東鳩ss第三話「大きな流れに身を任せながら」 投稿者:風見 ひなた
 >プロローグ

 温泉というものは普通は秋口に行くものである。
 夏には暑く、冬には寒く。
 快適さを充分に享受し、かつ健康状態を損ねないためにはこの季節がもっとも良く、
そしてまた食べ物が旬になる頃である。
 それでもやはり初夏の頃に温泉に行くのも決して間違いではない。
 気候的に過ごしやすいし、なにより空いている。
 そして日頃激務にある身にとっては温泉というものは疲れを癒すにもってこいのものな
のだ。

「つまり」と志保は言葉を切った。
 その言葉の意味するところが一同全員に伝わるまでその顔を見回す。
 期待にうずうずする五人を見て、志保は手を広げた。
「次のお仕事は『温泉』でーーーーっす!」
『やったぁ!』喝采が上がる。
 一同はわくわくして夢想に身を委ねた。
「温泉温泉…私、温泉って行ったことないんですよねぇ」と美加香が言ったり、
「そういえば社用で景勝地に行くなんて初めてですね」と琴音がしみじみと呟いたり、
「最近疲れが溜まってたからちょうどよかったね」と雅史が頷いたり、
「何か見るような物はあるんでしょうか?」と葵が観光の心配したり、
(うふふふふ…会社のお金でごちそう…ごちそう…)と理緒が涎を垂らしたりした。
 志保と綾香はそんなみんなの歓び様を見ながらつつっと汗を垂らしていた。
 芹香は相変わらず無表情に座っていた。
 マルチはいつも通りに雑巾で机を上を拭いていた。

 まあ、こんなわけで…東鳩チームは見事に騙されることになる。


 >Aパート

 >鶴来屋前

「なあ、ルーン」と険悪な口調でセリスが呼びかけた。「一つ言って良いか?」
「手短かにな」と冷淡な調子でルーンが応じる。
 セリスはすっと息を吐いて、彼を見やった。
「俺達は慰安旅行に来たんだったよな?」
「ああ、局員思いのいい上司だろう?」
 平然と呟く局長を見て、副局長はこみ上げる頭痛をこらえた。
「で、温泉だよな?」
「疲れを癒すにはこれが一番だな」
 そうだ。それはセリスも同意見だった。
 だが。何故、ここで。
「一流ホテルだよな?」
「高かったぞ」
 そりゃそうだけど。
 いくらなんでもこれはないだろう。
 セリスはひくつく顔面でルーンを見つめた。
「なあ、局長」
「なんだ副局長」
 すぅーーーーーーーーー…と息を思い切り吸い込んで。
「どうしてよりにもよって隆山温泉なんかに行かなきゃならんのだっ!」と思いきり吐き
出した。
「何を言う!肩こり・腰痛・腹痛・疲労・下痢・水虫・癇・癪・ハンセン氏病・食欲減退
からシモの緩い人まで何にでも効く名湯だぞ!」とルーンが反論する。
「そういうことを言ってるんじゃない…」
 セリスはふるふると震えながらルーンを睨んだ。
「隆山温泉なら街の銭湯で230円払えばいつでも入れるだろーが!地元なんだから!」
 隆山市在住の彼らにとって全く馬鹿らしい行為である。というより、旅行と言えるのだ
ろうか。確か小学生の時遠足で温泉で入った覚えがあるのだが。
「いくら近くても良いものはよいのだ」とルーンがうんうんと頷く。
「六甲山に住んでる奴に六甲の美味しい水を買わせるような真似しやがって…」とセリス
は小声で毒づいた。
 カレルレンはへーのきの顔をのぞき込みながら、小声で囁く。
「これって、そんなに意味がないんでしょうか?」
「さあな。まあ、せっかく近くに適当なもんがあるのにわざわざ遠くの物を使うというの
も無駄だ…という気はするな」
 なんだかすごく説得力のある言葉である。
 カレルレンはもう一人の局員、UMAを眺めやった。
 後生大事にノートパソコンを抱えている。この男が愛機から手を離したのを見たことが
ないが、やっぱり温泉にもこれを抱いて入るんだろうか。
「UMAさんはどう思います?」
「暑い疲れたむさ苦しい何でも良いからとっとと風呂に入りたい」
 相変わらず単刀直入で無愛想な男である。
 この男の興味は一体どこに注がれているんだろう、とカレルレンは思ったりする。
 ちなみにかく言うカレルレンは軟派なプレイボーイ扱いされて、女の子にしか興味がな
いと言われた経験の持ち主である。そんなことは全くないのだが。
 セリスはそんなヒラ三人の雑談には耳をかさず、我が身の不幸を嘆いた。
「ああ、こんなことなら旅行さぼってマルチといればよかった」
「どうでもいいから早くホテルに入ったらどうだ」とルーンが半眼で諭す。
 セリスはがっくりとうなだれながら鶴来屋内にはいる。
「あ、いらっしゃいませ〜!」ちょっと間延びした女の子の声。
 その瞬間、セリスの背筋がしゃんと伸びる。
「え、その声はマルチ!?」
「あ…、セリスさん奇遇ですねぇ〜」
 フロントには「鶴来屋」とプリントされた羽織を着たマルチがにこにこと笑っていた。
「何でここに!?まさか」
 セリスの頭の内にばばばっとある一連の光景が浮かんでは消えてゆく。
 仕事を奪われ、経営不振。当然赤字。でもって倒産。行き場のないマルチを身売り。
 ふっ、とセリスは遠くを見るような目つきになる。
「ごめんよ芹香さん…俺達が有能すぎるからこんなことに…」
 ルーンは呆れたような眼で部下を見ていた。
 多分今ちょっとこの男を雇ってしまったことを後悔している。
「あ、セリスさんとルーンさんこんなところで何やってるんです?」
 とそんなセリスの後ろから声がかかった。
 振り返ると、やっぱり鶴来屋の羽織を着た葵が立っていた。
「おや、葵ちゃんもマルチと同じ道をたどったのか」とセリスが感慨深げに呟く。
 葵が怪訝そうな目を向けるが、ルーンが自分の頭の横でくるくると人差し指を回してみ
せると得心して頷いた。
「苦労してるんですね、ルーンさん」
「見たよりは、な」
 意味深な会話である。
 そんなことには全く興味を注がないセリスは、マルチの頭をウィンドウ越しに撫でた。
「葵ちゃんはどうだっていいや。マルチ、何でこんな所にいるんだ?」
 ひくっと葵の額に血管が浮かぶが、セリスは気付いていない。
 ルーンがぽんぽんとその肩を叩いてやる。
 後ろの方でカレルレンがあまりの無神経さにつつっと汗を流していた。
「えっと、暇なのでお手伝いをしてるんです。皆さんとっても親切にお仕事を教えてくれ
るんですよ」マルチはにこにこと無邪気な笑みを浮かべながら答えた。
 暇なので?
 セリスはもの問いたげに葵の方を見た。
 葵はふーっと息を吐き出すと、
「まあいろいろあったんですよ…」と呟いた。


 >隆山温泉源流

 周囲には白い煙が立ち上り、むせ返るような硫黄の臭いが鼻を突く。
 足下の古びた橋のすぐ下にはぼこぼこと沸騰を続ける熱湯が腐卵臭と共に水蒸気を吹き
上げている。
 緑の森包まれたここは、人も立ち寄らない秘境のように見え、このすぐ下流には一流旅
館があり観光名所となっているのだということを忘れさせる。
 まるでA級指定危険化物の住まう土地のようにこの世ならぬ幻想を抱かせてくれるのだ。
 足を滑らせればすぐさま熱湯の池に転落してしまうという恐怖もこの場所を『地獄』と
称する一因であったろう。もっとも、最大の理由はこの隆山市自身が『聖地』であり、文
字通り化物どもが闊歩していたことなのだろうが。
 さて、硫黄のため緑も生えないこの不毛の地に、今数名の人影があった。
 皆一様に揃った服を着ており、真剣に熱泉を覗き込んでいる。
 「鶴来屋」というロゴが入った羽織を着ていることからどう見ても温泉の整備に訪れた
鶴来屋スタッフのようにしか見えないが、実は違う。
 言わずと知れた東鳩チームの一同である。
 この場にいるのは琴音、理緒、雅史、美加香の四人だった。
 志保は科学的計測のために、綾香は地脈を調べるために別行動を取っている。
 葵は缶ジュースの買い出しのため鶴来屋に戻っている。
 マルチはといえば何もすることがなかったため自発的に掃除を始めたが、そこに訪れた
鶴来屋のえらいさんに気に入られてフロント体験をさせてもらっている。とはいえただや
って来た客に笑顔で出迎えるだけなのだが。
 そして、芹香は。
「ずるいずるいずるいずるいずるいーーーーっ!」とうとう理緒が切れて喚き散らした。
「あたしたちに働かせて自分一人事務所に残るなんてずるすぎですっ!」
 芹香は書類整理をする、ということで事務所に一人残っていた。
 遊んでいるわけではないのだから不当に糾弾されるのは芹香にとっては不本意なことだ
ろうが、理緒にとっては生殺し状態よりも事務所にいた方が良かった。
 その理由は彼女の呟きを聴けば明白だろう。
「ううう、ごちそうごちそうごちそうごちそう…ただ飯〜っ!」
「とことんまで意地汚い奴」と呆れた雅史が半眼で呟いた。
 雛山 理緒、骨の髄まで貧乏症な女。
 ちゃんと普通のサラリーマン以上の収入がありながらいつも窮々としている謎のサイフ
の持ち主である。どれぐらい貧乏かというと、東鳩SS行きつけの喫茶店「河豚風味」で
一つ200円のシュークリームを食べるためにひたすら琴音の顔を一時間凝視し続けたと
いう逸話を持つぐらいである。なお琴音はこのあと見つめられすぎて気分が悪くなり、自
分の分まで理緒に差し出した。
 一体何に使えばここまで貧乏になれるんだろうか、と一同不審にたえない。
「まあ、事件解決までちゃんとした宿さえあてがわれませんからね」と少しだけ美加香が
同意する。
 何故こんなことになったのかというと…。
 早い話、予算の問題である。
 鶴来屋から持ち込まれた仕事は、温泉で客が行方不明になる事件が多発しているので、
原因を突き止めて排除して欲しいというものだった。
 鶴来屋との契約によって、調査にかかった一切の費用は向こうが負担してくれることに
なったのだが…。会長の柏木 千鶴の出した契約書にサインする時点で、芹香は重要なこ
とを見落としていた。
 「なお、一般客の無用の混乱を避けるため任務遂行期間中は当社スタッフとして行動し
ていただくことをご了承願うものとする」という一文である。
 つまり、任務が終わるまで彼らの待遇は従業員レベルのものなのであり…。
「うぇーん、御馳走〜〜〜〜〜!」と理緒が泣くように仕事が終わらないと鶴来屋からの
サービスはない。従業員が一般客室に寝泊まりしたり御馳走を食べたりというのはいかに
も不自然である。
 なお、この契約書のせいでまだ見ぬ柏木 千鶴は東鳩SS社員達からは絶対的に低い評
価を受けてしまっていた。出納係の綾香にしてみれば「敵もさるもの」となるが。
 まだまだ喚き続ける理緒は放って置いて、琴音はじっと温泉を見つめた。
 ぼこぼこと泡を立てる熱湯は、ここに落ちれば生きては地面を踏めないだろうと思わせ
る。琴音はごくっと唾を飲み込んだ。
「美加香ちゃん、温泉の化物って何なのかな?」と琴音が側に立つ美加香に訊いた。
 腕組みして美加香は思考を巡らせる。
「うーん、知らないうちにお客さんが行方不明になっちゃうんだよね。河童に引きずり込
まれるとか」
 聴いていた雅史がぷっと吹いた。
 むっとして美加香は雅史を見る。
 雅史は笑いをこらえながら、美加香に弁解する。
「あ、ごめんごめん。あんまりアナクロなこと言うもんだからつい…」
「ひどいなぁ、もう。じゃあ先輩は何だと思うんです?」
「そうだね、ケルピーとか…」
 ケルピーとは美女に化けて人間を誘い込み、水中に引きずり込んで内蔵を貪り食うとい
う馬の姿をした妖精である。もちろんその歴史は河童より遥かに深い。
 アナクロって範囲を超えている意見である。
「先輩の方が古いじゃないですか!」
「いいんだよ、ここは日本なんだから舶来ものは新しいんだ!」
 いがみ合いになってゆく二人。琴音はおろおろと二人を見回していたが、やがてある決
意をした。
「…あの、どっちにしろ温泉には河童もケルピーもいないと思いますけど」とおずおずと
琴音が突っ込み、美加香も雅史も沈黙する。
 足下ではぼこぼこと湯気が立ち上っている。
「何も異変はありませんね」とやがて美加香が息を吐いた。
「まさかこの中に潜るわけにもいかないしね」と雅史が頷く。
 琴音はぼーーーっと焦点の合わない目で立っていたが、やがてふらっと体の重心を崩す。
「あぶないっ!」
 咄嗟に美加香と雅史が手を伸ばし、琴音は温泉に沈むすんでで襟首を捕まえられた。
 首がしまり、はっと琴音が意識を取り戻す。
 自分の足下10センチで弾ける泡を見て、眼を白黒させた。
「暴れるなっ!」と雅史が叫び、なんとか平常心を保つ。
 やがて二人はなんとか琴音を引っ張り上げた。
 当の本人はまたぼーーっとした眼をし始め、かえって引っ張り上げた方がどきどきして
いる。
「琴音ちゃん、何やってるのよ」と美加香が非難した。
 琴音は頭を押さえて、ううっと呻く。
「頭が痛くて何も考えられないんだけど…」と琴音が辛そうに弁解した。
 雅史がぱちっと指を鳴らす。
「ああ、硫黄に当たったな。今すぐこの場を離れた方がいい。何もないみたいだしな」
 美加香は素早く琴音を背中に背負うと、早速歩き始めた。
「御馳走…ただ飯…」
 まだ中空を眺めて呟いている理緒を見て、ついつい美加香は蹴り飛ばしたくなった。
 琴音を連れた美加香が視界から消えた後で雅史は問答無用で理緒に蹴りをかましたこと
は言うまでもない。


 >鶴来屋ロビー

「あ、おかえりなさーい」とマルチが相変わらずの惜しみない笑顔を浮かべた。
 結局帰ってこなかった葵が向こうからやってくる。
「美加香さん?どうしたんですか?」
「琴音ちゃんが硫黄にやられて倒れちゃって…」と呆れ半分という表情で説明してやる。
「悪いけど、琴音ちゃんを休ませるからそっち持ってくれない?」
 言われるままに葵はぐったりとして目をつぶっている琴音の片腕を取って、肩に回した。
「どこに連れていきましょうか?」
 と言われても場所は一つしかない。
 臨時従業員部屋である。
(でも、あそこ空気が悪そうだしなぁ…)と美加香はちょっとためらった。
 かといってこのままロビーに置いておく事も出来まい。
 仕方なく連れていこうとしたとき、ぽんと美加香は肩を叩かれた。
 振り返ると人懐っこそうな笑みを浮かべたセリスが立っていた。
「あれっ!?何でこんな所にセリスさんが?」
「慰安旅行だよ」とこともなげに答えてから、セリスは「美加香ちゃん、話はマルチから
聴いたよ。俺達の部屋で休ませるといい」と声を掛けた。
「え、いいんですか?」と半信半疑といった調子で美加香が聞き返す。
「もちろん。美加香ちゃんの友達し、知らない人でもないしね」
 葵は信じられない思いでセリスを見ていた。
 この男にこんな度量があったとは。いつも仕事の邪魔をしてきたりマルチ以外の人間を
邪険に扱ったりといったマイナスイメージしか見ていないので、奇異な思いを禁じ得なか
った。
(でも、マルチさんへの点数稼ぎかも知れないし)とも考える。
 特定の人間には寛容になれない、ちょっと屈折した葵だった。
 美加香はぺこりと頭を下げた。
「すいません、お手数掛けます」
「ああ、気にしなくていいよ。なにせ美加香ちゃんは風見の…」
 美加香はセリスの顔を見つめた。
(その、風見って言う人はどんな人なんですか)
 今まで何度も思い、そのたび恐くて言い出せなかったその問いを吐こうとして美加香は
唾を飲み込む。
 そして口に出そうとした瞬間、セリスが焦点になった視界の端で何かが動いた。
 何か見逃せないものを見たような気がして、集中がそちらへとわずかに逸れる。
 心臓がどきりと跳ね上がった。
 慌てて琴音の手をふりほどき、セリスの横から顔を突き出すが、もうそこには誰もいな
かった。
 わずかな時間の内で消え失せるなどあり得ない。
 とすれば、やはりあれは見間違いだったのだろうか。
 彼女がここにいるわけはないのだが…。
「美加香ちゃん?」とセリスが不思議そうに訊く。「どうしたの?」
 我に返った美加香は、数回首を振った。
「いえ、何でもないです。ただ、知ってる人がいたような気がしたから」
「どうだったの?」と葵が訊く。
「いえ、やっぱり誰もいませんでした。見間違いでしょう」そう言って明るい笑いを浮か
べてから、美加香は琴音の腕を取った。「さ、早く連れていきましょう」
 そうすることで先ほどの疑念を忘れようとしたのかも知れない。
 だが、それでも彼女の不審感を拭い去ることは出来なかった。
 そして彼女は訊かねばならないことをきれいさっぱり忘れ去ってしまっていた。


 >鶴来屋「百合の間」

 だが、この後美加香が眼にしたものはもっととんでもないものだった。
 カレルレンとへーのきがいきなりぶっ倒れて高いびきをかいているのはまあ許す。
 その横でUMAが机に突っ伏しながら訳の分からない言語のプログラミングをしている
のも許す。
 このぐらいはまだ予想範囲内だった。
 問題は後一人である。
 浴衣を着崩したルーンが立て膝を付いて芋焼酎をかっくらっていた。
 しかもその前にはのしいかと柿の種とビーフジャーキーが置いてある。
 周囲には焼酎瓶が三本ほど転がっていたが、ルーンの顔は素面そのものである。
 長髪にクールな顔立ち、いつもグラスに注いだワインを飲み、どんなに暑くてもコート
を脱がない、貴公子然もしくは若侍といった雰囲気を湛え、性別不祥な魅力を持つ彼が、
である。
 素敵に似合っていなかった。
 ってゆーかまるっきり温泉に慰安旅行に来たオヤジの格好である。
 美加香と葵の中でこれまで積み上がったルーンのイメージががらがらと音を立てて崩れ
去っていった。
 愕然としている二人を見て、セリスが目頭を押さえる。
「俺だってほんの一時間前までこんな光景夢にも思ってなかったさ…」
 ということはたった一時間で焼酎瓶三本空けたことになるのだが。
 ルーンは眉一つ動かさず、コップに注いだ芋焼酎をあおった。
「不躾な奴等だ。いきなり入ってきて人の酒をまずくして欲しくないものだな」
 そう言いつつのしいかなど口に運んでみたりする。
 手慣れた動作で、とても二十歳を過ぎたぐらいには見えない。
「俺が呼んだんだ。悪いが、琴音ちゃんをここで休まさせてもらうぞ」
 とセリスが言うと、ルーンは再びコップに芋焼酎を注ぎつつ頷いた。
「好きにするがいい。俺には関係のないことだ」
「ところで…」セリスが呟く。「局長、頼むから乙女の夢を壊すのは止めてくれ」
 ここで初めてルーンは感情を少し剥いた。
「お前は温泉に来てワインを飲めと言うのか!?温泉には温泉の過ごし方があるのだ!」
 葵は悟った。(この人、温泉を愛してる!)
 美加香はそんなルーンを見て、顔に壮絶な笑みを浮かべた。
 そして奥の方に入っていくと、冷蔵庫の上からコップを取り出して帰ってくる。
 どん、とコップをテーブルに叩きつけるように置くとルーンを睨んだ。
 ルーンはふっと薄く笑いを浮かべる。
「俺に無言で命令するとは、貴様なかなかやるではないか」
 そう言いつつとくとくとコップに芋焼酎を注いでやる。
 美加香はそれをぐっと一息に飲み干した。
「いい呑みっぷりだ」とルーンは呟き、さらに注いでやる。
 これもまた軽く呑んでしまう。
「み、美加香ちゃん?」と戸惑ったようにセリスが美加香に声を掛けた。
 美加香は三杯目を飲むと、不敵な笑みを浮かべた。
「呑んでやる」
「へ?」
「乙女の夢を壊した報い、女の子より早く潰して償わせてやるっ!」
 目が据わっていた。
 ルーンは冷笑的な笑いを口の端に浮かべると、自分のコップと美加香のコップにぎりぎ
りまで酒をついだ。
「俺は誰の挑戦でも受ける!次の朝無様にひっくり返っている自分を発見して後悔するが
いい」
 セリスはちらっと葵を見た。
(決闘に参加してみるかい?)という意志表示である。
 葵は直ちにぶんぶんと顔を振る。
(そんな、滅相もない!)という強い拒否の意志表示である。
「セリス!酒がない。二、三本まとめて買ってこい」
「葵ちゃん、売店でするめ買ってきて。天干しね」
 既に戦闘準備を整えている。
「するめが好きなのか?」
「てんぺらだけで一本は軽いですね」
「貴様も豪の者だな」
「あっはっは」
 セリスは美加香をここに連れてきたことを激しく後悔した。
 葵もげっそりとやつれた顔をしている。
「セリスさん…」
「なんだ?」
「このことをみんなに言っても、誰も信じないでしょうね」
「多分な」
 いつの間にか眠ってしまった琴音の寝言を聴きながら、二人は売店に向かった。


 >インターミッション

 風は通らず、闇の中にはただ据えた臭いのする淀んだ空気が満ちている。
 照明は煌々と照らされてはいるが決して部屋の隅までも完全には光で満たす事は出来ず、
遠慮するようにただそこにあり続ける。
 もっともこの照明ではいくら性能を上げても、また増やしても闇を照らすことなど出来
まい。
 何故ならば闇とは照明に照らされない状態を指すものではなく、人の内から滲み出る心
の欠片であるが故に。そしてそれはまた悪夢となって人を害するものであるが故に。
 風が動く。
 それ自身の中に何か不可視のものが棲むかのように呻りをあげて風が舞い、出口を求め
て吹き過ぎてゆく。
 一人の男が扉を開けて部屋に入ってくる。
 ゆっくりと中に入ってきて、暗い部屋の中を見渡した。
 すると、不意に部屋の中央に足を組んだ男が現れた。
 椅子に座ったまま、ただ闇の一点を凝視している。
 突然そこに現れたように思えたが、そうではない。彼は初めからそこにいた。
 ただ、あまりにも当然だったために男は彼を見ることが出来なかった。
 あまりにも自然に闇にとけ込んでいたのである。
 闇に隠れていたのではなく、闇の一部となっていた。
「ハイドラント」と入ってきた男は声を掛けた。
 呼ばれた男はゆっくりと緩慢な動作で男を見返す。
 しかしその眼は決して眠ってはおらず、却って射抜くように鋭いものであった。
 黒ずくめの服装はよく見ればそれが「塔」の暗殺服であることに気付くだろう。
「貴様の顔を見るのも久しぶりだ」とハイドラントは呟いた。
 友好的でもなければ、敵意を含んでいるわけでもない。無感動なものだった。
 男も敢えてそれに必要以上の反応を示すこともなく、立ったままでハイドラントを見る
のみだ。
「彼女はどこだ?」
 ハイドラントは黙って部屋の奥の方を指してみせる。
 そこには扉があり、中からはぼそぼそと囁くような声が漏れてきていた。
 男はしばし訝しげな表情をしていたが、やがて得心して頷いた。
「ああ。そういえば、面白いものを拾ったと言っていたな」
 ハイドラントは応えず闇の一点を再び見つめ始める。
 男はそれでもハイドラントに声を掛けていった。
「かつてお前がしたことと同じ事だな。あのときの奴はなんという名だったかな…そう」
『風見 ひなた』
 二人の声が重なる。
 ハイドラントは肩をすくめると、男の顔を見た。
「『塔』に侵入して最高機密を盗み出そうとしたハンターだったか?」
 男の声にハイドラントはすぐに答えなかった。
 一拍置いてから、無機的な声で吐き出す。
「その男はもういない。俺が…殺した」
 男はちらっとハイドラントを見た。
 照明が少し強く輝いたように思う。
 ハイドラントの左腕が銀色に光を反射する。
「奴の死に顔は穏やかだった。…俺にはそれ以上語る言葉はない」
 男は鼻を鳴らすと壁にもたれかかった。
「仕事で殺した奴をいつまでも考えているような奴はいい暗殺者にはなれない」
「取り締まる側に言われたくない台詞だ」
 ハイドラントは素早く切り返した。
 男は答えない。
 青い制服が照明に強く照らされた。
 それが来栖川警備保障のものであることを知らない者はこの街にはいない…。


 彼女は魔法陣の上に横たえられた死体を最後にもう一度だけ見つめると、全ての感情を
吐き出すように呟いた。
「ああ偉大なる我らが主、生けとし生きる全てのものに苦しみと絶望を与え闇に追いやら
れし眷属に栄光と祝福を与えんとする大いなる御霊、魔王『苦痛の王』の名において我は
誓願する。今、我汝の忠実な僕にして御身に絶対の忠誠誓う者はこの者に新たなる命を与
えんと欲す。我の僕は汝の僕、全ては汝の御心のままに。願わくば、人の子にして汝の眷
属の心持つ者に、ふさわしき身体を与えんことを」
 それは詠唱だった。
 唄うような音階の繰り返しの後に、空気が振動し魔法陣が徐々に輝き始める。
 それから彼女はぴたりと一切の動きを止めると、魔力が集まってゆくのを眺めやった。
 空間が張りつめ、空気が凍り付く。
 彼女は聞き取れない言葉を数語呟く。
 ぴしりと空間にひびが走ったように見えた。
 魔法陣からほとばしるような力を感じる。
 吹き飛ばされそうに高まる波動の中を、彼女はゆっくりと歩いてゆく。
 一歩、二歩、三歩。
 足が地面から離れるたびに彼女の身体は浮き上がり壁に叩きつけられそうになる。
 それでも彼女は徐々に強くなる圧力の中を近寄ってゆく。
 そしてもはや物言わぬ遺体となった少女の額に手を当てると、いとおしげにその顔を眺
めやった。
「痛かったでしょ…辛かったでしょう。あなたは自分のために人を怨む事を知らなかっ
たのだから。でも、これからはあなたの欲するままに生きればいい…」
 そう呟くと、その手を取って手の甲に接吻する。
 彼女の囁くことは、すなわち…
「欲しいものがあれば、奪いなさい。憎いものがあれば、壊しなさい。あなたが耐えなけ
ればならない時期は、もう終わったのだから」
 …悪魔の囁き。
 やがて少女は目を開き、彼女の顔を静かに見つめた。
「生き残って、しまったのね」それが少女の第一声だった。


 >Bパート       

 >柏木家

 仲の良い姉妹、優しい従兄、温厚な叔父、温かい家庭。
 それらが全て失われてしまったのはいつの頃だったろうか。
 もうこの家の中には自分だけしかいない。
 一番上の姉も二番目の姉も従兄もここに帰ってはこない。
 叔父は二人ともどこかへ行ってしまった。
 三番目の姉はもはやどこにいるのかさえ分からない。
 少女はぎゅっと身体を縮こまらせた。
 初夏だというのに、寒そうに両足を抱えて座り込んでいる。
 いや、寒いのだ。不安なのだ。
 自分の周りの闇から吹雪いてくる風が恐ろしいのだ。
 冬場に雪原に放り出されたリスのように丸くなってただじっとしている。
 少女はどこにも行くことが出来ないのだから。
 孤独という名の寒さから身を守るにはそうしているしかないのだから。
「みんな、帰ってきてよ…」我知れず漏れる呟き。
 そしてその言葉のあまりの冷たさに少女は少し震えた。
 がらりと背後で襖の開く音。
 はっとして振り返った。
 闇の中からただただ自分を見つめる眼。
 だが、そんな不気味な視線でさえも今の彼女にとってはないよりましだった。
 たとえそれが次の瞬間に彼女を貪り尽くしてしまう獣のものだったとしても。
 微かな期待を込めて初音は闇の中を凝視する。
 ふっとその眼が優しく揺らいだ。
「初音様、ここにいらっしゃったのですか」
 名前を呼ばれた少女は顔を上げると、声の持ち主の正体を見極めようとする。
 すぐにその正体も知れた。
 まだ二十代に手が届いていなさそうな、生真面目そうで線の細い少年が初音に笑顔を向
けていた。
「ゆきちゃん!?」
「はい。ただいま、戻りました」
 そう言い終わらないかどうかという内に、少年の胸の内には少女の小さな身体が預けら
れていた。
 少年はちょっとよろめいたが、それでも微笑を絶やさぬまま少女を胸の内に置く。
 いろいろと訊きたいこともあったのだが、少年はしばらくその胸を少女に貸して置いて
やっていた。少女の眼から流れ続ける滴が少年の服に皺を付けていたから。
 その皺がこれまで二人が会っていなかった分の時間だと思うと、少年は彼よりももっと
小さい身体の持ち主を引き離せられなくなってしまった。
 やがて十分ほどして、ゆっくりと少女は彼から身体を離す。
「ごめんね、ゆきちゃん…お洋服に皺が…」
「いえ、気にすることはありませんよ」
 少年はにっこりと笑うと、少女の頭を撫でた。
「一体何故一人っきりで電気もつけずこんな所におられたのです?千鶴様も梓様も耕一様
も祐也様もみんな鶴来屋に…」そこまで言って、ゆきは言葉を止めた。
 初音の顔が深い悲しみに沈んでいる。
 これ以上の追求に良心の呵責を覚えたが、初音は弱々しく笑うと首を振った。
「ううん。私が悪いの。ただ、あそこにいたくなかったから…」
「姉君様の元にですか?」
「…うん」
 ゆきは焦らなかった。
 ただじっと初音の言いたいだろう事が言われるのを待った。
 昔からずっとそうしてきたように、二人は沈黙の中で喋っている以上に雄弁に喋った。
「私、恐い。千鶴お姉ちゃんも梓お姉ちゃんもなんだか違うの。私の知ってるお姉ちゃん
じゃないの…」
 そこまで言って、初音はがたがたと震えだした。
 もしそこに布団があったら、頭から潜り込んで明日を待とうとしただろう。
 子供の頃にそうしたように。
 だがもう初音は子供ではないのだ。
「楓お姉ちゃんもどこかに行っちゃうし…私、ひとりっきりで恐くて…」
 初音の眼にまた涙が浮かぶ。
 だが、それはすぐにゆきの人差し指によって取り除かれた。
「あっ」
「馬鹿なことを言ってはいけませんよ初音様」
 初音はどきっとした。
 やはり怒られるのか。姉に、一家の当主の陰口を言ったことを責められるのか。
 かつてはなんでも以心伝心で通じた彼も三年の年月の内に心が離れてしまったのか。
 挙げられたゆきの腕は初音の背中に回された。
「あなたは決してひとりなどではありません。僕たちは二人です」
 初音はそこでやっと自分の間違いを知った。
 布団などに潜る必要などどこにもないのだ。
 それよりももっともっと頼りになる人がすぐ側で自分を守ってくれるのだから。
 初音は手を伸ばしてゆきの手を取ると、眼を閉じて呟いた。
「ゆきちゃん、ここにいてね…」


 >鶴来屋温泉

「ちぃっ、あとちょっとだったのにな〜!」
 そんな元気な声を上げた美加香を、琴音は汗を垂らしながら見つめていた。
「み、美加香ちゃん…ホントに大丈夫?」
「へ?何が?」本人はけろっとしている。
 琴音ははあっと息を吐くと、呆れ顔で親友の顔を見やった。
 なにせ起きてみると美加香がルーン相手に酒の呑み比べをしていたのだ。
 しかもセリスと葵にパシリやらせて、あまつさえルーンは浴衣など着てみて。
 さすがの琴音も自分の見ている光景が夢ではないかと思ったほどだ。
 だがそれがどうやら現実らしいと悟ると、慌てて琴音は美加香の手から芋焼酎の瓶をぶ
んどった。
 恐ろしいことに二人の顔色は全く変化なく、眼の焦点もあっていた。
(「あ、いいとこなのに!」)
(「無粋な邪魔を入れないでもらおう!」)
 おまけにどちらのろれつも回っていたのが恐ろしい。
 放って置いたら旅館中の酒を飲み干したんではないだろうかとさえ思えてくる。
 そして今に至るまで美加香は極めてしゃんとしている。
 こりゃこの子と一緒にはお酒飲みにいけないな、と実感してしまったほどである。
 まあ、そんなエピソードはさておき温泉である。
 従業員扱いの彼女たちの入浴は当然一番最後、温泉が立入禁止になった後だ。
 今日は誰一人行方知れずにならず、無事に一日が終わった。
 その分何の進展もなかったのが。
 まあ、明日から頑張ればよい…。
 二人は適当に服を脱ぐと、ざぶりと岩風呂に肩まで沈めた。
 ふーーーっと息を吐く。
 ふと上を見上げれば、満天の夜空が二人の真上に広がっていた。
 わあっと琴音は声を上げた。
 聖地では何故か工業汚染が少ない。
 重工業系の大企業が集中している都市なのに、である。
 理由は分からない。
 ただ、このために昔から聖地はもっとも危険で、もっとも自然の美しい場所と称されて
いる。
「美加香ちゃん、きれいですね…」
「ホント…絶好の星見酒よね」
 ………………………………………………………………………………………。
「飲むなー!」がしゃーん。
「あーーーっ!?」美加香の絶叫が空に響く。
 酒が混じってしまった湯の中で、美加香はうるうると涙目で銚子を振った。
「せっかくのお酒がぁぁ」
「急性アル中で入院したいんですか?」琴音はさすがに半眼で呟くように訊いた。
 美加香は諦めたらしく、何も言わず手ぬぐいを絞って頭の上に載せた。
 琴音も真似して頭の上に置く。
 二人の頭の上を流れ星が一つ流れてゆく。


 >鶴来屋地下シークレットルーム

 今をときめく大企業の会長や暗殺組織の総帥などが居並ぶ。
 そんな中で、岩下は滲んでくる汗をそっとふき取った。
(さすがに全員揃うと凄まじい威圧感がある…)
 彼に与えられた立場は、暗殺組織の副総帥だ。
 だが、それがただの仮面でしかないことは誰よりも良く彼自身が知っている。
 十数人のメンバーの中、際だった美貌を持つ女性がいた。
 机に肘を立て、不敵な笑みを浮かべている。
「本日はようこそお集まりいただきまして、私としても光栄の至りでございます」
 彼女の名は柏木千鶴。
 全国の旅館グループの雄たる柏木の名を背負った美しき才媛だ。
 側にいるだけで圧倒的な迫力が伝わってくる。
 岩下はこの女性に気圧されている自分を発見し、ごくりとくだしにくい唾を飲んだ。
(この僕が気圧されている?なんて女性だ、この人は)
 彼女を取り巻くのはいずれも裏世界の実力者達だが、そこに老いたものはいない。
 いずれも最高で三十代、といった年齢ばかりだ。
 彼ら全て、実力でその座を奪い、キープしてきたのだ。
 いずれ来る、この時のために。
 なお、彼ら全てにはある共通点がある。
 いずれも隆山市に本社を持つ企業のボスばかりであるという事だ。
「本日は現在進行している『計画』の報告と新たなる提案のためにこの集会の場を設けま
した。それではまず…」
 机の上の資料を持ち上げながら言う千鶴だったが、その声は途中で遮られた。
 こめかみをひくひくいわせている世界最強の暗殺組織の総帥…久々野彰が手を挙げてい
たのだ。
「何でしょうか、久々野さん?」
「いや、大したことじゃないが…あいつは一体何のつもりであんな格好をしている?」
 先ほどからちらちらと寄せられていた視線が一気に一点に集中する。
 ルーンはきょときょとと周囲を見渡してから、首を傾げた。
「お前だ、お前!十月処理者派遣局局長ルーン!」
 久々野の怒号にルーンは不思議そうに声の主を見返した。
「どうしました総帥?」
「分かっているだろう!その格好は何なんだ!?」
 ルーンは少しだけ下を見て自分の服装を見た。
「浴衣ですが」
「ほぉ」久々野の口に牙が生えたように見えた。「貴様は大事な会議によりにもよって浴
衣であらわれるのか?」
 ルーンは心外だ、というように首を振ると浴衣をつまみ上げて見せた。
「浴衣を馬鹿にしてはいけません。世界一優れた温泉の為の装備です」
「お前はここに温泉に入りに来たのか?」
「いえ、これを用意して下さった鶴来屋さんの好意に応えようと思いまして」
 千鶴はつつと一筋汗を垂らしながら、咳払いした。
「ルーンさん、お気持ちは嬉しいのですが規約に『洋室には浴衣で入らないで下さい』と
書いてあったはずです」
 ルーンは納得して掌を鳴らした。
「成る程、これは気が付かなかった。どうもご丁寧にありがとうございます」
 久々野はひきつった顔を持て余し、わなわなと震えた。
 その横では月島が必死に笑いをかみ殺している。
 岩下は一瞬この男流のパーティージョークをかましているのではないかと疑ってしまっ
た。
 無論そんなことはなく、ルーンは至って真剣な顔をしていた。
 この場にセリス、葵、琴音の誰かがいれば必ずこう断言したことだろう。
「この人、酔ってますね」
 全くその通りである。
 千鶴は汗を拭いて、咳を一つして喉の調子を整えた。
「なんだか報告という雰囲気ではなくなってしまったので、ここらで一つショーなどを 
お見せしましょう」
 そう言って、千鶴はぱちんと指を鳴らした。
 途端にゆっくりと上からスクリーンが降りてくる。
 一同はまじまじとそれを凝視した。
「これは、新たに加わった変化の要因をテストするものです。試させていただこうではあ
りませんか、その力のほどを…」
 それは明らかにある一人を狙った一言だったが、その人物は黙ったまま何も語ろうとは
しなかった。
 そして、そこに一匹の化物が浮かび上がった。


 >隆山温泉源泉

 ジンはじっと腕を組んで煮えたぎる熱泉の前に佇んでいた。
 硫黄の腐卵臭も彼には何の効果もないようである。
 古人が地獄と呼んだこの源泉も、彼の前ではさほどの恐怖とはなり得ない。
 修羅場も地獄もくぐり抜けてきた彼には。
「三年ほど会っていなかったか?」
 不意にジンは呟いた。
「はい。修行の旅に出ておりましたので」
 背後から返事が返ってくる。
 ジンはそちらに目を向けもしない。
 ただ、黙って眼前の光景に見入るのみである。
「三年か。それだけあれば人も変わる。少々たくましくはなったようだな」
「あなたにはまだかないませんでしょう。西山さんにも」
 ジンは口の端に苦笑を浮かべると、首を振った。
「追従などいらん」
「まさか」声はやや動揺したようだった。
 ジンが浮かべたのは実は苦笑などではなかった。
 右腕を掲げると、左の拳で思い切り殴りつける。
 高い金属音が闇に響いた。
「こんな身体になった者は武闘家とはいわん。殺戮機械というのだ」
 それは、自嘲。
 背後の声が静まり返る。
 言うべき言葉が見つからないようだ。
 ジンは機械の腕を再び黒い戦闘服に包むと、ポケットに手を突き入れた。
「まあ、気にすることはない。俺は俺だ。それだけは変わらん」
 背後の声は、それを聴いて何かを言いかけた。
 だが、やはり躊躇する。
 ジンはわずかに身じろぎして、先を促した。
 意を決したように空気を吸い込んで、声は言った。
「あの、知ってた人が全然違う人になるって事はあるでしょうか」
 しばしの沈黙。
「金で変わる人間もいれば、愛する者を守るため変わる人間もいるさ」
「……………………………………………そうですよね。そう…いうことなんでしょうね」
 その声は納得する、というより自分に言い聞かせているように聞こえた。
 ジンはそこで初めて背後を振り返った。
「一体何故突然そんなことを言う、ゆき」
 ゆきはしばらく下を向いて迷っていたようだったが、やがてジンを見上げた。
「初音様が、今の環境に不信――――――――――」
 そのときPHSが鳴りだし、ジンは舌打ちしてそれを手に取った。
 軽く眉を吊り上げ、短く答える。
 話の腰を折って済まなかったな、と言いたげな顔をすると、ジンはポケットから一つの
宝石を取り出した。
「仕事の時間だ」
「ええ」
 ゆきも頷くと、ジンの後ろに回る。
 宝石を湯の中に放り込み、ジンはぼそりと言った。
「初音ちゃんはいい子だ。大事にしてやることだな」
 絶句の後、ゆきはこくりと頷いた。
「ええ。当然じゃないですか」
 少しジンの頬が赤く見えた。最早血すら通わぬ身体だというのに。


 >鶴来屋岩風呂

「ん?」美加香はきょときょとと周囲を見渡した。「今、揺れなかったっけ?」
「さあ?」と琴音が応じる。
 美加香は不思議そうに首を傾げた。
 まあ地熱で温まってるんだからそんなことだってあるかもしれない。
 そんなことを考えてくると、琴音が近くまで寄ってきた。
「ところで美加香ちゃん」
「何?」
 琴音はにっこりと笑うと、ボソッと訊いた。
「今晩はどこで寝るの?」
「何だって?」
 美加香は真剣に意味が分からずに問い返した。
 琴音はぽっと顔を染め、美加香の背中をぺしぺしたたいた。
 もう、わかってるくせにぃ☆と言いたげな感じだ。
 しばしそのフレーズを頭の中で繰り返してから、美加香はぶっと吹き出した。
「なななな、何てこと言うのよーーーーっ!」
「え?美加香ちゃんなら佐藤先輩の部屋に夜這い掛けるくらい平気ですると思ったのに」
 その表情は思いっきりマジだった。
 美加香は頭を押さえてへたへたと脱力する。
「あのねぇ…いくらなんでも、そんなことするわけないってば」
「でも美加香ちゃんは佐藤先輩が好きなんでしょ?」
「まあ、憧れはするけど………」
 確かに雅史はかっこいい。ストイックだし、ルックスもいい。
 だが、なんだか違う気がするのだ。
 雅史を通して何か別のものを求めている、そんな気がしてしまうのだった。
「美加香ちゃんなら壁に吸盤貼り付けて窓から侵入とかやりそうなのになぁ…」
 しないってば。
 そう突っ込もうとしたとき、美加香の全身にぞくりと悪寒が走った。
 それは琴音も同じだったようで、二人は目を合わせると慌てて岩風呂から飛び出した。
 間一髪。
 岩風呂から水柱が現れると、天を突かんばかりに激しく吹き上がった。
 二人は絶句してそれを見上げる。
 温泉から巨大な人型が現れるところだった。
「す…水神?」琴音が呟く。
 美加香は琴音の手を取ると、素早く脱衣所に飛び込んでバスタオルとナックルをひっつ
かんだ。琴音も自分のペンダントを身につける。
 とりあえず、これで対応も可能だ。
 美加香はきっと目の前を歩いてゆく水人形を睨み付けた。
「行方不明の犯人はあいつか…人間を襲って吸収してたのね」
「どうしよう、美加香ちゃん?」
 そうは言っても、すでに対処は決まっている。
 みんなを捜し出してあいつをぶっ倒すのだ。
 あれだけでかければ今頃本館の方でも察知してくれているだろう。
 岩風呂が本館から少し離れたところにあったのが味方したようである。
 美加香と琴音は思い切り息を吸うと、絶叫した。
「綾香さーーーん!志保さーーーーーん!」
「葵ちゃーーーん!理緒さーーーん!佐藤せんぱーーい!」
 と、そのとき頭上の人型がこちらを見た。
 二人の眼がまん丸くなる。
 そしてその巨大な足が地面に叩きつけられたとき、美加香は琴音を背負って全力でその
場を離れていた。
 先ほどまで自分がいた位置を踏みつけている人型を見て、琴音が頷く。
「うーーん、あんなのに踏まれたら死んでも死に切れませんよねぇ。水虫ですもん」
「琴音ちゃんて…なんか、凄い」美加香がつつっと汗を流しながら呟く。
 だが、そう言ってふざけていられる場合でもなかった。
 仕留められなかったことを知った人型は、二人の方を向いてずんずんと迫ってきたので
ある。
「のわーーーーーーーっ、こっち来たーーーーーーーっ!?」
「美加香ちゃん、あのサイズの人型って存在できないって知ってた?」
 化物は基本的にある程度の常識を無視する。
 まあ「非現実現象実体化エネルギー」を核にしている生命体なのだから仕方ないが。
 というわけで巨大な人型水人形も存在できる。
 が、まあこれはこの際どうだっていいことだ。
 なにせこの場合どうやって逃げるかが問題なのだから。
「こっち来るこっち来るこっち来るーーーーーーーーーーーーーーーーーー!?」
 美加香は絶叫しながらかけずり回った。
 ちなみに逃げているのは本館の方ではない。
 源流の方である。さすがにセキュリティサービスとしての意識はあるようだ。
「美加香ちゃん、すぐ後ろに来てるっ!」
「どひぃぃぃぃぃ!」
 二人は全力で逃げ回った。


 >鶴来屋地下シークレットルーム

「あらあら、てんでだらしないわね」と千鶴はため息と共に呟いた。
 スクリーンにはバスタオル一丁で逃げている二人の姿が映っている。
「これじゃあ被害が出ちゃうわね。ウチのスタッフに任せるわ」
 その一言はみよがしに叩きつけられた。
 だが、その人物はそれを軽く無視すると違う方向にちらりと視線を送った。
 送られた方はふっと笑うと、椅子を蹴って立ち上がる。
「ここで連中に借りを売っておくのも良かろうな」
 ルーンは浴衣に手を掛けると、ばっと脱ぎ去った。
 下からはいつも通りのフロックコートが現れる。
 久々野があんぐりと口を開けた。
「お、お前どうやってそんなのの上に浴衣を着てたんだ!?」
「愚問だな。真のプロはいかなる時もストーンを手放さないものだ」
 ルーンのコートの下に大量のストーンがあることを久々野は知っている。
 だが、それでも普通の者はコートの下に隠してもこんな行動はとらない。
 久々野は深く深くため息をついた。
「温泉に来たからといってそこまで酔うほど飲まずともよかろうに…」
 ルーンの息はちょっと酒臭かった。


 >隆山温泉源泉         

 ゆきは頭を抱えて千鶴からの指令を聞いた。
「あああ、手に負えないような奴なら初めっから解放するなぁぁぁ!」
「全くだ。尻拭いするのは結局俺達なんだよな」とジンが頷く。
 二人はそれぞれ武器を構えて敵の接近を待っていた。
 ゆきは一本の棒を、ジンはその血の通わぬ右手を。
 向こうからはずしんずしんという足音を立てて敵が接近してきている。
「ゆき、確認して置くが…奴は幸い基本的に美加香を追うように刷り込みを掛けてあるか
ら初めから俺達に攻撃を掛けてくることはない。その隙をつくぞ」
「はい。任せて下さい」
 二人の顔に不意に壮絶な笑みが浮かんだ。
 それはどちらも闘鬼の本能を刺激された故の歓喜か。
 それとも姫護の一族の使命を果たすことへの充足か。
 彼らはエルクゥにして姫護りし者の一族。
 種族の支配者たる姫を護るべく生まれし、種族最強の戦士達。
「災難だな、帰ってくるなりいきなり戦闘だ」
「初音様が起きてこられるまでに勝負を付けたいものですね」
 二人はわずかに視線を交わらせると、爆風吹き荒れる戦場へと突撃していった。


 >隆山温泉源泉付近

「何こいつ、全然効かないじゃない!」理緒が悲鳴を上げる。
 再び投げつけられた爆符は人型の身体を吹き飛ばしたが、その部分は見る間に再生して
いった。
 琴音はその足を食い止めるのに精一杯である。
 彼女のテレキネシスは見えるもの全ての動きを完全に押さえつけ静止させることが出来
るが、あくまで見える部分しか捕らえられない。
 敵の一部しか見えなければ、その視界に捉えた部分しか固めることが出来ないのだ。
 残念ながら琴音の力をフル使用するには敵は近く、巨大すぎた。
 葵と雅史も攻撃を繰り返しているが、素通りして全く効いていないようだ。
 美加香は敵の構成素である水に攻撃を加えているが、いくら水を吹き飛ばしてもすぐに
再生してしまう。
 綾香は後方から爪をかみつつその光景を見守っていた。
「ちっ、いくら水を払ってもすぐに補給されてしまうってわけか…!」
 志保のコンピューターの画面上には人型の姿が浮かんでいた。
 人型の背中に水のラインがつなげられており、そのラインは直接温泉につながっている。
 つまり、このラインがある限りはいくら奴の身体を構成する「水」を吹き飛ばしたとこ
ろですぐに復活してしまい意味がないのだ。
 このラインを切断しようと頑張ったが、いくらやってもすぐにつなげられてしまう。
 どうやら再生力はライン自体にも及んでいるらしかった。
「奴のコアさえ破壊できれば…」
 志保の呟きが虚しく響く。
 敵の身体の中央に確かにストーンが見えており、それが弱点に違いないのだがなにせそ
こまでの層が厚すぎた。
 いくら攻撃しても水の肉壁のせいで届かないのである。
「このままじゃキリがないわね…」綾香は額から流れる文字通り滝のような汗を手の甲で
拭った。
 なにせ、敵は温泉の熱湯で出来ているのだ。
 その源泉近い薄められていない温度は並大抵ではない。
 辺り一面はサウナにでもなったかのように高温に包まれていた。
「どうするの、綾香?このままじゃ負けるわよ」志保が綾香に視線を向ける。
「レミィがいてくれればあのストーンを狙撃することも出来たかも…って、ここにいない
人の事を考えても仕方ないわね…さて」綾香は鋭い視線で人型を睨んでいる。「まずいわ
ね…考えがないでもないけど、ここにいる連中じゃ役者不足だわ」
「では俺が代役を努めてやろうか?」そんな声がした。
 綾香は振り返るまでもなく少しだけ頷く。
 志保はぎょっとしてその人物を見た。
 十月処理者派遣局局長、ルーン。
「頼むわ。残念だけどあなたの力が必要みたいだから」
「承知した」
 そんなルーンの呟きを聴いてから……綾香は鼻をつまんだ。
「ちょっとルーン!?あんた酒臭いわよ!?」
「承知した」
 そう言い捨てると、ルーンは人型の方に向かい駆け出した。
 綾香ははあっと息を吐くと、頭を抱えた。
「あいつ、酔ってるわね…」

 葵の拳が再び敵の足を打った。
 だが、今度は敵はそれをかわした。
 そして逆にこしゃくな虫けらを吹き飛ばそうと蹴りを掛けようとする。
(まずい、当たったら死ぬ…)
「葵さん!?」琴音がはっとしてテレキネシスを葵に迫る足に向けた。
 足がぴたりと静止する…。
 だが、それは同時に彼女自身のピンチを将来するものであった。
 それまで琴音が押さえつけていた別の足が解放される。
「こ、琴音さん!?」理緒が気付いて叫びをあげる。
「危ないっ!琴音ちゃん、逃げて!」美加香が絶叫する。
 間に合わず、琴音の頭上に足が迫っていた。
 琴音自身は気付くこともなく、足は何の躊躇もなくおろされる…。
「おっと、そうはいかん」
 そんな低い声が聞こえた。
「見せてやろう。これが魔闘だ」
 瞬間、足の下から眩い光が迸る。
 それは一人の男の拳に下った凄まじいまでの電力によるものであった。
『神鳴(かみなり)』
 その囁きと共に、晴れていた天空から闇を切り裂く神の剣のように落雷が駆け下りてき
た。
 閃光が一同の眼を灼く。
 ルーンは静かな動きと共に、拳に溜まった雷による高圧電流を人型の足に叩きつけた。
 光に遅れてやってきた轟音は、まるでルーンの攻撃が敵に当たったときに発せられた音
のようにさえ聞こえ…。
 次の瞬間には敵の右足は掻き消えていた。
「電子分解…」と遠くから見ていた綾香が呟く。
 葵はごくりと唾を飲み込んだ。
 これが、世界最強のハンターの一人と目される男の技。
 自分などとの格の違いをまざまざと見せつけられた瞬間だった。
 人型はぐらりとよろける。
 だが、倒れる寸前に奴は右足をほんのわずかながら再生させて横転をふせいだ。
 しかし、その再生スピードは若干遅い。
「奴の弱点は…電撃!」そう叫んだ理緒の手の内には木行の雷符が握られていた。

「どうします、ジンさん。僕達の出る幕はないようですよ」
「ふむ…」
 ちょっと離れたところで隠れている二人はそう囁きあった。
「さすがはルーン。奴の右腕を誇るだけはある…」とジンは呟く。
 しかしそこには冷徹な目があった。
「だが、まだだ。如何に強力な戦士も一人では勝つことは出来ん」
「様子待ちですね」とゆきが言った。
「そういうことだ」

 しかし理緒の攻撃では敵に致命傷を与えることは出来なかった。
 いくら削ってもやはりキリがないのだ。
 そんな理緒をルーンは冷たい目で見た。
「未熟だ、貴様は。何故敵の補給を断たぬ?」
 そう呟くと、ルーンは人型のラインの側に転移した。
 そしてその手をラインの側30センチまで近づける。
『最果ての門叩きし拳』
 言葉と共に、世界が歪む。
 異界から召還された氷河期の吹雪がルーンの掌から照射された。
 今度は魔闘ではない。
 その根本となるもの、魔術である。
 魔闘は魔術を近接格闘用に改良したものである。魔術は世界法則に干渉して非現実現象
を起こすストーンエネルギーの使用を極限まで形式化して、基礎さえ出来れば汎用的に非
現実現象を起こせるようにした技術である。
 例えばへーのきの技「デスクラッシャー」は他人には伝えることの出来ない個人の能力
である。セリスの「霊波刀」も雅史の「エネルギーシュート」も然りだ。
 これは個人の資質によって生まれたもので、他人には教えられない。
 だが、理緒の符術は同様の訓練を受けた他人に伝えることが出来る。資質に関係なく、
ある土台さえ作れば他人に教えることが可能だ。
 魔術はこの符術と同様に、形式の上になり立つ汎用ストーンエネルギー使用法なのだ。
 もっとも、土台を作るだけの資質がなければ魔術は使えないのだが。
 ルーンの繰り出した氷の魔術は一気に敵のラインを凍らせる。
 はずだった。
「し、しまった…こいつは熱湯で出来ているから…凍りにくいのかっ!」
 ルーンの表情に焦りが生じ始めていた。

「出番が来たようだ、ゆき」
「ええ…!」
 ゆきは棒を頭上に構えた。
 よく見ると数多くの文字が刻まれているそれは、ゆきの気合いと共に青白く輝く刃を持
った槍となった。
 それを正眼に構えなおし、短く息を吸い込む。
「氷雪鬼槍流奥義…『氷河連槍(ひょうがれんそう)』!」
 叫びと共にゆきは神速の突きを繰り出した。
 冷たい輝きが空気をわずかに震わせる…。
 そして刃は空気から地面へと伝わり、たちまち地面を線一本走ったように凍らせる。
 槍の石突きに付けられた青い宝石が眩い光を放つと、途端に目を見張る大技が繰り出さ
れた。
 地面の線上に無数の氷岩が現れ、突然天高く連なる氷槍へと化した!
 人型のラインは地面から突出した氷刃に分断され、途切れる。
 そして氷槍はそのまま左右のラインをも凍り付かせてゆく。
「見事だ」ジンは賞賛の言葉を贈ると、前に飛び出した。
「美加香!やってしまえ!」
 その声に美加香は振り向き、目を見張る。
「ジンさん…!?」
 無言で彼が右手を人型に向けたのを見ると、美加香はジンの思惑を悟った。
「琴音ちゃん…あの人が攻撃を掛けると同時に、私を敵の中枢へと飛ばして」
 琴音はぎょっとして美加香を見る。
 以前ジンに気絶させられたことがあり、良く思っていないのだろう。
 だが美加香の真剣な眼に、思わず頷かずにはいられなかった。
 ジンの右手にストーンエネルギーが集まってゆく。
 その胸から赤い光が迸る。
「遊輝、いくぜ…」ふっとその双眸に安らぐような光が宿る。
 そしてそれはジン以外の誰にも聞き取れぬ囁きと共に掻き消えた。
 雄叫びの内に宿る獣の咆吼が右手を凶器に変えてゆく。
「死を呼ぶ哭嘴…『雷哭』!」
 空間をびりびりと振動させるエネルギー砲がジンの右手から放たれた。
 十分に力を貯められたその一撃は人型の胸板を鮮やかに削り取ってゆく。
「えいっ!」琴音はテレキネシスを解放した。
 再生できない人型の薄い胸に向かって突っ込んでゆく美加香は、理緒の行動を頭の中に
繰り返した。
 木行、雷符。
 忘れていた技を思い出させるキーワード。
 美加香はナックルに付いた宝石を煌めかせると、その手の中にエネルギーの場を作り出
した。
 それはいつしか黄色い大剣となり、美加香の手の中で安定する。
(……見えた!)
『木辰雷覇斬っ!』
 雷の剣は人型の胸を捉えると、その核ごと残った熱湯を切り裂いた。
 向こう側に突き抜け、ゆっくりと降下していくのが閉じた眼でも分かる。
 この技を教えてくれた懐かしい者の顔が蘇ってゆくような、そんな気分を味わいながら
美加香は意識を失った。


 >それぞれのエピローグ

「いやあ、命の洗濯よね〜」志保は手ぬぐいを頭に乗せてそう呟いた。
「志保って…婆くさい…」と呆れた眼で綾香が呟く。
 そんな彼女を見て、志保は眼を三角にした。
「何よぉ、ひどい言い種じゃないのよぉ」
「あんた、自覚ないの?」
「ふーんだ」
 志保はあさっての方を向くと心地よい湯に身体を委ねた。
 ようやく倒したものの、結構被害は出た。
 鶴来屋本体には被害は出なかったものの、温泉の源泉辺り一帯がぼろぼろになってしま
った。硫黄と熱のせいである。
 また、最後に手助けしてくれた謎の二人組の正体も分からずじまいだ。
 しかし志保には分かっていることがある。
 それは、あの水神の核のことだ。
 あのストーンは明らかに一度捕獲された化物のものだった。
 つまり、何者かがわざわざあの化物を呼び出して自分たちに倒させたのだ。
(おびき寄せられた、ってこと…)志保は苦々しく思ったものだ。
 何にせよ、面白いものではない。
「ま、いいか」志保はそう呟くと身体の芯から温まることにした。
 割り切らねばやって行かれまい。

 ルーンは先ほどからトイレに入ったまま出てこない。
 大量に飲んだ後で激しく体を動かしたので、思いっきり悪酔いしてしまったらしい。
 そんな彼を無視して、セリスとマルチはじっとベランダに佇んでいた。
「私も戦っていれば、あんなに苦戦しなくても済んだかもしれないのに…」
「もう気にしちゃ駄目だよ。マルチは戦うようには出来てないんだから」
「でも…」
 まだ言いかけるマルチ。
 だが、それを封じたのはセリスの唇だった。
 目を丸くするマルチだったが、やがてほっと息を吐くと自らも眼を閉じてそれに応える。
 長い長いキスの後、セリスはにこっと笑った。
「マルチの分は、僕が戦う。そして君に平和をあげるさ」
「セリスさん…」
 その上をまた一つ、流星が走り抜けていった。
 ベランダに立つ二人を横目で見ながら、けっとへーのきはコップをあおった。
「俺だってよぉ、警備保障時代は…おい、聴いてるかカレル?」
「聴いてまふぅ」
 そう答えたのはべろべろに酔った葵だった。
「でもってよぉ、いろいろな恋があったわけよ。死と隣り合わせの恋愛がよぉ」
「ところで、ルーンさんは本当に凄い人なんですかぁ?」
「ルーン!そうだよ、あの男だか女だかわかんねぇ馬鹿がよぉ、あいつのせぇで俺は警備
保障をやめにゃならないようによぉ…」
 カレルレンはとっくに酔いつぶれて葵の足下で眠っていた。
 UMAはやっぱりかたかたとキーボードを叩いていた。

「美加香ちゃん、いつまで泣いてるの?」と琴音は襖を開いた。
 真っ暗な部屋の中では布団を頭から被った美加香がすんすんと泣いていた。
 琴音は、はあっとため息をついてぽんぽんとその布団を叩く。
「ねえ、いくら着地の時にタオルが脱げて気が付くまで素っ裸だったからって…」
「思い出させるなぁ〜!」
 美加香の声が布団の中から響いてくる。
「もうお嫁にいけないよぉ〜!ううっ…」
 琴音は肩の上に手を挙げると、お手上げのポーズをして見せた。
 その隣の部屋ではがつがつと御馳走を頬張る理緒の姿があった。
「ただ飯〜!ただ飯〜!」
「お前、ちょっとは遠慮しろ!」雅史の蹴りの音がやけに鮮やかに聞こえた。

 そんな部屋の様子をカメラで見つめている者がいた。
 柏木千鶴。
 彼女の目は真っ直ぐ美加香に向けられていた。
「そう…『沈黙の鬼姫』の守護者の力…どこに行ったかと思えばこんな所にあったのね」
「だが、未だ覚醒していない。さらに力の大部分は未だ紅が持っているぞ」
 背後から聞こえてきた声に、千鶴は首を振った。
「問題じゃないわ。完全に揃えなければ意味がないもの…人も、石も」
 その冷たい言葉に、彼は困窮した。
「千鶴さん…」
「何?」
 だが、彼は何も言わなかった。
 言えなかったのだ。
 発言するのが恐ろしかったし、その反応を考えるのも恐かった。
 ジンは俯くと、美貌の主君の後ろ姿を見つめていた。
「あなたはあの子に付きなさい」
「は?」
「赤十字美加香の監視をしろと言ったのよ」
 ジンは承諾しようになったが、自らの立場を考えて自制した。
「俺が護るのはあなたの身体で…」
「ジン・ジャザム」
 千鶴の冷たい声にびくりとその身体が震えた。
 彼女自身の何倍の戦闘力を持っているにも関わらず。
「あなたは私の何?」
 その言葉に込められた恫喝を感じて…ジンは頷いて部屋から去った。
 しばしの時は流れる。
 千鶴は腕組みしたまま、虚空を見つめていた。
「彼女の見立てに間違いはなかったわね…」
 その言葉を聞く者は誰もいない。
 いや、敢えて一人挙げるならまだこの世界にすら来たらない者か。
「王よ、もうすぐです…」
 もうすぐ、あなたの御代が始まるのです。
 千鶴は笑った。
 その婉然たる笑みは会長室を埋め尽くし、そして鶴来屋自体を侵食していくようだった。

 全てに苦痛を与える者蘇りて、もって世界を滅ぼさん。
 人未だ大いなる運命の流れより逃れる術を知らず、ただ流されるのみ。                         
 『運命大典』

 Mission3:「温泉行方不明者調査指令」COMPLETED…

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 次回予告!

 来栖川エレクトロニクスに出没する謎の獣。
 その正体を突き止めるため、東鳩SSチームは潜入捜査を行う。
 だが、そこには恐るべき暗殺者が潜んでいたのだった。
 敵と勘違いされて襲われる東鳩SSチームは、やむなく十月と共同戦線を張る。
 彼らは無事に謎の獣を退治できるのか?
 そして暗闘に決着は付くのか?
 次回、「闇から迫り来る牙」。

 マルチ:「私も、戦わなくちゃいけないんです」
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ウォーターゴーレムだよぅ、海野田じゃないよぅ(笑)