東鳩ss異録『雨』 投稿者:智波
  ざー…………………。

  みゃあ。……みゃあ。

  ぴちょん、ぴちょん。

  真っ暗な空から降りつづける濁った水の雫が、地面と屋根に当たり、機械的
な雑音を奏でている。壊れた雨樋を伝う雨が、ばちゃばちゃと地面に流れ、泡
を立てる。
  マンホールから溢れるように吹き出す蒸気が、そのまま上空に消え、霧にな
るようだ。
  ぱちゃ。ぱちゃ。ぱちゃ。ぱちゃ。
  規則正しい水音が、ゆっくりと移動していく。
  ばらっ、ばらばらっ!
  雨はいろいろな音を立てる。様々な騒音で聞くものの耳を楽しませている。
「ちっ……」
  だがほとんどのものにとっては雨は厄介なものだ。
  触れた衣服は気持ちが悪い。
  だが男は、コートの裾から雨の雫を払い飛ばす代わりに、手に持ったウイス
キーの小瓶を軽く掲げた。それは雨樋に溜まった汚水が、ウイスキーの瓶目掛
けて落ちてきたのを防ぐためであったが、代わりに男はその汚水をコートの裾
で受け止めることになってしまった。
「くそっ…………」
  しかしコートは汚れるもんだ。
  そう思い直して、男は庇ったウイスキーをぐいと傾けた。

  みゃあ。……みゃあ。

  ゴミ溜めの中から、一匹の小猫がちょこんと顔を出した。雨のせいで毛はべっ
たりと張り付き、情けない風体をさらしている。鼻先にゴミがくっついていた
のか、小猫は大きくくしゃみをした。

  ぴた。と、男の足が止まった。

  小猫の大きな瞳が、大股で歩いてくるニンゲンを不思議そうに見上げていた。

  まず、男がウイスキーをコートのポケットに捻じ込んだ。

  小猫がわずかに首を傾げた。

  男が右手で頭をぼりぼりと掻いた。

  ゴミ溜めが消滅した。

  一瞬、ほんの一瞬だけ天まで届かんかという業火が生まれ、炎の色に照らさ
れた蒸気が辺り一帯に満ちた。人々が悲鳴を上げ、地面に伏せる。熱された蒸
気を吸い込めば、あっという間に肺が焼け爛れてしまうからだ。
  人々が逃げ惑う。そんな中で男は冷静にコートの前から、灰を払った。
  乾ききったコートがかさかさとした感触を手に伝えている。
  しかしそれもすぐに意味が無くなるだろう。
  むっとした熱気の立ち込めるこの場にはやはり雨は降りつづけている。

  一瞬の非日常を空間に刻み付け、崩れ、流れていく白い灰と、無くなったゴ
ミだけを残して、世界はゆっくりと日常へと回帰する。
「ストーンが無いな」
  ぼそりと男が呟いた。

  みゃあ。……みゃあ。

  男の背後の低い位置にある雨樋に小猫はひっくり返って挟まっていた。雨に
洗い流され、ゴミに塗れて黒かったのではなく、生来に黒い毛の猫である事が
分かった。
  四本の足をじたばたさせ、ようやく地に降り立った黒い小猫は、とてとてと
男の足元に歩み寄った。
  今の今、かの男が自分を殺そうとした事など気がついていないような、そん
な瞳で、小猫は男を、ルーンを見上げていた。

「逃げないのか?」

  小猫は小首を傾げる。

「抵抗もしないのか?」

  小猫はルーンの足元に歩み寄り、そこにある二本の足に首を擦り付けた。

「狩るのも下らんな」

  男は再びウイスキーを取り出すと、その琥珀色の液体に熱い接吻を与え、歩
き出した。

  みゃあ。……みゃあ。

  小猫がころんと地面に転がっている。
  首を擦り付けていたルーンの足がいきなり消えたので支えを失って転倒し
たのだろう。一秒にも満たない時間であったが、そのままになっていた小猫は
慌てて起き上がると、ルーンの後を追い掛けた。
  その瞳は純粋に遊び相手を探していた。

  そう、遊び相手を。

  ざー…………………。
  町は依然、TVのノイズにも似た音を立てている。

                                                                    雨

  ぽつ……、ぽつ……。
  赤銅色の液体が、わずかに糸を引いて、雨樋から地面へと流れ落ちる。

  うみゃ〜あ。

  その猫は大きなあくびをすると、一度背を伸ばしてから、その柔らかな彼の
専用席で身を丸くした。その猫が主張する占有権を知ってか知らずか、その席
がわずかに動き、柔らかな手が彼の背に当てられた。
「私を酷薄な人間だと思いますか、だって?」
  その声に、ちらりと猫は顔を上げる。
「そうだな…ある意味では…その通りだな。もちろん、あなたが優しい人だと
いう事は重々承知しているが…」
  猫は自分の毛を撫でる芹香の手の感触に目を細める。くて〜と顎を落として、
されるがままになっている。
「なんて言うのか…極端なんだな、あなたは。時々非情なまでに部下を危機に
陥れるかと思えば…」
  また猫がちらりと顔を上げた。
  この喋ってる奴の顔を見てやろうと思ったのかもしれない。
「プロトタイプのマルチを引き取ったり…」
「あなたは、美加香のことを言おうとしているのですか?」
  ふと、猫を撫でる芹香の手が止まっていた。
  ちらりと見上げた男と視線が合う。
  しかしそれも一瞬の事で、猫はぷいっと顔を背ける。
  そんな猫をなだめるように、芹香は手をそっと小猫の毛並みに滑らせた。
「そう。この際単刀直入に聞いてしまうが…美加香ちゃんは本当に俺の知って
いる美加香ちゃんなのか?」
「………………」
「…美加香ちゃんは一人しかいない、って?どうだか、怪しいもんだ。美加香
ちゃんは記憶喪失なんだろう?」
  すっ、と、猫の背から芹香の手が離れた。
  かさかさとなにかをやり取りしているようだ。しかしそんなことには興味が
無いのだろう。猫は席に顔をうずめて、目を閉じた。否、閉じようとした。

  −−ばんっ!

  その音は睡魔の手に落ちようとしていた猫を飛び上がらせた。眠りを妨げた
ワルイヤツに唸り声を上げる事で意思表示する。
  その頭を押さえるように芹香の手が覆い被さってくる。すぐに猫は怒りを失っ
てまた丸くなる。
「これは捏造でも何でもない、事実だ…って?この両親は実在するし、彼女の
友人も恩師もいる…本当なのか?」
  詰まらない。
  そう結論したのだろう。今度こそ、猫の目がゆっくりと閉じられる。
「…だとしたら…何故美加香ちゃんは烈鬼拳を使えるんだ…あれは風見の拳…
風見が編み出した我流拳じゃないのか…!?」
  しかし丸くなって、すーすーと眠りながらも猫の耳はぴんと立って、その場
で行われている会話を一つも逃さずに聞き取っていた。

          ★★★

  ふと眠る猫の下に手が潜り込んできて、猫は慌てて飛び起きた。
  芹香がそうする時は決まって、猫を膝から降ろそうとするのだ。

  みゃあ。……みゃあ。

 遊んで、遊んで、とばかりに芹香に頭を摩り付ける。
 しかし芹香はちょっと陰りのある笑みを浮かべると、そっと猫を床に降ろ
した。

          ★★★

「どうした?お前は俺の指示に従っても、命令を待つ必要はない。下僕でない
のなら、自分の自由意志を行動で示せばいいだろう」
 それは三つのことを意味していた。
 一つにはセリスの行動が局員である範囲で行う行動を黙認するということ。
もう一つはここに至っても断じて二人を助けに行くつもりはないということ。
そして最後に下僕には自由意志はあってもそれを行動で示す事は許されないと
いうこと。
 セリスはもはや何も言わずに部屋を出る。
 そしてUMAもまた部屋を出ていった。

 一人残ったルーンは、グラスをただ弄びつつ独語した。
「そうとも、自由意志で行動できるというのは素晴らしいことだ。なあ、そう
思うだろう?」
「……それが自由意志だと思い込んでいるだけだという可能性は考えないわけ
ですか?」
「それなら自分の脳ミソを科学者に預けてみたらどうだ」
「遠慮しておきますよ。自分が自由意志で動けないのは良く知ってますから」
「そいつは結構な事だ」
  何時の間にその部屋に現れたというのか、一人の少年が立っていた。部屋の
端で、まるで最初からそこに居たような。
 その少年が懐から取り出した茶封筒をルーンに差し出した。
 それは何処にでもあるような茶封筒だ。
 そしてその表には「東鳩Security Service」と書かれていた。
「俺なりに判断した新入社員の能力です」
「・・・の娘、か」
「誰の娘ですって?」
「お前は知らなくて良い事だ」
  ルーンが封を破る。
「……ところで」
  ふとルーンが封を破る手を止める。
「ご主人様のところに居なくていいのか?  猫」
「ご主人様なら大丈夫ですよ。それはお師様だって知っている事でしょう?」
「……そうだったな」
  ルーンが茶封筒を物の散らばったデスクに置く。
  そして開いた手をそっと差し出した。
「時間は大丈夫なんだろうな?」
「ええ……」
  少年は自分の頬に当てられたルーンの手に上から、自分の手を重ねて、うっ
とりと目を閉じた。
  窓の外では降り出した雨に人々が慌てて、雨やどり出来る場所を探していた。
窓に当たる雨の音が二人の息遣いを消していく。

                                                                    雨

  蹴り飛ばされた子猫はフローリングの床をころころと転がり、床に泥の筋を
付けた。
「ち、床を汚しやがって」
  泥塗れの小猫を蹴り飛ばしたのはルーン自身なのだが、そんなことはお構い
なしにルーンは毒づくと、小猫のそばでしゃがみこんだ。

  みゅぅ?

  そんな疑問符のついた鳴き声を小猫が上げる。
  その小猫の首にルーンの手がかかる。そしてルーンはそのまま小猫を持ち上
げると首を掴んだ手に軽く力を込めた。

  ぐ、みゃあ。

  苦しい。苦しいのは嫌だ。生や、死を理解する事は小猫には無理な相談だっ
たが、それが嫌な事である事は確かだった。だから小猫は爪を出して、ルーン
の手を引っ掻いた。しかしそれでルーンは小猫の首にさらに力を込める。
  恐怖と苦しみに見上げたそこにはそのニンゲンの目があった。

「お前は獣だ」

  ニンゲンは怒っていなかった。
  ただ、そう、ただ小猫を見ていた。
  獣を見る狩人の目ですらなかった。
  何故ならその目を見た瞬間、小猫は動けなくなってしまったのだから。

「今のお前は弱い」

  ぐき、という音が聞こえた気がした。
  猫は逃げなければと思った。
  痛いのは嫌だから。体を振り回す。どうすべきかは本能が知っていた。

「俺がこの手に後少し力を入れれば、お前は死ぬ」

  そしてそれを実証するかのように、ルーンの手に力がこもる。
  やはりニンゲンの目にはなんの感情も浮かんでない。

「どうだ、俺に狩られる気はあるか?」

  小猫の首がまさにへし折られんとした時、構成とも呼べないような構成が空
間に放出される。ルーンが咄嗟に手を離すのと、小猫の編み出したぐちゃぐちゃ
な構成が空間を焼くのは同時だった。

「そうだ、それで良い。だがまだ弱い」

  ルーンが小猫の編み出したちゃちな構成に向けて魔術を叩き付ける。

「最果ての門叩きし拳!」

  小猫の構成によって生まれ掛けた炎をかき消し、ルーンの放った冷気が小猫
を凍り付かせる。

「俺の獲物になれ。そうすれば強くしてやろう。分かったな。猫」

  冷気によって床に貼り付けられた小猫はがたがた震えながら、ニンゲンの目
を見上げていた。

  雨はまだ止まない。
  雨に濡れていた小猫は今も床に磔になっている。
  それでもその時は思ったのだ。
  ニンゲンの目は美しいと。
  何がルーンの瞳をそんな色に染めたのかも知らぬまま、猫は惹かれていた。
  その奥深さに、その暗闇に。

  まだ猫はもう一つの瞳と出会っていない。
  何処までも深く人を愛するその瞳には。

  その時、何が変わるのか?
  それも知らぬまま、初めての主人に狩られるために猫は強くなる道を選ぶ。

−−−−

−−−−おまけ−−−−

  ほんの気まぐれだった…。
  幼い頃に捨て猫を見つけて、親に飼いたいと懇願した、そんな感情に良く似
ていた。
  違ったのは…、すでに自分が大人であったということだ。
  わずかばかりの興味と、そして童心に似た遊び心に過ぎない…。
  化け物を狩るものが、化け物を飼っている。
  そんな事にちょっとした皮肉を感じて楽しむためなのかもしれない。

  どちらにしても教える必要はない…。
  この心に潜む、この感情は…。

  さぁ、我が愛しき小さな猫よ。
  狩りの時間になった時、果たしてどちらが狩られる側かは、お前次第と言う
わけだ。

  さぁ、我が愛しき小さな猫よ。
  俺を狩りに来るがいい。俺はお前を狩りに行こう。
  そうやって愛し合う二人なのだから…。

−−−−

  こういう陰鬱な世界観こそが私の抱いている東鳩ssの世界観だったりします。
  素直でない人たち、それだけのことだと思います。
  そうやってすれ違って、とり返しがつかなくなっていく。
  少し心を開いてみれば良いだけなのに…。
  言葉で、心で分かり合えない人々は、体や、争いにそれを求めていくのかも
しれません。

  さて、化け物を狩るものと化け物はこうやって出会いました。
  決して分かり合えない二人です。
  分かり合えている振りをしているだけの二人です。
  愛し合っている振りをしているだけです。
  それでも何かが変わるかもしれません。
  何かを変えられるかもしれません。
  本当なら有り得ないことだから…。

  そうして東鳩ssという物語は紡がれていきます。

  たくさんの悲劇と、その先にある終わりを探して…。