天窓から差し込む月明かりが、部屋の中を朧に照らす。 ひどく、弱々しく。 ひどく、優しい光。 その弱さは彼女の心に影を落とし、優しさは僅かに心を慰める。 寝台に横たわり、綾香はじっと、硝子越しに見える月を見つめていた。 『……もう戻れないわよ。昔には』 数時間前、己が口にした台詞を、反芻する。 友人の妹を探しに出て―― そこでハイドラントと再会し―― 目の前で友人の妹を殺され―― ハイドラントに打ち掛かり、逆に打ち倒されて―― そして「昔の力を取り戻せ」と告げた彼に、自分が返した言葉。 ――昔には、もう戻れない。 綾香はその事を、疼痛と共に自覚していた。 ベッドサイドに立てかけられた、小さな写真立てを手にする。 それには、三人の姿が写っていた。 真ん中で、無邪気にはしゃいでいる自分。 その腕で首を抱え込まれ、もがいている白服の少年。 そして二人の後ろで、やれやれと言いたげな笑みを浮かべている黒衣の少年。 ……ほんの数年前にあった光景。 あの頃とは、何もかもが変わってしまった。 綾香は塔から離れ、 黒衣の少年は異形の者と化し、 白服の少年は、もういない。 「……どうして?」 綾香は、写真の中の彼に問い掛けた。 彼は応えない。 現世の綾香と、写真の中の少年――決して越えられぬ時の壁が、二人を遮っ ている。 「どうして、私を置いていったの?」 それでも、綾香は問い掛けを続けた。 もはやその問いに答を得る事はないと分かっていても……彼女は、その答を 聞く権利を持っていたのだから。聞かねばならなかったのだから。 答を永遠に喪失した問いを、綾香は三度、口にする。 「どうして……死んだのよ? 悠朔……」 頬を伝う雫が、月光を受けて一瞬、煌いた。 東鳩SS陰伝之弐 「子供達の檻城」 彼は眼前に立つ相手を見据えた。 両拳を顎の前に持ち上げ、体を僅かに右に傾けながら。 軽くステップを踏み、隙を窺う。 彼と相対している黒衣の男も、ほぼ同一の構えだ。 但し、こちらはステップを踏まず、腰を深く落としている。 彼が誘うように右に左にと動いて見せても、それを目で追うだけで、じっと 構えたまま動かない。 「……チッ!」 しびれを切らし、大きく踏み込んで打ち掛かる。 弾丸の速さで飛んだ拳を、しかし黒衣の男は左手で払い除けた。 そしてすぐさま腰を回転させ、右拳を下段から突き込んでくる。 「っ!」 ガードの為に下ろした左腕は、拳に触れる事もなかった。 腹筋を突き抜ける衝撃に、彼は声もなく呻く。 「どうした?」 追撃を予想して身を固める彼に、しかし放たれたのは拳ではなく言葉だった。 「本気でやっているのか?」 顔を上げると、黒衣の男の表情が眼に映る。 無表情である事が多いその顔に、今は僅かに怪訝そうな色があった。 訝しがるのも無理はない。普段の彼であれば、今のような攻防でダメージを 受けたりはしない筈だ。 なのに、無様に拳の直撃を受けたということは―― (今の俺が、普通じゃないってことか。……くそ) 胸中で毒づくと、彼は戦いに集中しようとした。が、雑念が頭から離れない。 ――ならば、まず動く! 彼はそう結論付けると、予備動作無しでいきなり蹴った。 「!」 左膝にそれを受ける黒衣の男。 大した威力ではなかったが、それでも一瞬体勢を崩すには充分だった。 (よし!) すぐさま、逆の足で突き蹴りを放つ。 狙いは水月。 「ぬっ……」 黒衣の男は両腕を交叉させてそれを受け止め、同時に後ろに飛んで衝撃を逃 がそうとした。 ――だが、それは計算の内だ。 彼は蹴り足を引き戻さず、そのまま踏み下ろす。 そして足の指でしっかと床を掴み、渾身の力で体を前に引き寄せた。 黒衣の男との距離が、一瞬にして詰まる。 (貰った!) 「しゃぁっ!」 勝利を確信しての気合と共に、彼は拳を放った。 為す術も無く立ち尽くす男の顔に打ち込まれる―― 「!?」 筈だったその拳は、寸前で止められていた。 男の手に手首を掴まれて。 ――その後は、一瞬だった。 男は掴んだ手を巻き込みつつ、右足でその腕を跨いだ。 そして体を大きく回転させ、左足の踵を打ち下ろす。 「がっ!?」 側頭部を強打され、彼は床に叩き伏せられた。 「半分冗談のつもりで綾香の技を真似してみたんだが……まさか当たるとはな。 本当に、どうした? 悠……」 大の字になって床に転がった悠朔に、ハイドラントがこの男には珍しく些か 気遣わしげに声をかけた。 木の床の冷たさを感じつつ、悠は不服そうな口調で答える。 「別に……どうもしない。 今のは意表を突かれただけだ。まさかお前が、腕回り踵落としなんて派手な 技を使うとは思わなかったから」 「確かに、ああいう技は俺の趣味じゃないからな」 ハイドラントは肩を竦めた。 暫し、沈黙が降りる。 ここは「塔」の体技室。 がらんとした部屋の中には、幾つかの運動器具の他は何もない。 人の姿も、今は悠とハイドラントだけだ。 開け放たれた窓から、昼下がりの日差しと共に涼風が流れ込み、火照った体 を冷ましてくれる。 心地良さげに目を細めつつ、ハイドラントは再び口にした。 「何があった?」 「……」 今度は即答できない。 誤魔化し通すのは無理だ。もう何年も、共に過ごして来たのだから。 ライバルとして。 友として。 兄弟として。 そして……同じ「塔」の暗殺者として。 「塔」の命令に従い、共に手を血に染めてきた仲間として―― 『人は自由意志を持ち、その意志に従って戦うべきだ』 脳裏に響く声。 あの日から、頭にこびりついて離れない声。 「……ハイドラント」 天井を見上げながら、呟くように呼ぶ。 彼が、ん、と顔をこちらに向けるのが分かった。 「お前は……何の為に戦っている?」 「……」 ハイドラントが眉根を寄せる。 悠は続けた。 「お前は……自ら望んで、ここにいるのか? 俺達は――」 「悠」 言葉が遮られる。 彼の重い声で。 「お前が如何な答えを欲しているのかは分からん。 だが、どう答えるべきかは分かる」 ハイドラントは悠の顔を見下ろした。 感情を消した表情で。 感情を消した声で、告げる。 「余計な事は考えるな。 俺達は、殺せと命じられたものを殺す……それでいい。それだけでいい」 「……そう、だな……」 彼の言うことは正しい。 「塔」の暗殺者は、そうでなくてはならないのだ。 機械のように、ただ黙々と与えられた任務をこなす。 これまでそうしてきたように、これからもそうすればいい。 ……それは、分かっているのに…… 「……ところでお前、のんびりしていていいのか?」 唐突に、口調を変えてハイドラントが言ってきた。 「綾香と約束があるんじゃないか?」 「……と、そうだった」 がばっと音を立てて立ち上がり、壁に掛けられた時計に目をやる。 「時間は……まずいな、こりゃ」 「全力で走らんと間に合わんな。 遅刻なんぞしたら、また奢らされるぞ」 眉をしかめる悠を、ハイドラントは面白そうに眺めていた。 気楽な口調で告げる。 「京庭屋で、ケーキセットかな?」 「そりゃ困る……今月は苦しいんだ。 んじゃ、行ってくる」 「おう」 ハイドラントに見送られて、悠は駆け出し―― 「……と」 踏みとどまった。 「どうした?」 「いや……お前、今日はほんとに来ないのか? 確かに誘われたのは俺だけど、別にお前が来たって……」 「馬鹿野郎」 悠の朴念仁な台詞に、ハイドラントは思わず苦笑する。 「そこまで野暮な事するか。 いいからとっとと行ってこい。本当に遅刻するぞ」 「……分かった。んじゃな」 軽く手を挙げて挨拶を送ると、悠は今度こそ本当に飛び出していった。 足音が鳴り響き、そして次第に遠くなってゆく。 「……」 ハイドラントは、悠が消えた体技室の出入口を、暫し黙って眺めていた。 駆け去っていく足音が消えるまで。 「何の為に戦っている……か」 呟く。 「暫く前までは、何の為でもなく……ただ、その日を生きる為だったよ」 それは、誰も応えを返すことのない独言―― では、なかった。 なぜなら、それに応じる者はいたのだから。 「今は、どうなの? マスター……」 少女のものらしき声。 それは、ハイドラントの立つ場所から発せられた。 無論、そこには彼しかいない。他には誰もいない。 だが彼に、その事を訝しがる様子はなかった。 己の左胸の辺りを愛しむように撫で摩りながら、問い掛けに答える。 「今は違う。俺は戦う目的を得た。 お前と出会ったことで……な」 「……マスター……」 二人の声は――一人の人間から発せられる二つの声は、それきり、沈黙した。 ・ ・ ・ 悠がその男と出会ったのは、数日前の夜―― 街の片隅、死体と血に覆い尽くされた路地裏で、その男は何時の間にか悠の 背後に立っていたのだった。 ぐしゃり。 頭骨から胴体までを叩き切られた男が、鮮血を撒き散らしながら地に転がっ た。 ……あと、一人。 血に塗れた大剣を一振りし、背後に向き直った時。 「死ね!」 男の叫び。 ――そして、銃声。 脇腹に、熱した鉄棒を突き込まれたような激痛が走る。 さらに、二度。 肩口と太股を銃弾が掠め、肉が削ぎ落とされる。 「……」 だが悠は、まるで気にも留めなかった。 痛みに構わず、銃を持った男に向かって踏み込むと、大剣を振り下ろす。 「!!」 ざしゅっ……! 斬音が空気を震わせた。 右肩から左腹へと切り抜かれた男の体が、二つに分かれて倒れ伏す。 ……そして。 「悪魔……め……!」 瀕死の男が、恐怖に満ちた声で呻く。 ぞぶり、ぞぶり、と、 奇怪な音を立てて、悠の体に刻まれた傷が、「再生」する肉によって徐々に 塞がれていく様子を目の当たりにして。 それは、彼の持つ剣の力だった。 「魔王の牙」……クスゥレク・ゴル。 伝説上の魔王、オロチの牙から作られたと伝えられるこの漆黒の大剣には、 殺した相手の力を奪い、持ち主に与えるという能力がある。 この剣を持っている限り、悠にとって致命傷に至らない傷は、殆ど無意味な ものであった。 「……」 最後の男が息絶えたのを確認すると、悠は剣を一振りし、血を払った。 己の生み出した骸達を見回す。 全部で、五人。 討ち洩らしがない事を確認すると、悠は低い声で詠唱を始めた。 ……それは、祝詞。 死者の安息を願い、神に奏する言葉。 悠は念仏も、聖書の文句も知らなかったが、これだけは知っていた。 暗い路地の中を、低い声が風に乗って流れていく…… 「……何故、弔う?」 ぴくり―― 全く突然に、背後から響いたその声に、悠は祝詞を奏する口を止めた。 「殺した事を、後悔してか?」 朗々と響くその声は、続けて問う。 悠は、肩越しに後ろを見た。 そこにいたのは、長身の男。 顔は暗さの為に判別できないが、鍛え抜かれた肉体の持ち主である事は一目 で知れた。 「……後悔などしていない」 この男は、何者なのか――それを探ろうと視線を向けつつ、悠は答える。 「後悔する理由など、ない。 俺は殺せと命じられた。だから殺した。ただ、それだけだ」 それを聞くと男は、ふむ、と小さく鼻を鳴らした。 「……やはり、『塔』の暗殺者か……」 低い声で、呟く。 悠は、すいと眼を細めた。 男に向き直り、大剣を持ち直しつつ、問う。 「……お前は、誰だ?」 「通りすがりだよ。ただの……」 悠の変化に、男は何程の反応も見せなかった。 ただ、ゆらりと、その場に立っている。 「少し興味を引かれたので、声を掛けた。 ……この街で、殺しなど珍しくもない。石ころのようにありふれたものだ。 だが、殺した後で祝詞を奏する者など、他には知らぬ」 悠に語るその男は、ただ、立っているだけだ。 構えなど取ってはいない。 だが、隙がない。幾多の修羅場を乗り越えてきた悠に、斬り込む事を許さな い。 「後悔などしていないと言ったな。ならば、今一度問おう。 お前は何故、殺した相手を弔う?」 「……」 男の問い掛けに、悠は答える言葉を持たなかった。 殺した後、その死体を前に、鎮魂の祝詞を奏する。 それは、悠が初めて人を殺した時から、ずっと続けている習慣だった。 ほんの形式として続けているだけで、格別の理由などはない。 ……そう、思っていた。 「答えられぬか。 ならば、私が答えよう」 男は、すっ、と腕を持ち上げる。 その指が、ぴたりと悠の胸を指し示した。 「お前の心には、殺す事への迷いがある。 その迷いが、死者を弔う言葉となって口を突く」 「迷い……だと?」 悠は、半ば呆然として、男の言葉を繰り返す。 迷い…… そのようなものが…… 「己の意志を殺し、ただ任務を遂行する機械。それが『塔』の暗殺者のあるべ き姿。 だが、お前は自由意志を捨て切れていない。 お前のその意志は、何故人を殺さなければならないのかという疑問を、常に 抱き続けていたのではないか?」 「お前は……誰だ!?」 悠は再び、その問いを口にした。 彼の心を全て見透かしているかのように語る男に。 男は、その問いに答えは返さず、続ける。 「機械でなく、人であるならば、意志を持つのは当然の事。 人は自由意志を持ち、その意志に従って戦うべきだ。 私はそうしている。唯一、我が意志のみに従って拳を振るっている。 ……お前も、そうする気はないか?」 「俺に……俺に、『塔』を捨てろと言うのか? そして自由に生きろと?」 僅かに震える声で、その言葉を口にする悠。 それは、これまで悠の心の底に巣食っていた得体の知れない欲求が、姿形を 得て表に現れたものだったのかもしれない。 男は、頷く。 「そうだ。 ……無理にでも、などとは言わぬ。お前の好きにするがいい。 だが、言っておく。お前が今後も塔で生きていくならば、いずれ試される時 が来よう。優秀な機械なのか、それとも不良品なのか、判別されるのだ。 ……お前の最も大事な存在を、お前の手で殺すよう命じる事で」 「!」 最後の一言は、刃となって悠の心に突き立った。 男の予言めいた言葉は、起こるべからざる一つの光景を、現実感を伴って脳 裏に投影させたから。 愕然と立ち尽くす悠を、男は数秒ほども見つめていたが、やがてくるりと踵 を返した。 「……新たな生き方を見つけたいのなら、『鶴来屋』に行け。 私に会った事を告げれば、相手にしてくれよう」 「……お前は、誰だ……」 歩き去っていく男の背に、悠は三度、その問いを投げかける。 歩みを止めぬまま、男はただ一度、その問いに応えた。 「――西山英志――」 ・ ・ ・ 「……って、言う訳よ。 だから私は好恵に言ってやったの。『いいから今日は帰って寝なさい』って。 そしたら……ねぇ、聞いてる?」 「…………え?」 プレッシャーのようなものを感じて、悠は物思いから醒めた。 喫茶店の中。 自分の向かい側に座った綾香が、半眼で見つめている。 「聞いてた? 私の話」 「あ? ああ、勿論聞いてたぞ。うん」 「じゃあ答えて。何の話だった?」 「いやそれが最近、ちょっと物忘れが激しくて……」 「……まったく」 綾香は不機嫌な声で呟くと、椅子の背に体を預けた。 ぽりぽりと誤魔化すように頭を掻く悠を見ながら、レモンティーの注がれた カップを手にする。 「あーあ、これならハイドを誘えば良かったかなー」 「ハイドラントなら、出がけに誘ったんだが……野暮だとか何とか言って断ら れたよ。そんな事気にしなくていいのに……」 「……あんたって」 はぅ。 綾香は深い溜め息を吐いた。 この鈍感男、とその眼が言っている。 悠は素知らぬふりで、ティーカップを口元に運んだ。 (本当に、俺がそこまで鈍感だったら……気は楽だったろうな) ふと、思う。 何故、自分と綾香が恋人近似値のような関係になったのか。 悠、ハイドラント、綾香の三人は、少年少女の頃からずっと一緒に「塔」で 過ごしてきた。 悠とハイドラントは綾香の事が好きだった。 そして綾香は、おそらくは二人のどちらも、同じように好いていた。 だがある時期から、ハイドラントは三人のスタンスを微妙に変化させるよう に動き出し、やがて悠と綾香は恋人のような関係になった。 彼がそのような事をした理由を、悠は知っていた。 (あいつは、他人に好意を求める事に、酷く臆病だ。 だから、恐かったんだろう……綾香に俺達のどちらを選ぶのか迫り、そして 自分が選ばれなかったら、と思うと。 それよりは、自ら身を引いた方がいいと……そうすれば、俺達の関係も壊れ なくて済むと……) だが彼の行動は、悠にとって重荷となった。 その真実に気付かないほど鈍感ではなく、また気付いてなお綾香との関係を 育てて行けるほど無神経でもなかったからだ。 綾香と二人だけの時間……かつては楽しかったそれは、今の悠には苦痛の方 が大きかった。 (昔は、良かったな……) 最近、良く思う。 少年だった頃は、何もややこしい事など考える必要はなかった。 「塔」での生活は――特に悠とハイドラントにとっては――決して楽なもので はなかったが、三人揃っていれば何をしても楽しかった。 それが、成長するにつれ、次第に変わっていってしまったのだ。 (昔に、還りたい……) 「……まだ来たばっかりでしょ」 「いっ!?」 いきなり聞こえてきた綾香の言葉に、悠はうろたえた。 「え? 何? ……俺、何か言ったか?」 「言ったわよ。『帰りたい』って。 私といるのが嫌なわけ?」 「い、いや、そーじゃなくてだな、今のは……」 慌てふためいて弁明しようとする悠に、綾香はまた溜め息をつく。 やれやれと言った感じで遮りながら、 「分かってるわよ。またぼーっと何か考えてたんでしょ。 最近ヘンよ、ゆーさく。ハイドも心配してる……」 「別に、何ともない」 無駄だろうと知りつつも、一応否定する。 すると予想通り、綾香は首を左右に振った。 「分かるわよ、それくらい。何年付き合ってると思ってんの。 ……ま、言いたくないなら、無理には聞かないけど。 でも、自分ではどうしようもないと思ったら、すぐに相談してよね。 あなたは私達に迷惑掛けたくなくて黙っているのかもしれないけど、私とハ イドにしてみれば、あなたが一人で落ち込んでる姿を見せられる方が、よほど 迷惑なんだから。 いい?」 「……ああ。分かった……」 真剣な表情と口調で言ってくる彼女に、悠は眼を伏せて頷いた。 正直、綾香の気持ちは嬉しい。 だが悠は、自分が抱えている悩みを……そして自分がどうしたいかを、決し て口には出来ない事を知っていた。 (俺も臆病なんだ、結局……あいつと同じで……) 僅かに俯く彼を、綾香はどこか不安そうに眺めていたが、やがて表情を一変 させて喋り出す。 「それにしても、ほんとに長い付き合いよね。私達。 もう何年になるのかな? 私が『塔』に通い始めて、あなたとハイドに出会ってから……」 「……ああ」 悠は顔を上げると、再び昔を思い起こした。 悠とハイドラントは孤児だったが、「塔」に引き取られ、育てられた。 綾香は来栖川家の次女として生まれた。 彼女が「塔」で学ぶ事になり、二人と同じ教室に配属された時から、三人の 関係は始まったのだ。 「あの頃に比べると、色々な事が変わったね」 窓の外に視線を流し、綾香が呟く。 「この街も、『塔』も、私達も……。 一番変わったのは、ハイドかな? 何時頃からだっけ? ハイドが、まるで兄さんみたく私達にあれこれ言うよ うになったのって。 昔は、私達の中で一番無茶な事をする奴だったのに」 「そうだな……」 本当に、何時からだったろうか。 ハイドラントが、一歩退いて二人を見守るようになったのは……。 確か、「塔」の命令で「仕事」をさせられるようになった頃からだと思う。 あの頃から、変わってしまった。 少しずつ、変わっていってしまった……。 「成長したって事なのかな」 悠の想いを他所に、綾香は少し寂しそうな表情で続けた。 「そうなのね……きっと。 噂で聞いたけど、ハイドは最近、重要な仕事を任されるようになってきてる んだって。 ゆーさく、知ってた?」 「ああ、そうみたいだな。ここの所、忙しいようだし……」 それは事実だった。 最近の彼は仕事が増え、上層部に呼び出される事も多くなっている。 「やっぱり。それで最近、あんまり会えないのね。 あなたも頑張りなさいよ。このままじゃ、ハイドがあなたの上司になっちゃ うかも」 冗談めかしてそう言い、笑う綾香。 だが悠は、彼女に同調する事は出来なかった。 「塔」組織の構成員である悠とハイドとは違い、言わば学生として通っている だけの綾香は、まだ知らないのだ。 彼らが「塔」から下される任務が、どういったものなのか。 ……頑張る、か。 「塔」で頑張るって事は…… 「『塔』って、実力主義なんでしょ? なら、頑張れば頑張った分だけ出世で きるわよ。 頑張って出世してよ、ゆーさく」 彼女の笑顔は、無邪気そのものだった。 それだけに――痛い。 ……がたん。 「ゆーさく?」 突然立ち上がった彼に、綾香が怪訝そうな声を掛けた。 その顔を、決して見ないようにしながら……悠は早口で呟く。 「……『塔』で出世するって事はな、綾香――」 「え?」 「――お前を殺せるようになるって事だ」 そう言い捨てて、悠は駆け出した。 ドアベルをけたたましく鳴らしつつ、外に飛び出す。 「……ゆーさく!?」 動転したような綾香の呼びかけが背中を叩いたが、悠は振り向かなかった。 (……逃げよう) (全てを捨てて、「塔」を去ろう) (……一人で……) 東鳩SS陰伝之弐「子供たちの檻城」 了