佐原の春

佐原水源橋付近の櫻(1)

 春の一日、水郷とも北総の小江戸とも呼ばれる佐原を訪ねた。 伊能忠敬記念館を訪ねてみたいが、行くなら春の花の時期にしよう と思っていた。運がよければ、満開の桜と柳の新芽とが見られるだ ろうとも期待した。総武本線佐倉駅で成田線に乗り継がねばならな いが、運良く乗った電車は佐原行きであった。CDからMDに録音 したシューベルトのピアノソナタを、MDウオークマンで聴きつつ、 牧野富太郎の小著「植物知識」の文庫本に目を走らせていたが、一 時間程で「間もなく佐原です」という車内アナウンスを聴いた。目 を上げると、電車は、川幅30m位の川を徐行運転で渡っており、
佐原水源橋付近の櫻(2)
その川の両岸には桜が将に爛漫と咲き誇っていた。佐原へは初めて だが、いつもの事とて下調べをして来た訳でもないので、この川の ことも、無論その岸の桜のことも知らなかった。

 駅を出ると先ず、観光案内所で市内の観光案内を貰った。先程の 川の事は書かれていなかったが、線路沿いの道をバックして行くと、 直に、短い橋の掛かった桜の堤に行き着いた。「水源橋」と欄干に 書かれていた。この橋の直ぐ上手が両総用水の揚水場になっている 様だ。

 水源橋から川下を望むと、川側に枝を張り出した両岸の桜が、今
佐原水源橋付近の櫻(3)
を盛りと咲き乱れている。数10m先に、先ほど電車で渡った鉄橋 が桜の花の間に見える。川面には散り始めたばかりの花びらがポツ ポツと浮いて、ゆっくりと流れて行く。落花流水の風情には、未だ 幾日か掛かるだろう。鉄橋付近から川上を望むと、右岸の桜が川面 に映ってその影が細波に揺れ、白雲の浮いた空と低い山、その上 の送電鉄塔などが遠景をなしている。恐らくは、市民や近隣の人々 しか知らないであろう、素晴らしい桜を満喫して何か得をした気分が した。

    独り占めする月曜の櫻かな

    落花ゆるり三つ四つ寄るやもやひ舟

小野川べりの蔵造り商家(1)

 この後、観光案内に導かれて小野川沿いの蔵造りと、伊能忠敬の 旧居跡を目指した。
 小野川は佐原駅を挟んで用水川と反対方向にあり、やはり線路伝 いに数100mの距離である。川幅は意外に狭く20m程しかない。 川縁の枝垂柳は新芽が伸び始めてはいたが、剪定された枝はまだ 短かかった。この狭い運河が江戸時代から明治時代まで、米や酒そ の他諸物資を江戸へ運び、多くの蔵持ち商家が川沿いを賑わせた。 今も蔵造りの商家が残っており、何軒かが千葉県有形文化財に指定 されている。蔵の多くは黒壁の防火構造だという。とは言え、残って いる蔵造りは明治時代の建造のものが多いことを知った。

小野川べりの蔵造り商家(2)

    柳の芽守り継がるる蔵の店   

    蔵造り入園の児とその母と

 伊能忠敬は50歳で隠居してから、江戸へ出て正式に天文、地理 歴学等を学び、その後の20年間を日本全土の測量と地図作製に費 やした。当時としては世界に誇り得る正確な地図が、西洋人の助力 もなく、蘭学とさえ独立に作られたことは全く驚嘆に値する。忠敬 記念館の展示の中に、忠敬が江戸へ出る以前に読んだ書物の目録 があったが、歴学、数学、測地等を含む数百冊に及んでおり、その 勉学の程に驚いた。酒造業や米取引を生業として営んで家産を3倍 に増やしながら、名主として村冶に関わり、その傍らでこれだけの書
伊能忠敬旧居
物を読みこなした忠敬という人物はやはり「偉人」となるべき資質 を備えていたのだろう。測量に用いた器具は、全て幕府天文方高橋 圭時、その子景保、間重富、忠敬らが自ら考案設計し、技工が製作 したとのことで、西洋技術に全く依存していないらしい。これらの 天体測定器や測地器具の実物を見ると、こんなもので能く正確な測 量をなし得たものだ、と感動する。また、対数の概念が忠敬らに正 しく理解され、10桁対数表まで計算されていたことにも驚いた。
 忠敬死後、伊能図と称する日本地図の写しをシーボルトが持ち出 そうとして、国外追放とされ、これに連座した高橋景保が捉えられ て獄死した事実も痛ましい。しかし、このこと自体、伊能図が正確 で、当時の西洋列国の日本への関心に十分応え得るものであったこ との証左でもあった。幕末の国防事情という時代が忠敬を必要とし またその能力を十全に開花させたわけだが、普通なら楽隠居で終わ ったであろう一民間人の事跡と人生を、平凡な我が身と引き比べてし まう。伊能図の原本は幕府に献上されていたが、その後明治政府に 引き継がれたものの、明治6年皇居の火災の際に炎上し、更に東大 に保管されていた副本(コピー)までが関東大震災で灰燼に帰したと いう。惜しいことをしたものと思う。それでもまだ、何枚かの地図が伊 能家に残されていたと言い、それらが記念館に保管展示されている。

(3葉の桜の写真はキャプションをクリックすると大きいサイズ(600x400)
となります。)


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