東鳩SS陰伝之肆「傷者達の楽園」 投稿者:ハイドラント
「何だ!?」
 異変を感じ取り、悠は飛び起きた。
 素早く身支度を整え、部屋を飛び出す。
「きゃぁぁぁぁーーーーーっ!!」
 廊下に出た時、悲鳴が鼓膜を叩いた。
 すぐさま、その方向へと走る。
 廊下を駆け抜け、突き当たりの角を右に曲がる。
 その瞬間、悠は足を止めた。
 止めざるを得なかった。
 多くの死を見てきた彼をさえ、立ち竦ませる光景がそこに広がっていたから
だ。
 吹き抜けになっている中央階段ホール。
 きらびやかなシャンデリアが飾られているその場所は、栄えある王城の一室
のようだと雑誌で賞賛された程、華やかな広間であった。
 ……だとすると、今シャンデリアが照らし出している光景は、滅びゆく王城
の一室であろうか。
 茶色のカーペットの上に転がる、幾つかの人影。
 体の各所を食い千切られたそれは、もはや人間とは呼べなかった。
 そこかしこに、千切れた手や足、果ては耳や鼻と思しき肉塊が散乱している。
 それは、まさに地獄と呼ぶにふさわしい光景であったろう。
 地獄を生み出した者達は、今は紅い目を爛々と輝かせ、シャンデリアの上か
ら悠を見下ろしていた。




              東鳩SS陰伝之肆


              「傷者達の楽園」




「……烏?」
 眉根を寄せて、悠が呟く。
 言葉尻が疑問形になるのも、無理はなかった。
 どう見ても、普通の烏より一回り以上体格が大きい。
 それが数羽。
 こちらを見たまま、じっと動かない――
「!」
 と思った瞬間、烏達は一斉に翼を打ち、飛び込んで来た。
 虚を突かれ、一瞬動きが遅れる。
 体を傾けて躱そうとしたが、躱し切れない。
「くっ…」
 右の腕と肩を僅かに裂かれ、苦痛に小さく呻きが漏れた。
「ちぃっ!」
 肩を裂いた烏を狙って手刀を繰り出す。
 が、動きの速い目標を捉えられず、手刀は空を切った。
 その隙に、反転して来た烏の一羽が悠に迫り、首筋を掠め過ぎる。
「!?」
 ぶつっ、と音がした。
 次の刹那、首筋から液体が噴き出す。
 ぴしゃっ、と音がして、床が赤く染められた。
(まずいっ!)
 咄嗟に首を手で押さえようとした時、それが眼に入る。
 悠を半包囲するように広がり、一斉に襲い掛かって来ようとしている烏達の
姿が。
 避けられる態勢ではない。
(……死ぬ!?)
「――ま――」
 死神の刃が、今まさに振り下ろされようとした時。
 悠は、叫んだ。
「魔王の牙!!」
 烏達が動く。
 悠の肩から、何かが飛び出した。
 彼の手が、それを掴み取る。
「っしゃあぁぁぁ!!!」
 一気に振るった。
 空気の裂ける音が、高らかに鳴る。
 しかし、ただの一振りで、全ての烏を打ち払う事など出来よう筈もない……
のだが。
 ばさっ……ばさばさっ。
 数瞬の後、烏達は全て落下し、床に転がっていた。
 黒い大剣を手にした、悠の周囲に。
 彼が体内に封じていた、「魔王の牙」。
 この剣の一振りは、烏達に当たりはしなかったが、強烈な剣圧でその全てを
叩き潰したのだ。
「……ふぅ」
 悠は安堵の溜め息を吐いた。
 首の出血は、もう止まっている。
「魔王の牙」が、屠った烏達のエネルギーを悠に注ぎ込んだ為だ。
 腕と肩の傷も、既に消えている。
 それを確認すると、悠は再び走り出そうとした。
 まだ悲鳴や怒号はあちこちから聞こえてくる。自分を迎え入れてくれた鶴来
屋の人々が危機に晒されているのなら、助けなくてはならないと思ったのだ。
 が、一歩踏み出した刹那。
「!」
 冷気のようなものが背筋を走るのを感じ、悠は振り向いた。
 階段の上。
 何時からいたものか、一つの姿がそこにある。
 やはり、烏。
 だが先程の烏達より、更に大きい。
 鷹や鷲すらも凌ぐのではないだろうか。
 鈍く輝く紅玉の瞳で、悠を見据えている。
 ……しかし。
(違う……)
 悠は胸中で首を振った。冷気の正体は、こいつではない。
 別の何かがここに近付いて来ている。
 そう、思った時。
 かつん……かつん……
 足音。
 誰かが階段を降りてくる音が、静まり返ったホールに響き渡る。
 それまで身じろぎすらしなかった大烏が、ぴくりと首をもたげた。
 悠から目を離し、背後に向き直る。
 ……その男は闇の中から、ゆっくりと現れた。
 薄明かりにゆらめく姿が、口を開く。
「アーティー、ご苦労だった。……戻れ」
「クァ……」
 男の声に一つ鳴いて応えると、アーティーと呼ばれた大烏は、彼に向かって
飛んだ。
 シャンデリアが描いた男の影に飛び込み、そのまま姿を消す。
 吸い込まれるように、跡形も無く。
「……」
 男の姿を見た悠の胸には、やはりという思いと、まさかという驚きがあった。
 彼が、いずれ必ず自分の前に現れる事は分かっていた。
 だが、それがこうも早いとは思わなかった。
「……あの烏どもは、お前が操っていたのか」
 悠は、世間話のような口調で話し掛けた。
 最後に会ってから数日も経っていないのに、奇妙なほど懐かしさを覚える、
その男に。
「ハイドラント」
「……」
 名を呼ぶ声に反応してか、男は視線を動かす。
 悠の持つ、漆黒の剣に。
「……『魔王の牙』か。人の手には過ぎた剣だな……」
 独り言のように呟く。
 悠は、数呼吸の後、小さく口を開いた。
「……ハイドラント」
「……」
 彼が、視線を悠へと戻す。
 それを受け止めて、続ける。
「見逃してくれないか?」
「無理だな」
 犬は空を飛べない。鉛から金は作れない。そんな口調だった。
 悠が口を噤む。
 聞くまでもなく、分かっていた事だ。だが、口にせずにはおれなかった。
 俯いた彼に、今度はハイドラントが問う。
「何故、『塔』を捨てた?」
「……命令されるまま、人を殺し続ける生き方が嫌になった」
 一言一言を噛み締めるように、悠は答えた。
「このまま『塔』の暗殺者として生きていけば、俺はいずれ大事な人を……綾
香を殺さねばならなくなるかも知れない。
 殺さなくとも、殺せる人間になってしまうかも知れない。
 ……それは、嫌だ。絶対に」
「………」
 ハイドラントの表情は、動かない。
 静かな足取りで、悠に近付いてゆく。
 ……がちゃり。
 何かの止め金が外れる音がしたかと思うと、彼の左手の肘から先が床に転が
った。
 その下から、黒い銃身が現れる。
「もう一つ聞こう」
 シャンデリアの光をアーム・ライフルの銃口で照り返しつつ、ハイドラント
は再び口を開く。
「何故、綾香を置いていった? 何故、連れて行かなかった?」
「……それは……」
 悠は、大剣を振りかぶった。
 肩に担ぐようにして、構える。
「……恐かったんだ。あいつに拒絶されるのが。
 何も持っていない俺と違って、あいつは沢山のものを持っている。
 家も、財産もある。家族もいる。
 そして何より……お前がいる。
 その全てを捨てて、俺と来てくれと言う勇気が……俺には、なかった」
 腰を僅かに落とし、膝に溜めをつくる。
 瞬間的に飛び出せる体勢を整えると、悠はハイドラントに笑いかけた。
 苦く。
「……お前と同じ、だよ」
「………」
 ハイドラントはもう答えない。
 二人の距離が、狭まってゆく。
 ……そして。
「!」
「!」
 床を蹴る音が二つ、同時に響いた。


「一体、何が起きているんだ!?」
「分からん! ここからでは何も……」
「様子を見に行った方が良くないか?」
「しかし、分隊長に無断で持ち場を離れる訳には……」
「分隊長の身にも、何かあったのかも知れないぞ!」
 東館の前。
 この近辺には烏達の襲撃はなかったものの、本館で異変が起きている事は分
かる。
 響き渡る悲鳴と騒音に、来栖川警備保障の警備員達は戸惑うばかりだった。
 と、その時。
「……分隊長!」
 警備員の一人が、本館の方を見て声を上げた。
 彼の指差す方向から、オルフェがこの状況にふさわしいとは思えない落ち着
いた足取りで近付いてくる。
 隊員達は喜色を浮かべて彼に駆け寄った。
「良かった、ご無事でしたか」
 安堵したように胸を撫で下ろす隊員に、オルフェは黙然と頷いた。
 その横から別の隊員が、焦った口調で尋ねる。
「それで隊長、我々はどうしましょう?」
「放っておけ」
 オルフェの返答は、その一言だった。
 隊員達が、ぽかんとした表情になる。
「……え?」
「持ち場を離れるな。そのまま待機だ」
「は、はぁ。しかし……」
「我々の仕事は東館の警護だ」
 反駁しようとした隊員を睨みすえ、オルフェは低い声で言い放った。
「余計な事はするな」
「……」
 口を閉ざす隊員達。
 オルフェの纏う、威圧的な空気に気圧されて。
 ……それは、これまでの彼には無かった筈のものだった。
 隊員達に背を向けると、オルフェは空を見上げた。
 銀色に輝く満月が、その姿を余す所なく晒している。
「いい月じゃないか……」
 微かに弾んだ声で、呟く。
 口の端を、吊り上げるように歪めて。
「……絶望の悲鳴が、良く似合う……」


 じゃっ!
 ハイドラントの左手、アーム・ライフルから放たれた粒子ビームが、一直線
に飛ぶ。
「ちっ!」
 紙一重で光線を避ける悠。
 第二射、第三射が、その後を追う。
 転がるように躱しつつ、悠はハイドラントとの距離を縮めようとした。
 だが。
「許さぬ!」
 数条の銀光が、彼の足元を打ち砕き、後退を強要する。
(リビング・メタルかっ!)
 ハイドラントの服に縫い込まれた、極細の生体金属線。
 彼の意志に反応して自在に動き、槍となり、剣となり、また網ともなる。
 今は槍となって繰り出され、悠を再びライフルの間合いへと追いやった。
「くそっ!」
 思わず、毒づく。
 接近戦に持ち込みさえすれば、剣を持っている悠は一撃でハイドラントを仕
留め得る。
 だが遠距離戦となると、飛び道具を持たない悠には為す術がない。
 殺傷力の差より攻撃距離の差の方が戦いにおける比重が大きいという事は、
歴史が証明する事実である。
 不意打ちが基本の暗殺ならばともかく、正面からの戦闘となると、この不利
を覆すのは至難であった。
 しかもハイドラントにはまだ他に武器がある。
 横薙ぎに放たれたビームを潜り抜けるようにして躱した悠は、今まさにそれ
が自分を襲おうとしているのを見た。
 ハイドラントの右手首のストーンが輝き、炎が腕を包んでいる。
「火群!!」
 近接戦闘用魔術、「魔闘」。
 その名の通り格闘戦用の特殊魔術だが、ハイドラントは一つ、長射程の技を
有していた。
 彼が腕を一振りすると、炎が無数の火炎弾となって悠に飛んだ。
(……危い!)
 体勢の悪さが災いした。
 床を蹴って逃れようとしたものの、大きく跳ぶ事ができず、攻撃範囲から脱
しきれない。
 直撃だけは避けたものの、幾つもの火球に体を舐められる。
「がっ…!?」
 肉を焼かれる激痛に、苦鳴が口をついた。
「それまでか!? 悠!!」
 ハイドラントの叫びが耳朶を打つ。
 同時に、銀糸が自分に飛んでくるのが見えた。
「くぉぉっ!」
 苦痛を噛み殺し、悠は膝立ちになると、剣を一閃させた。
 黒い刃がリビング・メタルを切り払う。
 ……しかし。
「!?」
 斬撃を免れた鋼線が、「魔王の牙」に巻き付いていた。
 最初から、ハイドラントはこちらを狙っていたのだ。
「……その剣は厄介な代物だからな。
 渡して貰おうか」
 彼は呟くと、リビング・メタルに力を込めた。
 大剣が引き寄せられる。
「人の物を無理矢理奪うのは、強盗ってんだぞ!」
 させまいと、悠は柄を握り締めた。
 足を踏ん張り、必死に抗う。
 だが、リビング・メタルのパワーは、乗用車程度なら易々と押え込める程の
ものである。人間の力で抵抗するのは限度があった。
 悠の体ごと、少しづつ、引き摺られていく。
「っ……!」
 剣を掴む手の感覚が、次第に薄れていく。
(――限界だ!)
 そう、感じた瞬間。
 悠は、さっと両手を離した。
「!?」
 いきなり抵抗を失い、リビング・メタルは剣を掴んだまま、勢い良くハイド
ラントの後方へと飛んでいく。
 為に彼はバランスを崩し、蹈鞴を踏んだ。
 その隙に、悠は一気にハイドラントの懐へと飛び込んだ。
 7メートルの距離を二歩で奪い、拳が届く間合いに達する。
「甘い!」
 しかしハイドラントの身のこなしは早い。
 その時には、既に体勢を立て直していた。
 右手首のストーンが、再び輝く。
「骸炎(ガイエン)!!」
 炎に包まれた拳が、悠に繰り出される。
 これを食らえば、立ち上がる事は出来まい――が。
(ビンゴ!)
 悠はこれを狙っていた。
 身を屈めて拳をやり過ごし、刹那の後にその手首を掴む。
 そしてすぐさま身を起こし、掴んだ腕を引き込みつつ右足でそれを跨ぐ。
「何!?」
「あの時の仕返しだっ!」
 腕回り踵落とし。
 身を捻りつつ打ち下ろした左足は、ハイドラントの鎖骨を直撃した。
「ぐっ!」
 彼の膝が落ちる。
 間を与えず、悠は右肘を振り上げた。
「これで――」
 ハイドラントの側頭部を狙う。
「――終わりだ!」
 振り下ろす。
 その瞬間、ハイドラントが顔を上げた。
「甘いと言った!!」
 悠の肘が、彼のこめかみにめり込む――
 寸前、視界を一本の銀の糸が横切った。
「!」
 リビング・メタル。
 生体金属の糸が一本、一瞬早く悠の右腕を絡めとっていた。
 一本では強力な力は出せないが、それでも人の腕を止めるくらいは出来る。
「ちっ!」
 それは素早く振りほどいたものの、更に数本の糸が迫るのが見えた。
 舌打ちし、悠はひとまず逃れようと後ろに飛んだ。
 地を蹴り、数メートル程も跳び――そして着地した時、彼は自分の失策に気
付いたが、既に遅い。
「!!」
 死角から回り込んだリビング・メタルが、悠の体を捕らえていた。
 幾本もの鋼線が、悠の体を巻き取る。
「っ…!」
 細い金属糸が肉を切る冷たい感触に、声にならない呻きが洩れた。
 食い縛った歯の隙間から空気を押し出す。
「……さすがに、強いな……悠」
 ハイドラントが、ゆらりと立ち上がっていた。
 鎖骨が折れているのだろう、左肩をがくりと落としている。
「だが、ここまでだ」
 ゆっくりと、歩き出した。
 もはや動けない、悠に向かって。
「そのまま、切り刻んでもいいが……」
 歩きつつ、右手を持ち上げる。
 ブレスレットに嵌められた、雪のように白いストーン――屑繭石が、純白の
……しかしどこか凶々しい輝きを放ち始めた。
「お前に、無残な死は与えたくない。
 せめてもの情け。俺のこの手で、苦しませずに殺してやる」
 足を止める。
 炎を纏う右の拳が、届く距離だ。
「最後に何か、言いたい事はあるか?」
「……一つ、だけ」
 彼の言葉に、悠は苦痛をこらえつつ口を開いた。
 ハイドラントはその顔をじっと見つめ、言葉を待つ。
 僅かに顔を俯かせつつ、悠は告げた。
「情けをかけてくれて、有難う……。
 それさえしなければ――お前の、勝ちだった」
 その言葉の意味を、ハイドラントが知るより早く。
 悠はリビング・メタルの拘束から右腕を引き抜いた。
「な…!?」
 驚愕に、ハイドラントが目を見開く。
 リビング・メタルに捕まる直前、悠は全身に力を込めていた。
 筋肉に力を入れれば、肉体は膨張する。
 その膨張した肉体を捕らえていた鋼線は、悠が脱力した一瞬、僅かな弛みを
生んだのだ。
 ……そして。
 ざしゅっ!
「…!」
 悠の繰り出した手刀が、ハイドラントの胸を貫いた。


「状況はどう?」
「何とか収まりそうだよ。
 今、警備員が総出で、お客さん達を避難させてる」
 会長室。
 外から戻って来た梓は、出会い頭の千鶴の問いにそう答え、やれやれと息を
ついた。
 混乱が始まってから、およそ三十分。
 事態を素早く把握した千鶴の的確な指示で、被害の拡大は食い止められつつ
あった。
「それにしても、あの烏どもは一体何なんだ?」
「……おそらく、『塔』の手先でしょうね」
 怒りを込めた梓の言葉に、千鶴は八割方確信した表情で言う。
「悠さんを匿ったのが知られたんでしょう」
「にしたって、幾らなんでも早過ぎないか?」
「それだけ、『塔』は背信に対して厳しいという事よ」
 そう言うと、千鶴は疲れた表情で髪をかき上げた。
(……それにしても)
 胸中で、呟く。
(これは少し話が違うわね。実行を任された人間の暴走かしら?)
「千鶴姉?」
 梓の呼びかけに、千鶴は我に返った。
 見ると、やや心配そうな表情で顔を覗き込んでいる。
「大丈夫? かなり疲れてない?」
「平気よ、心配しないで。
 ……それより、悠さんは?」
「分からない」
 千鶴の問いに、梓は首を振った。
「警備員に部屋を見に行かせたけど、いなかったって」
「そう……」
 小さく息をつくと、千鶴は顔の前で両手を組み合わせる。
「無事だといいけど……」
「駄目ね」
 彼女の呟きに答えたのは、梓の声ではなかった。
 二人が、はっと身構える。
「だってその人は今頃、マスターに殺されているもの」
 声は、二人の頭上から響いていた。
「誰…!?」
 見上げた梓は一瞬、絶句する。
 ……いつ、何処から現れたのか。
 十三、四歳ほどの少女が、足場の無い空中に浮かんでいた。
「私は風上日陰」
 くす、と笑みをこぼし、少女は名乗る。
 愛らしいと表現するにふさわしい、鈴のような声音で。
「どうぞ、よろしく……」
「化物!?」
 その正体を看破した千鶴が叫ぶ。
 存在しない筈なのに、存在するもの。
 地上の他の生き物と比較して、明らかに異質なもの――化物。
 美しい化物は、花のような笑顔を浮かべた。
「私、友達になりに来たの。あなた達と」
「ふざけんなっ!」
 怒声を発し、梓は自分の体内に眠る力を解き放った。
「鬼」の力。
 人を地上最強の獣と為す力。
 千鶴もその手を鬼のそれに変じさせ、少女を睨み据える。
「もう……そんなに嫌わなくたっていいじゃない」
 ぷう、と頬を膨らませると、日陰は右手の人差し指を立てた。
 その周囲に、靄のような黒い何かが生まれる。
「仲良くしようよ……ね?」
 刹那、それは膨れ上がった。
 巨大になった闇の向こうで、日陰が薄く笑う。
「黒圧轟沈!!」
 闇が、弾けた。
 黒い風が吹きすさび、二人を呑み込む。
「がっ!?」
「…!」
 風が体に触れた瞬間。
 千鶴は、がくりと膝を折った。
 一瞬で、体中の力という力を全て根こそぎ奪われてしまったような感覚があ
る。
「抵抗しないで。
 楽になれるから……」
 そんな、優しげな声が彼女の耳に聞こえた。
 隣で梓が、床に倒れ込むのが見える。
「くっ……」
 しかし、千鶴は全身の力を奮い起こして耐えようとした。
 折れそうな程に歯を食い縛り、その間から声を押し出す。
「私は……倒れるわけには行かない……」
 薄れる意識を繋ぎ止めようと、自分に言い聞かせる。
「世界の、為に……私の……役目は……」
「……ふうん?」
 その様子を見下ろす日陰が、小さく鼻を鳴らした。
 金色の瞳が、僅かに細められる。
 彼女は千鶴の前に降り立つと、囁くように語り掛けた。
「世界を救おうとしているのね……あなたも。
 でも、あなたのやり方は間違っている。
 そんなやり方では、この汚れ切った世界は救えない……ただ、汚れを拡大す
るだけ。
 あなたは多くの血を流してきたわね。世界を救う為に必要だと信じて。
 でもそれで、本当に世界は良くなったの?
 ただ、憎悪と怨念を振り撒き、そしてあなた自身が傷ついただけ……。
 違う?」
「……!」
 少女の言葉は、千鶴に一つの出来事を思い起こさせた。
 かつて、鬼の一族が住まう隠れ里があった。
 そこは、柏木四姉妹や「姫護」にとって故郷だった。
 だが、「塔」が隠れ里を殲滅するという決断を下した時、千鶴はそれを黙っ
て見過ごした。
 世界全体の視点から見て、隠れ里の消滅は必要だと判断したからだ。
 その結果、里は焼き尽くされ、住人は一人残らず殺された。
 自分の決断は本当に正しかったのかという不安と、同胞を見殺しにしたとい
う自責の念は、ずっと彼女の心を苛み続けていた。
 日陰の言葉は、その心の痕を正確に貫いたのだ。
「……わたし……は……」
 辛うじて彼女を支えていた力が、消失する。
 千鶴の体が……ゆっくりと、床に沈んでいく。
「……いい子ね……」
 伏した二人を前に、日陰は慈母の顔で微笑んだ。


 どさっ……
 ハイドラントの黒い姿が、崩れ落ちた。
 彼の下に、真紅の水溜まりがじわじわと広がっていく。
「……」
 悠は、呆然としていた。
 彼の命を奪った、己が右手を見つめながら。
 鮮血に染め抜かれたそれは、どこか非現実的であった。
「……これが……」
 絞り出すような声で、呟く。
「これが、自分の意志で戦うという事か?」
 言葉が、震えていた。
 心の中に、ゆっくりと広がる何かに。
「俺は綾香を殺したくなかった。だから塔を出た。
 ……そして俺はハイドラントを殺した。
 これじゃ……同じだっ!」
 それは、絶望。
 黒い絶望が、悠の心を埋め尽くしていく。
 髪を掻き毟り、彼は絶叫した。
「同じだ! 綾香の代わりにハイドラントを殺しただけだ!
 俺は、どうあっても、大事な人を自分の手で殺さなくてはならなかった……
そういう事なのかっ!?」
 吼える。
 天に向かって。
 地に向かって。
 世界の全てに向かって。
 何度も……何度も。
「そうなのか……そうなのかっ! そうなのかぁっ!?」
「そうだ」
 応えは――
 悠の足元から、した。
「どこにも逃げ場などはないのだ、悠。
 この世の全ては、地獄なのだから……」
「……!?」
 ゆっくりと……起き上がる。
 ハイドラントが。
 心臓を突き破られ、溢れる血で全身を染めたハイドラントが、立ち上がる。
「ハイド……ラント……」
 愕然と目を見開き、悠は掠れる声でその名を呼んだ。
 黒衣の――いや、真紅の暗殺者は、スローモーションのような動きで、左手
を持ち上げた。
「楽園など……何処にも、無い。
 楽園は、己の手で造らなくてはならぬ。
 ……俺は造る。この世界を、俺の楽園と化す。
 悠。お前も……力を貸せ!!」
 光が、疾った。
 それは悠の体を貫き、その背後の壁をも撃ち抜いた。
「……あ……」
 あれ、という表情で、悠は自分の体を見下ろす。
 鳩尾に、百円玉ほどの大きさの穴が開いていた。
 アーム・ライフルのビームが貫通した跡が。
 ……膝が、崩れる。
 視界が、揺れる。
 倒れる。
(……ぅん?)
 急速に混濁してゆく意識の中、悠は自分が抱き留められた事を感じた。
 静かな声が、耳元で聞こえる。
「暫しの間、眠るがいい……悠。
 いずれ、起こす……だが暫くは休み、疲れた心を癒せ」
 現実感を喪失しつつある悠を、その言葉は子守り歌の如く包み込んだ。
(誰だろう……綾香かな。それともハイドラントか……)
 誰でもいい。
 この誰かは、疲れきった自分に安らぎを与えてくれる。
「再び目覚める時まで、夢を見るがいい。
 楽園の夢を。
 覚えているだろう? 俺達は、かつては楽園にいたのだ。
 少年の頃……俺と、お前と、綾香と……三人いれば他に何もいらなかった頃。
 あの頃、俺は幸福だった。幸福の意味も分からぬ程に幸福だった。
 ……還るのだ。あの楽園に。
 この世界は、俺達が生きるには……辛すぎる。
 ならば、全てを破壊し……俺達の楽園を、その骸の上に造ろう。
 そして、永遠を過ごそう……もはや何も変わることのない、静寂の楽園で…
…永遠、に…………」
 ……ああ。
 気持ちいい。
 なんで、こんなに気持ちいいんだろう……。

『……はるか……』
『……ゆーさく……』

 声がする。
 友達の声が。
 ……ああ、そうか。
 いつものように、三人で昼寝をしていたんだっけ。
「塔」の中庭の、木漏れ日が差し込む銀杏の木の下で……。
 心地いいはずだ。
 今日は休日……暫くは、寝ていよう。
 起きたら何をしようか。
 鬼ごっこもいいし、隠れんぼもいい。
 ハイドラントが、また何か変な遊びを考え付くかも知れない。
 綾香はきっといつものように、俺達を驚かせるために何か企んでいるだろう。
 ……何でもいい。
 三人いれば、何をしても楽しいのだから。
 ああ……日差しが暖かい。
 今は、寝よう。
 ゆっくり、と…………












「死体は確認させて貰ったよ。ご苦労だったね、凶鳥」
「塔」月島拓也の部屋。
 帰還したハイドラントを、部屋の主は機嫌良く迎えた。
「君には酷な任務だったと思うが、良く果たしてくれた。
 悠君は残念だったが、君の優秀さを確認出来たのは嬉しいよ。
 今後とも……」
「一つ、頼みがある」
 月島の口上を遮り、ハイドラントが感情の欠落した声で言った。
 気を悪くした様子もなく、月島が問う。
「何かな?」
「あいつの遺体は、私が引き取りたい」
 棒読みな口調で告げるハイドラント。
 月島が苦笑気味に肩を竦める。
「ああ……墓を作ってやりたいのかい? 好きにしたまえ」
「感謝する」
 そう言い捨てると、ハイドラントは踵を返して部屋を出た。
 月島の視線を背中に感じつつ扉を閉じ、廊下を歩き出す。
「……」
 壁際に一つの影があったが、彼はそれに目を向けはしなかった。
 何も言葉を発する事なく、傍らを行き過ぎる。
 その影も、動こうとはしない。
 ……すれ違ってから、数歩。
 ハイドラントは、一度だけ足を止めた。
 そして、振り向く事なく、肩越しに言葉を投げる。
「綾香。……あいつは、お前を捨てた」
 それだけ告げると、彼は再び歩き出した。


 ……やがて、低い鳴咽の声が背中に聞こえたが、彼はもう歩みを止める事は
なかった。




                東鳩SS陰伝之肆「傷者達の楽園」 了