノーベル賞前評判を臆面なく言いて得しサインJ.G.Bednorz

一人旅の日本人と告げ老婦人とローカル空港のベンチ隣れり

機体トラブル欠航となりし空港に老女の荷物助け持ち行く

"Unreliable local line."と言い捨てて老女孫に逢わん旅を語りつ


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