手記/Testator (痕SSこんぺ委員会 中編部門参加作品) 投稿者:Ryo-T 投稿日:1月17日(金)00時52分
「もうすぐだな……」

車窓からの流れる風景を見ながら、俺――柏木耕一は一人ごちた。
カタンゴトンと規則的に流れる列車の音に耳を傾けながら、俺は隆山のあの暖かな家庭に想いを馳せる。
そして、あの忘れられない夏の出来事を、大人になって初めて隆山に訪れた時の事を―――。

「次はー隆山。次はー隆山」

間延びした車掌の声に押されるように俺は思わず席を立ち上がった。
再び窓の外を見る。するとそこには知らないがそれでも何処か懐かしい感じが漂う景色が広がっていた。

「ただいま……みんな」











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「で、何で俺はこんな事やってるんだろうな……」

そんな恨みがましい台詞を吐き出しつつも、俺の左手は規則的な動作を止める事はない。その証拠に先程までは綺麗に澄んでいたこの仏間の空気も、ほんの僅かだが小さな雪のような埃が漂っていた。
そこで少し溜め息が出る。本当に何で自分がこのような事をしなければならないのだろうか。ここに来る前、と言っても昨日のことだが、俺はここでの安らかな一時を望んでいた。だが、今の俺はなんだ。頭には三角巾、右手には雑巾、左手にははたき。まるっきり掃除夫の格好だ。つか、俺はこんな事をするためにわざわざここ隆山に来た訳じゃない。そうだ、断るべきだったんだ、俺は。
そう心の中で不満を漏らしながらも、どうして今の状況に陥ったのか思惑を廻らす事を忘れない。俺は本当にあの時断れたのだろうかと―――。

「はい。それじゃ、耕一さんは仏間の方をお願いしますね」

そう素敵な笑顔で告げた千鶴さんからナチュラルに掃除用具一式を手渡された時から、俺の運命は決まっていたような気がした。

「はぁ」

と、本日何度目かの溜め息。もしかしたら自分はこれから先ずっとあの従姉妹には逆らえないのかもしれない。

「まあ、そんな事ぐだぐだ考えても仕方ないし、ささっとやる事だけ終わらせちまうか」

とは言え、先程からブツクサ文句たれながらも律儀に手だけは動かしていた俺。ざっと辺りを見回してみたが、汚れが目に付く所はあと一箇所しか残ってなかった。

「で、結局やるしかない訳か」

意図的に、いやもしかしたら無意識かでもの話かもしれないが、俺は掃除する際、その一箇所だけは見事に避けていた。別段何てことはない。確かに普通には掃除できない場所だ。もっともそれだけがそこを掃除する事に躊躇していた理由ではなかったが……。

「わかった。ちゃんとするからそう睨むなよ、親父」

そう自然な顔で微笑んでいる叔父の隣りで何故か不自然な仏頂面をしている親父の遺影に語りかける。

「さてと、こうゆうのはとっとと終わらせるのに限るな。叔父さんと叔母さんには悪いけど、少し手抜きでやらせてもらうか」

どうせ親父のだしな――というのはせめて言わないでおく。この前の夏の一件でそれまでの誤解はとけたのだが、だからと言ってすべてを許せるほど俺は大人ではなかった。

そうして、気合を入れ直すように袖を捲ると掃除を再開する。はじめは目に付く所から。そして徐々に普段目に届かないような所にまで手を伸ばしていく。

「……手抜きするとか言っときながら、最後まできちんとしてしまう自分が悲しい……」

やや自嘲気味にそう呟く。殆どのものは知らないが、実は自分が凝り性であることは事実であった。

そうしてしばらく刻が過ぎ、ちょうど脇の方の埃を取っていた時に不意に何かが自分の指先に当たるのに気付いた。
なんだろう……と手を伸ばしてみる。

「本当になんだこれ?」

それは、見たまま言えばノートの束。十数冊にも及ぶノートが紐で括られて纏めてあった。

「大分昔のみたいだな」

ノートの上の埃がそれなりの量に達しているのを見て、そう解釈する。
そして、俺は静かに辺りを窺った後―――。

「とりゃ」

と、厳重に縛られていたそのノートの封印を解き放った。











それから、数分が経過した。


状況は何も変わっていない。敢えて言うなら、先程は裏向いていたノートが表向きになっているだけだ。
要するに全然読んでいないという事だが、別に興味がなくなった訳じゃない。
では、何故すぐにでも読み出さないのか。
それは表に向けた時、その表紙にあまりにも恐るべき事が書いてあったからだった。

『日記帳(見ちゃダメ!)』

恐ろしい……。
あまりにも恐ろしい……。

もしこれが千鶴さんの物だったら―――有無を言わさず殺される。
もしこれが梓の物だったら―――恐らく殴り殺される。
もしこれが楓ちゃんの物だったら―――俺は彼女の無言の圧力に堪えられず、永久にここに来れなくなるだろう。
もしこれが初音ちゃんの物だったら―――泣かれる。嫌われる。もうあの心地良きお兄ちゃんという響きを聞く事が出来なくなるかもしれない。

下の二人ならまだマシだ。頑張って謝れば、きっと笑顔を見せてくれると思う。
梓にしても、血が滲むまで額を地面に擦りつければ、顔の形が変わるまでには許してくれる可能性も否定できない。
だが、千鶴さんの場合は―――。

「……恐ろしい」

俺は畏怖を込めて、もう一度そう呟いていた。
しかし、今の俺にはこの溢れんばかりの好奇心を無視する事は出来ない。

―――見たい。けど、バレたらどうしよう―――

そんな心の葛藤が先程から繰り返され続けてきた。

「ええい! いつまでこうしてるつもりだ!」

そう自分自身に叱咤する。すると不思議な事に先程までは激しく鳴り響いてきた俺的心の警告音が僅かだが収まったように感じた。

「よし! この機を逃してなるものか!!」

弾みをつけるようにそう小声で叫ぶと、俺は震える指先を必死に伸ばして一冊目のノートを開いた。














”私の名前は……”



そう一番最初の行に書いてあった。どうやらこの日記の主は律儀にも自己紹介から始めてくれるらしい。

「私の名前は!」

知らず知らずの内に声を出して朗読してしまう。ノートを握る手にも何故か力が入っていた。何故ならそれは次に出る名前次第で自分の人生が決してしまうからだ。

千鶴さんじゃありませんよーに。千鶴さんじゃありませんよ―に。千鶴さんじゃ……。

呪文のような詠唱。軽く目を瞑り、しばしの間、神に祈る。たとえこの俺が無神論者であろうとも、真剣に困っている人を天は見捨てない筈だ。

そしてしばらく祈りを捧げた後、不意にカッと目を見開いて、俺はその次の言葉を追った。



”私の名前は柏木賢治だ。”



「なっ!?」

思わず声を失う。そして、不審に思いながらもその続きを読んでみると―――。

「……親父」

何故だろう。千鶴さんじゃなくて喜ぶべき筈なのに、俺は初めて人に対して明確な殺意を覚えてしまった。



”俺以外の誰かがこれ見たら、絶対他の誰かと勘違いするだろうな。あっはっは。バーカ。ザマーミロ……って見られたらヤバいじゃん! おーい。もしこれを見た人がいるならそこまでにしてさっさと元の場所に戻したまへ。”



「殺す」

先程までの恐怖は何処へやら、今の俺の心はその一言に見事に集約されていた。
思えば俺が親父に対してずっと引き摺ってた感情。憎しみ、畏れ、怒り。そんな中にほんの僅かだが、好意と呼べるような感情も残っていた。だが、そんな僅かながらの好意もこの日記によって見事なまでにブチ壊された。今の俺にはもはや憎しみと怒りしか存在していない。

という訳で、俺は柳川を六回殺すぐらいの殺意を持ちながら、次の文章へと目を進める事になった。



”俺が日記を書き始めたのは、何て言ったらいいのか……、まあ、要するに何か遺したかったからだ。いつの世も偉大なる先人の言葉は道を見誤った時に大いに手助けになる。実際、俺も何度か助けられた。そして、もし俺が何か伝える立場になった時、何か一つでも未来ある子供達に残してあげようと思い、こうして俺の人生を記録するに至った。”



その文章を見た時、俺は自分の目を疑った。はじめにあんな訳のわからん事書いた人間と今の良識に満ち溢れた文章を書いた人物が同一の人とは到底思えなかったからだ。
そして、何も考えず日々安穏と過ごしてきた自分が何故か恥ずかしくなった。
どうやら親父のその行動だけでも俺は人として何か大きなものを貰ったようだ。



”そんでもって、いつか俺の自伝が大ベストセラーのロングセラーで片手内輪のウハウハ人生だ。わっはっは。”



……前言撤回。どうやら俺のこのグータラさはこのクソ親父の血らしい。
というより、一度でもこの馬鹿に感心した自分が情けない。二度と信じてやるもんか。

「……取り合えず先に進むか」

いい加減、一言一句に反応するのは疲れるので、あの脳髄垂れ流し親父がよっぽどのことを言わない限りは驚かない事を心に誓った。



”あー。マイクテスマイクテス。感度良好。感度といえば、今日は母さんと看護婦プレイした。”



「ナニィィィィ〜〜〜〜!!!」

いきなり反応してしまった。だが、今のは聞き逃せぬ。クソ親父め……あの真面目な母さんになんてこと強要しやがる。

「絶対殺す」

俺はたとえ地獄に降りようともこの外道を消滅させる事を誓った。
俺が天国か地獄、どちらに行くかはわからない。だが、あの阿呆は間違いなく地獄で待っている筈だ。ならば、俺は閻魔のおっさんをぶん殴ってでも地獄に堕ちてやる。

そして、俺は手を戦慄かせながらも必死で殺気を抑えて、次の文章へ目を走らせた。



”ちなみに看護婦役はこの俺だ。”



不思議と怒りは起こらなかった。というより、俺は込み上げる吐き気を抑えるだけで精一杯だった。不覚にも妄想の中に用意していたナース服に当てはめられたのが若かりし日の母ではなく、仏頂面したあのクソ親父だったからだ。

「……謀られた」

つーか、母さんも止めろよ。患者役だか、医師役だか知らんが、状況にのまれすぎだ。
そしてその時、俺の死後プランに母さんへの一時間の説教が加わった。

それから先は普通に日記だった。いや、普通というのは少々誤解を生じるかもしれないので、一応説明しておく。
それから先は親父の言葉を借りて言うなら、『母さんとの悶絶ラヴラヴ新婚生活・女体の神秘編』だった。
時に繊細な、また時に大胆な描写で描き出される親父と母さんの蜜月は下手な官能小説よりはよっぽど俺の煩悩を掻きたてた。というより、あのおっさんは多分自伝なんか書くよりもこっちの方がベストセラーに近かったような気さえする。
そんな日記を俺は自分の理性を必死に制御しながら読んだ。下手をすると肉親という間柄を忘れて、のめりこんでしまいそうだったからだ。一応、自己の保身のために言っておくが、これは俺がそうゆうのに背徳感を抱いて興奮するからではない。あの変態日記作家の文章が無駄に上手すぎたためである。

そして、日記一冊目が読み終わった頃にはそれなりの時間が経過していた。
ふう。と、息を漏らして、俺は立ち上がる。実は先程から俺のお小水が第二堤防を決壊させ、尿道の先っちょの方まで押し寄せていたからだった。

「つーか、こんなになるまでのめりこんでた自分が悲しい……」

はぁ……と嘲笑にも似た溜め息をつくと俺は我慢していたものを一気に放出するため、柏木家のトイレまで走った。














急いでトイレに行った帰りに俺は千鶴さんに会った。

「あっ。耕一さん、掃除の具合はどうですか?」

「あの、す、すいません。まだもう少しかかりそうです」

まあ、嘘は言っていない。少々予想外の事態に時間を取られたとはいえ、未だに仏間の掃除は途中なのだから。
それを聞いて、「そうですか……」とちょっと残念そうな千鶴さん。もしかしたら何処か他の所の掃除が滞っているのかもしれなかった。

「えっと、それで……?」

「いえ。いいんです。本当ならわざわざ来て下さった耕一さんにこんな事させるべきではないんでしょうから……」

「そんな……。前にも言ったでしょ。俺はそんな風には全然思ってないんだって。だから、何かあったら遠慮なく使ってやって下さい」

ドンと胸を叩いて言う。そんな俺に千鶴さんはクスッと微笑むと大きく頷いた。

「それじゃ、私も掃除に戻りますから。耕一さんも頑張って下さいね」

そう言って、千鶴さんは歩き始める。その時、ちょうど俺は先程から訊ねようと思っていた事があったのを思い出した。

「ちょっと待って下さい、千鶴さん」

「はい?」

「あの……ちょっと聞きたい事があるんですけど、いいですか?」

「はいどうぞ」

「親父ってここにいた時どんな人でした?」

「はい?」

俺の質問に千鶴さんは小さく首を傾げた。













トイレから戻っても、俺は掃除を後回しにして親父の日記を熟読した。千鶴さんには非常に申し訳ないが致し方ない。人の好奇心というものは時にすべてに勝るものなのだから―――。
そう言えば、千鶴さんにさっき聞いたら、親父は真面目でとても優しい人だったという。一体、あの逆回転脳味噌洗濯機親父の何処をどう見れば、真面目で優しく見えるのか謎だが、千鶴さんがそう言うからにはきっとそうなのであろう。多分、どっかで頭でも打ったのだ。俺はそう解釈した。
日記の最初は相も変わらず、アホ親父の官能小説だった。だが、しばらくすると変化が訪れた。俺が生まれたのだ。



”……医者によると母さんが妊娠したらしい。俺にも子供が出来ると思うと妙に感慨深い気分だ。生まれてきた子には何を教えればいいのか? 俺があの子に対して何が出来るのか? 問題は山済みだ。”



そして、その次の文章で俺の目はピタリと止まった。



”けど、せめて……せめて元気な姿を見せて欲しい。俺と母さんの前で元気な産声をあげて欲しい。神様でも死んだジジイでも誰でもいい。母さんとあの子を、見守っててくれ。”



「親父……」

ちょっと前までずっと捨てられたと思っていた。今でも多少の誤解はあったとは理解しているが、それでも自分たちを置いていった事に納得はできていない。
そんな親父が……。

「今までごめんな、親父」

今はもう笑いかけてさえくれない親父の遺影に向かって、そう一言謝辞を述べる。
そして、どうして俺はあの時――親父にこっちに呼ばれた時に素直になれなかったのかという後悔の念が少しずつ込み上げていった。

それからの日記は今までとは打って変わって、殆どが淡白な内容だった。



”未だ答えには辿り着けていない。俺はまだ父親としての資格がない。”



その繰り返し。それは結局、俺が生まれるまで続いた。



”結局、答えには辿り着けなかった。けど、そんな俺にもこの子は元気な声をあげてくれている。今はもう、それだけで十分だ。”



その時、俺はただ純粋に親父の事を尊敬した。
子供が生まれる。それは生物としては当たり前の事だ。当たり前のように生まれ、当たり前のように子をなし、そして当たり前のように死んでいく。そんな当たり前の事を真剣に悩んでくれた事がどうしようもなく嬉しかった。



”今、俺はあの子の名前を考えている。取り合えず、今のところは俺の名前から何かできないか考えているところだ。”



「ん?」

それはちょっとおかしい。俺の名前は死んだ爺さんの名前からつけられた筈だ。
……てことは、途中でボツになったのか。うわっ。すげぇ気になる。俺は最初はどんな名前になる筈だったんだろうか?



”俺の名前は賢治だ。だから、ここは賢いという文字に注目してみる。賢いとは即ち頭が良いという事だ。だから、俺はこの子の名前を―――。”



「名前を?」

俺は思わず呟いていた。ボツになったとはいえ、親父がこんなに真剣に考えてくれているんだ。悪い名前な訳がない。そして、俺はそのもう一つの可能性に本気で興味を抱いていた。



”この子を、柏木シナプスと名付けよう。”



「親父ィィィ!!」

信じた俺がアホだった。すっかり忘れていた事だったが、こいつは俺の親父だったんだ。いや、そう言うと、俺がまるでアホみたいに聞こえる。断言しよう。こいつは俺よりも何倍もアホだ。



”と、それはダメだと母さんから止められた。”



「流石だ、母さん。本当にありがとう」

天国の母親に最大の感謝を―――。やっぱり母さんだけが俺の味方だった。



”第一、シナプスに電流が流れてこそ脳は発達する。そう母さんに指摘された。なるほど流石は俺が選んだ伴侶だ。頭もいい。”



……少々話がズレているような気がする。けど、その点は大丈夫だ。なんてったって母さんは親父みたいにアホじゃないし。



”それから俺と母さんは名前について話し合った。実に10時間にも及ぶディスカッションによって双方が納得できる答えへと行き着いた。”



「流石だ。母さん」

正直に凄いと感心する。何と言っても、あの超絶ボケ親父を言い包めたのだ。誰にだってできる事じゃない。恐らく俺には無理だろう。それにしても、説得に10時間もかかる親父のアホさ加減には本当に呆れるしかない。



”この子を、柏木電流と―――。”



「アンタもかぁぁぁぁ!!!」

流石はアレと夫婦になった逸材だ。均整がとれるように物凄く生真面目な人だと思っていたが、まさか同じ穴のムジナだとは……。
というか、俺の記憶にある母親は一体何処に行ったんだろう。
それと、俺の名前は一体誰が……。



”しかし、それも子供に可哀想だと兄貴に止められた。そして、それから先、俺が三日寝ずに考えた名前は悉く親父か兄貴に止められた。結局、親父の名前から取った第18番候補で纏まる事になったが、俺的には非常に残念だ。”



「明日、爺さんと叔父さんの墓参りに行こう」

そして、そこで精一杯お礼を言おう。何と言ってもこの二人によって俺は救われたのだ。と言うか、よっぽど既知外な名前ばっかり考えてきたのだろう。改めて俺は親父が人外に阿呆だという事を実感した。ついでに母親への説教を一時間プラス。

それから先はほぼ育児日記と化していた。母子手帳に書かれているような内容がそのまま書かれていて、俺は思わず微笑んでしまう。
やれ今日はハイハイが出来るようになった。やれ今日は夜中に泣き出して大変だった。やれ今日は初めて俺の事をパパと呼んだ。やれ―――。

「一応、ちゃんと子育てしてくれてたんだな」

当然だろう。だからこそ今ここに成長した俺がいる。けど、そんな当たり前の事実に見向きもしないで、俺はずっと親父の事を憎み続けてきた。我ながら―――。

「ガキだったんだな。俺も……」

そう。幼すぎた。そして、大人になった今、それが初めてわかるようになったのに、それを伝える、それを喜んでくれる相手はもういない。

「明日の墓参り。ついでに親父の分の花も手向けてやるか」

ついでに少し話しかけてみよう。返事が返ってくる訳ではないが、それでも育ててきてくれた礼ぐらいは言っておきたかった。



”今日、久しぶりに隆山に帰った。無論、耕一を連れてだ。”



「ん?」

覚えてはいない。けど、どうやら俺はどえらい昔にもここに来た事があったようだ。
そうだな。よく考えれば、ここは親父の実家だ。帰ってない方がおかしいか……。



”兄貴の娘も初めて見た。長女を千鶴ちゃんというが、この子がまた可愛い。思わずロリに目覚めてしまいそうだった。”



「うおいっ!!」

先程までの父性に満ち溢れた親父は何処に行ってしまったんだろう。下手したら二重人格とも思えるこの性格の変わり様。そして、さらに俺は思う。もしかしたらこれもある意味、親父の愛情表現なんじゃないだろうかと。かなり歪んではいるが―――。

なんとなくそんな事を思いながらも先へ進んだら……。



”…………もう、ロリでいい。”



「諦めんな親父ィィィ!!!」

ガスガスと思わず頭を壁に打ち付ける。
何て野郎だ。頼むからそんな馬鹿な考えは捨ててくれ。もしなんかしたならば、今度こそ本当に俺は親父に絶縁状を叩き付けなければならなくなる。てか、千鶴さんは無事なんだろうか?

「もし千鶴さんにいらん事してやがったら、地獄の底まで追い詰めてやる」

ピュアにそう思った。さっきまではクソ親父の虚言に騙されてこそいたが、もう騙されぬ。親父は間違いなく俺の敵だ。いつか絶対に決着をつけなければならない相手だ。

「待ってろよ。次会った時がお前の最期だ」

あいつは殺す。次、会ったらマジで殺す。塵も残らないほど、容赦なく滅殺してやる。俺はそう決意すると、それを体で表現するように右手を高々と挙げた。

「こらーっ! 耕一ーッ!! メシだぞー……って何やってんの?」

いきなり入ってきた梓に思わず固まってしまう。向こうが疑問に思うのは当然だろう。何しろ今の俺は先程壁に打ちつけた時にできた怪我のせいで頭から血を流しながら、その上勇ましく拳を突き上げてるんだから。梓でなくても謎な光景だ。多分、俺でも分からないと思う。

「頭、大丈夫?」

その梓の問いは、血を流してる俺を気遣っての事だろう。しかし、なんだかあの日記のせいで今の俺には梓が馬鹿にしてるようにしか聞こえなかった。どうやら親父の日記は俺から正常な判断力さえ奪っていくようだ。















「そんな馬鹿な……」

食事から再びこの仏間に戻ると、俺は肩を落としてそう呟く。
実は先程、食事に呼びに来た梓にも千鶴さんにしたのと同じ質問を投げ掛けてみたのだ。だが、結果は同じ。梓もまたあの全自動馬鹿発生装置に対して優しい、真面目、頼りになるなどという評価を下したのだ。

「絶対猫被っていやがった……」

もうそれしか考えられない。俺が生まれて少しは変わるかと思ったが、ものの見事にあのままだったし……。

「まあいい……。とにかく続きを読もう」

まだ色々と煮え切らないものがあるが、何とか割りきって俺は日記の続きに目を走らせた。














それから先はまたのんびりとした内容になっていた。
親父と母さんと俺の別段何もない、だが幸せな日常。それから先は隆山の方にもあまり行かなかったらしい。それ故に、余計に何もなかったと感じるのかもしれない。とは言え、俺にとっては懐かしい、一番幸せだった時の記録だった。



”今日、何気なく家の中を見回したら、ゴキブリを発見した。そのまま潰すのもなんなので、取り合えず耕一のメシの中に入れといた。そしたら、それを見た時、耕一の奴が泣き叫んでいた。メチャクチャ面白かった。その後、なんとなしに俺が疑われたので正々堂々知らん振りした。”



……あれはやはり親父の仕業か。
その時の光景は今でも鮮明に覚えている。遊び疲れて帰ってきて、いざメシを食おうとしたら、そこにあれが埋まっていたのだ。それから俺は、ゴキブリが死ぬほど嫌いだ。



”今日、仕事で疲れて帰ってくる途中に楽しそうに友達と話している耕一を目撃した。なんとなくムカついたので、そのまま轢いてやった。ピクピク痙攣している耕一を見ると、何だか仕事で疲れた体が生きかえるようだった。”



……あれもやはり親父か。
つーか、あの時は本当に三途の川が見えたような気がした。それと、そう言えばあの後、訳も分からず親父に殴られたような気がするが……。



”追記:よく見ると、車のボディーがへこんでた。それが無性に腹立ったから、俺は思わず耕一の奴を殴り飛ばした。修理費の事を考えるとこれだけじゃ足りないくらいだ。”



……本当に俺は幸せだったんだろうか?
よく考えると、思い切り幼児虐待の気がしないでもないが、それでも俺はこの当時、親父の事が好きだったんだと思う。
本当に俺ってばいい子だったんだな。あのクソ親父に懐いてたなんて……。

そして、そんな感じの文章が続いた後、ついに日記はあの日の日付へと辿り着いた。



”耕一と久しぶりに隆山に行った。兄貴が俺に話したい事があるらしい。何を考えてるのかよくわからんが、会長を譲るとかならお断りだ。俺は自由に生きるんだ。”



「いや、あんたはもう少し縛られて生きて欲しかったんだが……」

素直な感想。いくら自由といっても、親父のは少々度が過ぎるんじゃないかと思う。



”で、実際行ってみたら、馬鹿兄貴の話とはガキの頃からさんざん聞かされた例のホラ話の事だった。どうやら件の鬼が夢によく出てくるらしい。そんな与太話を信じて、もしもの時は娘達を頼むなどとほざくとは……。まったくもって兄貴はアホだと思う。”



「叔父さんはこの頃から既に鬼と闘っていたんだな……」

俺の脳裏にあの頃の叔父の姿が浮かび上がる。
叔父はそれこそうちのクソ親父とは比べ物にならないほど、真面目で優しい立派な人だった。
そんな叔父の慈愛に満ちた微笑みが俺は凄く好きだった。実際、叔父が亡くなった時、俺は溢れる涙を止める事ができなかった。その悲しみは親父が死んだ時の比ではない。



”今日は外をぶらついてた。やはり故郷というのはいい。少し変わってしまったところもあるが、ここの匂いはあの頃のままだ。そして、家に帰ったら、何か知らんが慌しかった。どうやら耕一の馬鹿が水門から落ちて溺れたらしい。それはまあ別にいいんだが……。”



「いいんかい!!」

お前も人の親ならちょっとぐらいは心配しやがれ。つーか、こいつの何処が真面目で優しくて頼りになるんだろう。千鶴さんといい、梓といい、皆はあの外道の事を甚だ勘違いしている。

そして、怒りに震えながらも俺が続きに目を通してみると……。



”耕一の奴が鬼に目覚めたらしい。”



「……」

途端に先程までの怒りが嘘みたいに治まっていった。そのまま執りつかれたように無言で続きを読む。



”始めは性質の悪い冗談かと思った。だって、あんな胡散臭い伝説なんぞ誰が信じる? けど、それが冗談でない事は怯えた梓ちゃん達の表情が物語っていた。そして、それが真実なら兄貴が話していた事も……。だとしたら……俺は……。”



今まではすれ違いだらけだった親父の気持ち。だが、この時の親父の気持ちだけは、俺にもよくわかった。親父が持った絶望。それに近いものを俺もつい最近経験したんだから。



”たとえ柏木の血が本当に呪われたものであったとしても、俺はそんなもの認めない。絶対に、何か解決方法があるはずだ。それを俺は、必ず見つけてみせる。俺や兄貴、そして……。”



「耕一の為に……か」

そう締めくくって、親父の8冊目の日記は終わった。













それから9冊目に入った俺であったが、まず俺は親父のその行動力に素直に感動した。雨月山の伝説から各地に伝わる鬼の伝承まで幅広く研究し、綺麗に纏めてある。



”何処のどんな情報が解決の糸口になるかわからない。なら、片っ端から調べ尽くしてやる。”



日記にそう書かれた通り、親父はどんな些細な発見であっても記録を怠らなかった。その記録は恐らく他のどんな書物よりも優れているのではないかと思えるほどの出来で、恐らく由美子さん辺りに渡したら、生唾物どころの話じゃないだろう。しかし、肝心の解決法が見つからぬまま、ついに運命の日を迎えた。叔父さんが亡くなったのだ。



”それなりに努力したつもりだが、結局俺は兄貴を救うことが出来なかった。”



まるで自分の力の無さを嘆くように、筆圧の高い字でそう書き記す親父。
そんな事はない。だって、あんなに頑張ったじゃないか。
そう絶望している親父に語り掛けたかった。
そして、更に日記は続く。



”そして、俺の道楽生活もこれで終わりだ。千鶴ちゃんも大分大きくなったが、それでもまだ子供だ。鶴来屋の会長なんていう無駄に大きな責務を押し付ける訳にはいかない。それに父の死により絶望の淵にいるあの子達を救えるのは俺だけなんだ。無念の内に倒れた兄貴のためにも、俺はもう一度隆山に戻らないといけない。そう、俺は母さんに相談した。幸運な事に母さんもそれに賛同してくれ、引越しの準備をし始めたが、俺には母さんを……いや、耕一をあの場所に連れていく事はできなかった。”



「そう。それが知りたかった」

なんで親父は俺と母さんを一緒に連れていってくれなかったのだろうか。それこそが俺がずっと疑問に思い、そして不満に思っていた事だった。
親父は俺と母さんを捨てた。
昔はただ単にそう思い込み、それ故に親父を憎み続ける事でその事実から逃げていた。
けど、実際の所はどうなんだろうか。



”あの時、耕一はあの場所で鬼を目覚めさす事になった。運良くその時の記憶は失ったというものの、もし何かの弾みで思い出し、あいつが鬼と化したら……俺は耕一を殺さなければならなくなる。出来は悪くとも俺はあの子の父親だ。たとえそうするしかないとしても、俺は愛するものに手をかけたくない。”



「そうだったのか……」

確かにその通りだった。実際、俺がこっちに来るとすぐに俺の中の鬼はその牙を向き始めたのだ。
もしあの時、俺が親父についていってたら、俺はずっと早くに鬼として覚醒し、千鶴さん達を傷つけていたかもしれない。



”だから、母さんに解決法が見つかるまで耕一のことを頼み、俺は住み慣れた我が家を一人離れた。流石に寂しさは隠せないが、なに、ほんの少しの辛抱だ。だってきっと解決法は見つかる筈なんだから。”


「親父……」

大分薄汚れたノートの上に暖かい水滴が一つ、また一つと落ちていく。
いつからだろう? 俺は親父の日記を読みながら、泣いていたのだ。

「本当に……本当にゴメンな、親父……」

嗚咽を堪えながら、何度も何度も謝り続ける。俺が誰よりも憎み続けていた親父に。俺の事を誰よりも愛してくれていた親父に、俺はただただ謝りたかった。

そして、未だ込み上げ続ける涙を必死で拭うと、俺は少し字が霞んでしまったノートのページを捲った。












”前略。俺は今、隆山にいる。こっちの状況は酷いもんだ。千鶴ちゃんにしても、梓ちゃんにしても、楓ちゃんにしても、初音ちゃんにしても……。皆、憔悴しきっている。そんなあの子達を見て、俺は守ってあげたいと思った。兄貴以上にはなれないとしても、父親としての代わりぐらいは務めてあげないと。それができんと、残してきた家族に申し訳がたたないからな。”

そんな風に始まった親父日記IN隆山。
それは始めはぎこちなくても、徐々に打ち解けていく、そんなよくあるホームドラマのような内容だった。そして、皆と早く馴染むために孤軍奮闘する親父が少しカッコよく見えたり。

「そう言えば、俺もまだ本当の家族にはなってないよな」

自嘲気味にそう呟く。そんな所まで俺はまだ親父には届いていなかった。そして、ようやく親父と柏木4姉妹が本当の家族になった時、俺の母さんはこの世を去った。



”結局、俺はあいつの死に目に立ってやる事ができなかった。せめて死ぬ前に一目会えたらと思うと余計に後悔の念が募る。俺ははたしてあいつを幸せにできていたのだろうか?”



そして、その後に続くように俺の事にも触れられていた。



”久しぶりに耕一に会った。あの野郎、何だかすっかりでかくなってやがった。そんなあいつの姿を見て、思わずこっちに来ないかと言ってしまった。馬鹿な話だ。まだ解決法の糸口すら掴めてないってのに。どうやら俺は自分で自覚している以上に、寂しがりやで情けない奴らしい。”



そして、ついに親父にも鬼が出始めたらしい。あの後にすぐこんな文章を見つけた。



”ついに俺の元にも死神はやってきたらしい。なるほど、兄貴は俺にあの子達を託した時、こんな恐怖に駆られていたのか。正直これは堪える。俺の意識が乗っ取られるまで、もうそんなに時間は残されていないだろう。それまでに何とか解決法を……。”



その後の日記は酷いものだった。徐々に顕実化してくる鬼に必死で堪えながらも、親父の研究は続く。
しかし、そんな親父の努力も空しく、ついに日記はその終わりに辿り着いた。



”俺はもうダメだ。このまま乗っ取られるのも癪なので、明日、自分から母さんや兄貴の所に行こうと思う。まったく、自分が情けない。”



親父の決意。このまま乗っ取られるのも癪なのでとそう記してあったが、恐らく他にも理由があった筈だ。親父はこのまま鬼となって千鶴さん達を傷つけるのを恐れたんだ。その気持ち、今の俺にははっきりと汲んで取れる。俺もそんな親父とまったく同じ恐怖を味わったんだから。



”ただ心配なのはあの子達がまた寂しい思いをする事だ。あの子達は確かに強い。しかし、それでも耐えられない辛さもある。願わくば……。”













すべてを読み終えると俺は親父の日記を元の場所に戻し、残っていた掃除に取りかかる。それもあまり残っていなかったようで、結構早く終わらせる事ができた。そして、仏壇の前に静かに座ると、親父の相変わらず仏頂面した親父の遺影の前で手を合わせる。



”願わくば、耕一が……俺の自慢の息子があの子達を支えてくれん事を―――。”



それが親父の最期の言葉だった。まったく憎たらしいったりゃありゃしない。本当に最期の最期で、俺を認めてくれてたようだ。

「俺、やってみるよ。今は何一つ親父に勝てそうにないけど、それでも頑張って千鶴さん達を支えてみせる。いつか親父に会った時に馬鹿にされないようにな」

そう言って、俺は立ち上がる。そして、部屋で出る前にもう一度だけ振り返って、親父の遺影を見ると……。



<center>気のせいかもしれない。</center>



<center>けど、俺には確かに―――。<center>



<center>動かない筈の親父の口元が少しググッと歪んだように見えた。</center>






終わり