雨に降られて (痕SSこんぺ委員会 短編部門参加作品) 投稿者:waya_k 投稿日:1月17日(金)01時10分

 冬には珍しい、大きめの雨粒が空から吐き出され始めていた。
 瞬くうちにそのぱらつきは勢いを強め、黒い染みが地面を見る間に塗りつぶしていく。
 耳障りなほどに騒がしく雨の音が鳴っている。それは自動車が水を撥ね散らかす音であったり、風に煽られて窓に叩きつける音であったり、木々の葉を濡らす音であったりする。
 空の気まぐれには天気予報も対応できなかったようで、朝の時点では間違いなく降水確率20%と予報していた。そのためだろう、傘を持ち歩く人はほとんどおらず、猫も杓子も何かを頭の上に掲げながら走っているようだった。小学生はランドセルを、主婦は手提げバッグを、背広姿のサラリーマンはブリーフケースをかざして、皆が皆ドラマの登場人物のように、水たまりなんてものともせずに足を踏み入れ、裾に泥を撥ねかけ、それでも急ぐ。
 たぶん、こういうところから物語というものは始まるのだろう。小説の主人公はいつも、傘を忘れて急いで駆ける人々で、用意周到に置き傘を準備している者はお呼びではない。
 楓は傘に当たる雨音に気を巡らしながら、ふぅ、と微かに吐息をついた。
 雨は気分を滅入らせる。予期しないアクシデントを好んで引き寄せたがる人などいるのだろうか?
 そこら中にある水たまりを避けて、鞄を前に抱えて歩く。右手で頭上に差し出した傘には、容赦なく雨が襲いかかっている。
 その激しさに気を取られて、楓はもう少しで、情けない鳴き声を聞き逃すところだった。
「くうぅぅぅ……」
 空耳かと思って耳を澄ました楓の耳に、弱々しく、しかしはっきりと再び鳴き声が届いた。きょろきょろと見回すと、すぐ横の電信柱の足元に、こちらも情けないほどに湿ったミカン箱が一つ。
 スカートが地面に触れないように注意して腰を下ろして、ゆっくりと段ボールの蓋を開けると、小さい鼻がひょこんと飛び出してきた。次いで、そろそろとこげ茶の瞳を覗かせて、楓と目が合うと、
「くぅんっ」
 それはより明確に己の存在を訴えた。
 粗末なコットン紙を通して雨が染み込んだのか、子犬はぽたぽたと全身から水を滴り落としていて、僅かに尻尾だけが、元は毛並みが茶色かっただろうと思わせる。そのことが唯一残された自身のアイデンティティーであるかのように、子犬はその尻尾を時折思い出したようにはたはたと振って、箱の中にうずくまっていた。
 雨は不平等なほどに等しく、楓の傘へ、四角い檻の中へと降りてゆく。
 もう段ボール箱の底は水浸しで、けれど幼い彼が乗り越えるには高すぎる箱の壁が外部との繋がりを阻んで、子犬は体を震わせている。何を思うのか、円い瞳で暗い空を見上げる子犬の姿が良く知っている誰かに似ているようで、その実誰にも似ていないようでもあり、楓は少しばかり混乱した。
 きつく、色を失うほどに強く、唇をかみしめる楓の心中を知ってか知らないでか、子犬はきょとんとした顔で首を傾げて見つめ返す。
 姉妹の顔を順番に思い浮かべて、楓はいくらか逡巡した。
 それでも、毛先まで水をたっぷりと含んだ子犬の哀れな様に、思わず手を伸ばしかけて、
「あっ、ワンちゃんだぁっ!」
 ぴくり、とその手が引きつった。
 見れば、いつのまにか隣にはランドセルを背負った子供が何人か、雨に打たれることを気にも止めずに駆け寄ってきていた。
「ね、このワンちゃんお姉ちゃんの?」
 思わず楓が頭(かぶり)を振ると、にかっ、と本当に嬉しそうに笑って、子犬に躊躇いもなく手を伸ばした。子供の一人が胸に抱きとめて、かわいいなぁ、お前飼える? うーん、ママにお願いしてみようかなぁ、と仲間内で囁きだす。
 どの顔にも一面に笑みが広がり、先ほどの楓にあったような戸惑いはかけらもない。
 しばらくその子供たちと子犬を呆然と眺めていた楓は、気づかれないように立ち上がった。そっとその場を離れて、家に向かって歩き出す。振り返らずに、子供たちの歓声を運ぶ風にだけ耳を澄ませる。
 自分の逡巡を思い返して、やっぱり私はヒロインにはなれそうもない。そう結論が出ると、もう一度、今度は大きく、楓は白いため息を漏らした。それは雨に溶け、すぐに冬の空気に拡散していったようだった。


 玄関の戸を開けると、既にそこには靴が二つ並べられていた。濡れた傘を丁寧に畳んで立てかけると、二つの靴の隣に、楓も靴を置いて板張りの廊下へと進んだ。
 二、三歩進むと、足裏に伝わる奇妙な感触に気づいて、よくよく床に目を凝らしてみれば、点々と泥水の足跡が洗面所の方へ続いていた。
「あ、お姉ちゃんお帰り!」
 玄関の開く音でも聞きつけたのか、その洗面所からひょっこり初音が顔を出す。
 ただいま、と言って、ふと目を落とすと、その視線を辿って初音も廊下に目をやり、
「ああっ、ごめんなさい。廊下を拭くのを忘れちゃってた」
 大慌てで軽く絞った雑巾を片手に飛び出してきた。
「でも、夕立みたいにすごい雨だったよね。楓お姉ちゃんは濡れなかった?」
 シャワーを浴びていたのか、初音は早々と寝間着に着替えていた。まだ髪の毛が柔らかに湿っていて、時折そこから水が垂れ落ちている。
 傘を持っていたから。楓がそう呟くと、初音は廊下を端から端まで丹念に雑巾掛けをしながら、
「うわ、さすがお姉ちゃん」
 と、感嘆の声をあげた。
「私なんか、大急ぎで走ってきたけど、途中で二回も転んじゃったんだよ。もうびしょびしょで、嫌になっちゃう。制服、乾くかなぁ」
 頬を軽く膨らませて、天気予報に珍しく不満をぶつける初音を、楓は羨ましく思った。
 雨脚は依然として弱まらない。屋内にいても雨の音は聞こえてきて、その強さだけは判る。

 梓は台所に立って、てきぱきと夕食の準備を進めていた。どこか懐かしくなるような匂いが廊下まで届いている。居間に入った楓が、ただいま、と梓の後姿に挨拶すると、
「ああ、お帰り。ちょっと早いけど、もうすぐ夕飯ができるから居間に座っといて。千鶴姉は今日遅いから、向こうで食べてくるってさ。あ、やっぱり食器を出してくれる? 初音も、お願い」
 くるりと振り返りそれだけを一気に言って、また忙しく動き始める。
「私がやるから、楓お姉ちゃんはいいよ」
 ぱたぱたと初音が食器棚に駆けより、食器を調理棚に並べると、梓の指示に従って料理を盛り付けていく。手持ち無沙汰になった楓は、言われた通り自分の席に腰掛けた。
 誰もいない居間にぽつんと独り座って、きびきびと働く二人をぼんやり見ていると、外で唸りを上げる雨の音がひとしきり強まったように、楓には感じられた。思わず、ぶるっと身震いをする。冬の冷え冷えとした空気が、じわりと辺りに満ちてきたようだった。
 それら諸々を振り払うように楓は立ちあがると、やっぱり私も手伝う、と二人に近づいた。
「いいよぉ、お姉ちゃん」
 気遣う初音の言葉を制して、梓はフライパンに向かい合ったまま、菜箸だけを後ろに向けて言った。
「じゃあ、楓、あんたは向こうのテーブルに食事を運んでくれ」
 はい。楓がほっとして答えると、くすり、と梓の後姿が笑ったような気がした。

「いただきます」
 別に三人で声を合わせて言う必要もなかったけれど、そうでもしないとぽっかりと空いた二人分の隙間から、ひんやりとした何かが忍び寄ってきそうだった。
 二人分。
 楓が思った言葉は、ブーメランのように戻ってきて、自身の胸に着地した。気が付けば、正面の誰も座っていない席を見つめている自分を叱咤し、楓は黙々と食事に手をつける。
 上の空で口に運んだのにも拘らず、梓の料理は変わらずに美味を舌に伝えていた。何か申し訳ないような気持ちになって、たまにはこの姉を労おうと顔を上げた楓は、同様にこちらを見つめている視線に気がついた。
 なに? と声に出さずに口だけを動かして訝しむ楓に、梓はただにやにや笑っている。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
 敏感に二人の様子を察したのか、味噌汁をすすっていた初音が茶碗を離して、こくりと口中のものを飲み込んで問い掛けると、
「しっかし止まないねぇ、この雨も。さっきよりもひどくなったんじゃないか?」
 梓は楓たちの視線を外して、はぐらかすように天井に目をやった。
 確かに、これだけ降る冬の雨は、楓の記憶にはなかった。まるで深夜のテレビに流れるノイズのように、雨は地表に間断なく降り注いでいた。
 つられたように、初音も視線を上げる。
「そうだね。こんなに降る前に、普通は雪になるもんね」
「さっきテレビでやってたな。異常気象だ、って気象庁が発表したってさ。自分の予報が外れたら、やれ異常だ温暖化がどうの、って無責任に騒ぎ立てるのは何とかならないのかね。外したら罰金、ぐらいの気構えが必要なんじゃないか」
 そういえば、梓も学校に傘を持っていかなかったはずだった。相当ひどい目にあったのだろう、どちらが無責任なのか判らない文句を梓は並べ立て、ふっと思い出したように天井から目を戻した。
「そうそう、無責任と言えばさ、楓。あいつから何か連絡きてる?」
「あいつ?」
 楓の代わりに初音がオウム返しに問い返し、すぐに、
「もしかして……耕一お兄ちゃん?」
 と手を合わせた。
「ああ。あの稀代の不誠実男」
「ひっどいよぉ、お姉ちゃん。耕一お兄ちゃんはそんな人じゃないよ」
「何言ってるのさ、初音。あんただって無責任イコール耕一ってすぐに答えが出ただろ?」
 う、と言葉につまり、もごもごと、違うよぉお兄ちゃんごめんねごめん……と顔を赤くし、あらぬ方向を向いて言い訳をしている初音を尻目に、で、どうなのさ、と梓はさらに尋ねる。
 楓は何も言うことができず、つまりはその沈黙が答えだった。
「ほら、やっぱりだ。これを甲斐性なしと言わずに何と言うのやら」
「甲斐性なし?」
 我に返った初音が問い掛け、楓は慌てて、そんなのじゃない、まだそこまではいってない、と口走った。そうして、自分が墓穴を掘ったことに気づく。
 梓は一層にやにや笑いをひどくして、楽しそうに楓を眺めている。
 初音の質問攻めをかわすのに辟易した楓が、姉さん、とかなりきつい口調で言うと、
「『そんなの』じゃないんなら、いっか。わざわざ伝える必要もないのかな」
 悪戯っぽく梓は目をくるりと回した。楓は思いっきり力を込めて睨む。
「わかったってば。えーと、あの」
 そこまで言っておきながら、梓はまた忍び笑いをしている。
「ま、大学生とやらもこの時期は忙しかったんだろうさ……謝ってたよ、耕一。もっと声を聞きたいのはやまやまなんだけど、なかなか電話ができなくてすまないってさ。でもこの詫び、誰宛てだったんだろうね。楓は身に覚えがないって言うしね?」
 隣の初音がちらとこちらを見つめて――睨んできたようにも思えて、楓は少し動揺した。この場に長姉がいなかったことを、心底感謝する。
「それで、もう試験もレポートも終わったって」
 梓は面白そうに二人の反応を見ながら、一音一音はっきりと発言した。
「こっちに来るんだって。こ、ん、や」
 さっき電話があってさ、いきなりだからあたしもびっくりしたよ。梓が何か言っていたが、楓はもう半分も耳に入っていなかった。
 雨の音が急に弱くなったようだった。
 楓は、こんなにうるさい心臓の動悸が二人に聞こえなければいいと思った。
 立ち上がったのは、初音が先だった。起き上がりこぼしのようにぴょこんと席を立った初音は、デフォルメされたウサギが所狭しとプリントされている自分の寝間着を引っ張って、あわわ、うわぁ、と慎ましい悲鳴をあげ、ばたばたと居間を飛び出していった。
 楓も思わず立ち上がりかけ、梓の、爆笑一歩手前といった顔つきに座り直す。すると梓は不思議の国のアリスに出てくるチェシャ猫もかくや、といったにやにや笑いをこぼして、
「いいのかなー?」
 とおどけるように言った。
 ぷいと、目をそらす楓に畳みかけるように、ありゃ本気だね、と初音の去った方を顎で指す。それでも、楓が動く気をなくしているのを見て取ると、またもや天井を見上げた。
「まぁだ、止まないねぇ。相当降ってるね」
 その手には乗らないと、楓は冷めてしまったお吸い物に口をつける。
「うん、これは朝出かけて、ちょうど今どっかから帰ってくる人なんてだいぶ困るんじゃないかな」
 肉じゃがに箸を伸ばす。これは梓の料理の中でも、一、二を争う美味しさだろう。
「突然降ってきたからね。誰か迎えに行かないといけないんじゃないのかな?」
 箸が震えて、上手くつかめない。
「傘なんか、持ってないだろうしねぇ」
 今度の作戦は露骨だった。
「迎えに行かないとぉー」
 二階から、ドアの閉まる音が聞こえた。初音はもう着替え終わったらしい。
「誰かが、駅までぇー」
 楓は箸をテーブルに叩きつけた。ほ、とわざとらしく口を丸めた梓を無視して、勢い立ち上がる。
「料理は温め直しとくから。どうせ、耕一の分もあるしね」
 楓のご飯をさっさと片付け始めた梓の言葉に、背中を後押しされるようにして、楓は玄関に向かう。初音のむくれた顔と、チェシャ猫のような梓の笑い顔は、三歩歩くと記憶の隅に押しやられた。
 傘だけをつかんで、制服の上に羽織るものも取り合わず、革靴を突っかけ、思いっきり戸を開け放す。


 玄関を飛び出すと、そこはもう別世界だった。
 夜のしじまなどは、かけらもない。家の中にいてはわからなかった。こんなにも外が音に満ち溢れていることは。
 軽快なメロディーを足元のアスファルトは奏でていた。誰かに見せたがっているのか、誰もに見てもらいたいのか、雨は器用にタップダンスを踊る。冬特有の白一色の味気ない空から解き放たれたことが嬉しいかのように、軒先に当たり、窓を濡らし、地面に音を立て、そこかしこで跳ね回る。
 右手に開いた傘は陽気なリズムで雨を跳ね返し、コンサートに一役買っている。楓の靴が水たまりを叩いて起こす水飛沫が、観客の手拍子のように合いの手を入れているとしたら、車が起こすそれは、さしずめ会場一杯に広がる万雷の拍手。
 街灯にほんのり照らされて、楓がバレリーナのように水のステージを足早に歩くと、小気味よく足元で雨水が手を叩き、そのアップテンポなビートに、楓の足は急かされるようにますます速く進む。
 鼓動のドラムは遅くなることなど知らないようにめっきり早くなって、ひっきりなしに吐き出される白い息はパーカッションを指揮している。
 雨の香りがそこら中に漂っていて、雨自身の音がそれを引き裂き、一種奇妙に調和している世界を作り上げていた。
 何本目かの、雨の幕に仄かに灯って見える街路灯を通りすぎた時に、楓はふと思い出して、その電柱の傍らに目を凝らした。
 子犬を入れて放置されていたはずの段ボール箱。みすぼらしく、雨に打たれるに任せていたそれは、あっけないと思うほどに今は影も形もなかった。
 おそらく、あの少女たちが処分したのだろう。よく馴れた子犬は彼女たちの誰かに引き取られて、すくすくと育つに違いない。すっかり湿っていた毛並みも、乾かせば美しく映えることだろう。
 そう想像すると、自然に顔がほころんだ。
 子犬をこの手に抱けないのは残念だったけれど、四角い牢獄の中でどうすることもできずに、ただ雨に降られている彼はもういない。そのことが素直に嬉しくて、バレリーナは踊るように進む。
 水たまりの上を飛んで、傘をくるくる回して、ステップ、ターン、スキップ。
 あのタバコ屋の角を曲がると、赤茶けた屋根の駅舎が道のかなたにぼんやり見える。
 楓は少し走るペースを落とす。
 傘を、今差している一本しか持ってきていないことに気がついて、自分の慌て振りに苦笑して、やっぱりそれでもいいと思った。冬の空気は冷たいけれど、雨が降ったら温かくなる。二人で一緒の傘に入れば、たぶんもっと温かい。
 傘はぱらぱら、穏やかなリズムを刻む。
 駅はもうすぐ。迎えに来たことを知ったら、耕一はどんな顔をするだろうか。驚いて息を呑む? いいや、きっと目を細めて笑うだろう。表情を思い浮かべて、楓はにっこり微笑む。
 さて、会ったらどんな顔をしようか。何を言おうか。
 雨は優しく、等しく、音を立てて空から落ちてくる。