東鳩SS陰伝之壱「天使達の廃都」 投稿者:ハイドラント
「美しい眺めだ」
  その男の呟きは、誰の耳にも届かず、夜風に消えたはずだった。
  なぜなら、そこには彼しかいないのだから。
  二十階建てのビルの屋上。
  一人の男がそこに立ち、夜の街のイルミネーションを見下ろしている。
  ……黒い鳥。
  彼を見た者の大半は、その姿をそう評するだろう。
  やや長身の、痩せた体。それでいて今にも飛び立ちそうな躍動感を感じさせ
る四肢。そしてそれを覆う黒衣。
『塔』の暗殺者、『凶鳥』。
  彼はただ一人、そこに立っていた。
  ……いや。
「でも、不完全だよ。いつかは崩れるもの……」
  誰かが、彼に答えた。
  女の――いや、少女の声だ。
  しかし、そこには誰もいない。
  凶鳥の他には、誰も。
「不完全な美しさなんて、まがい物に過ぎないよ……」
  また、声。
  その声は、どうやら凶鳥がいる辺りから発せられているらしかった。
  そこには彼以外、何者の姿もないと言うのに。
「そうだな」
  だが凶鳥は、全く動じた様子は無かった。
  当たり前のように、彼女の声に答える。
「完全なる美――見る事は叶わなくとも、それを欲し、夢見る事は出来る。」
「そして、それを描く事もね」
  彼と、彼女の会話。
  街の明かりも届かぬ暗い屋上に陰陰と響く。
「その為には……」 
  ふと、凶鳥の眼が細められた。
  彼の眼は、眼下の街の一角を……その場所からは見えるはずのない何かを捉
えている。
「この汚れた街を更に汚す輩を片付ける事から始めるべきだな。
  見えるか?」
「……うん。見えるよ、醜い虫けら達が……」
  二人の声には、等しく侮蔑と冷たい怒りの響きがあった。
  凶鳥が、屋上の手すりに左手をかける。
  金属の肌が月光を照り返し、鈍く輝いた。
「『御使い(ミツカイ)』の贄にでもするか。
  行こう」
「うん」
  彼女の返事を聞くと、男は無造作な動きで手すりを飛び越え……
  そして。
  数十メートル下の街へと、その身を躍らせた。




              東鳩SS陰伝之壱

                         
              「天使達の廃都」




「やれやれ、全く……」
  その日。
  彼女は夜の街を、ぼやきながら歩いていた。
  黒い長髪。猫科の獣を思わせるしなやかな体。
  そして、強い意志を感じさせる眼差し。
  来栖川綾香である。
「困った時に頼ってくれるのはいいんだけど。タイミングが問題なのよね。
  何も人がベッドに入って目を閉じた瞬間に電話してこなくてもいいでしょう
に……」
  ぶつぶつとこぼす。それも無理はない。
  東鳩SSでの仕事を終えて部屋に帰り、風呂に入って、さあ寝ようと思った
瞬間に友人から電話。
  妹が出掛けたまま夜になっても帰ってこない、捜すのを手伝ってくれ、と頼
まれたのだ。
「妹さんだってもう子供じゃないんだから、夜遊びくらいするわよ、もう……」
  とは言っても、心配症の友人がそれで納得しないことは分かっている。
  で、結局綾香はこうして夜の街を歩き回っているという訳だ。
  何のかのと言いつつ頼まれると断れないのが、綾香の綾香たる所以であった。
  

  綾香のいる場所からやや離れた、街の片隅。
  裏路地の奥の暗がりに、数人の男女がいる。
「おい、早く代われよ」
「急かすなよ。順番だ、順番……」
  正確に言うと、女が一人、男が四人。
  地面に押し付けられた少女の体に、男達が群がっている。
「……」
  少女は、何も言葉を発しない。
  既に何度も凌辱を受けた後なのだろう、服は引き裂かれ、体のあちこちに男
達の欲望の証がこびりついていた。
  その瞳は、もはや何も映していない。
「こんな時間にこんな場所をぶらついてるから悪いんだぜ、彼女」
「そゆこと。だから俺達を恨まないでよ。へへへ……」
  勝手な事を口々にほざきながら、男達は暴行を続けた。
  ……彼が来るまで。
  声は唐突に響いた。
「醜いな」
  少なくとも、男達にとっては。
  慌てて振り向いた彼らの目に映ったのは、黒衣に身を包んだ一人の男。
  凶鳥。
「て、てめえ、いつからそこにいやがった!?」
  男の一人がうろたえながら叫んだ。
  足音もなく、気配も感じさせず、全く突然に男が現れたため、空から舞い降
りてきたのではないかとすら思えたのだ。
  ……その想像が事実である事は、この場では本人以外に誰も知らない。
  無論、男はわざわざ説明したりはしなかった。
「私は貴様らのような醜い命が嫌いだ。よって、殺す」
  凶鳥は一方的にそう告げた。
  返事を聞く気はない。彼は対等な人間と会話しているのではなく、これから
処分する虫にその旨を宣告しているだけなのだから。
  だがその台詞は、男達を激昂させた。
「殺すだぁ!? てめぇ、誰に向かって口利いてやがる!」
「お前が死ね!」
「おい、殺っちまおうぜ。このバカ」
「面白れえ、切り刻んでやろうぜ!」
  手に手にナイフなどの凶器を閃かせつつわめく男達を無視し、凶鳥は右手を
掲げた。
  あたかも、何者かに対する合図のように。
「御使い達よ」
  低い呼び声。
  その声が路地裏に響いた……瞬間。
  ――――!
  辺りに殺気が満ちた。
「ひっ…!」
「な、なんだ!?」
  赤い光。
  壁に、地面に、電線の上に……
  男達を取り囲む形で、無数の小さな赤光が突然生まれ、瞬いた。
  それは……
「…か、烏(カラス)!?」
  そう。
  いつからいたのか、数十…いや数百の烏が、そこに集まっていた。
  紅い目を持つ烏達は、命令を待つ従者のようにじっと動かない。
「その者達に、祝福を与えよ」
  凶鳥の言葉。
  命令が下された。
  御使い達が一斉に飛び掛かり、男達の体に食いつく。
「…………!!!」
  彼らの悲鳴は、無数の羽音にかき消され、凶鳥の耳に届く事は無かった。


「……っ!」
  その路地の入り口を通り過ぎようとした時、綾香の足がびくりと止まった。
(殺気…!)
  それも強烈な、獣じみた殺気だ。
  獣そのものかもしれない。
  彼女は、そのような殺気を放つものに心当たりがあった。
(まさか、化物!)
  存在するはずのない生物。存在してはならない生物。
  彼女の敵。
「……」
  綾香は僅かに躊躇った後、路地に飛び込んだ。


  そこで綾香が見たもの。
  それは、何かに群がっている無数の烏だった。
  そして。
「……あなたは……」
  黒衣の男。
  暗殺者、『凶鳥』。
  彼女は彼を知っていた。よく知っていた。
「ハイドラント……」
  その名を呼ぶ。
『塔』の暗殺者としての通り名ではない……彼を私的に知る者が使う呼び名を。
「……」
  その声に、凶鳥が綾香へと目を向けた。
  沈黙。
  驚愕も、恐れも、喜びもない。
  ただ、沈黙。
  綾香も、ただ黙ってハイドラントを……かつての仲間を見詰めた。
「……アーティー」
  どれほどの時間が過ぎたのか――
  凶鳥は、群れの中の一際大きい烏に呼びかけた。
「もういいだろう。……御使い達よ、戻れ」
「クァッ……」
  アーティーと呼ばれた烏は答えるように一声鳴くと、凶鳥の影へと飛び込ん
だ。
  それに続いて、烏達が次々と飛び立ち、凶鳥の影の中へ消えてゆく。
  数百の烏が全て消滅した後、残されたのは凶鳥と綾香、そして……
「……うっ……!」
  それを見て、綾香は口元を押さえた。
  四つの、白骨死体。
  肉の一片もないそれらの骸骨からは、清潔感すら感じられた。
  そしてもう一つ。
「……」
  凶鳥は、黙ってそれに近付いていった。
  全裸で倒れている少女の許に。
「!」
  骸骨に気を取られていた綾香が気付いた時、凶鳥は少女の首を掴んで引き起
こしていた。
  そのとき彼女はようやく、その少女が捜していた友人の妹である事に気が付
いた。
「何をする気!?」
  少女を片手で吊り上げているハイドラントに向かって叫ぶ。
  彼はあっさりと答えた。
「殺す」
「何故!」
「この者がそれを望んでいるからだ」
「勝手に決めるんじゃないわよ!」
  綾香の叫びが、路地裏に響き、そして消える。
  しばしの沈黙の後……彼女に答えたのは、凶鳥ではなかった。
「なら、本人に聞いてみればいいんじゃない?」
「!?」
  綾香は慌てて辺りを見回した。
  この場で動く者は自分とハイドラントしか見当たらないのに、どこからか女
の声がしたのだ。
  無論その声は、ハイドラントに首を掴まれている少女のものではない。
「どこ見てるの。ここだってば、ここ」
「…?」
  声はハイドラントのいる場所からだった。
  だが彼は口を開いていない。
(なんなの…!?)
「もったいぶるのはその位でいいだろう。自己紹介をしておけ。
 ……綾香には、教えてやってもいい頃合いだ」
「じゃあ、出ていい?」
「ああ」
  綾香は状況を理解できない。
  ……びくり。
  彼女に構わず何者かと話していたハイドラントの体が、大きく震えた。
「う…うぅ……おぉぉ……」
「く……ふぅ…はぁぁっ……!」
  凶鳥とそしてもう一人の、苦痛と快楽が入り混じったような喘ぎ。
  それは、綾香に本能的な悪寒を感じさせた。
  そして……
  びりっ!
  ハイドラントの服の背中が裂けた。
  その中から、何かがゆっくりと姿を現す。
「……!」
  息を呑む綾香。
  それは人間だった。
  長い髪をゆらめかせた少女が、ハイドラントの背中を裂き、その姿を露にし
ていく。
  人間の背から人間が現れる。
  その光景は、蛹(サナギ)から羽化する蝶を思わせた。
「……」
  綾香が呆然と見守る前で、分離は完了した。
  地面に降り立った少女は、綾香に顔を向けてにっと笑う。
「初めまして、来栖川綾香。あたしは風上日陰」
「…!」
  綾香は直感的に理解した。
  こいつは人間じゃない。
(まさか……化物!?)
  化物だとしても、この威圧感は尋常ではなかった。
  圧倒的な力を前に、綾香の体が震える。
「んじゃ、さっきの話の続きね」
  戦慄する綾香の様子など気にもしていないのか、日陰が楽しそうに言った。
「この子本人に聞いてみようよ。死にたいか、それとも生きたいか。
  生きる事を選んだら、見逃してあげる。それでいいね?
  じゃ、マスター」
「ああ」
  綾香が咄嗟に何も言えずにいるのをいいことに、日陰は勝手に話をまとめる
と、ハイドラントを促す。
  凶鳥は少女の顔をぐっと近付けると、囁くように問い掛けた。
「答えろ、少女。
  殺して欲しいか、それとも助けて欲しいか?」
「……」
  少女は虚ろな表情のまま、沈黙している。
  凶鳥はそれ以上何も言わない。
  日陰も黙って、少女の答えを待っている。
  綾香は何も言えず、何も動けず、ただ立っている。
  四つの骸骨は、ただ彼らを見守っているだけだ。
  ……静寂。
  だが、やがて。
  少女の唇が、動く。


「……死なせて」


  綾香が、はっと我に返った。


  日陰が、ふ、と笑う。


  ハイドラントが無表情のまま、僅かに目を細めた。


「ちょっと待――」
  綾香の言葉の途中で、


  ハイドラントが、少女の首を掴んだ腕に力を込めた。


  ごりゅっ。


  骨が砕ける、鈍い音。


  ハイドラントが手を離す。
  少女の体がどさりと落ち、糸の切れた人形のように力なく横たわった。


「……一つの魂が、解放された」
  微笑を浮かべ、呟く日陰。


  綾香の心の中で、抑制の鍵が弾け飛んだ。


「うああああああああああああああっ!!!」
  綾香の右腕に、膨大な力が収束する。
『魔闘使い』。
  近接戦闘用に改良された魔術、『魔闘』。その使い手が魔闘使い。
  綾香もその一人であった。
「ああああああああああああああああああ!!!」
  綾香の拳を、真空の刃が包む。
  魔闘の技、『風影(カザカゲ)』。
  ハイドラントの懐に飛び込み、真空波を纏った拳を叩き付ける。
  凶鳥の体が、ずたずたに引き裂かれる――
  筈だった。
「!?」
  拳が、届いていない。
  ハイドラントの鋼鉄の左手が、綾香の拳をがっしりと受け止めていた。
「ふん……」
  凶鳥の表情が変わった。
  これまで全くの無表情だったそれが……嘲りを込めた笑みを浮かべる。
「腕が落ちたか、綾香?」
  口調も変わっている。
  冷たい無感情な声音ではなく、何らかの熱を帯びた声。
「本物の魔闘というものを思い出させてやる…。俺の炎でな!」
  その言葉と共に、ハイドラントの右手に不可視のエネルギーが集う。
  そしてそのエネルギーは、漆黒の炎に転じた。
  魔闘の技、『骸炎(ガイエン)』。
「シャアアアアアアアアアアアッ!!!」
  裂帛の気合と共に、凶鳥がその拳を綾香の脇腹に放つ。
  拳が綾香の体に触れた瞬間、炎が爆裂した。
「かっ……!」
  吹き飛ぶ綾香。
  十メートル近くも転がり、壁に叩き付けられる。
「……!」
  それきり、動けない。
  激痛に脳が支配され、指一本すら動かす事が出来ない。
「……急所は外した」
  聞こえてきた声に、必死でそちらに顔を向ける。
  凶鳥が、静かに彼女を見下ろしていた。
「意味は分かるな?」
「……」
  綾香は答えない。答えられない。
  ハイドラントも、答えを待とうとはしなかった。
  彼女に背を向け、今の一部始終を黙って見ていた日陰の方に向かう。
  ハイドラントの服から無数の銀糸が伸びた。
  それがリビング・メタルという、彼の意のままに操る事が出来る武器である
ことを、綾香は知っていた。
  その銀糸が、日陰の体にやんわりと巻き付く。 
  同時に。
「……?」
  綾香のかすむ視界に、彼の背中がうごめき、何かが飛び出す光景が映った。
  黒い、翼。
  烏のような翼が、ハイドラントの背中に出現していた。
  ばさりっ…!
  大きく翼を一打ちし、日陰を抱えた凶鳥が舞い上がる。
  月に照らし出されたその姿を見て、綾香は小さく呟いた。
「……使徒………」
  その呟きが届いたのか。
  凶鳥は一度だけ彼女の方を振り返り、告げた。
「綾香。俺を倒したいなら……昔の力を取り戻せ。」
「……もう戻れないわよ。昔には」
  深く考えて言った訳ではない――咄嗟に口をついて出た言葉だ。
  だが、凶鳥はそれを聞くと、小さく自嘲の笑みを浮かべて、言った。
「…そうかもな……」
  その言葉を最後に。
  黒い翼を持つ堕天使は、夜空の向こうへと飛び去っていった。


  そして。
  地上には、一人の女と、物言わぬ五つの骸が残された。
  骸の一つに、綾香は歩み寄った。
  白い裸身をさらして横たわる、少女。
「……ごめんね………」
  綾香は、友人の妹に謝った。
  彼女には、それしか出来なかったから。
  倒す事も、止める事も、助ける事も出来なかった彼女には、謝る事しか残さ
れていなかったから。
  頬を白い筋がつたう。
「ごめんね……」
  彼女は、何度も、何度も、ただ謝り続けた。
  いつまでも。
  いつまでも…………




                              東鳩SS陰伝之壱「天使達の廃都」 了