東鳩ss 第一話「炎―始まりと再生と」 投稿者:風見 ひなた


第一話プロローグ

 その世界がいつ存在したのかという問いに答えることは簡単である。
 何時だって存在していたのだ…今までは。
 私たちが暮らす時間のうち、何時だって世界は生まれていたし、何時だって終
わっていたのだ。
 だが、これからはそうではない。
 世界は決められた時間しかそこに存在することはないし、零れ落ちた砂時計の
砂は決して元に戻ったりはしないのだ。

 いまから語られる物語は、時間が戻らなくなった世界の話。
 世界には化物達とそれを追うハンターが存在する、そんな世界の記録。

 今日も彼らは戦う、二度と戻ることのない夢を求めて。
 そんな夢追人(ゆめおいびと)達を人は呼ぶ。

 「東鳩セキュリティサービス!」


 第一話「炎―始まりと再生と」


>Aパート

 ―来栖川HM研究所―

『今日こそは十月(とおつき)の連中に負けるわけにはいかないわ!雅史、気
合入れなさい!』
「言われなくたってやってるけどね…」
 インカムから聞こえてくる志保のナビゲートに、伝わるはずもない頷きを返し
ながら雅史はひたすらに研究所内を走っていた。
 無論、ただ闇雲に駆けずり回っているわけではない。
 現在は目標の注意をひきつけて集中攻撃ポイントまで誘導する途中…つまりは
、囮である。
「くぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
「ひぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
 二つの叫びのうち後者は言うまでもなく雅史本人のものである。
 そして、前者は…
 スパークを起こしながら雅史を追う「電気トカゲ」のものであった。
 なかなかひょうきんそうな外見に見えるが、その風体に惑わされると痛い目を
見る。
 電気情報を食らうのみならず、その身体には100万ボルトの高圧電流が流れて
おり、無闇に触ると死に至る。しかも食うのは電気だけではなく、他の生命体
の存在自体を電気情報に変えて自らと同化する…つまり、捕食する。
 とんでもなくタチの悪い化物であった。
「志保志保志保志保ぉぉ!食われちゃうよぉぉ!」
『泣き言言ってる余裕が有るなら走りなさい!食われたくなけりゃ、だけど!』
 その場に居ないからといって無茶苦茶を言う。
 ところですぐ後ろの化物は高圧電流を発してはいるが、インカムには何の支障
もない。化物の電流はその表面十センチ程しか電界がなく、それ以上はぷっつ
りと影響が途絶えている。この辺りの存在のアバウトさが「化物」特有である。
『ほらほら!あと二十メートル走れば援軍が待ってるわよ!』
 雅史は内心で志保を呪いながら残る力を振り絞って廊下を駆けた。
 部屋の入り口からひょいと仲間達が顔を出している。
 ば…バトンタッチ!
 雅史が入り口を横切った瞬間、雅史を追ってきた電気トカゲに向かい仲間達
が総攻撃をかける。
 琴音がトカゲの動きを固め、理緒が御札を叩き付け、葵が気功弾を放った。
 たちまち閃光が場を満たし、トカゲの悲鳴が廊下をつんざく。
 雅史達は思わず目をつぶった。
 しかし、インカムから志保の叫びがかろうじて雅史達を油断から救う。
『油断しないで!まだ奴は生きてるわよ!』
 だが、遅い。
 トカゲの口が大きく開く。
 雅史は強烈な寒気を感じた。
 トカゲのブレスは強烈な電撃の風…狭い廊下では避けることは不可能!
「雅史先輩っ!伏せてっ!」
 その声に従い、雅史は素早く床に転がった。
 一瞬遅れて頭があった位置を疾風が駆け抜ける。
「烈炮(れっぽう)!」
 少女の叫びと共に繰り出された「力」の乗った突きは、トカゲの「電界を」ぶ
ん殴り、トカゲをふっ飛ばした。
 その威力は凄まじく、トカゲは廊下を飛び出し部屋の中まで飛んで行く。
 音もなくトカゲは向こうの壁にぶち当たって、アメーバのように広がり、へば
りつく。もともと電気の身体なだけに物理的なダメージは無効なのだ。
 ただし意図しない形で物にぶつかった為、その身体を多少壁に散らしてしまっ
てはいたが。
「大丈夫ですか、先輩!?」少女は雅史を助け起こす。
 雅史は少し咳き込むと、トカゲを睨み付けた。
「ああ、大丈夫だよ美加香ちゃん。それよりもあいつを…ぉ?」
 雅史の言葉の末尾が変だったのは理由が有る。
 トカゲはこっちを見つめながら、大きく息を吸い込んでいるのだ。
 しかも、それにつれてだんだんと腹が膨らみその輝きが増していく。
「あ、あれってまさか…」
 美加香の呟きを裏付けるように、雅史のインカムから志保のナビゲーションが
入る。
『雅史!あれはあの電気トカゲの十八番、電磁砲よ!超高圧の電流を空気中に
流してプラズマ放電させるわ!しかもレーザー状になるから要注意よ!』
「先に言ってくれよぉぉぉ!」雅史は半泣きになりながらインカムに叫んだ。
 インカムから漏れ出たナビはメンバー全員に聞こえたらしく、一同は蒼白にな
ってトカゲを見つめた。
「たたた大変!早く逃げなくっちゃ!!」と慌てる理緒。
 そんな彼女を見ながら、琴音は呟いた。
「………どこへ?」
 沈黙が場を支配した。
 所詮一直線の廊下である。逃げようもない。
 トカゲは息を最大限まで吸い込むと、じっと一同を見た。
 東鳩セキュリティサービスの面々は死を覚悟した。
 化物の口が勢い良く開かれようとする直前…
 突然天井から一つの影が落下してきた。
 黒ずくめである。顔は黒のゴーグル、黒のタイツのようなぴったりした服で身
を包み、黒いスポンジがついた靴。
 トカゲは本能的に危機を感知し、とりあえずこちらを焼いてしまおうと思って
か真上を向いた。
 東鳩ssのメンバーは見た。
 トカゲのブレスに包まれる直前、男のタイツが異様に膨れ上がり、中から新た
な化物が生まれ出たことに。
「鬼…!?」雅史は我知れず呟いていた。
 巨大な体躯をさらした化物は、超高圧放電に身を焼かれながらも、長い爪でト
カゲの首を吹き飛ばした。
 しかし、それが油断の元となった。 
 トカゲは新たな首を生やすと、十分に近づいていた鬼にブレスを放ったのであ
る。先ほどの放電に比べれば確かに威力も射程も小さいものの、それでも人間
一人焼き尽くすだけの力はある。化物の首を一撃で消し飛ばすほどの腕力の持
ち主といえどさすがに二発には耐え切れず、ぼろぼろに炭化していった。
 トカゲはにんまりと笑うと、燃え尽きる直前の男を睨み付けた。
 途端、消えるように男は電撃に同化していき、トカゲの口に吸い込まれた。
 葵は唖然とする雅史の袖を引っ張った。
「雅史さん、トカゲが堪能しているうちに叩きましょう!」
「あ、ああ!」雅史も我に返り部屋に飛び込んだ。
 そのあとには、ひとり頭を抱えて呟き続ける美加香が残った。
「鬼…?鬼…エルクゥ…九鬼(くかみ)…!?」
 彼女は、自分の横をすり抜けて部屋に飛び込む男を止められなかった。

 雅史達が再び攻撃をかけようと身構えたその時、トカゲは再び雅史達を振り返
った。
 再びブレスを吐こうとしている。
(まさか、おびき出された!?)
 トカゲの知能を甘く見た雅史が痛恨の悲鳴を洩らす。
 だが、その後ろからコートを着込んだ男がトカゲに突撃して行く。
 男は水の流れるような軽やかな動きでトカゲに近づくと、その結界に手が触れ
るか触れないかの位置で叫ぶ。
「怒槌(いかづち)!!」
 激しい騒音を立て、トカゲの姿が崩れて行く。
 スパークがいつになく激しく起こり、絶えることのないフラッシュが周囲を照
らす。
 数秒間雅史達はその余波を食って苦痛のうめきをあげた。
 彼らにとって悪夢のような、異様に長く感じられた化物の抵抗もやがて収まっ
た。
 恐る恐る目を開けた雅史が見たものは、黄色い宝石を指の間でもてあそんでい
る男の姿だった。
「やあ…また俺達の勝ちのようですね」そう言ってコートの男は不敵に笑った。
 時期外れの厚手のコートを着込んだ、理知的な雰囲気の男である。
 その表情は穏やかだが、決して親しみやすいものではない。その表情の裏の冷
酷な人格を隠し切れていない。清水の輝きをたたえた白刃を包む水晶の鞘、わ
かりにくい例えではあるがそういった感じの仮面だ。
 穏やかで美しく、中性的ですらあるが、心安らぐ輝きではないのだ。
 雅史は男を見て腹の底から響いてくるようなうめきを洩らした。
「あなたは『十月』の…」
 男は宝石をコートの内ポケットにしまうと、くすりと笑った。
「…『十月処理者派遣局』局長、ルーンです。いい加減覚えていただきたいも
のですね。もう十回もあなたがたに勝っているのですから」
 雅史は食って掛かろうとして、押え込んだ。
 これも仕事。今回の依頼は競争だったのだから。
 早く倒した方が依頼料をもらう、このやり方には雅史本人も同意したのだ。
 ルーンはわずかに礼をすると、雅史の横をすり抜けて行った。
「では俺はこれで失礼しますよ。なにしろ少数精鋭なので、仕事が余ってしま
っているのでね」
 雅史は歯噛みしてルーンが横を過ぎるのを見送った。
 葵達はかける言葉もなく、ただ心配そうに雅史を見る。
 やがて、インカムから志保の声が聞こえてくる。
『残念だけどあたし達の完敗よ。ルーンは電気トカゲの電荷をすべて中和して
消滅させたわ。見事としか言いようが…』
 がしゃぁぁぁぁあん!
 床に叩き付けられ、インカムは沈黙する。
 琴音と理緒はそんな雅史に背を向け、部屋を退出して行った。
 雅史は荒く息をついて、部屋中のものを蹴り飛ばし始める。
「…くそ。くそ。くそ、くそぉぉぉ!浩之が居ればあんな奴に負けたりしなか
ったんだ!浩之さえ居ればあんなトカゲごときに後れを取るはずもなかったん
だ!浩之が居ればルーンなんかに…」
 ………。
 雅史はそこまで言って、立ち止まった。
 椅子に座り込み、落胆する。
「ちくしょぉ…」
 励ますつもりだった葵も見るにたえず、美加香を抱き起こすと密かに部屋を出
て行った。
 我に返った美加香は葵に連れられながら、部屋の中の雅史を見た。
 彼女は、他のメンバーのように気味悪いとも暴力的だとも思わなかった。
 ただ、荒れる雅史を見て…可哀相だと、それだけ思った。

 雅史は誰もいない部屋で、独り呟いた。
「浩之、早く帰って来てくれよ…僕が壊れる前に…」
  

>インターミッション

 ここからは町が一望できる。
 自然の豊富なこの町の美しい風景は彼女の心を慰めてくれる…だが、この町の
どこかに今も化物達が牙を剥くチャンスを狙っている…。
 そして、その化物に止めを刺すチャンスを彼女は見す見す逃した…そう思うと
、彼女…赤十字美加香の心は深く沈んでいく。
 特に大きな失敗だったわけではない。
 むしろ、一同を救った活躍は誉められていい。
 だが、それでも美加香は責任を感じる。
 初撃で総攻撃に参加出来ていれば…一撃でトカゲを倒せたかもしれない。
 あそこで遅れたのは、美加香自身に気のゆるみがあった為である…それは間違
いない。或いは、恐怖にうち負けたためか。
 いまだに実践で身体が震えてしまう癖は何とかしなければ、と思う。
 そして、トカゲをふっ飛ばした後の隙。完全に意識が飛んでしまっていた。
 あそこで止めを食らわせていれば…皆をピンチに追い込むことはなかったろう
。もう少しでこんがりと焼かれてしまうところだった…。
 そういえば、あそこで乱入してきたのは何者だったのか。
 美加香の眼には明らかに…伝説の、鬼に思えた。
 しかし、奇妙なことにその姿にさほどの印象を覚えなかった。
 初めは驚いたものの、いつのまにかそれを当然のことと認識していたのだ。
 そして、あれを見た時につい口を突いて出た呟き…
『九鬼』。
 何故か懐かしく、神秘的な匂いのする名詞。
 …何か、忘れているような気がする。
 大事な、何かを…。
「………」 
 美加香は微笑むと、頭から雑念を散らすようにかぶりを振った。
 空を眺める。
 蒼い、蒼い、どこまでも果て無く澄み渡る大空。
 ここまで晴れたのは久しぶりだ。
 雲一つなく、天高く…ビルの屋上から見る空は、美しかった。
 …それもどこかに空虚さを孕んだ美しさ。
 この空の下のどこかに化物がいる…
 堂々巡りしかける思考に、美加香は困ったような笑いを浮かべた。
「…悩んでるんですか?」
 後ろから声をかけられ、美加香は無表情な顔を形作る。
「…失敗は、反省しなくちゃ…」
 美加香は振り返る。
「姫川さんだってそうでしょう?」
 そこに立っていたのは、美加香と同い年の少女。
 姫川琴音。
 琴音は、少し儚げな笑顔を浮かべていた。
「今日の失敗を反省してるんですか…」美加香の問に答えず、そう言った。
「私のせいで失敗したんだもの、当然じゃないですか。次は同じ失敗をしない
ようにしなけりゃいけませんからね」美加香は笑いを浮かべるでもなくそう淡々と答える。
 美加香はまだ東鳩ssの誰とも親しくはなっていない。
 仲良くなる必要などないと彼女は思っていた。
 下手な友情は大事な場面での失敗に繋がる…そう教わってきたから。
 協力して敵を倒す、ただそれだけでいい、と…。
 だから、非情さを失わないように同僚は作っても仲間は作らないつもりだった
のだ。
 琴音はそんな美加香を近寄りがたそうに見て、それでも笑いかけた。
「たいした物じゃないですか。葵さんだってあそこまでは…」
「それが問題なんです!」と言ってしまってから、自分の言葉の強さに気付き、
言い直す。「目立っちゃ駄目なんです。連携で目立つって事は、それだけ合っ
てないってことなんですから」
「でも、そうやって皆連携できるようになって、仲間になっていって…」
 美加香はフェンスをおもいきり叩くと振り返った。
 琴音は音にびっくりして立ちすくんでいる。
「私は!…私は、仲間はいりません!」
 叩き付けるようにそう言って、階段を降りようと足早に歩いて行く。
 美加香はむしゃくしゃしていた。
 琴音は甘すぎる。それで判断が鈍ったら、取り返しのつかないことになるのだ
…ならば、お互いの安全の為に仲間など作るべきではない。
「…でも、そうやってつんけんするよりは皆で戦った方が楽しいでしょう?」
 それがまた美加香の癇に障った。
「化物狩りはレジャースポーツじゃないんですよ!」
 琴音はそれでもにこっと笑っていた。
「美加香さんは何故ここにいるんですか?」
 虚を突かれた形で、美加香は黙った。
「…そんなの分かってるなら、化物狩りなんかしていませんよ」
 答えになっていなかった。
 解答を出すことを、拒んだのだ。
「姫川さんは分かってるんですか?」
 琴音は優しい笑みと共に、答える。
「ここが、私の居場所だからです」
「…居場所?」
「ここにしか、私は存在しては行けないからですよ」
 そう言うと、少し笑顔に影を落として…琴音は語り出した。
「私、『魔女』だったんです」
「魔女?社長みたいな?」
「いえ、あの方みたいな魔法使いではなくて…鬼っ子、ですか。普通じゃない
子だったんですよ」
(そんなのここにいる誰だってそうじゃない…)
 美加香のそんな思いも知らぬげに琴音は語り続ける。
「昔は力が制御できなくて、いろんな災いを振りまいて歩いてました」
「災い…ああ、テレキネシスの暴走ね…」
 琴音の表情が一段と曇る。だが、すぐに跳ね返して最前よりももっと明るい顔
を作ってみせた。
「ついたあだ名は『疫病神』でした」
「………陰湿ですね………」
 琴音はゆっくりと頭を振った。
「親には『うちの子じゃない』って言われてましたから」
 美加香は絶句した。
 神戸の恵まれた家庭でぬくぬくと暮らしてきた美加香には想像も突かない仕打
ちだと思った。かける言葉もなく、ただ美加香には黙って話を聞くしかなかっ
た。
「挙げ句に精神病院に入れられて、毎日検査、検査、検査。動物のような暮ら
し、気の狂いそうなただただ白い壁。言葉を喋る事も許されず、ときどき両親
が部屋の窓から気味悪そうに覗くのが見えて…それが、お見舞い。目が合った
ら、慌てて視線を外してました…」
 美加香は耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
 いくらなんでも、酷すぎる。陰惨で、閉塞的で、耐えていられない。
「辛かった…超能力の分析をしようとしてたんですね、あの人たちは。出るわ
けなかったのに、そんな結果。冷たかったです、お医者様の眼。私、研究対象
に過ぎなかった。人間じゃなかったんです」
 美加香はどきりとした。
 人間じゃなかった、その表現に心臓をえぐられるような痛みを感じたのだ。
 それでどうなったのか…その質問をかろうじて喉の奥に飲み込み聴く。
「苦しかった…いつまでこの苦しみが続くんだろうって、そう思ってた」
 黙ったまま、美加香は琴音を見る。
 琴音は胸元からペンダントを出した。かざす。
 蒼い輝きが美加香の眼に届く。
「でも、そんなときある人が社長と一緒にきて、これをくれました。
 『行くところがないのなら、うちにおいで。多分ここにならあなたの居場所も
見つかるだろうから』、そんな言葉を付けて」
 そして、それを大事そうにしまう。
 輝きを静めて、琴音は美加香を見た。
「嬉しかった…こんなに人間があったかいなんてそれまで気付きもしなかった
し、ここには生きがいがあったから…」
「…姫川さんの生きがいって、何なの?」
 琴音は、今度は美加香を恐れない優しい笑みで、答えた。
「明るく生きて、私みたいに落ち込んだ人を引き上げてあげること」
 美加香は眼を伏せた。偽善的だと思った。
 琴音は美加香の肩に手を振れると、明るく笑う。
「『自分のせいだ』なんて考えない方がいいですよ。何もかも一人で背負い込
んで、人の不幸を肩代わりして…結局は自分も皆も不幸にしちゃうんですから」
「………」
 美加香はその言葉を心の中で反芻した。
 相変わらず偽善チックだとは思ったが、不思議と自分の中でわだかまりが消え
て行くのがわかった。
「だ・か・ら」琴音は美加香の顔を見詰めると明朗な表情を浮かべる。「つん
けんなんてしないで下さいね。支え合っていく仲間なんですから、仲良く行き
ましょう!」
 そんな今日の空のように曇りない表情で言うと、琴音は階段を駆け降りて行っ
た。
(照れるんなら言わなきゃいいのに)
 美加香は呆れてそう思ったが、その口元には苦笑が浮かんでいた。  
 不思議と今日の空もぬるやかな流れに満たされているように思えた。


>Bパート

―来栖川HM研究所―

「再びここに来る事になるとは、ね。予想もしてなかったわ」
 志保はコンピューターデッキの前で足組し、そう呟いた。
「あら、私はまたここに来るだろうって予感がしてたわよ」
 そんな声に、志保は多少よろける。
 返事が有るとは思っていなかったのだ。
 綾香は不敵な笑みを浮かべつつ、モニター内の見取り図を見つめていた。
 大型バンとはいえ、綾香が身を乗り出してくるとさすがにちょっと狭い。
「綾香、もうちょっと向こうに寄りなさいよ」と志保が文句を付ける。
「モニター見ないでどう実践指揮とれっていうのよ」と綾香が切り返す。
 一瞬睨み合い、同時に下を向いて息をついた。
「…この仕事が終わったらモニターの位置変えるように姉さんに言っとく」
「…お願いするわ」
 アドバイザーと指揮官。
 仲が悪いようで、適当に折り合いを付けている二人である。
「社長は相変わらず戦闘に参加しないわね」と、ふと志保が口を開く。
 綾香は宙を見上げた。
「まあね。忙しいのよ、姉さんは…」
「いい気なもんだわ。私たちは死ぬような危地に晒されてるってのに…」
 綾香はむっとして志保に振り返る。
 志保はにやにやと笑っていた。からかっている。
 相手にすべきでない、と思いながら綾香はそっぽを向く。
「仕方ないじゃない、来栖川グループの次期総帥なんだから!」
「知ってるわよ。だけど、会長はまだまだ健在なんでしょ?」
 綾香は言葉に詰まった。
 真相を知ってはいる、だが…口にすべきではない。
「人間一人で出来ない事なんかいくらでもあるわよ…出来る事のほうが少ない
くらいには、ね」
 無難な答えですこと…志保は半眼で綾香の顔を見て、そう思った。
 もうちょっと気の利いた切り抜け方をしてもらいたかったものだ。
 …推測の取っ掛かりになってくれるような。
(それに、分からない事はまだまだあるわよ。例えば…)
「何で十月の方に仕事が回らなかったのか」
 志保は声に出して呟いてみた。
 綾香はこちらを見ない。ただひたすら前を見ているだけだ。
「おかしいわよね、事件解決したのは十月なのよ。それなのに何故来栖川研究
所は私たちに調査依頼なんて出してきたのかしらね?」
 志保だけが喋り続ける。
 視線は、綾香の表情を探るように睨み付けたまま。
「社長が芹香さんってことで贔屓したのかしら?でも、それもおかしくない?
私たちは来栖川グループ系列の会社じゃないもの…それに、芹香さんは潔癖な
経営を目指している。有名な話よね?」
 綾香は薄く笑った。
 志保は怪訝そうにその横顔を窺う。
「…この世の中、見えるものだけが真実じゃないってことよ」
 綾香は、ただそれだけ言った。

 ルーンはポケットから宝石を取り出すと、遠くを見るような表情を浮かべた。
 恍惚と、そしてかつ愉悦を楽しむ、そんな笑顔を。
 宝石は今日の昼に手に入れたものである。
 電気トカゲが消滅する時に遺した遺産。
 ハンター達の力の源にして、恐るべき化物達の生命の煌き。
 通称、ストーン。
「非現実現象具現化エネルギー」の結晶。
 ルーンは夜景を眺めながら、一人悦に浸っていた。
 ブランデーを口に運びながら、ストーンの輝きに見入る。
 …仕事が上手く行ったあとの酒の味は格別だと思う。
 特に、陰謀が成就し…そして思っても居ない収入までも得た時の。
「タナトスにさえ見捨てられた俺にとっては…この輝きは過ぎたる物か…」
 そう、ひとりごちる。
 昔からの癖だ。どうしようもなく孤独を感じる時、自らに類する者に巡り合わ
ぬ時、ルーンは常に独り呟く。
 それが年来のものだということは未だかつて自分以上の者を見た事もない…と
いうことになるのだが、そうではない。
 今、ここにはいないという…ただそれだけの事である。
 ルーンはややほくそ笑む。
(来栖川のデータと、エルクゥのデータ…胡乱だな、連中は…)
 その言葉が、誰に向けられたものかは分からない。
 来栖川にか、エルクゥにか、あるいは東鳩チームにか。それとも、また他の者
達にか。
 そう言えば、今頃は東鳩チームが鬼と一戦交えるか。
(せいぜい頑張る事だ、無論その闘いとて無益なものだが…)
 ルーンはグラスをテーブルに置くと、ストーンをポケットに入れ直し、部屋を
出る。ストーンはしかるべき場所に移さねばならない。
 普通のストーンならそんな手間は無用なのだが、生憎とこれはそんなに安い代
物ではない。力は弱いにしろ、貴重なデータベースなのだ。
 部屋を出ようとして、ふと立ち止まる。
「今日はセリスは…出かけていたか。ご苦労な事だ…」
 そう呟いた。…鼻で笑いながら。

 夜もすっかり更けた。
 時刻は三時も半ばを過ぎて、今の季節ならばあと二時間もすれば空は白み始め
る。
 特にこの空間には普段の状況にあったなら夜を徹しての作業が繰り広げられて
いるはずである。
 しかし、今日ばかりは違う。
 昼には化物のデータ侵食が、そして夜には―
 男は天井から音もなく舞い下りると静かに床に降り立つ。
 7メートルはある高い高い天井から落ちてきたにも関わらず、全く衝撃を受け
ていないようだ。
 ゆっくりとドームの片隅に置かれた古ぼけたコンピューターに忍び寄る。
 …研究プラントの研究者私室や事務所に置かれたコンピューターは全てダミー
だ。本当のデータはこの見捨てられたようなオンボロの中に入っている。
 男は5インチのフロッピー…旧時代の遺物を取り出すと、無遠慮にドライブに
突っ込んだ。
 スイッチを入れる。
 妙に騒がしい起動音が実験場に響く。
 今では滅多に見ないDOS起動画面が表示され…
 アニメ調の絵が表示された。
 ショートカットの生意気そうな女の子が腕組みしてこちらを見ている。
『志保ちゃん参上っ!残念でした、これははずれよ〜ん!!』
 そんな人工音声がbeep音で響き…
 途端、床板が跳ね飛ばされ人影が躍り出た。
「御用よ、ハッカー!」
 男ははめられた事に気付き大きく跳びずさる。
「動かないで下さい、撃ちますよ!」
 葵の警告があがる。
 その手にはしっかりと対化物用の拳銃が握られていた。
 男はそれを見て、わずかに笑った。嘲笑の笑みだった。
 次の瞬間には男の「仕事着」が弾け飛んだ!
(鬼…!!)
 理緒の脳裏に瞬間的にある画像がフラッシュバックする。
 自分の目の前で命を散らしていく家族と、その身体に残る傷痕。
 血を吹き出しながらなくなってゆく、大事な人間…
 反射的に理緒は札を取り出すと鬼に叩き付けていた。
「爆符っっっ!」
 奴の手に生えた爪が、家族の命を奪った凶器に見えて…
 理緒の放った呪符は鬼を爆風のうちに吹き飛ばした。

「私を酷薄な人間だと思いますか、だって?」セリスは腕組みして聞き返した。
 芹香はゆっくりと首を縦に振る。
 セリスは上を向くと、言葉を選ぶようにゆっくりと答えた。
「そうだな…ある意味では…その通りだな。もちろん、あなたが優しい人だと
いう事は重々承知しているが…」
 芹香は自嘲するように下を向いた。
 セリスはますます困ったように頭を掻いた。
「なんて言うのか…極端なんだな、あなたは。時々非情なまでに部下を危機に
陥れるかと思えば…」
 ちらりと、自分にもたれかかって眼を閉じているマルチを見る。
「プロトタイプのマルチを引き取ったり…」
 そして、次の言葉を遮るように芹香は口を開いた。
「あなたは、美加香のことを言おうとしているのですか?」
 セリスはかなわないな、というようにまた頭を掻き、頷いた。
 ふと芹香の膝の上で丸くなる黒猫と眼が合う。
 エーデルハイドとかいう名の、不細工な猫が一瞬自分を揶揄するような眼で見
たような気がして、セリスは眼をしばたかせた。
 …どうも、ここの所疲れているらしい。
 芹香はエーデルハイドの毛並みに沿って手を動かし、そんなセリスの顔を見詰
めた。
「そう。この際単刀直入に聞いてしまうが…美加香ちゃんは本当に俺の知って
いる美加香ちゃんなのか?」
 芹香はくすり、と笑ったように見えた。
「…美加香ちゃんは一人しかいない、って?どうだか、怪しいもんだ。美加香
ちゃんは記憶喪失なんだろう?」
 芹香は無言で机の上の封筒を差し出した。
 セリスは横で充電しているマルチを起こさないようにそっとそれを掴み取る。
 眼を通す。
 中には、赤十字美加香という少女の誕生からの足跡が細やかに記されていた。
 セリスの手がわなわなと震える。
 資料を机に叩き付けると、セリスは激昂した眼で芹香を睨んだ。
 その敵意に反応してエーデルハイドが唸り声をあげたが、芹香が頭を撫でると
また大人しくなった。
 芹香が口を開く。
 セリスは青ざめた顔色でまた資料に眼を落とした。
「これは捏造でも何でもない、事実だ…って?この両親は実在するし、彼女の
友人も恩師もいる…本当なのか?」
 芹香は頷く。
「…だとしたら…何故美加香ちゃんは烈鬼拳を使えるんだ…あれは風見の拳…
風見が編み出した我流拳じゃないのか…!?」
 芹香は首を何度も振った。
 わからない、そう言いたいらしい。
「…でも」芹香はちっぽけな声で呟いた。「私はあの子を信じてあげなければ
行けない、そんな気がします」
 セリスはそれを聞き、押し黙った。
 と、「む〜、みんなおかえりですかぁ?」とマルチが眼を覚ました。
 セリスはその頭をゆっくりと撫でてやる。
 マルチはまだ寝ぼけ顔で、芹香に聞いた。
「あれぇ?皆さん、鬼退治に出かけたんじゃなかったんですかぁ?」
 それだけ言うと、また眠った。
 同時にセリスは眼を剥いて芹香に詰め寄る。
「まさか、エルクゥと戦わせたのか!?無茶だ、あいつらじゃまだ勝てない!」
 芹香はゆっくりとかぶりを振った。
「さきほどあなたは私を非情だ、とおっしゃいました。部下を平気で切り捨て
る、と。それは違います」しっかりした眼で、芹香はセリスを見つめていた。
「私は、あの子達を信じているんです…!」

 葵の気合いの乗った一撃が鬼の腹にめり込む。
 苦し紛れに鬼は手を振りかざす…それは鋭い爪の一撃となり、葵に向かう。
 よけ切れない…一瞬葵の視界が凍り付く。
 だが、雅史がすんでのところで体当たりし、葵は跳ね飛ばされる。
 鬼の爪は空を切った。
「これで!」美加香の叫びが闇を切り裂いた。「終わりだっ!」
 その声と共に美加香の拳が金色に輝く。
「貫裂煌(かんれつおう)!」
「止まって!」
 美加香の叫びと琴音の気合が響いたのはまったく同じ一刹那だった。
 放たれた金の煌きが拳から鬼の胸板に突き刺さり、ぽかりと空洞を空ける。
 そして煌きは十文字に鬼の皮膚を走ると、そのとおりにその肉を裂いた。
 絶叫と共に、鬼の命の炎は潰える…
 一同はぽかんとその様を見詰めていた。
 あまりにもあっけなく、あの強大な力を誇った鬼を切り裂いたのだ。
「赤十字さん、あなたは一体…」葵はその瞳に羨望と嫉妬を浮かばせ、美加香
を見た。
 美加香は荒い息をつきながら、困惑した顔をした。
「…わからないんです。ある日、気がつくと使えるようになった体術なんです」
 葵は美加香に拒絶されながらも、美加香に聞いた。
「そんなわけないです!どんな格闘術であれ、ある日突然使えるようになるな
んてそんな馬鹿な話…」
 止めさせようと、雅史は葵に近づく。
 もちろん、雅史も分かっている。
 ただひたすら強くなる為に、葵はこの仕事をやっている。
 だから、自分の拳に誇りを持っているし、どんな者であれ拳を馬鹿にする者は
許しておけない。
 そして、強さに執着する。
 彼女は武道家として拳に責任を持てない者を許せないし、自分よりも優れた格
闘家に猛烈なライバル意識を燃やすのだ。
「松原さん、もういい加減に…」
 その手が、ぱしっとはたかれた。
 むきになった雅史が食って掛ろうとして、その瞬間に壁の一部が吹き飛び…
雅史はその直撃を受け倒れ込んだ。
「佐藤先輩!?」美加香が駆け寄ろうとして、立ちすくむ。
 外壁からこちらを見る男に気がついたのだ。
 先ほどの鬼と似た格好をしてはいるが、根本的に格が違う。
 見るだけでも、圧倒的な威圧感が伝わってくる。
 冷たい眼をした男だった。
 男はじっと美加香を見詰めていた。
 ゆっくりと、右手をこちらに向ける。
 その光景に、美加香の中のあるはずのない記憶が触発される。
(哭嘴(こくし)!…雷哭(らいこく)の型!)
「伏せてっ!」
 弾かれたように、一同はその場から飛びのいた。
 男の唇がにやりと歪む。
 右手に小さなエネルギーの玉が生まれ、膨れ上がる。
 琴音はそれに凶々しい力を感じ、とっさに力を解放する。
「だめっ!」
 念動力が押しつぶさんばかりに四方から男を包み込む。
 男の唇は押し寄せる愉悦に哄笑を上げた!
「しゃらくせえっ!」
 男の身体が白いオーラをわずかに立ち上らせ、一気に膨れ上がる!
 轟音が辺りを埋め尽くし、琴音の身体が大きく吹っ飛ばされる。
(琴音の力が…撥ね返された!?)
 雅史は信じられないものを見るような気分で男を見ていた。
 いまやバスケットボール程度の大きさにまで膨れ上がった玉は、美加香に向け
、発射される。
 美加香は壁に三角ジャンプし、大きく跳んだ。
 一同の頭の上を爆風と瓦礫が通過していった。
(そんな馬鹿なっ!?)
 手榴弾と同等以上の破壊力。
 これはもう人間の及ぶ範囲ではない。
 まるで、これは…化物。
 飛び蹴りの体勢に入り、美加香は男に突き進んでいく。
「甘いなぁ!」
 男もまた、跳んだ。
 美加香とは比べ物にならないほどのスピード。
 交差と同時に、美加香は男の蹴りを受け地面に落ちる。
「…浮いて…っ!」
 くるしげな声と共に、地面に叩き付けられるすんでのところで美加香は失速し
た。
 雅史が振り返れば、琴音がぼろぼろになりながらも力を使っていた。
「仲間に助けられたか、美加香。情けない事だな、風見があの世で泣いてるぜ」
 男は美加香の前に降り立つと、蔑んだ眼でじっと見下ろした。
 美加香はせき込みながらゆっくりとおき上がる。
 泣きそうな眼で男を見つめた。
 武道家の眼ではなく、ただの脅えた少女の眼だった。
「私が、私が何をしたっていうんですか!?私、何も…」
 男はその胸倉を掴むと、美加香を睨み付けた。
「馬鹿野郎!それが武道家の眼か!拳の継承者の眼かぁっ!!」
 美加香はびくっと空中ですくみ上がった。 
 ぶんぶんと首を振る。
 男は震えながら美加香を睨み付けた。
 敵意ではなく父性からくるもののようであった。
 子供のあまりの不甲斐なさに激昂する、野獣の親の眼だった。
「非戦闘員とはいえエルクゥを倒すような奴だ…どんな手練れかと思って来て
みれば美加香、お前だ。…そのとき俺がどんなにか嬉しかったと思う?だが。
だが、このざまか!それでもお前は風見の娘かっ!!!」
 美加香はぶんぶんと首を振り続けた。
「知りません!私、風見なんて人は知りません!あなたも、セリスさんも、誰
も知らないんです!」
 それを聞いて、男は動きを止めた。
 じっと美加香を見る。
「…セリスに、会ったのか?」
 美加香はぶんぶんと首を振り続ける。
 男は美加香を地面に降ろすと、肩を思いきり揺さぶった。
「答えろ!セリスに会ったのか!」
 美加香は地面に足がついて少し落ち着いて、首を縦に振った。
 そんな美加香を見て、男は何かしら思案したようであった。
「美加香、お前は俺を…ジン・シャザムを覚えていないのか?」
 美加香はこれまでで一番せわしなく首を縦に振った。
「…別人か?だが、烈鬼拳を使う事は確かだ…よし」
 ジンと名乗った男は、美加香を担ぎ上げた。
 美加香は脅えて更に震える。
 そんな少女にぎこちなく、そして皮肉げな笑みを向けるとジンは言った。
「安心しろ。とって食ったりはしない。…ただちょっと取り調べさせてもらう
だけだ」
 この間、雅史達はひたすら立ちすくんでいた。
 思考が麻痺し、ただただ男が美加香に当たり散らすのを見るばかりだった。
 美加香をたすけるとかそういった考えはちらとも浮かばず、男が過ぎ去って
くれる事を祈るばかりだった。
 ジンはそんな一同に眼をくれると、聞いた。
「おい、仲間を助けようとは思わんのか?」
 雅史は動けなかった。
 …面白くもなさそうに唾を吐くと、葵を見る。
「お前は格闘家じゃないのか?俺と戦えばどうだ?」
 葵は歯噛みして、下を向いた。ジンと視線を合わさない。
「どいつもこいつも腰抜けか…くだらないなぁ、美加香よ。仲間なんていって
もこの程度だ。護るべき価値もない」
 そう言って、ジンはゆっくりと歩き出した。
 かつん、という足音。
 ジンは振り返った。
 琴音が気丈にもジンを睨んでいた。
「…なんだ。用がないのなら失せろ」
「美加香ちゃんを返してください」
 ジンの双眸に楽しむような輝きが灯る。
 期待していたものが現れた、というような無邪気なにもみえる。
「なんて言った?」
「美加香ちゃんを、返してください!」
 ジンは笑った。
 愉快そうに、楽しそうに。
「傑作だなぁ!よりにもよって一番か弱そうなのが一番骨があるとはよぉ!」
 哄笑は止まらない。いつまでも、いつまでもジンは琴音ににらまれながら笑い
続ける。
 だが、美加香はその笑いの中に危険な何かを感知した。
「姫川さん!逃げて!」
「…遅ぇよ」
 刹那、ジンの目が大きく見開かれた。
 小さな叫び声を上げて、琴音は倒れる。
「…役者不足だぜ」
 見えない何かが、琴音の内部を走り抜けたようだった。
 それに耐え切れず、琴音は気絶したようだ。
「でもまあ…嫌いじゃねえよ。そんな奴は…」
 眼力だ、と葵は直感した。
 武芸の達人は気合で敵を骨抜きに出来る…という。
 ジンはそんな葵には頓着せず、美加香を抱き上げて一同の前から去って行った
。腰抜けには用がない、という事らしい。
 最後に、ちらと振り返った。
「その娘が眼を覚ましたら、次は勝ってみろ…そう伝えてくれ」
「いいや、次はないな」
 その声と共に…ジンは宙を舞っていた。
 自分の意志ではなく、中空に放り投げられたのだ。
 それを追って、人影が走る。
 追撃を食らわそうとして、ジンの反撃を受けた。
 双方が跳び下がる。片方は大きく、片方はわずかに。
「てめえ、西山かっ!」ジンが叫んだ。
 新たに現れた男はかすかに笑うと、ジンに走りよりながら叫んだ。
「その名は…捨てたっ!」
 同時に、ジンの胸板に向かい突撃する。
 ジンは舌打ちすると、腕を組んで銅を護った。
 瞬時に伸びた爪が、ジンの腕を薙ぐ。
 ばしっ!という音を立て、スパークが暗闇を照らした。
 美加香がどさっと地面に落ちたが、動けない。
 完全に竦んでしまっていた。
 ジンが男の手を取り、力比べになる。
「西山ぁ!俺はてめーとは戦いたくねえんだ…下がれ!」
「その名は捨てた、そう言った!今、私は紅(クリムゾン)と名乗っている…」
 紅の眼が鋭く輝く。
「機械の身体になってまで生き延びるか、ジン!」
「…事情があるのさ!貴様にゃわかんねえ事情がな!」
 ジンが紅の腹に強烈な蹴りを見舞った。
 たまらず紅の力が緩む。
 立て続けにジンは紅に攻撃を叩き込んだ。
 だが、どれも浅い。紅が巧みに体勢を移動しているのだ。
「ジン!私はお前を殺す為にここに来た!」
「嬉しくもねえよ!怪我しねえ内にとっとと帰りな!」
 ジンの右手から放たれた掌打が白い輝きを放つ。
 拳銃が放たれるような鈍い音がして、紅の胸が爆発する。
 だが、常人なら即死しているはずの攻撃を受けても紅はジンを睨むばかりだ。
 胸からは血液が流れ出しているというのに。
「哭嘴流の腕は相変わらずというわけか!だがな、ジン!」
 紅の腕が黒く輝き、瞬速の軌道を描く。
「その拳は近接攻撃で九鬼流に優る事はないのだ!」
 爪がジンの右腕を切り落としていた。
 ジンは己の不利を悟り、一気に天井近くまで飛び上がると屋根の支柱を辿って
窓まで行き着いた。
「西山!この借りは必ず返す!…そして美加香!俺は諦めたわけじゃねえぞ!」
 紅は何かを叫ぼうとしたようだ。
 だが、それよりも先にジンは窓を蹴破って逃走していた。
 紅はにがにがしげに笑うと、美加香に手を差し伸べた。
「立つんだ、美加香」
 美加香は半分死んだような眼をして頷いた。
 その手を掴もうとして…平手打ちされ、美加香は頬を押さえた。
「人に頼ろうとするな。風見ならそう言ったはずだ」
 その紅の顔を見て、ついに美加香は爆発した。
「もう嫌だっ!なんなのよこの前から風見だの烈鬼だの九鬼だの!私はそんな
ものとは一切関係ないし、何も知らない!なんだって隆山に来るなりこう皆に
付きまとわれるのよっ!私は神戸で生まれた赤十字美加香だし、あなた達とは
面識もなければ名前だって聞いた事ないです!私に付きまとうのはあなた達の
勝手かもしれないけど、人に自分の考えを押し付けないでよっ!」
 そう紅に食って掛る剣幕はたいした物だった。
 しばらくきょとんとしていたが、やがて紅は笑い出した。
「…それでいい。君が赤十字美加香だと言い張るのならそれが真実なのだろう」
 紅は今度は美加香が立ち上がるのを待ち、そしてその顔を見下ろした。
「だが、私たちの記憶には厳然として風見 美加香という少女が存在する。
…もし君が、その少女について、そしてその父親について知りたいのなら…」
 紅はぱちん、と指を鳴らした。
 呪縛から解けたように、雅史達は身動きが出来るようになった。
 ジンの威圧的な雰囲気からようやく解放されたのだ。
「もし、そうなら…私を追ってくるがいい。君の運命…それが赤十字 美加香の
ものであろうと風見 美加香のものであろうと、おそらくそれはここから始まる
だろう…」
 そう言うと紅はジンの遺した右腕を拾い上げると…闇に消えた。
 雅史達は何も言えず美加香をちらちらと上目遣いに見た。
 いろいろというべきことはあったが、一つとして言う事は出来なかった。
 助けられなかった事への謝罪、美加香の経歴、あの男達の素性から…
 だが、その内のどれもが彼らにとって聞き苦しいものであったのだ。
 そのとき不意に琴音が眼を開いた。
 美加香を見て、呟いた。
「よかった…無事だったんですね…」
 美加香はそのとき、自分をとりまく悩みがどうでも良くなってしまった。
 自分が誰であろうと、男達がなんであろうと、些事であるように思えた。
 ともかく、自分を心配してくれる仲間がいる。
 それでいいじゃないか、そう思ってしまったのだ。
「さんきゅ、琴音ちゃん」美加香は微笑むと琴音に手を差し出した。
 琴音はそれに手をはわせると、握り締めた。
 その握手が、美加香にとっては免税符だった。
 こうして美加香は東鳩チームの一員になったのだった。
 …だが、突然雅史のインカムから声が聞こえてきた。
 雅史はスイッチを切り替えて全員に聞こえるようにする。
『あんた達!今すぐそこを離れなさい!』
 突然の志保の言い草に一同は面食らった。
「志保、何を言い出すんだよ…今、鬼を倒した。今すぐ遺体を…」
 その雅史の声を遮って、志保は叫んだ。」
『呑気に運搬作業やってる場合じゃないわよ!早く逃げないと、焼け死ぬわよ
!』

 今から5分前。
 二人の男が研究所を見上げていた。
「………マスター。ここが、『見守るもの』への道を塞いでいます」
 マスター、と呼ばれた男は鷹揚に頷くと、懐から一枚のカードを取り出した。
 真っ赤な、燃えるような炎の色のカードだった。
「燃え盛る煉獄の炎、絶える事なく続く連綿たる世界の始まりと終わりに…」
 叫びと共に、カードから一人の少女が現れる。
 つまらなそうに研究所を見上げると、腕を掲げ…
 瞬間、巨大な建築物は炎上し、燃え盛る炎に包まれた。
 マスターがカードを裏返すと、少女は再び掻き消える。
「…便利なものですね…」何気なく男は呟いた。
「うらやましいかね?」とマスターが聞く。
 男は首を横に振った。
「いえ。私には気の荒い相棒がいますのでね…過ぎたる力は持つべきではあり
ませんよ」
 マスターは苦笑した…ように見えた。
 本当のところ、このマスターが感情を露にするところはこの二年…つまり出
会ってから今に至るまでだが…ついぞ見た事はない。
「君の言う通りなら私こそもっともカードを持つべきではないのだろうな…」
 今日のマスターはいつもとは違うようだ。
「マスター?」
 男の呼びかけに、マスターは苦く笑った。
「皮肉なものだな…愚かさ故に封じ込められた咎人が管理者から秩序を奪うか
…」
 男もまた、笑った。
 こうして、秩序が失われていくのもまた…
 秩序法典(コルデア・オデックス)の意志なのか…

 明けない夜はない。
 いつかは白み始める。
 炎に包まれた研究所を眺めつつ、志保と綾香はコーヒーを啜っていた。
「…無事逃げ出せたかしら…」志保が問う。
「大丈夫だったに決まってるじゃない」と綾香が答える。
 やがて裏口の炎の壁の奥に影がちらつき、仲間達が帰ってくるだろう。
 そして、志保は思う。
 これはまだ自分達を待ち受ける運命のほんの序章の一部にしか過ぎないのだ
と。
 炎によって始まり、そしていつか炎によって終わるまで…
 運命は綴られて行くのだと。

Mission1:「HM研究所データ窃盗者調査指令」COMPLETED…

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 次回予告!
  続いての依頼は繁華街の殺傷事件の調査。
 突然一般人が狂いだし尋常ならざる力で他の通行人を殺し回るのだという。
 早速事件に乗り出したのはいいが、全く音沙汰はない。
  途方に暮れる東鳩チーム、そこに現れた謎の少女達は…?
  そして謎に包まれたルーンの行動の意味は?
  次回、「自分達すら見えない闇夜に」

  香奈子「笑わせないで…あんた達は何も分かっちゃいないわ!」