>プロローグ そして彼はかつて自分がそこにいたことを思い出した。 あの眼の前で燃えさかる炎の幕の向こう側。 彼は戦っていた。敵は彼が抹殺を命令された者ではなかった。 そいつは強かった。非常に強かった。勝てないのではないかとすら思った。 だが彼はその考えを頭の隅からすら叩き出した。 彼の戦いは何日も何日も続いた。燃えさかる炎は彼自身の魂を焼き、肉を焦がした。 それでも彼は戦い続けることを止めなかった。 負けられない訳があった。 彼を待っている人が居るから。誰の命よりも大切な人が居るから。 彼の敵は、彼自身が背負ってきたものだった。 「まだだ……まだ死なんっ!!」 岩下信は、つまりそのときの彼、過去の自分は口からおびただしい血を吐き出しながら 叫んだ。内臓は既にずたずたにされており、全身の筋肉が千切れ飛んでいた。 骨は立つのを支えるのがやっとで、しかも肋の骨は砕けていた。 だが彼は立っていた。雄々しく、力強く、その存在を宣言するかのようにしっかりと地 に立っていた。 対峙する相手はやはりその身を炎に焼き焦がしながら彼を睨み付けていた。 敵も又、立っているのがやっとだった。敵は既に守るべき者を全て失っていた。 「何故だ!岩下信、何故貴様は立っていられる!?」 「守るべき者が俺を待っているからだ!!」 「それは私とて同じ!私もまた、貴様と同じく愛する者のために戦った……だが、私には もう誰もいない!!何故だ、何故貴様は死なない、愛する者を失わないのだ!?」 岩下はその問いに壮絶な笑みを浮かべて答えた。 地獄の鬼神もかくやと言う凄みの固まりのような笑みだった。 「貴様は愛する者のためにこの世全ての者に刃を向けることが出来るか?」 「……何」 「貴様は自分同様、愛する者を持つ男にその力全てを向けることが出来るのか?」 敵は口を閉ざした。 炎の向こうに岩下が揺れる。 岩下は嗤った。 「出来まい!貴様には出来まい!!だが、俺は出来る!!俺は愛する者のために一切の者 を殺すことが出来る!!それが、それが俺の戦鬼たる資格なのだ!!」 「私の愛が足りぬと言うのか!?貴様は私のみならず私の愛した全てをも愚弄するのか!?」 「そうとも!侮蔑してやろう、非常になり切れぬ鬼たる貴様を!!愛した全てを!!」 敵の顔が憤怒に歪む。 そしてその僅かな綻びに図星を指されたことへの怯みがあった。 「私は殺そう、貴様を!!鬼たる者の誇りに、愛する者の名誉にかけて!!」 「渾身の力を込めて俺を殺すがいい!だが、俺は死なぬ、俺は貴様を魂ごと焼き尽くす!!」 炎が地から吹き上げる。 それをきっかけにして敵の両腕の筋肉が一回り大きくに隆起した。 岩下の腕に炎が巻き付き、刃が形成される。 互いに命の火を極限まで燃やした攻撃を繰り出そうとしている。 再び炎が地から吹き上がり……それを合図として二者は全力のを振り絞り突き進む。 二つの影がほんの一瞬きだけ交差し、銀と赤の刃が互いの世界を切り裂く。 勝負はたったの数秒で付いた。 再び静止した岩下の胸が十文字に切り裂かれ、炎のような血が吹き出す。 その背後では、敵が深き炎の刃に肺腑を断ち切られ霧のように鮮血をまき散らしていた。 「負けるのか……いや!私は負けぬ…私は決して……!!」 「いや、貴様は死ぬ!長たる貴様の生命をもってこの地の全ての御霊を鎮めるがいい!!」 岩下の叫び通り、敵の身体が千切れとんだ。 鬼たる者の長は死した。 その全力の一撃を喰らった岩下もまた、灼熱の地に膝を突く。 「俺は……俺は死なん!! 俺は死なんぞ、俺は!!死ぬわけにはいかんのだ、瑞穂が俺を 待っているのだからなぁっ!!」 岩下は天も地も紅く燃える灼熱の地獄の中で叫んだ。 「俺は、死なぬ!!俺は……俺は生きて帰るのだぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」 世界が炎に包まれる。 最後に残ったその長ダリエリの死をもって、かつての姫護の隠れ里は完全にこの世から 消滅した。その村で暮らした全ての者の亡骸と共に、今全てが燃えて行く。 そのただ中で岩下信は絶叫していた。 生への思いを込めて、ただ絶叫していた。 そして三年の時を隔て、今あの村と同じように……『塔』は灼熱の地獄に変わる。 東鳩SS第五話「灼熱」 >Aパート >塔 燃えている。 数世紀に渡り栄華を誇った世界最強の暗殺組織が。 その根城となる鉄とコンクリートの城が。 そこで何が燃えている。 心か。身体か。 怒りと、憎悪と、慚愧の念か。 いや……命の炎か。 「第一部隊、全滅!第二、第三部隊応答なし!!」 男は受信機からの報告に鋭い舌打ちを漏らした。 彼とてそれなりの場数を踏み、幾度も死線をくぐり抜けてきた暗殺者である。 しかし現在の彼は、あまりの事態のために平生の判断力を揺るがせてしまっていた。 その思いは彼と同じ立場の者なら、誰もが同じだっただろう。 誰も予想だにしなかったはずだ。 つい先ほどまで彼等部下達の信頼し、尊敬していた副首領が突然彼等自身に牙を剥くな どとは。いつもと変わらぬ表情で死の拳を振るうようになるとは。 彼等第四部隊は、他の部隊と同じく副首領岩下信の造反を防ぐために組織された。 基本的に単独行動を宗とする『塔』のシステムに敢えて反して、作戦行動を取っている。 もちろん『塔』には複数行動がとれないような無能な暗殺者は存在しない。 だが彼等全員の胸中では割り切れない思いが去来していた。 信頼と尊敬を一身に受ける岩下に刃を向けることもそうだ。 少なくとも彼等の中の過半数は首領や参謀よりも副首領である岩下を慕っていた。 そんな彼が自分たちに攻撃を仕掛けるのは親に突然刃物を向けられたような気分である。 今回あまりにも事態は異常で、そして不可解な部分が多すぎた。 何故信頼すべき副首領である岩下が突然ただ一騎で造反を起こしたのか? 日頃人望厚い彼が一声掛ければ、本来の首領である久々野に牙を剥くような者は相当数 いたはずである。 それに久々野、月島達の落ち着きぶりも気にかかる。 本来もっと慌てても良いはずではないのか。あまりにも対応が平坦すぎるのではないか。 沈着であると言えばそれまでかも知れないが、そこには何か得体の知れない何かがある ような気がする。そう、まるでこの事件を予測していたかのような……。 そこまで考えて彼は顔を上げた。 静かだ。あまりにも静かすぎる。 彼の仲間達は……ここまで完全に気配を消せただろうか? これではまるで、仲間達が皆死んでしまったような雰囲気ではないか。 彼はぞくりとして身を竦ませた。 予感は当たっていた。 彼の慕った副首領、岩下信は冷たい瞳でじっとこちらを見据えながら、彼の方へと歩み 寄ってきていた。その足下に無数の彼の同胞達の亡骸を横たわらせながら。 「ふ……副首領っ……!」 「……」 岩下はぎりっと牙のように鋭い犬歯を鳴らしながら、蒼い炎に包まれた手をかざした。 一度触れれば肉も骨も、全てを焼き尽くす数千度の意志持つ炎。 世界唯一の炎使いにして、『塔』最強の暗殺者……岩下信。 その最強の男が今、彼に向かい炎の牙をちらつかせながら喋りかけてきていた。 すなわち。 「次は…………貴様か?」 「う、うわああああああああああああああぁぁぁぁぁっっっ!!!」 男は激しい恐慌に襲われ、手に持っていた銃器を構えた。 いや、その感情は恐慌と呼べるような代物ではなかっただろうが。 敢えて言うなら『予感』。避け難き目の前に迫る死への先見。 そして……死神の呼び声を忌避し、逃れようとする哀れな犠牲者の絶叫。 男は震える手で対化物用のハンドガンを連射した。 狙いは付けていなかった。付ける必要もないほど威力範囲は大きかったからだ。 男は既に意味を為さぬ絶叫を上げ続けながらひたすらトリガーを引き続けていた。 その裏側で彼の『経験』と呼べるものがしきりに彼を叱咤していた。 (落ち着け!落ち着くんだ、冷静になれ!!焦りと恐慌は死に直結する!!) それは彼の声ではなかった。誰かに教えられた言葉だったと思った。 だが、誰でも良い。彼を救ってくれるのなら誰でも良かったのだ。 彼は絶叫を上げ続け……そしてストーンを使い果たし、連射を中止した。 物音はしなかった。 疲労と恐怖が彼の精神を激しく侵食していた。 「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ………」 我ながら病み、疲れた呼吸。 彼はそのときようやく悟った。 その言葉を教えた者が誰であったのかを。 ……岩下信自身だった。 彼は、絶望した。 「あ……あ、あ、あああああああああああああ…………!」 「これで終わりか?」 銃撃を中和する炎の壁の向こうで、岩下は無傷のままこちらを見ていた。 「ならば…俺が殺す番だな」 「うわああああああああああああああああああああああ!!」 岩下の手が無情に振るわれ、男が叫び声を上げると同時にその右腕が弾け飛ぶ。 一瞬だった。 そのわずかな時間の内に、彼の右腕はこの世から完全に消滅していた。 わずかな時間を置いて大火傷を負った傷口に鋭い激痛が走り出す。 男は両膝をつき、言葉もなく震えることしかできなかった。 岩下はそんな彼を冷酷無情に見下ろしている。 「お前は俺が目を掛けた中でも最も優秀な男だったからな……殺すにも時間を掛けた」 男は恐怖と死の予感の中、なんとかして歯の音を合わせて岩下に訊いた。 「何故…何故貴方が私達に刃を向けるのです。貴方をお慕いした私達を、何故殺そうとす るのですか……副首領!」 「決別するためだ」 岩下は短くそう呟いた。 小さく息を吸って、続ける。 「俺は『塔』と決別するのだ。部下であったお前達の全ての血をもって俺は俺から瑞穂を 奪った『塔』に!久々野に!月島に!そしてその傀儡であった俺自身に復讐するのだ!! 俺の邪魔は……誰にもさせん!!」 「ならば私もお手伝いします、お願いです副首領!私も貴方のお側にっ!!」 「そうはいかんのだっ!」 岩下は奥歯を強く噛みしめてから吠えるように叫んだ。 「俺が……俺が情けをかけるのはこの世でただ一人瑞穂だけだああっっ!!」 そう叫ぶと岩下は男の頭を鷲掴みにした。 恐怖に歪む男の瞳を一瞬見つめて……掌より燃えさかる蒼蓮の炎で、男の全身を完全に 焼き尽くす。 「―――――――――――――――!」 声にならない叫びがほんの数秒聞こえて……そして男は灰に消えた。 「くっ……」 岩下は喉の奥から漏れそうになる声を押し殺して、呻いた。 そして血が出るほど強く握りしめた拳を目の前の闇に向けて突き出すと、空気を振るわ せて闇が砕けんばかりの血の叫びを上げた。 「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!」 「うぎゃああっっ!!」 「ぐはぁぁぁぁぁぁ!!」 闇の中に潜んでいた暗殺者達が断末魔の悲鳴を上げる。 炎が闇を侵食する。 そのただ中で岩下は叫んでいた。 「かかってこい!!俺にかかってこい!!俺は貴様達を焼き殺そう、その肉一片までも!! それは俺自身の粛正のために、この世でただ一人愛する瑞穂のためにだっ!!」 炎が――燃える。 岩下の通った後を二人の男が駆け抜けて行く。 所々に残る白灰はかつて無数の命を奪ってきた暗殺者達のもの。 祐介は目を細めて呟いた。 「………凄惨ですね」 「ああ。これが……岩下信、二年前我等が長ダリエリを抹殺した男の……真の強さだ」 紅は拳を握りしめながらその言葉に頷く。 そんな彼を見て、祐介はわずかに同情を交えた眼になった。 「……まだ、割り切れないのですか」 「……ああ。結局の所、あの男が俺達の故郷を奪ったのだからな……」 祐介もかつては『塔』の暗殺者である。 故に彼は知っていた。 二年前、久々野の命令で岩下に一つの任務が言い渡された。 それは鶴来屋の四人の鬼姫達の故郷……鬼の末裔達の内『姫護』の一族が隠れ棲む、 『隠れ里』をこの世から抹消すること。 そこにどんな工作があったのかはわからない。 ただ一つ、鬼姫達の長女柏木千鶴は久々野の決定に異論を鋏まなかったということのみ。 かくして岩下は『隠れ里』へと向かった。 相当の修羅場だったらしい。 岩下の連れていた部下達は鬼の力を持つ住民達によって皆殺しにされてしまった。 だが岩下だけは生き残り、住人達を皆殺しにした。 そして一族の長であるダリエリと決死の一騎打ちを行い…数日後、彼は半死半生で捜索 隊に発見された。既に死んでいてもおかしくないほどの瀕死の重傷を負いながらも、ただ 意志の力のみだけで生き延びたのだという。 それは全て彼の残してきた恋人、藍原瑞穂への想いのみのなせる業だったのだ。 だが、生還した彼を待ち受けていた運命は残酷だった。 ようやく歩けるまでに回復し、『塔』に復帰した岩下の前に瑞穂は居なかった。 久々野彰、月島拓也。 この二名が岩下の留守の隙に瑞穂を拉致し、連れ去っていたのだ。 自分がまんまと策略にかかったと知った岩下は激しく激昂した。 彼は衰弱した体を圧して二人に戦いを挑んだが、逆に返り討ちに遭ってしまう。 そして彼の瑞穂に関する記憶は久々野により完全に抹消され……以来彼はずっと彼等の 傀儡として働いてきたのだ。 自分の足下に本当に愛する者が眠っているなどとは知る術もなく。 だから、今祐介の精神介入で記憶を取り戻した岩下がまず久々野に復讐しようと企むの は当然のことなのだ。 同時に、岩下はそうやってずっと操られ、愛する恋人の存在を忘れていた自分が許せな いのだろう。故にこそ彼は眼に付く者全てを虐殺して進んでいるのだ。 それこそが『塔』副首領としての自分を殺すただ一つの方法だと信じて。 「………哀れな人ですね」 祐介は遠い眼をして呟いた。 紅は何も言わずに眼を伏せる。 その胸中は祐介には分からなかった。 だから祐介は自分に聞かせるかのようにこう呟いた。 「ですが……僕も彼と同じなのかもしれませんね。愚かさという点では」 「……俺もだよ」 紅はぽつりとそう応えた。 「え?」 祐介が聞き返すと、紅は淡い瞳で闇を見据えながら呟いた。 「俺も愚かさ……真実を知らずにずっと必要のない血を流してきたのだから……」 「………」 祐介は無言でその言葉を返した。 そこまで話したとき、紅の瞳に鋭い輝きが走る。 「……来るぞ!」 「はっ!?」 紅の両手に鋭い爪が伸び、素早く目の前の空間を切り裂く。 すると金属が切断される澄んだ音が虚空に響き、続いて断末魔の叫びが周囲に響き渡る。 闘いの勘で敵を察知し、素早く屠ったのだ。 既に臨戦状態にあることに気付き、祐介も鋭く敵を感知する。 「そこだ!」 「ぎゃっ!」 指向性を持たせて飛んだ電波が敵の一人に命中し、自らの持った刃で喉を掻き切らせた。 後味は非常に悪いが、この際何も言ってはいられない。 殺るか、殺られるか。それが掟だ。 「祐介……どうやら全てが終わるまでは自らの愚かさを嘆く暇はないらしい!」 「そのようですね!!」 二人は素早く眼をかわすと、にっと笑い合って頷いた。 「俺は先に向かう!!お前は後から来い!!」 「了解、後顧の憂いは僕が断ちましょう!」 そんなやりとりの後二人は違った方向へと走り去った。 しばしの時間が過ぎた。 数多くの死体が床に散らばっている。 その全てが……祐介が葬った者である。 中には祐介の顔見知りも居た。だが、迷いはすぐに死に繋がる。 祐介は遠慮なくその命を絶った。 もとより暗殺者に情けは不要……だが、祐介はその情けの故に暗殺者を止めたのだ。 「……皮肉だね」 祐介はそう呟いてから、未練を振り払うように暗い天井を仰いだ。 そしてふと自分を見つめる視線に気付き、慌ててそちらを向く。 今まで見逃していたのは油断していたからだけではない。 その視線は明らかにこれまでの視線とは異質なものだったからだ。 今回の暗殺者達の視線はいつものビジネスとしての殺意の眼ではなかった。 一人の人間として死に脅える恐怖を孕んだ殺意の眼だ。 故に祐介はその殺意を感知して攻撃することが出来た。 そう、暗殺者達の視線は生者の視線だったのだ。 だがこの視線は………。人間のものではない。 例えるなら化物達の……。 視線を振り返った祐介は思わず立ちすくんだ。 そこに立っていたのはいるはずのない人物だった。 「何故……君が、ここに……?」 祐介は唾を飲み込んで呟いた。 「太田……香奈子………!」 静かな闇の向こうで。 香奈子は感情のない眼でこちらを見据えていた。 >Bパート >『塔』内某所 滔々たる闇の中に白刃は煌めく。 肉を薙ぐ刀は血を吸い、紅く鈍く輝く。 逃げまどう人の命は鮮血と共に夜露に消えて行く。 だが……それを振るう者は気付いているのだろうか? 刀が吸ったものは血などではないということに。 それは魂。人の人たるもの。命の元となるもの。 もちろん……気付いて居るとも、そう考えて彼は薄く笑う。 犠牲者は今彼の前に倒れ、刀は血潮を被ったまま窓より差し込む月影を照らし返す。 「何故殺した?」 低いその声に振り返れば、黒い服に身を包んだ青年が一人腕組みをして立っている。 彼は刀を高く掲げると、懐紙で素早く血の雫を拭い去った。 悠然とした雰囲気を醸し出しながら、彼は唇を歪める。 「副首領が造反し、『塔』は変わる。本当に力のある者のみが必要……雑魚は不要です」 「斬る必要などなかった……貴様、自分が何をしたか分かっているのか?」 「愚問ですね」佐藤は断言した。 ウェイは体を微塵も動かさずに佐藤を睨み付けている。 佐藤はくくっと笑うと、もう一度繰り返した。 「本当に愚問だ。無能には死を与えるべきです……それが私達の実力主義でしょう?」 佐藤のこの発言には真実味が強く感じられた。 彼ら『塔』の暗殺者にとっては力ある者のみが生き残る、というのは常識だったから。 「それが貴様の行為への言い訳か」 ウェイは静かな口調で聞いた。 佐藤は薄く笑うと、慇懃に頷いてみせる。それを見ながら 「それは正義ではない」小さく、しかし力強くウェイは呟いた。 その発言こそ、佐藤には笑止だった。 佐藤は哄笑を上げ、ウェイを侮蔑の目で見た。 「正義ですって?馬鹿ですね、あなたは。暗殺者に正義なんて言葉はもっとも虚しいもの でしょうに…!」 「いや」ウェイは佐藤に静かに反論した。「暗殺者だからこそ正義を知らねばならない」 佐藤は鼻を鳴らしてウェイを眺めた。 「正義なんて虚しいものです。死ねば全て終わりでしょう?」 「そんなことはない」 ウェイの反応は予想よりも遥かに慎ましいものだった。 「では……あなたの正義とは何ですか?」 「正義とは、死んだ後世界に残る魂の痕。俺は……墓守だ」 その解答に、佐藤は若干鼻白んだように見えた。 ウェイはそんな彼に背を向けると、ゆっくりと歩き出して行く。 「あなたとて……『塔』に忠誠を誓っているわけでもないくせに」 去る背中に佐藤の声が浴びせかけられた。 一つ振り返ると、ウェイは一言だけ捨てぜりふを残して去っていった。 「お前は俺の正義に違反する。いつか、殺さねばならないようだ」 「今は見逃しましたが……やはり貴方もいずれ斬らねばならないようですね」 ウェイの消えた後、佐藤はぽつりと呟いた。 その視線は彼の足下の死体に注がれている。 「全然足りないな。やはりただの暗殺者ごときでは駄目なのか…?」 それに応えるように彼の右手の刀が凛とした音を立てた。 「もっと、力のある者……例えば……ハンターや……暗殺者のような……」 月が厚い雲に隠れて行く。 どす黒い濃い雲に。 やがて凄まじい勢いで雨が降り注ぎ、外の闇を押し流して行く。 雷鳴が轟いた。 一瞬、ビルの闇に隠れた佐藤を雷光が照らす。 その瞳が狂気の光を宿しているのがはっきり見て取れ……。 闇は再び彼の姿をその腕の中に包みこんだ。 >『塔』内ホール 「太田さん……何故君がここに?」 祐介の目の前に立った香奈子は、静かに彼を見つめ返していた。 何も言わず、何も表さず。 ただ沈黙の内に彼を見つめている。 夏だというのに黒い厚手のコートに身を包み、まるで何かの喪に服しているかのように すら思えた。 「君は確かに死んだはずだ……」 次の祐介の言葉にも香奈子は応えなかった。 その代わりに口を開く。 「長瀬君……君は本当に『塔』を倒せば全て丸く収まるなんて考えているの?」 「何だって?」 あまりに意表を突いた質問に、祐介は思わず面食らった。 だが緊張した空気がすぐにまた肺に入り、正常な思考回路が戻ってくる。 「……そうとも。久々野と月島、来栖川芹香さえ倒せばもうこの世界から滅びと再生なん てなくなる。これ以上誰も苦しまない世界が来るんだ」 「それは誰に教えられたのかしら?」 言葉の隙間を縫うような続けざまの香奈子の質問に、祐介はわずかに口ごもった。 わずかに頭の芯に頭痛を覚えるが、よく考えればその質問に応える必要などないことに 気付く。 「君が知る必要はないだろう?少なくともこの世界から破滅も再生も消えてなくなる。 『塔』が独占してきた女神『三柱の乙女』は開放され、僕達は永遠の牢獄から開放される んだ!この、終わらない世界という名の牢獄からね!」 「……哀れな」 香奈子の顔に初めて感情の色が浮かんだ。 それは白い紙ににじむインクの染みのようにゆっくりと拡がって行く。 その表情は何を表す表情か知っている。 侮蔑と同情だ。 「何故笑うんだ」 「あなたは…いえ、あなた達は何も分かっていないわ」 香奈子の言葉に祐介は眉を寄せた。 「何を…分かっていないって言うんだ?」 「聞きたいの?じゃあ教えて上げるわ」 香奈子はくすくすと笑いながら呟いた。 その表情はかつての太田香奈子のものではない。 もっと…何か異質な者、まるで香奈子の顔を借りた何者かが発しているかのようだ。 香奈子は一語一語区切りながら、ゆっくりと宣告した。 「この世界は……まもなく消滅する」 力強い声。 その響きは祐介の脳に直接伝えられた。 硬直する祐介に向かって、香奈子はあの得体の知れない笑みを浮かべながら言葉を投げ かけ続ける。 「あなた達が『塔』を滅ぼしたとしても世界は決して救われることはない。いえ、『塔』 を滅ぼしたが故に世界はより終末に近付くと言うべきかしら?」 「どういう……意味なんだ」 固い唾を飲みくだす祐介の顔を見ながら、香奈子は言った。 「結局の所世界の開放だ、革新だと騒ぎ立ててるあなた達紅の一派は何一つ解ってなんか いやしないのよ。『塔』の真意、私達の存在、あなた達を操っている糸の存在さえも……」 そこまで聞いて祐介は叫んだ。 「何者なんだ、お前は!太田さんの姿を借りて何をしに来た!僕に何を言いたい!! そして、何が狙いなんだ!!」 苛立っていた。 何か分からないことを並べ立てる香奈子に。 故人となった彼女の姿を借りる得体の知れない何者かに。 その苛立ちに耐えきれず、疑問の全てを込めて祐介は絶叫した。 しかしそうやって激昂する祐介に比べ、香奈子は明らかに平然とした様子を変えては居 なかった。 香奈子はくっくっと声に出して笑うと、意味ありげに祐介を眺めた。 「勘違いしているようね……私は太田香奈子よ。他の何者でもないわ」 「嘘をつけ!!太田さんはビルから落ちて死んだんだ、ここに居るわけがないだろう!!」 「あら、死んだらここに来ちゃいけないなんて誰が決めたの?」 からかわれている。 祐介は細かく震えるこめかみを押さえて香奈子に訊いた。 「それじゃあ……君は自分が幽霊だとでも言いたいのか?」 「まさか。私は生身よ。……あの時死んだのは、『人間』太田香奈子なんだから」 その言葉に祐介は大きく眼を見開いた。 何か……得体の知れないことが起こっている。 自分の立つ大地を大きく揺るがす、とんでもない事態が。 ここに至って初めて祐介は恐怖を感じた。 おぞましい未知の事実が彼の前にうずくまっていた。 「君は……もはや人間じゃない、のか……?」 「そういうことになるわね。ほら……こんなことも出来る」 香奈子は腕を軽く持ち上げると、それを蚊でも叩くかのように壁に向かってぶつけた。 ただそれだけのことで……大音響と共に壁がばらばらに崩壊する。 確かに以前の香奈子も月島の電波によってリミッターを外し、同じ事が出来た。 しかし同時に彼女の筋組織や骨は負荷に耐えきれずぼろぼろになってしまったはずだ。 目の前にいる香奈子の腕には全く損傷がなかった。 ただ鉄筋コンクリートの壁だけが大穴を開けた無惨な姿をさらしている。 香奈子は祐介に笑いかけると、肩を竦めて見せた。 「分かった?……こういうことなのよ」 「その力は……まるで化物…」 そこまで言って祐介は気付いた。 信じがたい事実が祐介に微笑み掛けている。 「太田さん……もしや、君は化物に……!?」 「………」 香奈子の顔に初めて寂しそうな色が浮かんだ。 だがそれも一瞬のことで、香奈子の表情はまた初めの冷たい無表情に戻る。 その無表情のなんと冷たいことか。 祐介はごくりと唾を飲み込んだ。 「……警告してあげる。私達の手によって、まもなく世界は終末を迎えるわ。それはもう 久々野達が今まで五度に渡り作り上げてきたような、再生を伴う仮そめの破滅なんかじゃ ない。世界が永遠に無へと帰る、本当の意味での真の破滅よ」 香奈子はそう言ってきびすを返すと、闇へと歩き出した。 彼女は消える――祐介はそう感じて、彼女の後ろ姿に叫んだ。 「太田さん、待ってくれ!君達は何者なんだ!!何故それを僕に教えるんだ!!」 香奈子の足が止まる。 肩越しに振り返った香奈子は、無表情に宣告した。 「我等は絶対なる破壊神『苦痛の王』を仰ぐ、十三の名を持つ破滅の使徒。世界に永劫の 眠りをもたらし、生けとし生きる全ての生命を無へと帰す者。今回は我等に仇なす古き敵、 『塔』の崩壊を見守りに来た」 「…………苦痛の……王………?」 聞き慣れない単語を呟く祐介を香奈子の瞳が静かに見つめ続ける。 その瞳に一瞬人らしい感情の色が浮かんだ。 「そして……私は君に止めて貰いに来た……。世界が最悪の事態を迎えることを。もう、 私には止めることが出来ないから……私には祐介君しか頼れる人がいないから……」 「太田さん……」 香奈子は無理矢理に眼を背けた。 少なくとも祐介にはそのように見えた。 香奈子は背後の祐介に大声で告げると、黒いコートを吹くはずのない風にはためかせた。 「さようなら、生者よ!次に遭うときは貴方の最期と知りなさい!!」 その声を最後に……彼女は消え失せた。 祐介はその姿をじっと見つめていた。 ……やがて、彼は手を固く握りしめて呟いた。 「……止めなくちゃ……!『塔』と僕達は今戦うべきじゃなかったんだ!」 その呟きを自分に聞かせるかのようにしっかりと噛みしめ、祐介は走り出した。 鬼神と化した岩下達の最終目的地、『塔』の最奥……。 久々野の居所、『儀式の間』へと。 >『塔』最奥客室 この日芹香は一人『塔』に赴き、久々野に直接談判を持ちかけていた。 目的は綾香に懇願された、Dシリーズ破壊命令の撤回。 請け合ったものの、その実現の可能性は酷く低いことは明らかだった。 だが芹香にしても、前回のマルチの悲しみを捨てておきたくはなかった。 そのためわざわざ芹香は計画立案者である久々野を訪ねたのである。 長い会話の後に、久々野は全てを総括するように言った。 「つまり……Dシリーズを破壊するなと?」 久々野の声に芹香は頷いた。 膝の上にはいつもいる黒猫が居ない。 そんな日もあるだろう。 「……………………」 「なるほど……マルチを哀れんでいるのですか」 若干の躊躇い。 久々野は自分の言動の底意地の悪さに苦笑して、軽く頭を掻いた。 「いいでしょう。月島は反対するでしょうが、Dセリオの破壊命令を撤回します」 芹香は驚いたように顔を上げた。 相変わらず殆ど無表情だが、久々野にはその感情が読めるらしい。 久々野は照れたように笑うと、居心地悪そうに呟いた。 「儀式の実行には貴方の力が必要だ。こんなところでご機嫌を損ねるのは得策ではないし ……それにイレギュラーの一体くらい放っておいたところで問題はないでしょうからね」 それが久々野の精一杯の照れ隠しであることを芹香は熟知していた。 もう互いの付き合いはかなり長くなる。 この世に生まれてから18年……いや、全てを総計して100年以上になる。 これだけの長期間徒党を組んで性格が解り合えないはずもなかった。 「……ありがとうございます」 芹香は深々と頭を下げ、久々野の顔はますます紅潮した。 「改まって礼を言われるとまた緊張しますね……」 部屋の中にはほのぼのとした微笑ましい空気が満ちていた。 それを破ったのは一本の電話だった。 何の気なしにそれをとった久々野の顔が俄に真剣なものになる。 「………?」 不思議そうに久々野を見ていた芹香に向かって、久々野は電話を叩き切るなり低い声で 言った。 「芹香さん……どうやら少し離席させて貰うことになりそうです」 その表情に悲痛な決意を感じ、芹香は顔を強ばらせた。 芹香の予想に応えるかのように久々野は呟く。 「また…今回もこのときが来てしまいました。岩下と……決着を付けるときが」 「………!」 久々野はひきつった唇をわずかに歪め、芹香を安心させるように言った。 「大丈夫です。これまで五度にわたりそうであったように……今回も私が勝ちます」 「………今回は………いつも通りにはいかないかも知れません。最近あまりにも不可解な 出来事が起こりすぎています。イレギュラーの増加……『魔人』の影……嫌な予感がする のです……」 細い声で呟く芹香に久々野は笑って見せた。 「大丈夫ですよ……私が死んだら儀式を行えそうな男はもうこの世に一人しか残らないの ですからね」 「はい………」 芹香は頷いたものの、その表情は優れなかった。 今回の前例ない不安もそうだが、それに加えて芹香は知っていた。 岩下を殺した後、いつもどれだけ久々野が独り泣いているのかを………。 そんな哀しい感情を隠して……久々野は階下に降りて行く。 芹香は誰もいない部屋の中でタロットカードを三枚抜き出した。 『悪魔』正位置。 『死神』正位置。 『運命』逆位置。 ……芹香はゆっくりとその後に続いた。 >『塔』最奥直前 岩下と紅はまるでギリシャ神殿のような荘厳な雰囲気を醸し出すホールの前にいた。 目の前には果てしなく長い白亜の階段がそびえている。 どう考えてもこのような建築物がビルに入るはずもない。 魔法をかけて空間を拡張していることは疑いようもなかった。 「……まるで祭壇だな」 「いや、祭壇だよ。これまで五度に渡り世界を破滅させた悪しき儀式を執り行った…」 紅の言葉に岩下は眼を細めた。 その視線は真っ直ぐ階段の果てを見つめている。 「この先に久々野がいる……俺から瑞穂を奪った男が……」 「ああ……そうだ」 紅は静かに頷いた。 彼等二人の周囲には暗殺者達の屍が文字通り山と積み上げられている。 二人ともかなり疲労していた。 しかし、それでも岩下は紅に言わずには居られなかった。 「……久々野には手を出すな。奴は俺が殺す……必ずだ」 「分かった。俺は後ろを守らせて貰う」 二人は顔を見合わせ、僅かに微笑んだ。 そして長い長い階段を歩み始める。 世界の破滅へと続く階段を。 >インターミッション 時の流れは一方的な流れである。 ありとあらゆる世界においてその事実のみは不可侵であり、何者をもっても時間を戻す ことは出来ない。川の流れに棲む魚がどれだけの力を尽くそうと川の流れは変わらない。 もしも時間を戻すことが出来るのなら、あの時をやり直せるのなら、しかしたとえどれ だけの人間がそれを望もうと時は決して帰ることはない。 あらゆる者の命は有限である。人も、化物も、命ある者は皆終わりが来る。 そして仮に世界であったとしても、永遠に存在し続けることの出来る世界などない。 世界はいずれは無に還る、それは世界の始まりから全ての秩序を司る『秩序法典』に記 された絶対不可侵の『秩序』であった。 だが誰が……一体誰が自ら終わりを望むということがあろうか。 あらゆる者は生への走行性を持ち、それ故に存在を続ける。 何らかの事情でその世界に存在することが苦痛にならない限りは。 その世界に住む者達もそうだった。彼等は自分たちの世界が終わらないことを望んだ。 それが可能ならば。 永遠に存在し続けることが出来るのなら、愛する者と永遠にいられるではないか。 少なくとも彼、月島拓也はそれを望んだ。 >『塔』最下層 「美しい……」 回線を切った月島は陶然とした表情で呟いた。 ここは庭園。緑に覆われた小さな都。 滝は静かに流れ、緩やかに日光が差し込んでくる美しい場所。 だがそこは明らかに自然な生態系を逸していた。 樹々は茂っているにも関わらず、森の中からは全く動物達の存在感が伝わってこない。 川の中にも魚はおらず、地の中には虫がいないのではないかとすら思わせる。 緑は溢れ、生命力に満ちているのに……そこには植物以外一切の生命が存在してはいな かった。 更に言うのなら、ここは地中50Mの深部にある。こんな場所に日光が普通に届くはず もない。日光は人工のもの……あるいは、何らかの方法でここまで届くよう歪められてい るかのどちらかだった。そして、これは明らかに人工のものではない。 死都。あまりにも不自然なこの庭園を形容するのなら、つまりそういうことになるの だろう。そしてこの場所にもう一つ溢れている『聖なる気』が、その違和感を一層高めて いた。 だがその場所こそは『聖地』隆山市で唯一、真に聖なる場所なのだ。 聖なる気を生み出しているのは、緑に満ちたこの庭園で最も人工的な一本の水晶柱…… それに取り込まれている三人の少女だった。 赤、茶、水色と三色の髪をした少女達にはいずれも意識がなく、ただ立ったまま眠って いるかのように宙に漂っている。その手が全て祈るように組み合わされているのが印象的 だった。 これこそが聖地隆山、そして世界の中心である三女神の眠る棺。 世界全ての秩序を象徴する三女神の力を宿す巫女を封じ込めた水晶。 『聖櫃(ロスト・アーク)』である。 「女神『三柱の乙女』達の居城としては最高の場所だろう、瑠璃子?」 月島はその内の一人……水色の髪の少女、月島瑠璃子に語りかけていた。 彼女は返事をしない。 だが、月島はまるで会話をしているかのように瑠璃子の方を見つめている。 「でもねぇ……今入った連絡だと岩下の奴が記憶を取り戻して、ここの平和を乱そうとし てるんだってさ。こんなに美しい秩序、お前が居るこんなに素晴らしい風景を壊すんだよ?」 ぎりっと月島の奥歯が軋んだ。 その顔に筆舌に尽くしがたい程の憎悪と殺意が浮かんでいる。 しかしそれもつかの間、すぐににこやかな笑顔に戻った月島は水晶柱の表面を愛おしそうに撫でながら呟いた。 「大丈夫だよ、瑠璃子……何も心配なんていらないんだ。お前をここから連れだそうとす る悪い奴はみんな僕が『壊して』あげるからね」 その台詞の後、月島の笑顔が凄惨な物へと変化する。 「そうとも……僕とお前以外はみんな人間じゃないんだ。あいつらは何の存在価値もない …何も考えず食って寝て太って盛ってセックスして増えるだけの醜い豚だ」 月島の表情が次第に曇っていく。そこに現れるのは激しい怒り、憎悪、嫌悪、諦観、破 壊衝動、哀憐。 「でもお前は違う」 月島は手で顔を押さえながら小さく呟いた。 「お前だけは違うんだ、瑠璃子。お前だけには生きる価値がある……だから」 みしりと空間が軋む。凄まじい量の力が吐き出される。 神聖な空気を汚すかのように、圧倒的な力が庭園に満ちる。 月島は自らの周りに噴き出した廠気の中で哄笑を上げていた。 「だから、お前を護ってやる!他の全ての者を犠牲にしてでも!!くっくっく、アーッハ ッハッハッハッハ!!!お前は永遠に僕のものなんだ、昨日も今日も明日も明後日も、永遠 にね!!」 視線を瑠璃子の隣の二人の少女に合わせ、哄笑を上げながら月島は言い放つ。 「『三柱の乙女』ある限り、この世は永遠に終わらない!!定められた『秩序』に逆らっ てでも、この世界は永遠に存在し続ける……僕と、瑠璃子の世界は!!」 哄笑がただ満ちる。 庭園に満ちて行く。 青年の狂気と歓喜を帯びた『力』の中で……。 乙女達は静かに佇んでいた。 >Cパート >伝説 隆山市には古来より現在に伝わる伝説が大きく三つ存在する。 一つは世界最強の魔道士、狂気の魔人SGYと全ての書の王、魔道士まさたの伝説……。 二つは世界の終末が近付くとき、全ての魔を統べ人の世を滅ぼす化物の王の伝説……。 そして三つは恐怖と殺戮の権化、古の魔王大蛇の伝説である……。 かつて鬼が天よりこの地に舞い降りる以前…当代最強を名乗り暴虐の限りを尽くした、 凶悪無比な化物がいたという。その名は大蛇。 人々は彼を恐れるあまり、魔王の二つ名で彼を呼び恐怖に脅える日々を送っていた。 しかしあるとき天から一つの光が降り注いだ。その光は雨月の山に落ち……その中から 無数の鬼が現れた。 人間達は新たに現れた鬼達に恐怖した……しかし、中には彼等を恐れぬ者も居た。 九神(くかみ)神社に名を連ねる、当時の隆山の地屈指のハンター達。 彼等は鬼の長を説得し、互いに大蛇を打倒することを約束した。 そして激しい闘いの末………彼等は大蛇の力の源である牙を叩き折り、その肉体を討ち 滅ぼす事に成功した。だが、大蛇の精神とその石を破壊することは出来なかった。 肉体を失ってなお力を失わぬ大蛇を恐れた鬼の長は自分達の住まう住居を使って結界 を作り出し、その下に大蛇を封じることにした。 こうして隆山の地から大蛇の脅威は消え失せたのである。 人々は大いに鬼達に感謝し、彼等を隆山の守り神に奉じて農作物を供物として捧げるこ とにした。 鬼達もまた聖地隆山に集う化物を狩ることで、それに報いることになった。 人と鬼との持ちつ持たれつの関係……共存の時代が訪れたのである。 鬼の内でも二者の融和を図る者は人間の輪に飛び込み、混血を進めていった。 血の融和を望まぬ者は鬼の里に閉じこもり、化物を倒す日々を送ることになった。 そして人と鬼との調停役として九神神社は九鬼神社と名を変え、当主は鬼姫の内から一 人の妻を娶り永く聖地隆山の為政者として暮らしたという……。 時代は流れ、今ではもう鬼の存在を信じる者などいない。 九鬼神社は実在しないとされているし、大蛇など只の風俗伝承とされている。 だが、この伝説を知らない者など隆山市には存在しない。 世界最大の聖地、隆山と呼ばれるようになった今でも、この伝説は魔人SGYの伝説や 図書館の伝説、魔王の伝説と同様に子供達に伝えられている……。 >現在 >『塔』 (そう、全てはお伽話。………そういうことになっている………) だがもしもこの伝説が真実だとするなら? 伝説の魔王大蛇が実在し、鬼が未だいずこかで生き延びているとするなら。 現在でも九鬼神社がどこかで忘れられているならば。 当時の聖地隆山を守護したハンター達は今何処にいるのか。 この伝説を知るものは考えたことがあるだろうか。 それとも伝説を真剣に考える価値などないと考えるのだろうか? 久々野彰にはそれを知ることは出来ない。 何故なら彼は『伝説』が『真実』だと知っているから。 彼こそが当代最高のハンター達の力を受け継ぐ者なのだから。 毎回この時期になるとやってくる『世界の終焉』、それを避けるためにのみ彼は存在し ているのだから。 そのためならば彼はどんな犠牲をも払わねばならない。 例え心よりの友を裏切り、傷つけ、死に至らしめることになったとしても。 「許せ……岩下………!」 彼は階段を降りながら、苦々しげに呟いた。 その苦悩が彼に一瞬の隙を与えたか。 それともこれまで数度に渡る成功からの慢心が彼の注意を鈍らせたか。 ともかく彼はいつもの感知能力を使用することは出来なかった。 いや、殺気を感知しなかったわけではない。 彼は肌を刺すような鋭い殺気を前方に感じ、身構えた。 「誰だ!」 そんな誰何の声を挙げることも出来たほどだ。 久々野にとって不幸なことに、このとき彼は敵を岩下だけと思っていた。 この場所にやってこれる者は数名の彼の腹心だけだったからだ。 だが彼の元には未だ前作戦の報告書が届いていなかった。 当然である、如何に彼が優れた指導者であり同時に天才的な暗殺者であったとしても、 誰が今日ついさっきまで行われていた作戦で腹心が翻意を抱いたと知ることが出来る? しかもその者が突然特殊な能力に目覚め、強襲を仕掛けて来たのならばなおさらである。 敵は前方には居なかった。 久々野が神経を前方の暗闇に集中させた瞬間、『世界を渡って』背後の空間に切り込み が走った。 「何!?」 突如背後に生まれた殺気を感じたが、もう遅かった。 久々野は背後より強烈な凶刃を受けて、その場に倒れ伏した。 身体から何かが失われて行く。血液だけではない。 何か……そう、力とでも言うべき何かが失われて行く。 哄笑が聞こえる。 よく知った男の者だ。 「くっくっく……さすがに違う、さすがは『塔』の首領の血だ!!感じる、感じるぞ!! 俺の『運命』に力が流れ込んでくるのを!!俺が求めていたのはこの力だ!!」 「貴様ぁ……!何故……何故私を裏切る……?」 久々野は全身の力を振り絞ってなんとか立ち上がった。 幸いにも身体を反射的にずらしたために斬られたのは肩口だけのようだ。 だが、これで左腕は完全に使い者にならなくなっている。 その痛みに耐えながらも、久々野は彼の腹心であった男を睨み付けた。 「佐藤、昌斗!!貴様先祖代々の恩を忘れたかぁっ!?」 しかし久々野の怒りの大きさに引き替え、佐藤の反応はあまりにも場違いだった。 「はははは、ははははははははは!!あんたが俺に何をしてくれた!!俺はあんたのせい で従妹を失ったんだ……これくらいの『力』の代償は当然だろうが!?」 佐藤は笑っていた。 蒼く輝く刀を手に握り、狂気に彩られた顔で笑っていた。 その刀から凶々しい邪気を感じて、久々野は苦く顔をしかめた。 「貴様……その手の中の『イレギュラー』に魅入られたな」 「何とでも言うがいい、俺は悪魔にでも、化物にでも魂を売ってやる!!そして従妹を、 ひづきをこの手に戻すんだ……誰にも邪魔などさせるかよぉ!!」 「愚か者めが……!」 吐き捨てるような久々野の声を聞き流し、佐藤は妖刀を鞘に仕舞った。 刀身に血液は付着していない。まるで……刀が血を『喰らった』ように。 「さあ、俺の用事はこれで終わりだ。退職金は貰ったぜ。あ・ば・よ……首領」 佐藤は苦痛に歪む久々野の顔を一瞥して、再び背後に妖刀を一閃させた。 ここに来たときのように蒼く穿たれた空間の穴にもう一度身を踊らせる。 そして……佐藤の姿はこの場所から永遠に掻き消えた。 誰もいなくなった闇の中で、久々野は呟いた。 「愚か者めが……」 久々野は肩の傷を押さえながらゆっくりと歩き出した。 是が非でも決着を付けねばならなかった。 岩下信、彼の最高のライバルとの。 >『塔』儀式の間 「待ちかねたぞ、久々野」 「逃げるとでも思ったか?」 二つの視線が交錯する。 階段を降りきった久々野の前には岩下が立っていた。 前回と同じく、岩下はこの場所で彼を待っていたのだ。 ここは今まで数度に渡り世界を終わらせてきた『儀式の間』。 彼等にとって決着を付けるのにこれほど適した場所はない。 久々野はダメージを必死に隠しながら、思った。 (かなり『力』を持って行かれたが、まだやれる。今なら岩下と互角……勝たねばならん) 勝たなければ……世界が、終わる。 これまで彼が終わらせてきたような意味ではなく、本当の意味で終焉が来る。 それだけは避けなければならなかった。 ダメージはじわじわと効いてくる、やるとすれば速攻で倒すしかない。 だが、岩下を倒してそれで終わりというものでもないはずだ。 「紅は……西山はどうしている?」 「階段の下に置いてきた。久々野、お前はこの手で倒させて貰う。それがお前を信じて、 瑞穂を苦しい眼に遭わせてしまった俺のけじめだ」 それならば何とかなる。 久々野は本気を出さねばならない。 それが岩下に対する久々野のけじめだ。 久々野は日頃押さえた闘気を解放した。全てを圧倒するかのような凄まじい気迫が静謐 にして神聖な空間に満ちる。久々野は全身の力を込めて叫んだ。 「我は『天魔の鬼姫』の姫護、『鬼王』久々野彰!!全霊を持って貴様を屠ろう!!」 岩下もまた、押さえ込んだ真の力を呼び起こした。 「上等だ、俺の炎の力………貴様に見せてくれる!!」 勝負は一撃だった。 久々野が勝つにはそれしかなかった。 岩下がけじめをつけるにはそれしかなかった。 久々野は全ての力を込めて岩下を打ち砕いた。 そのはずだった。 最強の鬼王の名が岩下を粉砕するはずだったのだ。 >二年前 >廃墟 彼は朽ちかけていた。 何とか燃え落ちる村から脱出こそしたものの、もはや彼の肉体は滅び掛けていた。 彼の一部である炎からの被害は受けなかったが、それまでに蓄積されたダメージは長の 攻撃を喰らい彼の肉体のことごとくを食い荒らしていた。 朦朧とする意識の中で、ただ生還への執念のみが見える。 しかしそれも弱々しくくすぶる炎の揺らめきにしか見えなかった。 「俺は……死ぬのか……?」 自問の答えは既に明白だった。 肉体も、そして精神も……彼を構成する一切の結びつきが崩壊し、彼は自分の最期が近 いことを悟った。 「無念だ…折角倒したのに…生きて帰れると思ったのに……」 アノヒトノモトヘ。 彼の頭にそんな言葉がよぎった。 やがて彼の意識は拡散を迎え、ゆるやかに滅び掛けていく。 アノヒトノモノヘ――その呟きを残したまま。 カエリタイ―――。 イマイチド、アノヒトノモトヘ――。 『その望み……叶えてやろうか?』 遠くから聞こえる、力強い声。 雄々しく、そして恐ろしさを感じる轟き渡る声。 彼に呼びかける、何か力強く、そしておぼろげな声。 「何だ……?」 滅びかけた彼の精神にわずかな光が戻る。 その光に向かって、それは言った。 『お前の命……永らえさせてやろうか?』 「誰だ……俺に語りかける者は」 『我が名は……大蛇。古の時、この地に君臨し……四人の鬼巫女に我が力の源である《牙》 を奪われ、結界の中に永く封印された……魔王である』 「魔王…だと?」 彼は身体の芯から襲い来る睡魔に耐えながら呟いた。 一瞬、自分が死に瀕し幻を見ているのではないかと思う。 魔王『大蛇』の伝説……雨月山の鬼伝説、魔人SGYの伝説に並ぶこの地で育った者な ら知らぬ者のない《お伽話》である。 『我が存在……幻にあらず。この身力奪われ、肉体を失えど我が心と力は未だ衰えず……』 彼は伝承を思い出した。 そして今まで気付かなかった自分が酷く愚かな存在に思えた。 そうだろう。 『鬼』も『九鬼神社』も実在するならば、魔王『大蛇』も実在しなければならない。 肉体を滅ぼされ、鬼の村自体を魔封陣に使って封印された伝説の化物。 魔王大蛇と名乗る存在は続けた。 『我を受け入れよ。我にその肉体を捧げよ。我と汝は一つになり、汝の願いは我の願いに なり、我の願いは汝の願いとなり、我は汝に絶大なる力を与えてくれようぞ』 「………………」 岩下は数秒の迷いの後に呟いた。 「……いいだろう。俺の身体を、血を、肉を喰らうがいい。貴様にこの身をくれてやろう」 諦めのように聞こえる台詞だった。 事実、このまま放っておけば岩下が了承しなくても大蛇は岩下を喰っただろう。 だが、岩下は次の瞬間凄まじい形相で大蛇を怒鳴りつけた。 「ただし、俺の大事な者を傷つけることは許さんぞ!!俺の瑞穂に貴様の小指の爪先ほど の傷を付けて見ろ、俺は冥府の底からでも甦り魔王といえど貴様を必ず殺してくれる!!」 『良し。実に良し!それでよい、そうでなくては我が片割れとなるに相応しくない!! 今こそ我は汝、汝は我、魔王となるのだ!!』 そして……暗黒が世界を支配した。 鋭い激痛と消えゆく意識の中で岩下は思っていた。 今帰る、瑞穂、と。 >現在 >『塔』儀式の間 ぽたぽたと鮮血が床を濡らす。 腹部と顔面を砕かれた久々野は虫の息で呟いた。 「そうか……お前……融合していたのか……『大蛇』と」 「…………」 岩下は無言で拳を振り上げていた。 その眼には哀しそうな光が宿っていた。 久々野はくっくっとおかしそうに笑いながら、岩下に言った。 「お前が生還したときに気付くべきだったのかも知れんな。忘れていた、その『要素』を」 「何故だろう。幾度も夢見たこの時を迎えながら、何故か俺はとても哀しい。出来ること なら貴様との決着……この邪悪な力抜きで付けたかった」 だが……。 もう、お互い引き返せない……。 無言の呟きが二人の口を突いて出た。 久々野の脳裏に言葉が甦る。 あれは確か一番初めの対決だったか? 「岩下、もう投降しろ。私はお前を殺したくない」 圧倒的優位に立った久々野の声に、血塗れの岩下はこう応えたのだ。 「俺は瑞穂以外に情けを感じることはない」、と。 そして……久々野は初めて岩下を殺したのだ。 今、何回目だったか……? 岩下を見上げた久々野の耳に、岩下の決意の台詞が聞こえてきた。 彼は拳を血が出るほど固く握りしめて、こう言った。 「俺は瑞穂以外に情けを感じることはない!!」、と。 久々野は思った。 ………天命かと。 全て……あの時、岩下を殺した瞬間にこうなることが決まっていたのかも知れなかった。 もう取り返しはつかない。 岩下は拳を叩きつけた。 >『塔』階段下 一つの闘気が急激に小さくなった。 紅は勝負が着いたことを知り、急いで階段を駆け昇る。 「岩下!!」 彼の勝利を信じて。 だが、彼の目の前に開かれた光景は全く予想外のものであった。 「な………に………?」 久々野は血塗れになって部屋の片隅に倒れていた。 それはいいのだ。こうなることを予測したのだから。 彼にとって予想外だったことには、部屋の中央にもう一つ血塗れの身体が転がっていた。 ……岩下だった。 そしてその前に立ち、紅を静かに見つめているのは……。 「来栖川…芹香……!」 「…………………………」 芹香は杖を構え、無言で立ちつくしている。 状況から言って疑いようがなかった。 来栖川芹香は、魔王大蛇と同化した岩下を完膚無きまでに叩きのめした。 「そんな……馬鹿な……」 芹香にそれほどまでの力があったというのか? 『塔』首領を凌駕する魔王大蛇、それを更に超える力を持つのか? ……有り得なかった。 芹香は思考を巡らせる紅に向かって静かに呟いた。 「あなたは思い違いをしています……もしも久々野さんの体調が万全なら、魔王大蛇とい えど彼に勝つことなど有り得なかったのですよ?」 「なっ……!?」 絶句する紅に向かい、彼女は続けた。 「魔王大蛇……いえ、古の『魔王』の化石を持ち出したところで、私達に勝てるはずはあ りません。現在の『魔王』、そして『魔人』と戦う私達に……」 「『現在の魔王』?『魔人』?……一体何の話だ?」 「それは……」 芹香は口を開きかけたが、何かに気付いたように止めた。 代わりに厳かな口調で呟いた。 「言えません。『道化』に使われるマリオネットに言っても理解して貰えないでしょうし、 何より貴方の身が危険にさらされます」 そして、こう付け加えた。 「お引き取り下さい。……岩下さんを連れて」 「そんなことが出来るかっ!!」 紅は激昂して叫んだ。 「俺達がマリオネットだと!?ふざけるな!!世界を延々流転させ続ける久々野、そして 来栖川芹香!!あんた達を倒せば俺達は自由になる……煙に巻こうとしてもそうはいくか!」 芹香はその台詞を聞いて僅かに表情を変えた。 この表情は……憐れみ。そして、苦笑。 「確かに世界に仮初めの死を与えているのは私達……ですが、その意味を知っているので すか?」 「今更ふてぶてしい……女神『三柱の乙女』を独占し、自分達だけの永劫の生を生きる!! お前達はそうやって100年以上も生きてきたんだろうが!!」 「……久々野さんの言う通り……愚かですね」 芹香は無表情に呟いた。 「月島さんはそうでしょう。ですが、私も久々野さんもそんな終われない命に興味などあ りません。……私にも質問があります。色々とご存じのようですが、貴方は……」 一瞬、芹香のいつも眠そうな眼が細く鋭く、紅を刺し貫いた。 「その事を誰から知ったのですか?」 「…………な………っ!」 紅は答えようとして、言葉に詰まった。 そう、確かに自分達はそう信じてここまで来た。 楓と共に鶴来屋を脱走し、地道に仲間を増やして『塔』に攻め込んだ。 だが……自分と楓は一体何処からそのことを知ったのだったか? 女神を幽閉し、儀式で世界に仮初めの終末を与え世界を最初に戻す。 儀式の執行者は世界をやり直しても記憶を失うことはない。 そのようにして儀式の執行者、久々野彰、来栖川芹香、月島拓也はもう五回も世界を終 わらせて、100年以上も生きている。 これ以上彼等の自己中心的な不老長寿のために、自分達の生命を無駄にするわけにいか ない。彼等を断じて許すわけには行かない。 今こそ我等は立ち上がり、自分達の人生を取り戻すのだ。 ……ヤツラヲ、ユルスナ。 そう……言われたのは……誰にだったか……? 思い出せない。思い出せない。 誰かにそう言われたのに。思い出せない。 いや……思い出しては……いけない? そこまで考えたとき、紅の頭の奧で『スイッチ』が入った。 「う……うあああ………ウオオオオオオオオオオオオオ!!!!」 「くっ」 芹香は舌打ちして杖を構えた。 この思考操作魔法がまさしく『傀儡の術』……『マリオネット』と呼ばれる理由。 術者が決めたキーに触れたとき、思考を中断し全てを破壊させる狂戦士化現象。 紅ほどの戦士を容易く操る魔法を使えるのはただ一人、あの男だけ。 「『道化』………!!酷いことを!!」 紅は岩下以上の闘気を放出している。 その凶眼が芹香を睨み付けたとき、心臓が圧迫されるような衝撃が芹香を襲った。 気の弱い者ならそれだけで絶命しそうな圧力に耐えながら、芹香は次に取るべき戦法を 考える。だが、この圧力はあまりにも大きすぎる。 紅本人の持つ闘気と狂戦士化現象の相乗効果で、その威力は何倍にも跳ね上がっている のだ。 じりじりと物理的な力を伴って叩きつけられる殺気の風に対抗するだけで、芹香はかな りの力をすり減らしていく。 芹香が苦痛の声をあげかけたとき、足下で少年の声がした。 「芹香しゃま、僕を使って下さいにゃ!!」 「エーデルハイド……!」 だが、儀式の間のどこにも少年の姿はない。 あるのはただ、芹香を足下から見上げる一匹の黒い子猫だけ。 芹香は飼い猫に淡く微笑み掛けると、小さく呟いた。 「精霊魔術……ウロボロスを使います」 「任せるにゃ!!」 そう黒猫は少年の声で叫び、芹香の頭の上に飛び乗った。 そこからさらに芹香の腕の中に落下して行く。 その途端、杖を前方に構えて殺気の風を凌いでいた芹香の身体が輝いた。 前方の空間にに青白い光と共にペンタグラムが描かれ、周囲に明らかに通常のものとは 違う魔術文字が浮かび上がった。 それは瞬く間に魔法陣となり、爆発的に巨大な魔力が生み出される。 エーデルハイドの姿が変わる。 巨大な顎、巨大な体躯、巨大な牙を持つ一匹の蛇に。 『精霊魔術、ウロボロス!!』 「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」 芹香と黒猫の叫びが一体になったとほぼ同時に、視覚では捉えきれないほどの素早さで 紅が飛びだした。 鬼の本性を現し、鋭い爪を生やして芹香にとびかかってゆく。 更に彼は本能的に姫護の術を使っていた……彼の流派、『九鬼流』の技を。 凄まじい殺気の風を纏わりつかせた強烈な爪の乱舞。 『鬼……嵐!!』 オニアラシ。 そう名付けられた技が芹香を文字通り八つ裂きにした。 全身の肉を切り刻まれ、血を吹き出して倒れる芹香。 その返り血を浴びながら、紅は紅く染まる思考の中、恍惚とした気分を味わっていた。 頭上の蛇が幻を消滅させるまでは。 「うがああああああああああああああああああああああああああああ!!」 紅は脳が焼き切れそうな激痛にのたうち回る……そんな男の叫びを聞いた。 そして、それが自分の声だと知り、自分の身体が自分の爪によってずたずたに切り裂か れた事を知り、本能からの恐怖の叫びを聞いた。 芹香と思って切り裂いたのは……自分だったのだ。 そして、その痛みが紅の意識を正気へと呼び戻した。 芹香は黒猫を抱きかかえ、哀れみの視線と共にこちらを見つめている。 紅は荒い呼吸を繰り返しながら、芹香を睨み付けた。 「なるほどな……ウロボロス。『尾を喰らう蛇』……自分の攻撃を自分に帰す防御・幻影 魔術か……!!岩下はこの技に破れたのだな……!!」 「さすがに強靱ですね。……それとも手加減したのですか?」 芹香は呟いてから、今度は断固とした口調で言った。 「もう一度言います。お引き取り下さい」 「……断る!!」 紅の叫び。 それを聞いた芹香は、残念そうに首を振った。 「仕方ありません……さようなら」 彼女は黒猫を抱きかかえて呟いた。 『精霊魔術、フェニックス!!』 凄まじい炎が……紅を焼き尽くした。 「………なーんて」 芹香はくすっと笑って黒猫を肩から下ろした。 黒猫は残念そうに問う。 「何で止めを刺さなっかったにゃ?幻影の炎で気絶させるなんて……甘いにゃ」 「私達は争うべきではないのです。私達がいがみ合っていては、本当の敵の思うつぼ……」 芹香は優しく黒猫の頭を撫でてから、階段の方を振り向いた。 「ねえ、長瀬さん?」 「……何故僕が攻撃しないと分かるんです?」 階段の柱の陰から祐介が姿を現した。 エーデルハイドは驚いて、思わず芹香の肩に飛び登る。 「芹香しゃま!!こいつ……!!」 「落ち着いて、エーデル。この人には戦う意志はないわ……邪魔しようとするなら、紅さ んが狂暴化したときにいくらでも加勢できたはずですから」 芹香の言葉に、祐介は肩を竦めた。 「適わないな……確かに一部始終見せて貰いました。本当の敵は…別にいるようだ」 そう呟いて、祐介はゆっくりと歩き出す。 紅と岩下の元まで辿り着いて、二人を軽々と肩に担いだ。 小柄でひ弱な体格に見えるのに、やはりただ者ではない。 「瑠璃子さんはまた今度迎えに来ましょう……今日は日が悪いようです」 祐介はそう言って、僅かに微笑んだ。 そんな祐介に、芹香は小さなペンタグラムを投げてよこした。 足下に落ちたストーン入りの小さなプレートを拾い上げ、祐介は芹香を省みる。 「……これは?」 「……………お守りです」 芹香はいつもの小さな声に戻り、そう呟いた。 祐介はふっと笑って、一礼した。 屈強な戦士を二人担ぎ上げて、祐介は静かに帰っていった。 階下から大きな足音が聞こえてくる。 エーデルハイドははっきりと不快な色を浮かべて呟いた。 「……ゲス野郎が来たにゃ」 「しっ」 久々野に治癒魔法をかけていた芹香は、そう呟いた。 やがて階段を上りきった長身の男が驚きの表情を露にする。 「久々野……まさか、やられたのか!?」 月島はそう叫んでから、芹香を憎々しげに睨んだ。 「来栖川、何で賊をみすみす逃した!?」 「………油断、です」 芹香は無表情にそう答えた。 「にゃにをいうにゃ!!芹香しゃまはそんな無能な……むが!」 エーデルハイドが何やら叫ぶが、芹香はその口を無理矢理押さえた。 そもそも月島にはエーデルハイドの言葉は聞こえないのだが。 彼は気味悪げに芹香を見てから、久々野に視線を送った。 「おい、久々野!!しっかりしろ……おい?」 「……ぐ、う……」 久々野は僅かに呻きを漏らして、薄く眼を開いた。 「月島か……」 「おい、久々野!!大丈夫か!?」 久々野はそれには答えず、治癒魔法をかけ続ける芹香に向かって口を開いた。 「止めてくれ芹香さん……意味がない」 「……まだ、助かります」 芹香はそう呟いて治癒を続行しようとしたが、久々野は薄く笑って首を振った。 「そうじゃない……私にはもうこれ以上生きるつもりがないんだ……」 「おい、久々野!?何を言い出す!?」 月島は慌てて久々野に呼びかけた。 久々野の言動はただごとではない。 なにせ、これまでの流転儀式の主催者がこれ以上の儀式を取りやめると言い出したのだ から。 「前々から感じていた……もうこの世界自体に寿命が来ているのだ。これ以上、儀式で延 命措置を行ったとしても仕方ない……我々は決断を迫られている」 「久々野!!お前は疲れてるんだ、少し寝ろ!!すぐに元の思考が出来るように……」 「永遠など、ない」 久々野の言葉に月島の表情が凍り付いた。 「我々に残された選択肢は三つだ……。一つは世界の寿命を見守ること。二つは『魔人』 と共に世界を凍結させること。三つはいっそ『魔王』と共に世界を終わらせること………。 だが、私はそのどれをも選ぶつもりはない……」 芹香は首を振った。 「……選択肢はまだ残されています。……四つ目の選択肢、それでも世界を正常に終わら せる方法を見つけようと足掻くこと……」 「来栖川まで、何を……!」 月島の言葉を無視して久々野は頷いた。 「ああ。だが、私にはその権利はない……ここまで儀式を執行し、みんなを踏みにじった 私にはその救済は残されていない……」 「……だけど、私はやらねばなりません……それがみんなに対する償いなら」 二つの視線が交錯した。 この瞬間、二人はお互いの意志を悟った。 久々野は責任をとって世界からの離脱の道を。 芹香は責任をとって世界の救済法を見つける道を選んだのだ。 月島は叫び続けた。 「久々野!梓さんはどうなるんだ!?」 「……梓には……私の代わりを用意して置いた……信頼できる男だ……」 「あまりにも身勝手じゃないか!?お前は……お前は僕達を見捨てるのか!?独りだけ逃 げ出して、僕達を捨てるのか!?」 久々野はその言葉に、寂しく笑った。 「……仕方がないのだ。私達は運命を変えてきたつもりだった……だが、これこそが運命 なのだ。私はお前達を世界の外から見守ろう……俺の役目は終わったんだ」 芹香は頷いた。 月島は否定した。 「独りだけ!!独りだけ逃げやがって!!畜生……畜生っ!!」 「……念のために……私の代理人をもう二人作って置いた……。『姫護』は先ほど言った あの男に……『儀式執行者』は私の腹心に……そして『聖石』を芹香さん、貴方が知って いるあの娘に…………」 そこまで言ってから、久々野は苦しそうに息を吐いた。 「ああ……疲れたな……」 「勝手に……勝手に死ぬなよぉ………」 月島は涙をこぼして呻いた。 芹香は例えようのない表情を浮かべて久々野を見つめている。 久々野はふうと息を吐いて、もう一言呟いた。 「月島……遺言だ。悪夢から眼を覚ませ……ここには永遠はないのだ……」 その途端、月島は久々野の胸ぐらをひっつかんだ。 「もう一度言ってみろ!言ってみろよぉ!!お前まで……お前まで否定するのか!?」 「……月島……お前が永遠の楽園と信じているものは……終わりのない牢獄だ……」 「否定するのか……僕の世界をぉ!!僕と瑠璃子の永遠の世界をぉぉ!!」 一瞬久々野の眼が憐憫を帯び、最期の呟きとなって、消えた。 「永遠など……どこにも、ない……」 「畜生…畜生ッッ!!」 久々野はこの世から消え、旅立っていった。 遠く離れた世界の果て。 この世界がつぶさに見えるここではない場所へ……。 後には、残された者の叫びが残るのみ。 「ちくしょぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッッッッッッッ!!!!」 雨、未だ降り止まず。 >東鳩SS事務所 「芹香様、遅いね……」 呟いた琴音は、美加香の手に収められている小包を見た。 「美加香ちゃん、それどうしたの?」 「うん……帰ってきたら机の上に置いてあったの」 美加香は怪訝そうに小包の宛名書きを眺めている。 琴音は首を傾げてそれを覗き込んだ。 「何て読むのかな……?『ひさびさのあきら』……知ってる人?」 「ううん、全然」 美加香は小さく小包を叩いて、おもむろに開け始めた。 その不用心な行動に琴音は慌てて制止しようとする。 「ちょ、ちょっと美加香ちゃん!!爆発物だったらどうするの!?」 事実、ときどきハンター事務所には爆発物が届けられるときがある。 理由はまちまちだが、商売敵の妨害工作以外にも世の中変な人は一杯居るということだ。 美加香は琴音を見上げると、こともなげに言った。 「そのときはそのとき♪」 図太い。 琴音は絶句して美加香が小包を開けるのを見過ごした。 蓋を開けたとき、眩い輝きが二人の眼に飛び込んできた。 「うわあ……」 ダークレッドに輝く見事なストーンが箱の中に無造作に入れられていた。 拳大ほどの大きさがある上に、かなり純度が高そうだ。 これなら宝飾品としても立派に通用しそうな代物である。 「私達が使ってる武器のストーンとは質が違うね……」 「うん、こんな立派なストーン見たことない……」 二人が見とれていると、背後からひょいと触覚が差し込まれた。 「なになに?二人で何見てるの?」 「あ、理緒さん」 琴音はいつの間にかやってきた理緒に、小包の中身を指し示して見せた。 「なんか、美加香ちゃんにプレゼントみたいです」 「へ、え……!?」 頷きかけた理緒の声が止まる。 その眼はまじまじとストーンに注がれ、理緒の身体は硬直していた。 「……こ、これ……?」 理緒の視線にいつもの危機を感じ、美加香は慌てて小包を仕舞った。 「あげませんよ」 「え、いや……そーじゃないんだけど……」 いつもの行動が行動だけに、理緒は硬直することしかできなかった。 その隙に美加香と琴音はさっさと小包を持って部屋から逃げ出して行く。 理緒は先ほどのストーンを思い返しながら、信じがたいものを見た顔で呟いた。 「今の、もしかして聖石じゃあ……」 そう呟いてから、そのあまりの突飛さに苦笑する。 「ま、まさかね……聖石がこんなところに……まさか……」 理緒は何度もそう呟いたが、その眼は笑っていなかった。 「まさか……ね」 外では雨が降り続いていた。 >十月処理者派遣局 「ふむ………」 ルーンは小包の中身ぱらぱらとめくり、僅かに息を吐いた。 「久々野御大がこれを送りつけて下さるとはね……遺品、というわけだ」 案外信頼されていたか……。 ルーンはそう考え、ぼんやりと窓の外を眺めた。 今となっては何もかも仕方のないことだが。 「これを使って貴方の代わりに儀式を実行しろ、ということですか……?」 そう虚空に問いかける。 その表情は捨てられた子犬のもののようだった。 ……もっとも、それはつかの間のことに過ぎなかったが。 ルーンの口元に歪みが生まれる。 無性に楽しくてしょうがない。 いつしかルーンは声にならない苦笑を上げていた。 「でもねえ、久々野様。貴方は考えなかったのですか?貴方が私達を裏切ったように…… 私が貴方を裏切るという可能性を?」 呟いてから、ルーンは掌で眼を覆った。 「いや……………。もしかしたら………………」 ルーンは少し考えてから、続けた。 「貴方はその可能性があったからこそ私に託したのですか……なるほど、それが本当だと すると貴方は……最高に趣味のいい観客ですね……」 もっとも、人によってはそれをこう言うのかも知れない、とルーンは思う。 「もしくは最悪に趣味の悪い観客です……」 卓上のブランデーに浮かべた氷が溶け、からんと音を鳴らす。 ルーンはそれを口に運び、ふっと艶美な笑いを浮かべた。 「タナトスにさえ見捨てられた哀れな子犬……悪くないキャスティングですよ、久々野様」 彼の右手は革製の表紙をそっと愛おしげに撫でている。 世界の終末と再生の儀式に使われる至高の魔道書。 古い革の表紙にはこう書かれていた。 ………『運命大典』。 窓の外には雨が降り続けている。 >鶴来屋の一室 「梓様……これより久々野様に代わり貴方にお仕えすることになりました」 巨大な影はそう告げた。 梓はその言葉を受け、影を一瞥する。 逞しげな体躯を持つ男……だが、その気配は見事に消されている。 まるで本物の影のように、ひっそりと暗闇の中にうずくまっていた。 「……貴方が……ショウの代わりですって?」 「御意」 男は寡黙だった。 梓はもう一度問うた。 「……貴方は私に何を捧げるの?」 「忠誠を。……命すらそれで買えましょう」 「安い命ね。信用ならないわ」 言い放つ梓に、影は小さく応えた。 「貴方の敵の命ならば、いくら買おうと尽きはしません」 「今度は随分と大きく出たわね……」 梓は眉を上げると、影に訊いた。 「私に仕えると言うことの意味……知っているのでしょうね?」 「たとえ天魔、羅刹が命じようと、それが梓様の命令ならば従いましょう」 「失礼な奴ね」 梓は苦笑すると、訊いた。 「貴方、名前は?」 「秋山登。ただ、貴方が臨むなら如何様にでもお呼び下さい」 「秋山でいいわ……それじゃ最初の命令、しばらく独りにしてくれる?」 梓は顔を上げ、影に命じた。 「御意」 影は消え失せた。 それから………。 梓は泣いた。 「ショウ……ショウ……何故……何で死んじゃったのよ……馬鹿ぁっ………」 延々泣き続ける。 その部屋の外で、秋山は静かに佇んでいた。 「梓様……俺が……お護り申し上げましょう……例え魔に心売ろうとも」 彼も又、姫護の血を引く男だった。 雨が降る。 涙の色をした雨が。 まだ、降り止まない。 >エピローグ 眼下に光の固まりが見える。 雨に染まるネオンの街。 まるで永劫の繁栄を約束されたような光の結晶。 しかしその街に住まう者たちは気付いているのだろうか。 彼等の心には最早あの燦然と輝くネオンほどの光も宿っていないことを。 作られた光ほどの彼等の心に、今何が住まうのか。 彼等は一体何のために存在を続けているのか。 それを口に出して言うことが出来る者がどれだけあの街に残っている? 確かにまだそれを述べることが出来る者は残っているだろう。 だが足りない。その数は街が存在し続けるためには圧倒的に足りないのだ。 「『塔』も終わりだな」 彼女の隣に男が降り立った。 全身これ闇夜の鴉のような……死神の衣装のような黒装束に身を包んだ男である。 娘は男の方を軽く振り返った。 まだ手足が伸びきっていない少女で、全体的に華奢なイメージが先行する。 しかしその金色に輝く瞳には何よりも煌めく意志の光が溢れんばかりに宿っている。 話しかけた男も又、身に纏った退廃的な空気とは全く逆に、その相貌の瞳に鋭く輝く光 を備えていた。 「マスター」 「また街を眺めていたのか」 マスターと呼ばれた男の声に少女は金色の眼を細めた。 ビルの屋上へと吹き上げる雨風に、豊かな黒髪が爽やかに揺れる。 雨は二人に触れる直前でこの世から消えるようになくなっていた。 「ここからはあの街がよく見えます。その繁栄も、抱く安定も、住まう人々の腐敗も…」 「ではお前はそれを何と形容する?」 「淀んだ池、と」 少女は強い口調で断言した。 「大河はその水が流れるが故に美しいのです。動かない水はいつでもそこに存在する代わ りに、刻一刻と濁り腐っていくのです」 「では日陰よ、お前がその池に望む理想の対処法は何だ?」 「破壊」 夜風が激しくなった。 ビルの谷間を激しい音すら立てて突風が吹き抜けて行く。 少女は拳を強く握って、断言する。 「池を破壊してその水を再び母なる海へ!!そしてもし可能なのであれば、海を、陸を、 世界すら破壊し全てを波風も立たぬ完全なる沈黙の元へ!!そこに……そこにこそ、完全 なる清純、完全なる静寂がある……そしてそれこそが完全なる秩序!!」 少女の身体自体が強風に晒される。しかし彼女の身体は微塵も揺るがない。 まるで彼女自身の意志の堅牢さを示すかのように。 対するマスターも全く揺るがない。いや、むしろ風自体が意志を持って彼を避けるかの ように吹き抜けている。 マスターは訊いた。 「では日陰よ、お前はこの街に……いや、この世界に魅力を感じるか?」 「大いに感じます。この世界は非常に美しい……そしてあたしはこの世界を愛している。 故に…故に、まさにそれ故にこそ、私はこの世界が腐りきる前にこの手で世界に終わりを 与えたい!!愛しているが故に、私はこの世界を終わらせたい!!」 少女の力強い台詞に、マスターは深く頷いた。 彼自身はその言葉と考えを異にしている。しかし彼女の意見をも認めている。 それ故にこそ彼等はマスターと下僕の関係でいられるのだ。 「ならば日陰よ、共に行こう。この世界を拗ね、世界に嫌われた俺と共に歩むのならば」 「あたしの命は……この世界終わるまで貴方と共に」 二人は再び街を見下ろした。 そこには先ほどと全く変わらぬ世界がある。 淀み、腐りかけた美しい世界がある。 「我は母なる世界全てを憎み、母なる世界に牙を剥く『破壊者』である」 男の声が呟いた。 「我は母なる世界全てを愛し、母なる世界に安息を与える『救済者』である」 少女の声が呟いた。 『我等が母なる世界そのものを殺すために生まれた背約者なら、喜んで運命に甘んじよう』 二人の声が唱和した。 静かに風が二人の間を流れて行く。 やがて男、ハイドラントは言った。 「行くぞ日陰。全てに破滅をもたらす我等が主、『苦痛の王』を呼び出さんがために」 「はい、マスター。偉大なる破壊者にして救済者、我等が王を招かんがために」 少女、風上日陰がそれに応えた。 二人の姿は立ち消えるように消えた。 この日から世界は終わり始めた。 雨は降り続いている。 第五話『雨、降り止まず』 CLOSED……… TO BE CONTINUED……… ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 次回予告!! 『塔』の崩壊により情勢は変わり始める。 不動を誇った塔連合は崩壊し、その主導権を握ろうとする鶴来屋。 だがその背後には黒い影が見え隠れする……。 果たして『苦痛の王』とは一体何者なのか。 美加香に送られたストーンを狙う千鶴の真意とは? 紅達の糸を引く『道化』の正体とは? 謎が謎を呼び、事態は更に混迷を極める。 そこに現れる新たなるキーパーソン。 全てを知ったとき芹香の選んだ決断とは? 次回東鳩SS第六話、『魔王降臨』 あかり「浩之ちゃんの糸を切ることが出来るのは私達だけなんだよ」 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― お………終わったぁぁ!!よーやく第一部終わったぁぁ!! これで第一部『塔』編は終わりです。 次回からは新展開、塔の代わりにもっと厄介な連中が二つも現れたりします。 別に今考えたわけではなく、元からこうなる予定だったんです。信じてね(笑) それにしても超難産だった……半年ですからね。 Cパートだけで21Pもあるんだから当然という気はしますけど(苦笑) まあ、これまでに作ったシーンの切り張りがありますがご愛敬ってことで(汗) 次回は細切れにしたシーンがひたすら並ぶという展開なので、ちょっとは楽かも。 それではまた近い内にお会いしましょうっ!!