東鳩ss異録『少年は何故老人を殺したか?』 投稿者:智波
 夜。

 部屋。

 ふぅ、はぁ…。

 闇の中に漏れるは小さな吐息と、衣擦れの音…。

 密度の高い闇の中で二つの影がゆっくりと動いていた…。

 変わらぬように思えるその動きに、空間に一瞬の緊迫が篭り、

 二人分の長い吐息…。

「…………」

「ご主人様?」

「…………」

「……詰まらない話です。たいして長くも無い話…」

「…………」

 青年の手が、彼女の頬をそっと撫でた…。

「俺はゴミ溜めの中で産まれたんです…」

 そして一人の男に拾われた…。

 彼に対し、まだ幼い彼は恐怖と、吸い込まれそうなほどの情念を感じたのだっ
た。

 やがて彼は成長し、その力を開花させ始める。

「何処まで話しましょうか?」

「…………」

「……はい」


東鳩ss
少年は如何にして老人の最後の売り物を購入にするに至り、またその商品の価
値における代償に関する考察と、商売における信頼とは何かについてを、倒錯
する愛と、倒錯しない愛に平行して描き、代償行為なども含みつつ、一人の少
年が幼き日に何故老人を殺したか?


 はぁ、はぁ、はぁ。

 少年の荒い吐息が断続的に夜の静寂を払いのけていた。

 こつ、こつ、と、石畳を叩く音。

 少年の手にはぼろぼろの短剣。刃は欠け、脂でぬめり、血の色に染まってい
る。

 ぐぁるぅぅぅぅぅぅっ!

 そして少年のものでは有り得ない唸り。

 右、左と、少年の目が動く。

 なにも見通す事のできなさそうな闇の中ではあったが、少年の瞳はわずかに
地形を捕らえていた。

 腰を低く、壁を背に、体で隠すように短剣を構えつつ、少年は闇の中に目を
走らせる。

 たたっ!

 軽快な足音を立て、少年の視界にそれは入ってきた。

 それは、一言で言うと化け物だった。

 化け物、つまり非現実の生命体。非現実のエネルギー結晶体であるストーン
を核に産まれ出でる、現実ではないモノ。
 何が為に生まれ、何が為に生きるのか。
 大抵の化け物はそれを持たずに生まれ、そして狩り、狩られる。

 化け物は狩り合う事でしか自己を表現できないのだ。

 少年は短剣を握り締める手に力を込めた。

 それはぱっと見は犬に近い。闇の中で出会えば野犬だと思うだろう。確かに
犬だ。四本の足を使い、その体の在り方や、バランスは犬と酷似している。少
し違和感を感じるとすれば、その後ろ足が、やや短い点であろうか?
 化け物がわずかに顔を上げる。
 否、それまで頭だと思っていた部分こそ、人間で言うならばうなじに当たる
部分であった。

 ふぁさ……

 それは鳥が畳んでいた翼を開く光景に似ていた。

 正直美しいと言えない事も無かったであろう。

 化け物の頭部は折りたたまれるようにして、前足の間に収納されていた部分
であり、犬の頭部に見える部分は単なる筋肉の出っ張りに過ぎなかったという
事だ。

 少年は震える手で短剣を握り締めつつ、化け物の動きを待っている。

 化け物が伸ばした頭部は、ゆっくりと八つの又に別れる。

 少年の脳裏にふと浮かんだものは、ヤマタノオロチという化け物の事だった
が、それは蛇ではなかった。

 黒い毛に覆われたそれは、節をもった八本の足。

 蜘蛛。

 それぞれに動く八本の足がまるで目を持つように、少年を捕らえたかに見え
た。

 およそ十五メートル。その距離が零になるのにほんの一秒もかからなかった。

 がずん!

 深く腹に響く低音。コンクリートの壁に突き立った蜘蛛の足。檻に捕らえら
れた小鳥のように、少年はその中にいた。

 沈黙…。

 そして化け物のからだがぐらりと傾き、そして倒れ、消えた。

 血に塗れたはずのナイフも、少年を染め上げていた返り血も消えた。

 まるでそこに化け物など存在していなかったように…。

 残ったのは壁に空いた八つの穴…。

 そして闇の中だというのに、爛々と輝くストーンだけであった。


 その建物の屋上で一人の男が夜景を眺めていた。

 闇夜に散りばめられた光の海は、美しくはあったが、彼の心になんら感動を
与える事はなかった。
 しかし、たとえそこに散りばめられたのが本物のダイヤだったとしても、彼
は同じであったかもしれない…。

 彼はコートのポケットからウイスキーの小瓶を取り出して、ぐいと傾けた。

 彼の肴は廃棄されたビルの屋上から見る夜景ではなかった。

 ほんの小物の化け物が二匹、命を凌ぎあう様こそ彼の肴であった。

 どちらが死んでも構わなかった。

 もしも、彼の仔猫が死んだなら、生き残った手負いの化け物に止めを刺すだ
けで良いのだから…。

 それに彼は仔猫に一つの命令を与えていた。

「死んでも魔術は使うな」

 どうやら仔猫は彼の命令を忠実に守り、そして勝利したようだった。

「不合格ではないというところか…」

 誰に言うとでもなく呟き、彼はまたウイスキーの小瓶を傾けた。

 別日

 街路

「……ごしゅじんさま?」
 智波は恐る恐る横を歩くルーンに尋ねた。
「…なんだ?」
 自分の腰ほどの背丈しかない智波を連れているというのに、ルーンは歩調を
緩める事をしない。だから智波は時々小走りにならなければ、ルーンに追いつ
けなかった。
「なにかあったんですか?」
 怒られるのではないかと、びくびくと智波はルーンの半歩後ろをついていっ
た。
「……」
 しかしルーンは何も語らなかった。
 ただ元から憮然とした表情を一層憮然とさせたものの…。

 事の発端は一週間を遡る。

 塔。

「何を企んでいる?」
「…企む?」
 心底分からないという表情をルーンは浮かべてみせた。
 もちろん、本当に分からない時にこの男がこんな表情を見せるわけが無い事
くらい久々野彰の知らぬところではなかった。
「君のペットの事だ」
「…ああ」
 なるほど、そんな言葉が見えそうなほどわざとらしくルーンは肯いてみせる。
「知られている事くらい知っていましたよ。もっともこちらは確信という形で
の推論でしたが」
「私が聞きたいのは、君が何を考えているか、という事だ」
「ご自慢の情報能力でそれも調べがついているんじゃありませんか?」
「……安心しろ、この部屋には枝はついていない」
「…理由など、ありませんよ」
 その言葉に久々野は眉をひそめる。
「まあ、あえて理由をあげるとすれば、可哀想だったんですよ」
「可哀想? 君がかね?」
「猫は可愛いですよ。どうです? あなたも一匹飼ってみては?」

 問題は久々野を騙し通せなかった事ではない。
 ルーンには本当に、何故自分があの仔猫を育てる気になったのか。その理由
がいまいち分からなかったのである。
「ふむ……」
 ルーンはコートのポケットからウイスキーの小瓶を取り出した。
「全ての疑問に答えを求める必要もない、か…」

 再び街路

「…きょうもおしごとなんですか?」
「ん?」
 ルーンが少し歩調を緩めて、自分の半歩後ろを振り返った。
 まるでそこに智波が居る事を確信しているかのような、そんな仕種だった。
「いや、ただ、飯でも食いに行こうと思ったんだがな」
「ただめしですか?」
「いや、ちゃんと金は払うが」
「?」
 そう言えば…。
 と、ルーンは気付く。
 こいつを仕事に利用する事以外に連れ出した事など無かったな。
「止めた」
「はい?」
 ルーンは突然立ち止まると、振り返った。
 そして困った。
 止めたところでどうしていいか分からなかったというのが主な理由だったが…。
 その間も智波は不思議そうにルーンを見上げている。
 別段、そんな二人を不思議そうに見るでもなく人々が通り過ぎていく。
「やっぱり止めない」
「はい」
 そんな奇妙なやり取りをしながら、ルーンは自分らしくないと感じると同時
に何処かそれを楽しんでいた。

 翌日

 雨

 路地裏

 街は雨に濡れていた。
 昼間だというのに電灯が灯り、人々は傘を差して往来する。
 煌々と明りのついたビルの陰、誰も見向きもしないような狭い路地に智波は
立っていた。
 智波の前にはゴミがある。
 町中のゴミ。
 うち捨てられた不要なもの。
 必要でないもの。

 くぅん。

 小犬が鳴いた。
 ゴミ溜めの中には空っぽになった胃を満たせるようなものがなかったのだろ
う。小犬はそれでもゴミを漁る。そうしなければ生きていけないから…。
 智波が傘を差し出した。

 ぱらぱらぱら…。

 雨が智波の肩に降り注ぐ。
 それでも構わずに智波は傘を差し出した。
 体を濡らす不快な液体が降ってこなくなった事に驚いた小犬は振り返って、
そして智波を見上げた。
 智波はしゃがみこみ、子犬を見た。
 汚い雑種の小犬だ。雨に濡れて毛髪は体に張り付き、ゴミを漁っていたせい
で薄汚れている。

 ぶるぶるぶるぶる…。

 小犬が体を揺らして、水を飛ばした。当然智波はその恩恵に与かる。
 ゆっくりと智波が小犬に傘を持っていない左手を伸ばした。
 犬は依然不思議そうに智波を見上げている。と、
 智波の腕が犬の喉にかかり、それを掴んだ。
 しかし小犬とは言え、智波の手には小犬の首は太すぎる。
 智波は傘を捨てると、両手で犬の首を掴む。
 ぎりぎりと加えられる力に、犬は必死にもがいていた。

 ふと、
 智波の肩に頭に降り注ぐ雨が止んだ…。

 喫茶店「河豚風味」

「ふ〜〜〜! 駄目駄目駄目にゃぁ!」
 喫茶店「河豚風味」のウェイトレスゆかたは銀色のお盆を盾のようにしてカ
ウンターに立て篭もっていた。
「まあまあ、犬にはタマネギでもあげれば良いじゃないですか。ねぇ?」
「ふみゅ、取ってくるにゃあ」
 何処かしら涙目で店の奥にゆかたは消える。
 それをわき目にまさたは一杯のコーヒーと、オレンジジュース、それから小
皿にミルクを持って問題の客の席に向かった。
「どうもありがとう」
 席に座った老人が軽く会釈し、まさたは一杯の珈琲を彼の前に、オレンジジュ
ースを少年の前に、そしてミルクを少年が抱きかかえる薄汚れた小犬の前に差
し出した。
「あ、ミルクは僕のおごりですから気にしないで下さいね。それからゆかたが
タマネギを見つける前に帰ったほうが良いと思いますよ。ま、三十分はあるで
しょうが」
「ご忠告痛み入ります」
 老人は軽く苦笑して、珈琲を啜った。
「美味しいですね」
「ありがとうございます。では僕は」
 一礼してまさたが去り、老人は珈琲をもう一度すすって、プレートにカッ
プを戻した。
「さて、どうしてあんなことをしたのかな?」
「?」
「何故、その小犬を苛めてたのかね?」
「ころしたかったから」
 そのあまりにストレートすぎる表現に、老人は少なからず衝撃を受けたよう
であった。
「君は命を大事だとは思わないのかい?」
 智波はふるふると首を振った。
「ふぅ、そう言えば坊やの名前をまだ聞いていなかったね」
「……ちなみ」
「そうか、私は……」

 現在

 ベッドの上

「…………」
「覚えていません。自分で忘れたんでしょう」
「…………」
「名前だけです。顔も、仕種も良く覚えています」
「…………」
「何故だかは分かりません…、でも…」
「……」
「いつだってそうしてきましたから。名前だけは忘れようと…。俺が……した
人は」
「……」
 彼女の腕がそっと青年の頭を抱いた。
「…………」
「はい」
 彼女の胸に顔を埋めたまま、青年はぽつり、ぽつりと話し始めた。

 再び過去

 喫茶店「河豚風味」

「命は誰にも奪う事は許されないんだよ…」
 疲れたように老人は言った。それは智波に聞かせるというより、違う誰かへ
の言葉のようだった。
「だれかがぼくをころそうとしたら?」
「人間には追いつめられるという事がある。どうしようもないときもあるだろ
う。しかしそうでない時にまで命を奪う事はないと思わないかい?」
「…………」
 智波はこくっと肯いた。
「良い坊やだ。一つ約束してくれるかい?」
「?」
「今後、無意味に命を奪わない、苦しめることもしない、と」
「うん」
 智波が肯き、老人は安心したように珈琲に口をつけた。

 同時刻

 塔

「君のペットの事だが…」
「あ、駄目ですよ。猫を飼うなら新しく自分で買って下さい」
「そういうことではなくてだな」
 久々野が顔を苦める。
「始末はしないのかね?」
「どうしてです?」
「ふぅ、規律に良くないというかだな。早い話が厄介事にもなりかねんのだ」
「…………」
 別に始末する事は構わなかった。それだけの事だからだ。ただ、なにか面白
くない。
 ルーンの沈黙を別の意味と受け取ったのか、久々野は言葉を続ける。
「ところで御老体は知っているな」
「ええ、そういやそんな時期でしたね」
「そういうことだ。今回は君の番だ」
「初めてですね」
「そういうことだ」

 夜

 暗がり

「人の血で手を濡らす事と、人の血で手を濡らすための道具を売る事に如何ほ
どの違いがあるだろうか?」
 油紙に包まれたショットガンを取り出しつつ、老人は一人呟いていた。
 かちん。
 左の腰についた金具に、老人はショットガンを取り付ける。
「若い頃はそんなことにすら気付け無かった」
 次にハンドガンと呼ぶには大きな銃を左の脇の下のホルスターに収める。
「しかし、手を引くには私は年を取りすぎた…」
 サブマシンガンを左の腰に取り付ける。
「そして年の事を言い訳に逃げ続けていた」
 両手の袖を捲り上げ、そこの装置と銃を確かめる。
「私はこの世界で手を引くには、大きくなりすぎてもいた」
 袖を戻し、右の脇にナイフを差す。
「それも保身のための言い訳だった」
 ズボンをまくると、そこにバックアップの銃と、ナイフが見えた。
「流した、流させた血の代償と思えば安いものか…」
 壁にかけてあったコートを取り、身に羽織る。
「しかし、この命、只でくれてやるわけにはいかん。商売人の意地としてな」
 老人は年齢を思わせぬしっかりとした足取りで暗闇の中に消えていった。

 同じく夜。

 ルーンのセーフハウス。

「猫、お前を殺せといわれた」
 ルーンはカウチにもたれながら、智波の喉を撫でていた。
「なら、ころしてください。ごしゅじんさまのてで」
 ルーンに撫でられるままに、智波は言った。
「それもいいが、つまらん」
「?」
 不思議そうに智波はルーンを見上げる。
「一つ、仕事がある」
「はい」
「一人の人間を消さなくちゃならん」
「はい」
「やれるか?」
「…ええと」
 智波が少し目を閉じて考えた。
「そうしないと、しぬんですよね。ぼく」
「そうだ」
「それをしたらしなないんですか?」
「そうだ」
「じゃあやります」
 智波はにっこりと笑ってそう言った。

 深夜

 とある廃ビル

 智波はゆっくりと壁に開いた八つの穴の一つを撫でた。

 かつ、かつ。

 靴の鳴らす音が、恐らく智波を捕らえる事のできる位置に来ても、それは変
わらなかった。

「君、か」
「こんばんわ」

 老人は苦渋を舐めたような顔をしていた。
 智波はにっこりと笑っていた。

「縁とは不思議なものだ…」
「そうですね」
「私を殺すのかね?」
「そうしないとぼくが死ぬから」
「そうか…」

「殺し合うしか無い時というのはあるものだ」
「はい」
「君のような少年には知って欲しくなかった。化け物とは言え」
「…………」
「気付かれていないとでも思っていたかね?」
 老人はゆっくりと両手を背に回し、智波は魔術の構成を編み始めていた。
「最初に合ったときにはもう分かっていたよ」
 智波の指にかかった指輪が鈍く光りを放つ。
「そんな指輪で誤魔化されるほど、耄碌している訳ではなかったようだ」
 じりじりと智波はその場を移動する。智波から見て、右手。
「私は沢山殺してきた。殺す手伝いもしてきた。人間、化け物、私の売った武
器でどれだけの命が奪われたのか、正確な数など知る由も無い」
 ぴん、と、老人の指が智波に分からぬように銃の安全装置を外す。
「今更そこに君の命が加わったところで大して違いはない。…などと言う気は
ないが…」
「そうしないと、ぼくがあなたをころします」
「その通り!」
 老人の左腕がコートに隠れたショットガンを弾きあげた。止め具に繋がれた
ままではあるが、安定性は高い。僅かの躊躇も無く、老人は引き金を引いた。
 ふゃさ……。
 風に舞うカーテンに無数の穴が穿たれる。
 手応えは無かったが、老人はカーテンの止め具に向けて、もう一発を放つ。
 ずん、と、老人の体に衝撃が走り、カーテンが吹き飛ぶ。
 カーテンが風に誘われたその向こうに夜景が見えた。
「飛んだ、か?」
 素早く窓際から離れ、ショットガンの再装填をしつつ、老人は小さく呟いた。
 敵、は、化け物である。よってどのような能力を持っているかも不明なのだ。
 見た目に騙されるなとは良く言ったものである。

 すたん。と、智波はビルの玄関前に軽やかに降り立った。
 四階からの落下なら魔術を使うまでも無い。
 智波は一度、廃れたビルを見上げると、玄関からその中に入った。

 老人は階を一つあげる事にした。
 智波が飛んで上の階に行ったという可能性もあるが、降りた。と見るほうが
正しいだろうと彼は推測していた。
 四階から五階に上がる階段に爆弾を仕掛け、五階から六階への階段も同じよ
うにする。
 地形を理解してないときは、範囲を狭めて、その範囲を理解する事が先決だ。
見知らぬ場所で戦う事ほど危険な事はない。

 智波は無言で階段を上がっていた。
 二階、三階、四階…。

 ちょうど壁の隙間になる位置で老人は身を潜める事にした。
 ここなら廊下を見渡せる。

 五階。
 智波はそこで足を止めた。

 これまでに幾度も味わった緊張だった。
 生と死を分かつのは実力と、そして運。実戦において、その運というものが
どれだけ大きいか熟知していればこそ、老人は恐怖し、また勝算があるのだと
思っていた。

 ふぅ、と智波は吐息を吐いた。
 精神を集中する。
 魔術の構成と言うものはそれなりの訓練を積めば、一瞬で描けるようになる
のだろうが、それには少々時間が不足していた。
 ただ、智波はすでに老人の姿を捉えていた。

 老人の額を冷や汗が伝う。
 待つ時間を耐えられないものは死ぬのみだ。動かない事も強さなのだ。
 しかし、老人の身には少々その装備は重過ぎた。
 年を取るという事はこういうことか。
 自分の身を嘆きつつ、老人は僅かに態勢を変えた。

 膨大な構成が編みあがっていく。
 智波はその魔術師にしか見えない世界の中で揺れるように構成を編みつづけ
た。

 老人が姿勢を変えたとき、ショットガンの先が壁に当たってコツンと音を立
てた。
 身を走り抜ける緊張に老人の体が強張り、その所為で右の脇下に差していた
ナイフの一本がするりと宙に自由となった。

 すぅと智波が息を吸うと、その右手に光が生まれ、伸び、一本の槍となった。

 老人は慌ててナイフに手を伸ばした。

「聖者の胸を貫け咎人の槍!」
                       ・・・・・・・
 全てを貫く光の槍が、一瞬でビルの壁面を貫き、もう一つのビルに吸い込ま
れていく。

 ほとんど音はしなかったが、頭を掠めていったその気配に老人が気付かぬは
ずがなかった。そして壁に空いた拳大の穴にも。
 狙撃されたっ!? 何処から!?
 身を屈めつつ、老人はその場を飛び出した。右の腰からサブマシンガンを引
き抜き、乱射しつつ、二歩も動くとそれが分かった。
 隣のビルから丸見えだったというのか!?
 道路越しの向かいのビルに向けて、適当に銃を乱射しつつ、老人はビルの逆
側に走った。

 外した。
 手応えがないのはすぐに分かった。
 壁に隠れるように身を潜めるとすぐに銃撃が彼の周囲を襲った。幸い跳弾に
は当たらずにすんだが、次はどうだか分からない。
 確実に仕留めなくちゃいけない。
 気配が窓際から去ったのを感じて、智波は次の魔術の詠唱に移った。

 隣のビルに智波が居た事は完全に老人の盲点を突いていた。
 まさか智波が一階に戻って、またこのビルを上がってくる可能性はあるまい。
だとすれば、直接このビルに乗り移ってくる。
 老人は気配を消し、窓が見える場所で待った。

「高きゴモラに落ちよ裁き!」
 智波の詠唱とともに、彼と、彼の周囲の重力が遮断された。まったくの零で
はないが、限りなく零に近い一というところであろう。
 ふわりと舞い上がった髪の毛を煩わしげに掻き揚げると、智波はそっとビル
の壁面を蹴った。

 ……来た。
 恐ろしいほど冷静に老人はその事実を受け止めていた。
 智波は隣のビルから、ゆっくりとこちらのビルに飛んでくるのである。
 まだだ、まだ早い。
 徐々に生まれた焦りが老人の集中をかき乱していく。

 もう少し。
 智波の手が、今、まさに窓の縁に触れようとしたとき、それは現れた。
 微弱な気配。
 殺気。
「裁きよっ!」
 重力中和を重力反転に切り替える。咄嗟のことで完全に制御しきれなかった
のか、智波の体は風に舞い上げられる木の葉のようにビルの壁面すれすれを舞
いあがっていく。

 気配に向けて、一斉射したつもりが、そこに智波の姿は無かった。

 がつんっ!
 智波の右肩がビルの壁面から出っ張ったテラスのような場所に当たり、少年
の体はくるくると回りながら、宙に舞いあがっていった。
 波に揺れる木の葉のようにくるくると宙を舞いながら、智波は魔術の構成を
消した。反重力の範囲が消え、智波は空中でゆっくりとその速度を緩めていっ
た。同時に体にかかっていた無理なベクトルも徐々に消え、すぅ、と、智波は
空に浮かんでいた。
 きれいなやけいだな。
 そんな感傷も、体が落下を始めればすぐに消える。
 真下のビル目掛けて、落ちていく自分を認識しつつ、智波はもう一度同じ構
成を編み始めた。

 七.八.九……。
 階段を登る足が重い。
 ここまで老いてしまったのか。
 自分の老いを今更ながらに確認するのは辛い事だな。
 息が切れてきたところで足を止める。
 ここで、待ち伏せるか。
 老人は、そこの壁に背を付けると、左の脇の下からハンドガンを取り出した。
 神だかなんだか知らないが、もしそんなものがいるとしたら、この一発、高
く買ってくれよ。
 老人は銃の取っ手についた、小さな石に口付けした。

 すたん。
 軽やかにビルの屋上に舞い下りた智波を舞っていたのは、ご主人様の冷笑だっ
た。
「苦戦しているようだな」
「はい」
「どうする気だ?」
「魔力が残り少ないので、一気に片を付けます」
「そうか……」
 智波が階段に向かうのを横目で眺めつつ、ルーンはウイスキーの瓶を傾けた。
「命懸けの戦いなど…、まだまだ仔猫だという事か」
 どちらにしても、楽な仕事には違いあるまい。彼にとっては。

 智波はこれまでもそうだったように、無造作に階段を降りていった。
 十二階、十一階、十階…。
 ある魔術の構成は編み上げてあったものの、それ以外は誰の目にも無防備に、
智波は階段を降りていった。

 そして智波は9階の階段を降りきった。

 その一瞬、少年の背後は老人から丸見えだった。
 ばぁぁぁぁん!
 少年の小さな背中目掛けて、大口径のショットガンが火を吹いた。
 目にも、耳にも消して心地よいとは言えない瞬間があり、智波の体は吹き飛
ばされるように壁に叩きつけられた。
 がしゃん。
 老人が、ショットガンのシェルを弾き出し、
 ばぁぁぁぁん!
 間髪入れず次の弾を発射する。
 血と肉が飛び散り、少年の体はぐったりとする。
 常人ならすでに息はない。
 それでも老人は素早く三発目を放った。
 ぐったりと壁にもたれ、崩れ落ちる少年の胸部の肉の隙間から、わずかな光
が見て取れた。
「…………」
 少年の口が僅かに動いていたが、そんなことは老人にはどうでも良かった。
左の脇下から、ハンドガンを引き抜き、狙いを定める。
 ストーンが露出しているなら普通の武器でも破壊は決して不可能ではない。
しかし、ストーンパワーを使うにこした事はない。例え、その一撃そのものが
老人の命を奪う可能性があったとしても。
 ぐっ、と下半身に力を入れ、老人はハンドガンの引き金を引いた。
 銃口に光が溢れ、
「遠き七教会に届け書籍」
 同時に智波の周囲に七つの光が生まれた。
 七つの光はそれぞれ七方向に飛び、その内一つが老人の放った光弾と真正面
からぶつかり合った。
 ばぢぃっ!
 一瞬の攻防。
 そして老人の力が上回った。
 智波の防御を貫いて、そして光弾が智波の右腕を付け根から吹き飛ばした。
同時に智波の集中が途切れ、七つの光は広がるのを止め、そして消えた。
 ずだんと音を立て、智波の体が床に崩れ落ちた。
 しかし、今だその瞳は輝いている。
 ストーンエネルギーを身体の再生に使っているため、魔術は使えそうに無かっ
たがそれでも、徐々に彼に力は戻りつつあった。
 その間、老人が何もしなかったわけはない。
 正確には、何もできなかったのである。
 そう、勝負は先の一撃で決まっていた。
 老人の渾身の一撃が外れた時点で。
「……私を殺すのだね?」
 力無く床に伏せたままの智波は答えなかったが、その瞳が肯定を返していた。
「…そうか」
 掠れがすれの声で、老人は小さく呟いた。
「最後に一つ売り物があるが、買うか?」
 智波の首が僅かに動いた。
 肯いたとも、否定したとも取れる仕種だったが、老人は無理矢理後を続けた。
「私のポケットに鍵と地図がある。それが私の最後の売り物だ」
 智波の体は右腕を除いてほぼ完璧に再生されていた。
「もしも買う気があるなら、君の忠誠を払ってもらう…」
「ちゅうせい?」
 徐々に智波の右腕が回復を始めていた。
「そうだ。君の主人にこれを秘密にしなくてはならない。話してはならない。
つまりはそういうことだ」
 そうして、老人は深い息をついた。
「だが君は私との約束を破る事もできる。だが私は君を信用する事にする。商
売に手をつけた以上、これまでにも似たようなことは何度もあった」
「…………」
 智波は黙っていた。
 困惑していた。
 どうすればいいのか分からなかった。
 そして彼は老人を殺した。

 現在。

 ベッドの上。

「…………」
「買った、と言っていいのかどうか…、俺には分かりません」
「……」
「鍵は今も俺が持ってます。場所は頭に入ってます。けれど一度も行ったこと
がありません」
「…………」
「それは多分、迷ったからでしょう。今も迷っているのでしょう。もしかした
ら彼は俺から人生を買っていったのかもしれない。あの鍵と、あの場所を引き
換えに」
「…………」
「……本当にそれでいいと?」
「…………」
「…ええ、誰にも、彼にも話してはいません。ご主人様。あなただけです…」

−−−−
 仔猫が帰って来た時、何かを隠しているのだと分かった。
 あの強かな老人の事だ。なにかあった事は容易に想像がつく。
 仔猫は、何かを売り払ったのだろう…。
 だがそれがなんであれ、別に気にはしない…。

 裏切りの符丁。

 仔猫は自分が嘘をつく事でそれを示してみせた事すら気付いていないのかも
しれない。
 だが…。
 それで良いのだ。
 お前は獣。
 最初から飼い慣らす気など無い。

 さあ、そうして牙を磨くがいい。

 俺の胸に突き立てるがいい。

 俺を殺すために強くなれ。

 そうしなければ俺がお前を殺すのだから…。
−−−−

−−−−−−−−
 智波、過去編第二話。
『少年は何故老人を殺したか?』
 結構難産でした。で、難産の作品って、出来はついてこないんですよね。(苦笑)
 どうしてもアイデア負けするというか。
 最後のおまけもあれだなあ。如何せん前作よりよろしくない。
 つーわけで、実は書き直す前にこれ書いてます。
 どこまで修正されるかは謎。
 それから言うまでもありませんが、老人はbeakerさんです。ごめんね。名前
出なくて。だって思い出せないんだもん。

 裏設定としては、beakerさんは若い頃裏の武器流通を取り仕切っていて、ハ
ンターだけでなく塔にも武器を売っていたんです。ところが年を取って、そろ
そろ辛くなってくると、良心が痛み始めて、塔への流通を取りやめます。
 そこで塔は彼を捨てて(殺して)、彼の部下と取り引きをする事にしたのです。
 beakerとしては裏切られた事には気付いていましたので、一人で戦う事にし
たわけです。目的は塔に一矢報いること。

 さてさて、彼の目論見が成功するかは本編次第ってことです。
 俺は知らん。(笑)